第7話 男女差別と世間体

 公園デビューにおいて、母親はそれまで感じてきた人間関係との大いなる違いに気づくことだろう。

 学生時代、OL時代などと違って、今回の主役はあくまでも子供なのだ。それなのに、話を訊いていると、結構、OLがしているような話が多いことにも気づく。どこのお店の洋菓子が美味しいとか、服はどこで買うなどとかいう話が主流だったりするのは驚かされた。平野の母親もそうだったのだろうが、最初は誰でも公園デビューは緊張するものである。ただ、一つ言えることは、

「子供を持つ母親としては平等だ」

 ということであり。独身時代に感じていた平等感のは明らかに違っている。

「学生時代や、OL時代は、最初から差がついていたような気がするのだが、公園デビューでは、先輩後輩という期間の違いによる差のようなものはあるが、それ以外では、そこまで気にする差ではないと思えた。

 むしろ、自分からどのように目立つかということを考えないと、ずっとその他大勢になってしまうことだろう。

 母親というのは、どうやら、公園デビューの時に世間を感じるようだった。

 子供が中心なのに、話題は自分たちのことが多い。ファッションであったり、カフェなどの話題もそうであるが、旦那の自慢話を始める人もいる。

 平野の家庭は、別に父親が自慢できるような職業でもない。普通のサラリーマンである。

 ただ、旦那の自慢というのは何なのだ?

 給料が高いということなのか、一流企業に勤めているということなのか、それとも、出世街道を走っているということなのか。一人が自慢を始めると、他の人も、自然と、

「私にも他に何か自慢できることはないかしら?」

 と考え始める。

 自分にあったとして、お、自分のことを自慢するというのは、実にあざといことであるので、どうしても、旦那や子供のことになるだろう。

 子供に対して、他の奥さんと張り合うという気持ちから、昔でいう、

「教育ママ」

 という言葉が生まれたのだろう。

 幼稚園から英才教育を受けさせ、

「お受験」

 などという言葉が流行ったのも、昭和から続く、世間体を気にしてエスカレートしてきた心情が物語っていることなのかも知れない。

 平野の母親は教育ママというわけではなかったし、平野が知っているかぎり、友達の中に、教育ママに育てられたというイメージの子供はいなかった。

 今の英才九育は学校の授業というだけではなく、芸術であったり、音楽であったりと、専門的なことも多いだろう。

 確か平均的に成績がよく、一流と言われる大学にいけば、将来についてもたくさんの選択肢が得られるのだろうが、小さい頃から、目指すものを一つに絞って、集中的に身につけるというのお十分にありだった。

 そういう意味で自分が何に向いているかということを探るという意味での子供の頃の英才教育というのは、ありなのではないかと思う。

 ただ、これが押し付けということであってはいけない。押し付けになってしまうと、せっかくの勉強が身に入らなくなってしまう。勉強に疑問を感じてくると。

「どうせ親にやらされているだけなんだ」

 という逃げというか、言い訳じみた考えが浮かんできて、集中力などまったく皆無になってしまうことであろう。

 母親が、世間体のことをよく口にするのは、きっと、この公園デビューが偏印ではないかと平野は思った。

 だが、それがまわりからの影響なのか、それとも、母親が必要以上に意識してしまったからなのか、ハッキリとは分からない。きっと母親も自覚としてはないのだろう。自分が世間体を気にしすぎているということにである。

