第8話 テクノポップ
そんな音楽のジャンルでいよいよ最後ともいうべきジャンルとして、
「テクノポップ」
を選択することにした。
テクノポップと呼ばれるジャンルは。
「シンセサイザー、シンセベースなどを多用したSF的なサウンドが特徴」
ということである。
いわゆる電子楽器のテクノロジーをフルに活用することで高度な音楽性を発揮でき、想像力によりSF的な音楽を可能にするとでもいうべきであろうか。この発想は、今から半世紀前に一世を風靡した「プログレッシブロック」の発想に似ているではないか。いわゆる、
「プログレッシブロックの派生型」
と言えるのではないだろうか。
そのプログレッシブロックというものが、
「高度な演奏技術によって、クラシックやジャズを融合させ、幻想的な音楽を創造する」
といわれたことで、
「クラシックやジャズの派生型」
とするならば、テクノポップは、
「クラシックの孫」
とでもいえるのではないだろうか。
発想が同じで、同じ理念を持ちながら、創造できる音楽はまったく違っているところがこの三つのジャンルの違いと言えるのではないだろうか。
これらの発祥は海外であり、シンセポップやコンピュミュージックなどという言葉で呼ばれていたのに対し、日本ではイエローマジックオーケストラのヒットによって、ジャンルとしての、
「テクノポップ」
という名前が定着したのも特徴である。
クラシック、プログレ、テクノポップという流れは、どちらかというと音楽のジャンルの中では、マイナーな部分を継承しているのだが、実際には数年と言えども、世界的に大むーむを巻き起こしたジャンルであることは間違いない。
そうでもなければ、ジャンルとしての名前が定着することもないだろう。テクノポップのヒットは、プログレほどは長くもなかったが、センセーショナルであったのは同じである。イエローマジックオーケストラなどのメロディは実にアジア色が豊かで、日本のバンドがアジアでの不動の地位を確立したパイオニアと言ってもいいかも知れない。
川島はそんなジャンルである、テクノポップをよく聴いていた。もちろん、ブームの時代を知っているわけではないが、ブームが去ってから聴いているのはプログレッシブロックと同じで、最初に聴いたのはプログレで、プログレからクラシックへと逆に遡ったのだが、テクノポップでも同じことをしたのだ。
テクノポップを聴くことで、やはりクラシックを聴くようになり、そこから今度はまたプログレに戻ってきた。その三つのジャンルと絶えず聴いていたという時代が二十歳を過ぎてからずっと続いていた。
宇月さんと知り合ってから少しの間はプログレを聴いていたが、いつの間にかテクノを聴くようになっていた。テクノの場合はそのほとんどが、イエローマジックオーケストラで、その音楽性にアジアンテイストを感じていた。
親、子、孫と考えれば、孫を聴いていることになり、三人の似た人という発想で考えれば、今おつきあいをするようになった宇月さんをイメージしていると言ってもいいだろう。
過去の二人、つまり、クラシックとプログレには、それぞれ幻想的なイメージと、SF色豊かなイメージを抱いていた。それは起点がテクノポップであり、そこから遡ってみるという意味で、クラシックの派生型として親の立場から見たものとではまったく違っているという発想ではないだろうか。
宇月さんと知り合ってから半年以上が経っていたが、自分では恋人同士のような感覚でいるが、宇月さんの方でいえばどうなのだろう?
「川島さんの誠実そうなところが、気に入ってるわ」
と言ってくれたが、誠実という言葉をハッキリ言いきらなかったところは、まだ付き合いが浅いということで考えればいいのだろうか。
年齢的にそろそろ四十歳が見えてきたことで、過去を振り返ってみると、三十代には何もなく、それまでの十年ずつをくくった中でも、あっという間に過ぎてしまったという感覚しか残っていない。
似十歳代は、波乱に満ちていた気がした。初めて女性と付き合ったのも二十代。結婚したのも二十代、さらに離婚も二十代だ。異性との関係において、大きなイベントのほとんどを二十代で経験したからだ。
そういう意味で、波乱万丈な時期は、あっという間に過ぎていったが、三十歳代のように何もない時代が、
「気が付けば過ぎていた」
というそんな時代とはまったく違っていたのだった。
――ひょっとすると、もうすぐ結婚するかも知れない――
と思い始めてから、どれくらい経っただろうか。
三十七歳で知り合って、いろいろ一緒に出掛けるようになってそろそろ一年、最初に身体を重ねたのは、二度目のデートだったら、知り合って半年近くは経っていただろう、デートにこぎつけるまでには結構時間が掛かったが、初めて身体を重ねるまでには、あっと今だったような気がする。一度お互いにある程度まで近づいてしまうと、異性を知らない同士ではないのだから、身体を重ねるということは、一種の通貨儀式のようなもので、別に精神的な障害があるわけではなかった。
