第4話 ポップス
三十歳前半くらいまでは、それでも結婚を諦めてはいなかった。
「そのうちにいい人が現れるかも?:
という他力本願を感じた時、
「やっぱりもうダメなんだな」
と思うようになった。
まるで死の宣告と思った時、昔どの時点だったか覚えてはいないが、クラシックを聴いていた時期のベルリオーズ作曲「幻想交響曲」からイメージしたギロチンを思い出した。
夢だったのかも知れないが、あの歯が自分の首に落ちてきて、ゴロンと転がる光景を見てしまったような気がした。はねられた首を自分で見れるのだから、その時点でおかしいわけで、夢だと思う決定的な瞬間でもあった。その首を誰かがどこに持っていくのか、夢の中で見ていたような気がする。
男にとって、はねられた首の扱いはいい加減だった。自分の意識としては、しばらくの間晒し首にされて、民衆から石でも投げられるという印象だったが、どうもそうではないようだ。
なぜ首をはねられることになったのかということが問題であり、断頭台が何を意味するものなのか、そこからしか意識がないので、まったく分からない。
晒すだけの価値のない首ということであろうが、となると、自分はその国の君主ではなくただの罪人として首をはねられたことになる。だが、罪人であっても首をはねるくらいなのだから、見せしめというものがあってもいいはずだ。それすらないというのは、合点がいかない。
晒されなかったのは幸いなのかも知れないが、それならそれで首をはねられなければいけないのか、いかにも意味不明であった。この国の風習が、日本人として育ってきた平和の中での自分たちには想像もつかないことが行われたのだろうか。
そんな時代背景を感じていると、クラシックから目が覚めると、そこには光が満ちている世界が想像できた。
同じ喫茶店であるが、白い壁を基調とした、まるで、
「お菓子の家」
とでもいうような、軽くてすぐに吹き飛ばされてしまいそうなお店の雰囲気を感じていた。
出窓には花が一杯咲いていて、真っ赤な色が目立っている。光の加減ではピンクにも見えるが、場合によっては、真っ赤に滴る血の色にも感じられたが、まったく気持ち悪いという感じがしなかった。
さっきまで、ギロチンではねられた自分の首を見ていたはずなのに、同じ鮮血の色でも、背景や雰囲気がまったく違えば、気持ち悪さという感覚はほとんど消えてしまうのではないかと思える瞬間だった。
「どこを開いたのか、まったく違う世界に入り込んでしまったんだ」
と感じた。
ひょっとすると、
「これは夢の世界に限らず、現実の出界でもありえることなのかも知れない」
とも感じた。
普段であれば、必ず雰囲気は背景が違う世界に飛び込む時には、その間にいったん現実世界が絡むことで、一気に目覚めずに進んだという意識がないので、同じ色のものを見ても、一度意識が覚めてしまっているということで、世界を超越したという意識も、夢の続きを見ているという意識もないのではないだろうか。
考えてみれば、一度夢から覚めてしまうと、どんなにその夢の続きをみたいと思っても見ることはできない。そこで考えられるのは、
「本当は夢の途中で目が覚めたと思っているけど、最後まで見ていたのではないだろうか?」
という思いである。
夢は目が覚めるにしたがって忘れていくものだが、覚えている夢もある。だが、夢をすべて覚えていないということがあるせいで、夢には覚えている部分と忘れている部分が存在するという意識よりも、
「最初から、途中までしか見ていない」
と思う方が、幾分かしっくりくる。
この感覚が、大きく意識の中で夢と現実を隔絶させる力を持っているのではないだろうか。
「お菓子の家」で音楽を聴いていると、イメージは朝の、モーニングサービスの時間帯だった。
白い壁を見ていると思い出したのは、大学時代に友達と一緒に出掛けた、ある高原でのペンションに泊まった時だった。
「そうだ、確かにあの時、出窓に真っ赤な色の花だったかがあった気がした」
それを思い出した時、白い出窓の桟の部分に、同じ白い色でもフワッと膨れ上がっているのが見える、
「あれは雪だ」
と思うと、出窓の床板の部分に乗っている真っ赤な花の正体が分かった気がした。
そう、あれはクリスマスの時期になるとよく見かける、