 ただ、最近ではそれだけではないような気がしてきた。なぜなら、母親が最近になって、やたらと、

「男女平等」

 という言葉を口にするようになったからだ。

「お母さんは、OL時代に、セクハラか何か受けたんじゃないだろうか?」

 と感じるほどだった。

 平野は男なのに、男女平等の話をするというのは、何か社会人時代に、トラウマになりそうなことを感じたのかも知れない。

 特に最近は、性犯罪系のニュースが、新聞にもネットニュースにも出ている。

 さらに、最近では、父親と男女平等に関して話が白熱していることがある。

「まるで喧嘩しているかのようだ」

 と感じるくらい、急にどちらかが大きな声を出して反論しているのが分かる。

 最初はビックリしたが、最近では、

「ははぁ、まだ男女平等に関する話題だな」

 と思って、ビックリすることもなくなってきた。

 しかし、意識しなくなれば面白いもので、それから奇声のような大きな声が聞こえなくなってきたのだった。

 元々喧嘩をしているわけではなく、議論が白熱していただけなので、奇声が出ること自体がおかしいのであって、二人とも興奮すると我を忘れるところがあるのかも知れない。

 奇声が聞こえてきた時に聞いていた話としては。

「ここずっとセクハラ、パワハラなんて言葉で男性が結構縛られているけど、あまり縛ると、仕事にも影響してくるんだよね。テレビドラマなんかでも、コンプライアンス云々などという言葉で、ハラスメントを悪いことのようにいうけど、実際に締めなければいけないところもあるわけで、何でも間でもハラスメントや、コンプライアンスという言葉で片づけようとする今の風潮は、正直嫌だよな」

 と父親が言った。

「でも、昔はそんな発想がなかったので、弱者が虐げられるという、まるでカースト制度のような差別が横行していたでしょう? でも、今はそれがないので、部下として第一線で働く女性社員が生き生き仕事ができるのって、いいことだと思うのよね」

 と、母親が言った。

「だけどね、それで均衡が取れればいいんだけど、やたらと男女平等を口にする女性がいたりすると結構ややこしいものだよ。特に今は冗談も言えない。ちょっと女性社員と世間場話をしようとすると、すぐに、それ、セクハラってこうなっちゃうんだ。迂闊にこちらも女性社員に何も言えなくなってしまう。世間話だけではなく、仕事の話もできなくなるだろうよ。そうなると会社で一番大切な、『ホウレンソウ』というものが、まったく意味をなさなくなってしまう。そうなると、仕事どころではないんじゃないかな?」

 と父親がいうと、

「でもね、子育てや家事は女の仕事だといまだに思っている人がたくさんいるのも事実。それを思うと、まだまだ日本は遅れていると思うわ」

 という母親に対して。

「じゃあ、この間の、部スポーツ委員会の代表が言ったあの言葉はどうなんだい?」

「ああ、女性が多いと話が長いということ?」

「ああ、そうだよ。俺はあれに関しては別に女性差別でも何でもないと思うんだ。一般論として言っただけでね。それをあそこ迄世間が徹底的に叩いて、引きずり下ろすというのは、どうなのかって思うんだ。その結果あの代表が辞任することになって、国際委員会とのパイプ役だった人がいなくなったせいで、文句が言える人が一人もいなくなって、結局、あのぼったくり男爵と呼ばれた連中に誰一人として意見を言えなくなっただろう? 何でも間でも女性差別というのも、どうしたものかと思うんだ」

 という夫の話を訊いて、

「いや、確かにあなたのいう通りだけど、結果論でしょう?」

 と言われたが、

「結果論は結果論だけど、あそこまで攻撃する必要があったのかと思ってね。確かにあの人は政治家時代には、失言という意味では王様のような人だったからね。余計に結果論であっても、掘り返すことになったとしても、ちゃんと検証しないといけないことは、キチンとするべきだと思うんだ」

 と、いうのだった。

 平野はそれを聞いていて、自分も男だから、男の意見の方をしっかりと聞いていた。母親の意見がどうしても、言い訳のように聞こえて仕方がないのだった。

 その時のことがどうなったのか、まだ大会が始まる前なので最終的には分からないが、たぶん、想定される最悪の結果が待っているのであろうと感じていた。

「男女平等ってさ。最初から男女は生れながらに差がついているのに、それを途中でいきなり平等というのもおかしいと思うんだ。それは女性の方が平等になる方が大変だという意味でね」

「どうしてなの? あくまでも待遇面と機会均等という意味での話なんだけど?」

「いやいや、それをいうのは、男性と同等の仕事ができるというのが最低限でしょう? でもそれは無理なんだから、それを差別と言われたのだったら、理不尽だ。いや、差別に感じるようなやり方を、誰かが故意に操作しているのかも知れない」

