第3話 ロック
川島が、また風俗に通い始めたのは、三十歳になるちょっと前くらいだっただろうか。結婚してから四年目、少し早いと言われるかも知れないが、倦怠期に入ったと自分では思っていた。
結婚してから一年くらいは楽しかったが、会話が明らかに減っていった。元々意味のある会話をしていたのかと聞かれると、何ともいえなかった。会話のためにいちいち話題を探してくるようなマネがしたくなかったし、これほど億劫なことはないと思っていた。
「会話なんて、楽しければそれでいいんだ」
という考えだった。
だから、何とか女房に笑ってもらおうという考えはいつも持っていたが、真面目な話をしようという意識はなかった。そこにお互いの距離が生まれてしまうなどという当たり前のことを感じたのは、本当に距離を感じるくらいに離れてしまった後のことだった。
しかも、会話がなくなってからも、
――会話がないのは、「便りがないのはいい知らせ」と同じことではないか?
と感じていた。
つまり、何か問題があれば、必ず自分に相談してくれるという思いが強いからで、そこには頼れる人は自分しかいないという思い上がりと、結婚した後の旦那というものに対しての思い上がりが、傲慢さとして意識されたことだということを認識できていなかったのだ。
そのために、ぎこちなくなってしまった状態が、完全に凍り付いてしまった空気を解かすことができない。強引に壊してしまうと、決して修復できないバラバラ状態になって氷解すると、そこにはおぞましいバラバラ死体が残るだけになるのだ。
だから、壊すのではなく、解かすしかない。これは普通に考えれば凍っているものに対しては分かるというものだ。
しかし、男女間で凍り付いた関係というものは、凍り付いていることが分かっているくせに、それでも強引に壊そうとどちらかはするものだ。相手がそれに気づいて止めてくれればいいのだが、相手がそれに気づかず、いや気付いてはいるが、わざと気付かぬふりをして止めさせないかで、修復ができるかできないかが決まってしまう。
特に、お互いに温度差があれば、気持ちは完全にすれ違ってしまう。
「壊してしまえ」
と、痺れを切らす人もいるだろう。
男女間で特に夫婦間ともなると、
「今までは一番話しやすいと感じていた相手が、今では一番顔も見たくない相手に変わっている」
という考えになることも得てしてあるもので、顔も見たくないという意味に二つが考えられる。
一つは本当に顔を見たくないほど、相手を憎んでいる場合であり、もう一つは顔を見るのが怖い。つまり、今までに見たこともないような恐ろしい顔を見るのが怖いという考え方である。
後者を感じた時、臆病風に吹かれてしまうと、本当は暖めてから解かさなければいけない状態なのに、思い余って壊してしまおうと思うかも知れない常態に陥りそうになる。
いや、それよりも暖めるにしてもゆっくりと暖めなければいけないものを、急激に暖めてしまえば、壊すのと結果は同じである。要するに刺激が強すぎるのだ。
どんなに硬いものでも、急激に冷やして、その後に急激に暖めれば、フニャフニャな状態に陥る。修復不可能な状態に陥るのは、凍らせた状態で叩き割るのを同じことである。物体には耐えられる限界点というものがある。刺激を与えすぎると、耐えきれなくなるのは当たり前というものだ。
川島が離婚を言い出したわけではない。思い余って奥さんの方から言い出したのだが、後から考えると、
「女房は最初から離婚を考えていたのかも知れないな。その兆候が、話さなくなった時くらいからだったのだろうな」
と感じていた。
あの頃はまだ、何かあれば相談してくれるなどと、まるでお花畑にいるようなおめでたい精神状態だった自分を思い、顔から火が出るほどの恥ずかしさであったが、
「本当に離婚は、結婚の何倍もきついというが、経験してみないと分からないことだよな」
と、感じていた。
また、これは一般的な話として言われていることであるが、
「女性の方がギリギリまで我慢して、男性は女性が我慢していることに気付かない」
ということを、この離婚の時に思い知らされた気がした。
途中話さなくなったのは、どうやら夫の何かに我慢ができなくなって、話すのも嫌になったのだろう。ひょっとすると、夫が気付いてくれるのではないかと思っていたのかも知れない。
それでも、夫の方は、
「何かあれば、女房の方から話をしてくるだろう」
と思っていたのだから、もうこの時点で完全に平行線である。