「ポインセチア」ではないだろうか。
ポインセチアを見て、鮮血を思い浮かべる人はまあいないだろう。真っ赤な花の部分(本当はつぼみの部分であるが)に対し、綺麗な緑色の葉っぱが綺麗にマッチしていることから、鮮血だとは普通は思わない。
しかし、ポインセチアが、
「クリスマスフラワー」
と呼ばれる所以であることから、キリスト教徒深いゆかりがあり、ポインセチアの赤い色は、キリストの血の色に例えられたりする。
そういう意味では、血の色を連想するのは、正しい連想であって間違いではない。したがって、血の色を否定することはまったくないのだ。
そんなポインセチアを想像していると、まわりからクリスマスソングが聞こえてくるような錯覚を覚える。
しかも、なぜか雪の中を昔でいうチンドン屋が道化師を連れて歩いている。その光景は滑稽であり、聖夜と呼ばれるのに不釣り合いに感じられるが。そもそもクリスマスというのは、師走の忙しい時期の、ピークにも当たっていて、昼間がせわしないのも当然と言えば当然のことである。
チンドン屋の流す音楽。一種の大道芸であり、人を集めて、何かの宣伝を行ったり、パフォーマンスを示すことで、何かを人に訴えようとしている。
そこでの主役はピエロと言われる、
「道化師」
であるが、顔がハッキリとしないようなおどけた表情のくま取りをしており、その扮装の滑稽さが、人の注目を集めた。
しかし、素顔が見えないことから何を考えているのか分からないという宇津気味悪さも否定できない。人によっては、ピエロを見るだけで、
「怖くて怖くて、足が竦んでしまう」
という人もいる。
基本的には宣伝マンとしての仕事であろう。何かのお店の新装開店であったり、同じ大道芸として、サーカスや見世物小屋ができれば、その宣伝にやってくる。見世物小屋もサーカスも、どうしても天幕を張っての興行となるため、街中ではできない。少々大きな公園で、許可を得て興行を打つというのが一般的で、そうなると、宣伝しなければ普通の人は知らないのも当然だからだ。
今のようにテレビがあれば、宣伝効果もあろうが、あったとしても、テレビの宣伝にはお金もかかる。そういう意味ではチンドン屋を自前で持っていれば、宣伝広告費は彼らの人件費で賄える。宣伝広告だけのために雇っているわけではないだろうから、彼らを使うことは経費の節減には十分であった。
滑稽な音楽を自らぶら下げている楽器を使って演奏し、手の持ったビラを盛大にばらまく、拾ってくれる人はそれんりに興味を示すだろう。拾ってくれない人であっても、手を差し出してもらおうとする。それだけでも宣伝効果は成功と言えるだろう。
今ではまず見ることのなくなってしまった道化師は、年末には恒例のものであった。サンタクロースのように、顔は分からないが、覆面を被っているわけではない。普通の変装を施していてもまったく違和感のない時期、それが十二月という慌ただしい時期であった。
宣伝効果、いわゆる訴求力というものである。
いわゆる、
「相手の購買意欲に働きかける」
というわけだが、
「広告、宣伝が視聴者は見物人を対象に訴える力」
それが、訴求力というものである。
そんな広い訴求力を 持った音楽がポップスであり、この時に感じていた音楽ジャンルが、まさに、
「ポップス」
だったのだ。
結婚していた時代を思い出すと、まさにチンドン屋の演奏がふさわしいものではいだろうか。
何しろ、自分は女房が自分に対して逆らうこともなく、
「今までで一番話がしやすく、一番接しやすく、一番分かってもらえている」
と思っていたのに、実際には一番話がしにくく、接しにくく、分かってもらえていなかったということを証明したようなものだった。
しかも、相手が悩んでいるということも分からずに、完全にお山の大将になってしまっていて、相手が寝返った時、初めて気づかされたという、まるで戦国時代の下剋上にあった元領主の大名のようではないか。明らかに正義は相手にあり、こちらは敗者として何も言える立場ではなくなっていたのだ。
相手はこちらの気持ちなど関係ない。関係が怪しいと思うと自分の世界に入り、まったく相手に付け入るスキを与えないようにして、防備を固めたうえで、自分の作戦を練り始める。それを何もせずに、放っておいたこちらが悪いのだろうが、それまで何でもいうことを聞いてくれた人間が急に寝返るなど、普通では考えられない。いや、考えなければいけなかったのだろうが、だが、考えてみれば、そこで考えたところで、もうすべては遅いのだ。