「操作というと?」

「例えばマスコミが変に煽っているとかね。やつらは、自分の新聞や雑誌が売れさえすればいいんだから」

「そうなの? 正確な報道をするのがマスコミなんじゃないの?」

 と母親が詰め寄るが、さすがに、高校生の平野であっても、それが建前や形式でしかないということくらいは分かった。

「そりゃあ、そうさ。ネットでニュースの見出しなんか見てごらん。分かりにくいもものや、どちらとも取れるような内容のものが多いだろう? あれは、わざと気になるようにしているのさ。そうじゃあなかったら、本当にジャーナリストなどという言葉の風上にも置けないやつで、幼稚園からやり直せって言いたくなるよな。報道の自由という言葉に世間の人は騙されやすいのさ」

 と父親が言った時、

「世間?」

 平野は、まずその言葉に反応した。

 母親のいう

「世間体」

 というものとは、どこまで違うというのだろうか?

 一つ言えることは、

「世間体というのは、世間に対して自分たちが表す姿であり、世間がそれを見て、格好悪いとか情けないとかをいうのだろう。よくて当たり前、それが世間体ではないか」

 と思っている。

 ただ、世間というものは、そんなに偉いものなのか。一人の人間に対して、評価できるほどの格式の高いものなのか。平野は、そのことが気になるのだ。まるで神様の言葉のように、世間体を気にしているが、それほど、世間というものが正しいのかと思えた。

 そう考えると世間の代表とでも考えているのか、マスコミを頭から信用している母親に、信じることへの違和感はあったが、母親が信じているということに対しての、違和感は感じなかった。

「でも、言論の自由があるんじゃないの?」

「言論の自由というのは、何をやってもいいというわけではない。いくら言論に自由があったとしても、個人のプライバシーを侵害したり、財産権を侵害したり、あるいは、戦争を引き起こすような報道をしたりすることは許されないだろう? そういう意味でも、マスコミの言っていることはすべて正しいなんてのは、伝説、それも都市伝説でしかないのさ。だから、今のマスコミは、新聞社によって極端に意見が違う。反日の記事を書くところもあれば、政府批判ばかりのところ、世論調査をすれば、同じ質問でも、パーセンテージがまったく違った結果になっているだろう?」

 と訊かれて、

「確かにそうだけど、どうしてそんなことになるの?」

 と聞き返すと、

「それは、質問に対してアンケートというのは、いくつかの答えを用意していて、どれに入るのかということを選ばせてパーセンテージを取るのさ。だから、回答の選択肢を、自分たちの得たいパーセンテージに近づけるために、独自に用意をすると、期待している結果になるというものさ。つまりは、一種の情報操作というものであり、これほど、恐ろしいことはないと思うんだ。日本が戦時中に、軍部の圧力で情報操作をしてきただろう? 戦後になって、報道が自由になったんだけど、今度は自由過ぎて、マスコミが一人歩きを始め、情報を操作し始めた。これほど怖いことはないんじゃないか?」

 と父親は言っていた。

「何となく分かる気がするんだけど、そこまでマスコミというのは酷いの?」

 と母親に聞かれて。

「そうだね、戦後すぐくらいからひどかったんじゃないかな? 中国で言われている南京大虐殺という事件も、ある新聞社の一人の記者のよる捏造だと言われていたりするからね」

「そうなの?」

「ああ、公然の秘密というところか、その筋では有名だという話だ」

「そうなんだ……」

 と、さすがに母親はショックだったようだ。

 母親は、きっと純粋なのだろう。今までにずっと臭い物には蓋をするかのような教育を受けてきたのか、それが当たり前だと思って育ってきたのか、だから、一般的なことしか言わなかったり、世間体を気にするというのも、自分が平均的な人間でないといけないのだということを信じているからなのかも知れない。

 そういう意味で母親は、ある程度マスゴミに毒されていて、男女平等ということを履き違えているところがありそうだ。

「そもそも、人間が生まれながらに平等だということ自体、その考え方に間違いがあると俺は思っているんだ」

 と父親は言った。

「どういうこと?」

「人間は、生まれてくる時、親を選べない。親だって、産むこともを選べないだろう? つまりは、生まれながらにして、殿様の家に生まれてくるのを、貧乏な農夫の息子として生まれてくるのだからね。そもそも、昔の日本は身分制度がしっかりしていたんだ。武士の子供は武士、農民の子供は農民と決められていたからね」