決して話をしてこない旦那に、妻はついに愛想を尽かし、旦那がいきなりと思ったタイミングで離婚を切り出してくる。
旦那にしては、青天の霹靂だったに違いない。
「おいおい、何をいきなり言ってくれてるんだよ。順番が違うだろう」
と言いたいが、あまりにもいきなりのことで言葉にも出ない。
最初に言葉に出せなければ、次に言葉が出てくることはないのは分かり切っていることだった。今ここで言葉が出てくるくらいなら、最初から夫は話をしてくれていたはずだからである。
女はそこまで分かっている。なぜなら自分一人で悩んで一人で勝手に結論を出したのだからだ。
妻の方とすれば、
「どうして私が悩んでいるのに。無視するのよ」
と思ったことだろう。
「妻の方でも自分が悩んでいる時にこそ、声を掛けてくれるのが旦那というものではないか?」
と思っているからである。
だが、こういう時の男性ほど、妻なら分かってくれると思っているし、妻の方も、旦那なら分かって当然だと思っている。お互いに相手に甘えているのだろうが、一緒に悩む機会があり話し合う機会があれば、また少しは違うのだろうが、最初からのスタートがそもそも違っているのだから、最初から、修復は不可能だったと言えるのではないだろうか。
「結婚なんて、人生の墓場だ」
と言った人がいたが、結婚生活でこのような状況に陥ってしまうと、その時点で棺桶に足を半分突っ込んでいるのと同じことなのであろう。
知り合ってから結婚するまでは、あまり問題はなかった。順風満帆に結婚にまでこぎつけた。反対する人もおらず、
「幸せな二人」
として、皆に祝福された。
だが、いざ離婚となると、その時に祝福してくれた人たちに合わせる顔がない。もっとも、その人たちのために結婚したわけではないので、そんな気を回す必要もないのだが、男はそうでもないとしても、女性の方ではどうなのだろう? いや、最初の時点で、完璧に離婚を考えてからの行動だったので、そのあたりの覚悟はできていたことだろう。
「それにしても女性というのは恐ろしいもので、どうして、何も言わずに話し合いもすることもなく、離婚に踏み切れるんだろう?」
と、旦那の方は思う。
まさか、女性の方から離婚を言い出した時にはすでに、その腹は決まっているなどということを考えもしないからだ。
常に一緒にいて、一緒に考えて、何かあったら相談してくれるものだと思い込んでいるのは、旦那のエゴであろうか? だとすれば、相手に何も言わずに勝手に考えて勝手に結論を出すというのはどうなのだろう? あくまでも男性の立場からの話なので、女性側にも言い分があるのかも知れないが、スポーツであれば、
「フライング」
であり、重大なルール違反なのではないだろうか。
結婚生活をスポーツのルールに当て嵌めていいものかどうか分からないが、結婚というものが、ちょっとしたことで一気に破裂してしまう危険性を孕んでいるということに気付いていなかったどちらにも原因はあるのかも知れない。
もちろん、不倫であるとか、DVのような離婚に値するれっきとした理由があり、それが慰謝料に結び付くような話であれば、また別である。第三者として弁護士や法律相談に掛け合うなどの問題があるからである。
川島はそんな悲惨な離婚というものを経験した。それが二十六歳の時であり。本当であれば、
「まだまだ若いんだから、他にいい人が現れるさ」
と言われて、その気になることができる年齢である。
今の時代、
「バツイチ」
などというのは、そんなに珍しいものではない。結婚する人が減っているのに、離婚率は上がっているというではないか。
ひょっとすると離婚を経験しているくらいの相手の方が、お互いに一度失敗しているだけに、相手を考えられると言えるかも知れない。
しかし、実際に自分のまわりに離婚した人は、一度でも離婚したことのある人が多いような気がする。
「離婚って、連鎖するのか、それとも言い方は悪いけど、癖になるのだろうか?」
と考えたこともあった。
だが、結婚する時はどうしても相手に甘えてしまうところがあるのか、それとも一度失敗しているから、自分がしっかりと考えていると思い込んでしまっていて、結果として自分のことばかりしか考えていないことになり、相手をおろそかにしてしまい、最初の離婚と同じことを繰り返してしまうのかも知れない。
二度目の場合は、それこそ理由に気付くのは難しいかも知れない。二度も失敗すれば、少々図太い人であっても、ショックを隠し切れないだろうし、
――もう二度と自分に合う人は現れないんじゃないか――