こちらとしても、すべてが後手に回ってしまったのだから状況は、
「すべてこちらが悪い」
という風に追い詰められてしまっては、もう謝るしかない。
完全に立場は相手の方が上で、その状態になってしまうと、逆転した立場をひっくり返すのはまず無理なのだ。そうなると、相手が離婚を切り出した時点で、終わっていたと言ってもいいだろう。
もし、こちらが必要以上にゴネたとしても、相手はすでにまわりを固めていたことだろう。何か証拠を持って提示されれば、こちらからは何も言えないという武器を持ったうえで、言い出しているのだから、太刀打ちできるものではない。
それはまるで顔を隠して道化師を装い、チンドン屋の音楽を流し、自分の前で勝ち誇ったように踊っている姿に見えて仕方がなかった。
今では見ることもなくなったチンドン屋だが、もし今でも見ることがあれば、相手にはそんなつもりなど毛頭ないと分かっているのに、嘲笑われているように思えて、屈辱感という敗北感に苛まれ、道化師を見続けることはできないに違いない。
そんな道化師が離婚してから、しばらく自分の夢に出てきたような気がした。
夢の中で道警は自分にしつこく付きまとってきた。最初はビラ配りの他の連中と一緒に、自分が歩いているところを近づくわけでもなく、適度な距離を保っていたはずだった。時代背景はいつの間にか、昭和になっていた。木でできた垣根という塀が、等間隔に足を延ばしていて。その横に小さな溝ができていた。
人工の溝ではなく、自然とできたものだろう、なぜなら、その当時はまだ道路も舗装もされておらず、塀のような壁にはニスのような油が塗りこまれていて、殺虫効果なのか、臭いが結構きつかった。
そんな道を白いスーツに身を包んだ自分がゆっくりとまわりを意識しないようにして前だけを向いて歩いている。
普段なら何かを考えながら歩いているので、意識もせず、急いでいてもさほど疲れを感じないのに、その時は頭の中は空っぽだったような気がする。
だが、何かを考えていたというわけでもなく、ただボンヤリと前だけを見て歩いていたのだ。
すると、すぐ後ろから、
「ゼイゼイ」
という息遣いが聞こえる。
それは、無呼吸の人が口から以外の場所で呼吸をしているかのような恐ろしさがあり、猛毒マスクをしている呼吸穴から聞こえてくるかのような音だった。
すでにそれは声ではなく、音だった。
「コーホーコーホー」
という息遣いと言えるのかどうかと思えるほどの不気味な声であった。
誰もいないと思った自分のすぐ横にいたのは、礼の道化師である。やつは、さっきまで一緒にいたチンドン屋の仲間たちと離れて、自分だけを追いかけてきたのだ。
――それにしても、チンドン屋はどこに行ってしまったのだろう?
道化師としては、
「ターゲットはお前だけだ」
と言わんばかりであろう。
後ろを振り向くのが怖い。
相手は、明らかにこちらの行く手にいかなる手段を用いても、逃がすまいという意気込みが感じられる。しかし、こちらには、何ら防備を企てる手立ては一切ないのだ。ただ、この道化師に好きなようにされるのを待つだけだった。
耳に今に子息が吹き込んできそうなほど接近しているのに、その気配は小さなものだった。
確かにそいつは後ろにいるのに、気配という意味での息遣いではないのだ。
金縛りにでもあったのか、後ろを振り向くことはできない。ただ、からくり人形のように、自分の意識とは別に前にだけ規則正しく歩いているだけだった。
身体全体がいうことを聞かずに、まったく動けなくなるのが金縛りであれば、この場合は金縛りとは言わないだろう。
そんな中途半端な状態に、道化師は斜め後ろから覗き込んでくる。
――何と恐ろしい――
顔にまったくの変化は見られない。
笑っているのか、怒っているのか、それともまったくの無表情なのか、その隈取の下はまったく分からなかった。
――相手が何を考えているのか分からないというのがどんなに怖いかというのを、今までにも味わったことがあったはずだ――
と想像し、
――いつだったんだ?
