エモノの家.3
再び激しい雨が降り、まだ夕方だが街は闇の中にあった。
普段は若者が集う河沿いのカフェのウッドデッキも、今は無人だ。
ビニール傘を叩く雨の音を聞きながら、号刀は街を眺めた。
九木宅の警護は継続できるものの、事件の捜査は進展していない。
「一課に任せたところでどうにかなるもんかよ……」
呟いたとき、道端に傘も挿さずに立つ痩せた男が目に留まった。艶のない髪も、派手だが色褪せたシャツも、今は濡れて一段濃い色になっていた。黒子の多い顔はより青ざめている。
本物の霊能者、各務暉良。
号刀が歩み寄ると、各務は視線を上げた。
「令状取ってきたか、刑事さん?」
各務は歯を見せて笑う。号刀はビニール傘を突き出した。
「前回は掴みかかって悪かった。玉栄さんから話を聞いた」
各務は傘も受け取らず眉を下げた。
「それで信じたのかよ。そんなんで刑事やってられんのか」
「完全に信じた訳じゃない。だが、お前に悪意があるとは思えなかった」
号刀は各務の手に傘の柄を握らせる。動画の中で奇跡を起こして見せた指は、骨張って冷たく、死人のようだった。
「各務、何か掴んでるなら教えてほしい。お前もあの家が危険だとわかって見張ってたんじゃないのか」
「危険ね……」
各務は髪から雫を零して、号刀を見上げた。
「今夜あの家の扉か窓の鍵を開けとけ。警備のついでにできるだろ」
「鍵を?」
「そうだ。本気で俺を信用するならな」
「考えておく」
号刀はそう答えて踵を返した。
「おい、傘!」
各務の声を背に、号刀は運河のようになった歩道を駆け出した。
九木宅の前にはかつての後輩の雛本が並んでいた。ずぶ濡れの号刀を見て、彼女は目を丸めた。
「傘はどうしたんですか」
「折れたから捨てた。異状はないか」
「今のところは」
雛本は思い出したように冷たく顔を背けた。
号刀はハンカチで髪や服を拭いながら言う。
「雛本、護衛の対象は俺じゃない。被害者の遺族だ。気持ちはわかるが、我慢して協力してくれないか」
「わかってますよ……」
雛本は沈黙の後、乾いた唇を噛んで答えた。
「九木菫がまた霊媒師を呼んだらしいです」
「どういうことだ。あんな事件があったのに、また?」
「はい。我々も止めたんですが『今日呼ばなければ間に合わない』と。精神的にひどく不安定で、説得できませんでした」
「そんなに怪奇現象を恐れているなら、家じゃなく別のところで保護すべきじゃないか」
「家から離れるのも嫌がるんです。彼女たちは今朝も始発でホテルからここに戻ってきました」
号刀は言葉を失い、監獄じみた家を見つめた。
犬の生首が沈んでいた鉢は撤去されていた。だが、壁には変わらず鍵型のモニュメントがかかっていた。
扉を開けると、荒井の幅広い背が視界を塞いだ。
玄関に仁王立ちになり、廊下にいる菫と向き合っている。
「奥さん、昨日の今日で得体の知れない部外者を呼び寄せるのはどうかと!」
荒井の怒声には幾らか疲労が滲んでいた。既にだいぶ言い合いが続いているらしい。廊下はひどく暗かった。
「我々も精一杯護衛を務めますが、不確定要素を増やすのはですね!」
「でも、今日じゃないともう間に合わないんですよ!」
菫の姿は見えないが、声は緊張で引き攣っている。
荒井は苛立ち混じりにかぶりを振り、号刀を睨んだ。
「お前も何か言ってやれ!」
号刀はシャツの雫を払って進み出る。荒井が隅に避けると、木彫りの面のように強張った菫の顔が現れた。
「何かあったんですか」
「ホテルから私と天花が帰ったら……」
菫は長い爪で天井を指した。号刀は目を見開く。
廊下が暗く見えたのは天井が一面黒で染まっていたからだ。しかも、染みは泥濘のように波打って蠢いている。
荒井は鼻から息を吐いた。
「これはただの欠陥工事ですよ! 雨で水漏れしてるんだろう!」
「水漏れでこんな風になりますか!」
菫が甲高く叫ぶ。リビングから娘の天花が怯え切った顔を覗かせた。
号刀はふたりの間に割って入った。
「娘さんも不安がってます。荒井さん、霊媒師が来るまで様子を見ましょう」
「部外者を招き入れるつもりか!」