「そうね」

「だけど、武士の息子に生まれたから幸せということはない。武士だって、階級があれば、上には幕府だってある、藩主だって、幕府に目をつけられれば、改易の危機になってしまうんだ。江戸時代にどれだけの大名が改易になったかを見れば、すぐに分かることだ」

「改易って?」

「それはいろいろ理由はあるけど、一番は、武家諸法度に背いた場合ね。例えば大名同士の勝手な婚姻であったり、城の普請であったりなどがその理由だね。幕府に背かないように、婚姻で力をつけたり、城を勝手に普請、つまり修理して、軍事力を蓄えたりなどは、幕府には到底容認できないからね。そして、もう一つの理由として多かったのは、御家断絶。つまり、跡取りがいないなどという場合だね。そんな時は幕府によって、藩主の座を追われ、他の藩主がその土地の新たな藩主になるか。あるいは、天領となるかだね」

「そうね、確かに江戸時代の藩は、世襲だったわね」

「そうなんだ。だから、跡取りがいないと、簡単に改易されるというわけだ」

「なるほど、確かに生まれながらに不平等だというのは分かった気がするわ。でも、それと男女平等というのは?」

「だって、男女は生れながらに身体的にまったく違うわけなので、男にしかできない仕事であったり、女にしかできない仕事があるはずなのに、それを一絡げにして、どうするというんだ。そこがマスゴミなんかに操られるということになるのさ。特に今はコンプライアンスに厳しいので、それに便乗した記事が結構あるだろう? 男性上司は相当気を遣わないと、何を言われるか分かったものではない。確かに昔がひどかったというのもあるんだけど、だからと言って何でも平等と括りつけるのは違う気がするんだ」

 という父親を、少し不審げに見ていた母親だったが、どうやら何を言いたいのか、意見がまとまらないようだった。

 そこで、父親が話を続けた。

「性犯罪や痴漢などにしても、結構冤罪と思われるような事件も多いだろう? 実際にやってないのに、やったかのように騒がれて、まわりも、皆こちらに対して、汚らわしいものでも見るかのような視線を浴びせてくる。そこに持ってきて、女はさらに責め立てる。結構こういう場合って冤罪が多かったりするんだ。しかも、これが発見者とグルだったりする場合も結構多い。性犯罪における美人局なども同じようなものだね」

「美人局って?」

 どうやら、母親は本当に世間のことをよく知らないようだ。

 そのくせに、

「世間体を気にしなさい」

 などというのは、本末転倒もいいところである。

「美人局というのは、女の方から男に誘いをかけて、ホテルに連れ込んだりするだろう? そしていよいよ行為を始めようとした時、ヤクザまがいのやつらがやってきて、俺の女に何するのかとか、あるいは、新聞記者を装ったやつが来て、記事にするなどと言われて、お金を脅し取るというやり方さ。男の方も少なからず後ろめたさもあるし、決定的な写真まで取られて、しかも、女が自分に襲われたなどと証言しているのだから、脅しに乗るしかないだろうね。だけどね、これって、脅す側にも実はリスクがあるんだよ」

 と父親が、含み笑いを浮かべながら言った。

「どういうこと?」

「犯人側は、あらかじめ狙う男を絞って犯行に及んでいるだろう? だから、お金を持っていて。身元がバレると困るような人たちなので、彼らは、自分の身を守るためには、何でもするのさ。しかもお金があるしね。つまりは、狙われた方も、裏の世界を持っているということさ。自分が危険な目に遭った時のために、裏の組織と繋がっていて、お金で自分を脅迫してくた連中を探させ、そして、半殺しの目に合わせたりするんだろうな。しょせん、最初に脅してくるような連中は、チンピラ程度の連中なので、誰も助けてくれるわけもなく、本当に、海の底に沈められるかも知れないということさ。それだけ、世の中は甘い物でもないし、上には上がいて、中途半端な立場で簡単に人を脅かすとどうなるかということだろうね?」