と思ったが、その時浮かんできたのが、別れた女房の顔だった。
まったくの無表情で睨みつけてきていた。何かを言いたいという表情ではない。もう何を言っても一緒だと言わんばかりである。
「あなたには、絶対に私の気持ちなんか分かりっこないんだわ」
と言いたげであったが、それならそれで、
「お前だって、俺の気持ちを分かるはずもないだろう」
とこちらも言いたい。
しかし、実際に口喧嘩にもならなかった。円満離婚した夫婦の中には、
「お互いに言いたいことを言ったので、未練はない」
と言って、別れても親友でいるという夫婦もいるらしいが、川島にはその言葉は信じられなかった。
お互いに何かを言える状況でもなかったし、何かを言おうとすると、相手の恐ろしい表情を想像して、何も言えなくなってしまう。女房もそれが怖かったのかも知れない。それを一番恐れたから、こちらから何も言えない状態にまわりを追い込んでから、やっと本題を口にしたのだと考えれば、やはり完全に、
「やられた」
という思いから、
「最初からもうダメだったんだ」
と思えてきた。
そう思うと、最初から、つまりは結婚したこと自体が間違っていたのではないかとも思えてくる。途中からお互いがすれ違って行ったとも言えなくもないが、逆にうまく行っていたように見えていたのは、お互いがギリギリまで妥協して、本当は最初から修羅場になっていたかも知れない状況を、ごまかしながら来ただけだったのかも知れない。
よく昔は、
「成田離婚」
なんて言葉があり、
「そんなのって信じられないよな」
と言っていた時代があったが、その時いきなりぶつかるか、ギリギリまで引っ張ってしまって、どうしようもなくなって離婚するかだけの違いであり、
「離婚する夫婦というのは、ほとんどの場合、最初から無理なものを強引に引っ張っただけの結果でしかないんだ」
と今はそう思えて仕方がなかった。
そう思うと、川島は、結婚というものが、本当に正解なのかということを考え始めた。
「結婚は人生の墓場」
という言葉を、昔は笑い飛ばし、
「そんなことは離婚する人の言い訳に過ぎないよ」
と思っていたが、自分がその立場になると、
「人生何が起こるか分からない」
と、まさにそれを実践しているようではないか。
そのことを道化師に教えられようとは、それから少しの間、自分の夢の中によく道化師が出てきていたように思えたのだった。
そんな道化師が、何度も合っていると、まったく表情に変わりはないくせに、今どんな表情をしているのか分かる気がしてきた。
何がいいたいのか、何を考えているのかなど、本人にしか分からないことが、こちらに分かるわけではなかった。だが、喜怒哀楽が分かるというだけでも、相当距離が縮まったような気がした。
もちろん、相手は喋らない。喋らないから道化師なのだが、相手の喜怒哀楽が分かるようになってくると、
――この人、一体、どんな顔をしているのだろう?
と考えるようになった。
そもそも、相手の表情を分かるというのは、その人の顔を土台に、想像できるもので、元々の顔が分からないのに、表情を想像できるというのがおかしな話だった。本末転倒を地で行っているような気がして仕方はない。
そんなことを考えていると、道化師の顔が次第に想像できるような気がしていた。
――相手が顔を隠すのであれば、こっちは勝手に想像すればいいんだ――
と思い、道化師にふさわしい顔を想像してみた。
想像というと、やはり自分がかつて見たことのある顔に限定される。それはたった一度でも構わない。深い印象に残っているのであれば、それもありであろう。今目を瞑って最初に浮かんできた顔が、その候補であると思った川島は、目を瞑ってどんな顔が浮かんでくるのかを考えてみた。
実際に目を瞑ると浮かんできた顔があった。その顔はいつも真面目な顔をして、喜怒哀楽の表情を見たことがなかったことに気が付いた。だが、その顔はそんなに頻繁に見る顔ではなく、そのくせ一番自分に近い、いや、この表現には語弊があるが、そう感じる相手だった。
何しろ、瞼の裏に浮かんだのは、自分の顔だったのだ。
自分の顔はそんなに頻繁に見るわけではない。自分の顔を見ようとすると、必ず鏡のような何かの媒体が必要である。女性であれば、化粧のために、毎日見ることになるだろうが、男性の自分は、そんなに頻繁に見るわけではない。ナルシストでもないなら、男性が自分の顔を見る時というのは、
「忘れた頃に」
というのが普通ではないだろうか。そんなに毎日自分の顔をチェックするわけではない。それこそナルシストだというものだ。
想像した顔が自分の顔であることが分かると、その顔に浮かんだ表情は、どうしても無表情でしかない。鏡に向かって表情を作るなどということは、考えただけでも気持ち悪いからである。
だから、目の前にいる道化師の顔にもくま取りがしてあって、その表情を垣間見ることができないようになっているのだろう。
それなのに、どうして表情を想像することができたのか、それは不思議でしかないのだが、今の自分の心境を道化師の想像する表情が表しているというわけではないようだ。ただ自分が気まぐれに想像できるだけで、想像したその先にある顔を本当に自分もすることがあるのか、あるいはしたことがあったのかどうか、疑問であった。