身体の愛称はバッチリだった。お互いを求めて貪り合い時など、自分がまるで最近童貞を捨てた時のような、感覚よりも感情が先に立っているかのように思えたくらいだ。だが、妻と離婚して、それから彼女もおらず、風俗で身体の寂しさを紛らわしていた時期は、
「感情よりも感覚」
を相手に求めていると思っていた。
だが、お気に入りの女の子ができると、決められた時間での疑似恋愛ではあったが、相手に求める思いが変わってきた。
「感覚よりも感情」
に変わったのだ。
だから、宇月さんを抱いていて、
「感覚よりも感情」
と感じた時、本当であれば、今も感じていることだと思うはずなのに、なぜか思い切り時代w遡らなければ、同じ言い回しでも同じ感覚に至ることができないようだった。
――やはり風俗の女の子に感じた恋愛があくまでも疑似恋愛で、今こうやって宇月さんに感じている恋愛が、本当の恋愛感情だ――
ということを証明しているのかも知れない。
二十代の頃は、元女房になる人と付き合い始めてからは、風俗通いをやめていた。
――彼女に悪いから――
という思いと、自分の中にある罪悪感が理性を刺激したのだ。
そもそも、寂しさから通っていたと思っていた風俗、正式にお付き合いする人が現れたのだから、わざわざ大枚をはたく必要もないというものだった。
その時はそれでよかった。風俗に通わなくなったことを、よかったと思っていた。
だが、今は宇月さんと付き合っている間でも、風俗に通うことをやめていない。宇月さんに悪いという思いも、罪悪感や背徳感もその時の川島にはなかったからだ、
――そういえば、罪悪感や背徳感というのは何だったのだろう?
風俗に通っていることを、
「寂しさから」
と思っていたのだが、罪悪感があるということは、寂しかったという思いを悪だと捉えているのだということになる。
しかし、二十歳代の頃、どんな気持ちで通っていたのかというのを思い出した時、決して罪悪感を感じたわけではなかった。ただ、広い意味での罪悪感や背徳感だったのかも知れないとは思ったが、それは、
「お金を使って、時間を買う」
という行為が、人間の一番人間臭い、性行為という身体が求める欲望であることにあったのだろう。
それではそのどこに本当の罪悪感があったのかを、消去法で考えていくと、最後に残ったものは、
「お金」
だったのだ。
一番現実的で、何かを解決するためには秒で決まってしまうだけの力を持っているが、一歩間違えると、人の人生を狂わせてしまうだけの力を秘めているのが、お金ではないかという考えも成り立つわけだからである。
お金というのは、ある意味汚いものに見られがちだが、これほど正直なものはない。
「背徳感や罪悪感というのも、お金で買えるものなのかも知れない」
と感じさせるからだ。
「結婚を考えたきっかけは何だったのか?」
と言われると、すぐには答えが見つからない気がした。
「もう、これ以上の人は自分の前に現れない」
という思いであったり、
「この人に運命を感じた」
などというベタな言葉ではない。
そんな言葉は、もう十年以上も前に考えて、相手も同じ思いでいたことで結婚したあの時だけだっただろう。お互いに結構適齢期、いわゆる、
「盛りの激しい時期」
は過ぎてしまったのだ。
だが、人間には確実に、結婚適齢期というものが存在する。何千年という歴史を遺伝子というものが紡いできたのだ。そのことに間違いはない。
だから、結婚したことに対して、
「間違っていた」
という感覚はない。
相手が悪かったとか、相性が合っていなかったなどというのは、後になってから結果論として分かるもので、結婚適齢期に異性と出会って、その人と、
「この人となら」
と思ったのだとすれば、それを間違いだと考えてしまうと、自分の人生のほとんどを否定してしまいはしないか。
そこまで考えてしまうと、自分の生き方を否定し、あまりにも後ろ向きな自分しか見えていないことになる。
今から思い出すと、確かに十年以上の月日が経ったことは理解できる。あれだけこの十年を思い返して、
「あっという間だった」
と感じているくせに、今の時点から過去を思い返すと、そこには大きな時間が存在していることをいまさらながらに思い出させるのだった。
この思いは、同じ高さの場所の
「見る位置と、見られる位置」
と、上からと下からで見比べた時の違いに似ているかも知れない。
例えば、三階のベランダに誰かがいたとして、下からその場所を見上げるのと、自分がまったく同じ場所にいて、下にいる人を見下ろすのでは、同じ距離だという前提のもと、本当に同じ距離に感じるのだろうかということだった。
これは、実際にその状況を作らなくとも、想像できるというものだ。
上から見下ろす方が、下から見上げるよりもかなり遠くに感じられるということである。これは錯覚によるものだが、その錯覚を引き起こすのは、普通に人間が考える、
「高いところが怖い」
という感情であろう。
高いところから落ちた経験のある人であれば当然のことだが。たまに高いところから落ちた経験のない人出も同じ錯覚を起こすことがある。それはきっと、
「遺伝子の力なのではないか?」
と感じるのだった。