「昨日の事件の犯人が霊媒師なら証拠を掴みやすくなる。刑事が三人もいるのに不安ですか」
荒井は舌打ちして身を退いた。
靴を脱いだ瞬間、僅かな振動が号刀の足の裏を伝った。家全体が小さく振動している。
号刀は墨の河のような天井を睨んで、リビングへ進んだ。
円卓には、祭壇こそないものの、榊や神酒など昨日の霊媒師の道具が置いたままだった。
瓶から零れた酒がフローリングに白い痕を広げている。
ソファで膝を抱える天花の髪は、何年も洗っていないセーターのように脂ぎって絡んでいた。彼女は号刀に気づいて顔を上げる。
「刑事さん……」
号刀が近づこうとすると、雛本が阻むように天花に駆け寄った。
「安心して、私たちが見守ってるからね」
雛本の背は少女に触れさせまいと拒絶を示していた。
号刀は足を止め、ふたりから退いた。
震える家に雨の音だけが響く。暗闇も、豪雨の音も、巨人が家を掴んで揺らしているようだった。
号刀は雷鳴を遮るように耳にインカムを押し当てた。
菫は散乱した机にノートパソコンを広げた。
「先日の霊媒師の師匠の方が来てくださるそうです。まず、ビデオ通話で家の様子を見たいらしくて」
明かりのないリビングに、ブルーライトを反射する菫の瞳が爛々と輝いた。荒井のぼやきも耳に届いていないようだ。
天花と雛本はソファから遠巻きに見つめている。
菫は娘にも構わず、何度もパソコンのマウスを連打する。機械的な音が雨に混じって響いた後、画面が明るくなった。
「繋がりました!」
菫が一層目を輝かせる。号刀と荒井は画面を覗き込んだ。
液晶の向こうには和風の座敷に座る、五十代の女がいた。先日の霊媒師と同じ黒い着物を纏い、片目には白い眼帯をつけている。
「昨日は弟子の不手際でご迷惑をおかけしました……」
掠れた声が届いた。菫がパソコンににじり寄る。
「いえ! 先生が何とかしてくれるんですよね?」
号刀が菫を静止しようとしたが、鋭く手を振り払われた。
「そちらがご自宅ですか」
眼帯の女は低く呻いた。沈黙が続く。菫は緊張気味に何度も爪で机の端を叩いた。
女は通信が途切れたと思うほど微動だにしない。白い眼帯にぽつりと赤い点が浮かんだ。
画面の中で女の眼帯が見る間に血に染まり、涙のように流れ落ちる。荒井が上ずった声をあげた。
女は流血する片目を抑えた。
「すみません、私にはどうにもできません」
「どういうことですか!」
菫の金切り声に、女は深く首を垂れた。
「これはもう、人間に太刀打ちできるものではありません」
「そんな無責任な!」
再び菫が叫んだとき、号刀のインカムから玉栄の声がした。
「今大丈夫?」
号刀は少し下がって答えた。
「大丈夫です。どうぞ」
「号刀くんが言ってた家族写真見つけたよ。SNSもほぼ削除されてたけど、天花ちゃんの同級生のアカウントから何とか見つかった」
「それで、九木菫の写真はありましたか」
「あったよ。背が高いんだね。旦那さんより高いんじゃない」
「……ありがとうございました」
号刀が短く答えたとき、菫が叩きつけるようにパソコンを閉じた。怒りに震える彼女の背は細く、どう見ても百五十センチ半ばだ。
その肩の先には埃を被った白いピアノがある。
号刀は口を開いた。
「菫さん、ピアノは弾けますか?」
荒井が怒声を上げる。
「こんなときに何言ってんだ!」
「一節でいい。何か弾けますか」
雛本が号刀の肩を揺する。
「先輩、どういうつもりですか」
号刀は振り返り、雛本の背後で蹲る天花を見た。
「天花ちゃん、何かあったら必ず俺たちが助ける。だから、本当のことを言ってくれ」
号刀は上着の下の銃を確かめ、言った。
「このひとは本当に君の母親か?」
菫は片方の頰を引き攣らせた。
「刑事さん、ふざけないでください……」
天花の瞳孔が引き絞られた。窓外の雷が少女の顔に青い亀裂を入れる。
家の振動に呼応するように、天花は顔を震わせた。
「違う、お母さんじゃありません」
エモノニセモノ屍者狂イ: 警視庁警備局公安課不能未遂係 木古おうみ @kipplemaker
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