 と言って、父親はニヤッと笑った。

「でも、それは極端な例よね?」

 と母親がいうので。

「そりゃあそうさ。普通なら脅されればお金を払って、そいつらは、また味をしめて、他の人を脅迫する。だけど、いずれは危ない人に当たる可能性もあるだろうね。それなら、適当なところで警察に逮捕される方がいいだろう。命あってのものだねというだろう?」

「そうね」

「でも、やっぱり、脅迫する方もする方だけど、される方もされる方ね。そういう意味では美人局というのは、どちらが悪いとは言い切れないところがあるわ」

「美人局はね。でも、痴漢の冤罪ともなると、もっとたちが悪い。警察に突き出して、容疑者に不利な話をさせる。犯罪者になりたくなかったら。金を出せと脅すわけだ」

「本当にひどいわよね」

「だろう? それだって、痴漢をするのは男で、痴漢事件があれば、証人がいるということで、ほとんどその人が推定有罪ということになってしまう。そうなると、実際にやっていないにしても、その場で捕まった時点で、嵌められたとは思わない気の小さい容疑者だったら、それこそ世間体を考えて金を出すというmのさ。この場合の世間体って何なんだろうか?」

 と父親が言った。

「世間体?」

 母親がいつも言っている世間体と同じ世間体なのだろうか?

 いろいろ考えてみたが、同じもののように感じる。そして、父親はその世間体というものに疑問を呈しているようだ。

 世間体などというものは、母親の話では、自分を守るものの防波堤のような言い方をしていたが。父親の話では。何か結界のようなものにも感じる。

 父親が、疑問を呈したことで、同じようなものかと一瞬感じたが、冷静に考えると少し違っているようだ。

 何が違っているのかということを考えると、どうやら見え方に問題があるようだ。どの方向から見るかによって、その状態が違って見える。しかも、父親の話の中では、結界のようなものがあるではないか、やはり厳密に言えば、違うものなのかも知れない。

 男女差別というのと男女平等というのとでは、訊いた感じでは、反対語のように感じるが、実際には違うもののようにも感じるのだった。

 そもそも、差別と平等が反対語だと言えるのだろうか? 差別というと、どちらか一つでも見た時に、差があると感じた時、差別だというだろう。しかし、平等というのは、どちらから見ても、寸分違うことなく、差がない状態にするのを平等だと考えると、平等の定義というのは、かなり難しいものだと言えるのではないだろうか。

 男女が頭についただけで、結構厄介な解釈になってしまう。特に、男女平等とはいうが、男女差別いう言葉が使わない。しかも、今の男女平等の定義というのは、全般的なものではなく、

「男女雇用均等方」

 という法律の中でのことに限定されるものだ。

 つまり、法律にのっとったものでなければ、男女差別という理屈はない。ハラスメントのようにコンプライアンスが叫ばれている時代なので過敏な反応をしてしまう人が多いが、そもそもは、

「男性にできる仕事も女性にもできるはずだ」

 という発想と、女性の登用を増やすことで、政治参加や社会貢献を行い、女性が自立できる世界を目指すというものではないのだろうか。

 だから、ハラスメントが叫ばれているのは、身体的に女性を差別することであって、雇用という意味では違っている。勤務に支障をきたすという意味でのコンプライアンスであるが、結局、コンプライアンスは

「男女では、決定的に身体的な差がある」

 ということを認めることになるのだ。

 そうなると、男女雇用均等法の精神である、

「男女で、同じ仕事を」

 という精神とは違った形のものを認めてしまうことになる。

「この矛盾に果たして、誰も気付かないのだろう?」

 という疑問を感じるのは、平野だけだろうか?

 そもそも男女が平等ではないという根拠に立てば、差別とは違うのだということを理解できていれば、コンプライアンスと、男女平等という発想が違うものだということは、容易に分かるものではないかと思うのだ。

 父親はそのことが言いたかったのではないかと思ったが。どうも母親にはその理屈すら分かっておらず、

「やっぱり、しょせん女って感じなんだな」

 と感じたのだ。

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