昔の先祖が高いところから落ちて。痛い目に遭ったという意識をトラウマとして持っていて、それが遺伝子というものを使って、子孫に受け継がれているのかも知れない。
実際に、見たり行ったりしたことのない場所を、
「初めてではない」
と感じる、デジャブ現象というのも、遺伝子が紡いできたものだと考えると、辻褄が合っているように思えるのは、それほど不思議なことではない。
高いところから下を見た方が、同じ距離であるにも関わらず、下から見上げるよりも遠くに感じるという錯覚が、年齢を重ねてきた時間を自らで意識していたことは、意識しないようにわざと、十年間というものを全体的に掴もうとすると、本当に中身ががらんどうで、あっという間だったような気分にさせるのかも知れない。
「全体的に万遍なく見えているということは、それだけ平穏で何もない時期を過ごしてきたということなのだろう」
という思いを自分の中で確信に変えようとして、時々、三十歳代を思い起こして、その時期が何もなかった時期で会ったという間だったということを感じると、平和で穏やかな気分になれるのではないかと思うからだった。
世の中というのは、横に広い世の中もあれば、縦に長い世の中、つまりは一人の人間が縦長に過ごしてくる人の一生も、一種の、
「世の中」
という発想になるのかも知れない。
人それぞれに、「世の中」というものが存在していると考えると、その間には、きっと乗り越えることのできない結界のようなものがあるような気がする。
結婚というものは、その結界を超えて成立するものなので、結界を乗り越えるだけの力がいるのか、それとも、結界にもこれだけ世の中に存在している人の中に少なくとも一人は結界を乗り越えて、
「二つの世の中を一つにする」
という力が存在するということであろうか。
それとも、それぞれの世の中は保持したまま、別に新たな世の中を創造するということなのか、それも人によって違うのかもしれない。
つまりは、
「離婚というのは、本来は、二つの世界を一つにしなければうまく行かないはずの二人が、新たに世界を創造してしまったということなのか、逆に新たな世界を創造しなければいけない人生を逆に、一緒にしてしまったことから起こる間違いから、陥ってしまう悲劇なのではないだろうか」
と考えてしまう。
そう考えると、最初から間違っていたことになり、最低限相手のことを分かっていないと判断できない状態があるにも関わらず、それを考えることなく結婚してしまったパターンもあるが、逆にうまく行っている夫婦でも、見合いや昔でいう許嫁のような形で、相手をさほど知らずに結婚した夫婦もあるのも事実だ。それを考えると、
「二者の選択は、必ずしも相手を知っておかなくても、相手との相性のようなインスピレーションで決められることでもある」
と言えるのではないだろうか。
それを思うと。結婚というものが、必ず型にはまったものである必要はない。いくら相性がよくなかったとしても、相手を思いやる気持ちがあり、判断できるだけのお互いの力があれば、うまくやっていけるものだし、逆に相手をハッキリと知らなくても、インスピレーションで何とかなることもあるのだろう。
ただし、最低限の条件として。
「相手のことを知りたいと感じる思い」
それがなければ、成立しない考えなのではないだろうか。
川島も、もう四十歳近くになってくると、そのことが分かってくるようになった。何もなかったと思っている三十代という年齢であったが、実際としての事件がなかっただけであって、何かを考えていたというのは、間違いのないことであろう。
自分の中で無意識に蓄積しえtきた感情があり、その間を充電期間と考えていたのかどうかは分からないが、そのうちにあ暗めの境地もあったのか、
「もう、結婚したいと思わなくなるのではないだろうか」
と思うようになってきた。
まわりの人からすれば、
「まだ四十歳にもなっていないのに、その考えは早すぎる」
という人もいるが、自分のまわりの四十代というと、結婚していて、夫婦円満な家庭はそれほど少なくもない。
そして、独身を通している男女も結構いる。もう結婚や恋愛の話を自分からする様子もまったく見られない。その心境は、
「この歳になって」
という思いが強いのか。
その思いが、
「この歳になって恥ずかしい」
という思いになるのか、それとも、
「この歳になったら、結婚なんかしなくてもいいという悟りのようなものが脳裏をよぎるのか」
というどちらかではないかと思っている。
若い頃に予十歳前後の人で独身者が、結婚のことを口にしないのは、ほぼ間違いなく前者だと思っていたが、今になって思うと、
「いや、後者だったんじゃないか」
と感じるのだった。
川島は、今、人の人生を世の中にたとえ、そして結婚するに際して、一つにするのか、新たに創造するのかという二者択一が必要だと考えた時、今まで考えてきた音楽について考えるというよりも、
「このことに気が付いた時にイメージしていた音楽が、テクノポップだった」
ということを考えるようになった。