自分がそんなに表情が豊かだとは思っていない。子供の頃ならいざ知らず、大人になって泣いたこともないので、悲哀の表情も自分ではよく分からない。怒ったことは結構あるが、喜怒哀楽の中で一番多いといえば、怒りの表情ではないだろうか。喜んだ表情もないわけでもないが、それも人生の節目であったかどうかという程度で、極端な話、人生の節目が定期的にあったのは、大学を卒業するくらいまでであっただろうか。それ以降は結婚した時くらいで、あとは、毎日を適当に生きている。それは自分だけに限らず、誰もがそうではないかと思えるのだ。
道化師の喜怒哀楽が分かると言っても、
「あ、今笑った。悲しそうな表情をしているんだ」
と感じるだけで、どんな表情をしているのか、想像できているわけではない。
相手の表情を理解するために想像した顔はあくまでも無表情な自分の顔というだけで、自分の顔が表情豊かに想像できたわけではない。
もしできたとすれば、それは、
「想像」
ではなく、
「創造」
ということになるのではないだろうか。
そんなことを考えていると、いくら夢の中とはいえ、相手の顔がハッキリと分からないとはいえ、
「ドッペルゲンガー」
という発想が頭に浮かんできたのだ。
本当は想像もしたくない話である。自分が、自分と同じ人間が、同一時間同一次元に存在しているわけである。
「パラドックス」
を超越した発想である。
ドッペルゲンガーというと、もう一人の自分であり、決して自分に似た人間というわけではない。
ドッペルゲンガーには特徴があり、一つは喋らないというものがある。これは自分だけの発想であるが、喋らないということから、夢ではないかと思うのだが、この道化師も喋らないという意味合いから、夢の中で自分が創造した架空の世界なのかも知れないと感じていた。
そして、もう一つの特徴としては、
「本人の出没する範囲以外には現れることはない」
というものである。
つまり、外国に行ったことのない人を外国で誰かが見たといえば、それはまず本人でないことh確かだが、ドッペルゲンガーでないということだ、いわゆるよく似た他人というだけのことである。
他にもいろいろ共通点はあるが、大きなところとしては、この二つくらいではないかと思えた。
そしてドッペルゲンガーというのは、
「見ると、近いうちに死んでしまう」
という都市伝説があった。
かつての歴史上の著名人が何人もドッペルゲンガーを目撃し、死に至ったという話が伝えられている。
リンカーン、芥川龍之介などはその最たる例であり、そのことを裏付けるエピソードや逸話が残っているのが実情であった。
だが、そのどれもがまるで夢のような話であり、どこまで信憑性があるのかというのも難しいもので、川島にとっても、なかなか信じがたいという思いが強かった。
しかし、夢に出てきた道化師の存在は、あきらかに川島に対して、ドッペルゲンガーを意識させるものではないか。
前述のように、夢は途中のちょうどいいところで覚めているかのように思えているが、実際にはすべてを見ていて、その後半の見ていないと思った部分は、記憶の奥に封印されているのではないかという考えを持っていたが、このドッペルゲンガーも夢が作り出した架空の発想であるとすれば、どこか肝心な部分が記憶の奥に封印されていて、その解明を難しくしているのではないかという発想も成り立つ。
もし、ドッペルゲンガーを見たとして死に至った人が著名人を始めとしてたくさんいたのだとすれば、その人たちは。見た夢を途中から見なかったことにして記憶の奥に封印しなければならなかった部分を封印できずに、ドッペルゲンガーに怯えさせられる運命を辿り、死んでしまうということになったのではないだろうか。
かなり突飛な発想であるが、してみて理解のできない内容ではない。
夢に出てきていると思う道化師が、自分のドッペルゲンガーだとして、それを自分がいつ記憶の奥に封印することになるのか、それが興味深いところであった。
川島は、都市伝説を信じるかどうかと言われると、どちらかというと信じてしまう方ではないかと思っていた。そして、その分、恐怖も感じるのだ。
だから、本当なら道化師が夢に出てきた時点で、何か気持ち悪く、しかも一度ならずに二度までも、さらにそれ以降もと考えると、気持ち悪さがピークに達することであろう。
しかし、実際にはさほど恐怖に感じることはない。ドッペルゲンガーのイメージまで頭の中に浮かんでこさせておきながら、なぜにそこまでの恐怖がないのか。それはそのうちにこの意識も記憶の奥に封印され、ドッペルゲンガーではないかと感じた意識も、道化師の夢自体も、すべて封印されてしまうと思っているからであろう。
ポップスという音楽からは、このような不気味な発想が浮かぶとは思ってもいなかったのでかなり以外であったが、
「広い訴求性を持つ」
という意味で、宣伝効果を感じた道化師の出現を頭の中に思い浮かべ、それが封印できて
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