風俗にいた女性もあまり相手が自分のことを風俗嬢たという意識がなかったことも共通して気に入っていた理由であった。せっかく一緒にいる時間でお互いに相手を必要以上気にしてしまっては、楽しくはないだろう。風俗嬢の方からすれば、お客さんに意識されると、恥ずかしくて接客しにくいという気持ちもあるだろうが、逆に客からすると、女の子に自分のことを必要以上に風俗嬢だという意識を持たれてしまうと、なかなか会話も進まない。意識しなくてもいいことまで意識してしまうことになるだろう。
お互いに相手に対して気を遣うことになる、歪な時間が流れていくことになる。
最近の風俗はそんな雰囲気があまりないのがいいところだと思っている。ほとんどの女の子が、
「小部屋の中でだけは恋人気分でいたい」
という気持ちを持ってくれているようで、客の方としても、変な意識をしないで済むのだ。
考えてみると、まだ女性と付き合ったこともない男の子が、、初めて女の子と二人きりになる時の方がよほど恥ずかしいのではないだろうか。そういう意味で、昔のように、大学の先輩が驕りで後輩を風俗に連れていって、
「筆おろし」
をさせるなどというのも、ある意味で理に適っているのではないだろうか。
結婚に失敗して、男女の関係に疑問を感じ始め、次第に結婚なんかしなくてもいいと思うようになってくると、風俗での寂しさを紛らわせるだけという関係でも本当に貴重な気がしてくる。
川島は宇月さんと知り合ってから、結婚のことを考え直すようになってはいたが、本当に結婚しようという意識までは、まだ感じていなかった。結婚というのが、いかに難しいものであるかということを分かっているからである。
「好きだというだけでは成立するものではないし、いくら相手のことを気遣っていたとしても、それが自己満足にすぎない場合だってあるんだ」
ということは、結婚前から理屈としては分かっていたつもりだった。
分かっていただけに、余計に結婚というものが難しいと実感する。
分かってなかったことができなかったのなら、次回には同じ失敗を繰り返さないようにすればいいと思うだけだが、実際にはそうではない。分かっていてできなかったということは、本当に分かっていたわけではない。分かっていると思っていただけのことだと思うと、それは、
「勘違いだった」
ということにしかならないだろう。
分かっていると思っていたのが思い上がりだったのか、それともただの勘違いだったのか、それによっても変わってくる。
思い上がりだったのだと自覚できれば、自分のことを分かっているということなので、また結婚を考えてもいいのかも知れない。
しかし、勘違いだったと思うのであれば、それは自分のことを分かっている分かっていないの問題ではないだろう。だからと言って、結婚できないという境界線ではない。思い上がりにしても、勘違いにしても、気付いたということは自分にとっての大きな進歩なのだ。要するに、結婚を考えていいのか悪いのかということは、その後を自分がどう考えるかということに関わってくる。つまり。結婚してもいいのか悪いのかということも含めてということになる。だから、思いあがりであっても、勘違いであっても、そのことに気付いた時、一緒に考えることではないのだ。
物事には段階というものがあるが、一緒に考えることができないものもあるという意味では、気付いたことを先に進めていいタイミングと、一歩立ち止まって考えるタイミングがあるということである。
そのことを考えると、川島は今が再婚を考える時なのかどうかを戸惑っている。しかし。そのことを考え始めているという意識だけは持っていないといけないと思っている。
――ひょっとすると、一人目と二人目の風俗嬢との出会いは、気付いた後にいきなり前に進まないようにするためのワンクッションだったのかも知れないな――
という、実に都合のいい考えであるが、
――今からだったら、こういうことを考えたとしてもいいのではないか――
と思うようになっていた。
「宇月さんはどのように自分とのことを考えてくれているんだろう?」
と考えるようになった。
もちろん、ただの友達という段階はすでに超えているということは自覚してくれているはずである。
いろいろなことを人生や、男女間について考えてくると、なぜか音楽の発想になってしまうのは、それぞれの時々で、音楽の発想に繋がる部分を感じていたからではないだろうか。中には忘れてしまっていた記憶を封印から解き放つかのような感覚である。
川島は、そう思ってくると、テクノポップまで考えてきた自分が、さらに何かの音楽を発想できるのかどうか、疑問に思えてきた。
――他に考えられるジャンルもないではないが、これ以上は不必要な感じがする――
と思っている。
それに、音楽というのはいくつものジャンルを踏襲し、前の音楽性を生かして、さらに発展させたと考えられるものがどんどん生まれてくるものだ。
これは、芸術であるからこそ可能なものであるのだが、他の芸術に見られないほどの、放射状への発展性がある。こんな芸術は、他にはないだろう。
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