と思うことだろう。
それよりも、
「もう女なんてこりごりだ」
と思うことだろう。
そうなってしまうと、ある程度の年齢になってくると、独身者が増えてくる。それは男女ともに同じなのかも知れない。再婚者同士のお見合いパーティ専用のところもあるくらいなので、それも当然のことであろう。
そんな川島は、離婚して一人になると、女性に対しての不信感は大きくなってきた。
それはそうであろう。いきなり離婚を切り出されて、訳の分からないうちに、まわりから離婚促すような話をされれば、結婚に対しても怖いと思うというものだ。
まわりに対して、彼の相談に乗ってあげるという名目で、離婚について承諾するように匂わせているのは、明らかに女房なのだ。そんなあからさまなことをしてまで離婚したいというのであれば、さすがに男の方も身体のすべてから力が抜けていくというものだ。
何しろ、相手が離婚を口にした時には、すでに相手の頭の中には離婚しかない。どうすれば波風立てずに離婚できるかということしか考えていないのだ。別に離婚に対しての表立った理由があるわけではないので、女房の側からすれば、別れらればそれでいいのだ。
理由は、
「性格の不一致でも何でもいい」
と思っていたことだろう。
旦那の方からすれば、どんなことをしてでも離婚したいと思っている相手に対して、いまさら理由を聴いても同じなのだろう。旦那の方としても、身体の力がすべて抜けてしまった時に、ある程度覚悟はできたのだろう。
ただ、あまりにもいきなりだったことが気に入らない。完全な不意打ちであり、卑怯だとしか思わないからだ。
女性の側からすれば、
「あなたが気付いてくれなかったから悪いんでしょう」
とでも言いたいのだろう。
だが、離婚する夫婦の間に立った人が言う言葉が必ずある。
それは、会話の問題で、
「会話がなくなれば、それは危険信号であって、相手が何も言わなくても分かってくれるなんて思っていたら、もうその時点でその二人はすれ違いが見えることになるから、よほどのことがなければ修復は不可能だね。しかも、一度修復できたとしても、すぐにほころびてしまって、今度は本当にダメになる。問題を根本から解決しないとダメなんだよ。その問題というのは、会話を少しでおできるようになることであって、それができないと、根本的な解決にはならないから、また同じことを繰り返す。そうなると傷口はさらに広がるし、子供ができていたりすると、取り返しのつかないことになる可能性だってあるんだ。まだ子供もおらず、年齢的にも若いということで、ある意味よかったと思わないとね」
と言われたものだった。
「そんなものなのかな?」
と川島は漠然として聴いていたが、時間が経つにつれて、その言葉の意味が分かってくるようになった。
「それはそうだよな」
と、今でもたまに独り言ちるのである。
二十六歳で離婚してから、
「まだまだ若いんだから」
ということで、自分の中では三十歳くらいまでに結婚相手となりそうな人が見つかるという意識を川島は持っていた。
しかし、ここからの四年というのは、後から考えると長かったように実に短い四年間であり、気が付けば三十歳など、あっという間に過ぎていた。もっとももっと短かったのは四十歳までであったのだが、それは、誰にでも言えることだったようであった。
三十歳になっても、なかなか彼女もできず、自分ではまだ余裕のつもりであったが、精神と身体のバランスが次第に崩れてくるのを感じていた。
精神的にはまだまだだと思っていても、身体の寂しさは如何ともしがたく、その身体の寂しさが、今度は精神面に影響してくるのではないかと思うと、彼女ができないことよりも、身体の我慢が焦りに繋がるのではないかと思うようになった。
もう一つ気になってきたのが、年齢を重ねるごとに、自分の女性の好みというのが曖昧な感じがしてきて、定まっていないのではないかと思えてきたことだ。
「だから、彼女ができないんだ」
という当たり前のことに、三十歳を超えてやっと分かった。
「ひょっとすると、前の女房も好みだと思っていたが、実は違っていたのかも知れない」
と感じたが、あの時点では最高の女だと思っていたのは間違いない。
では、
「別れたことで恐怖を感じ、それまでは理想の女性だと思っていたものが、急転直下し、一番苦手なタイプとなってしまったのではないか」
と考えたことだった。
そんな相手のことを思い出すだけで恐ろしいくらいだが、今では、
「あの頃の自分とは違う」
と思うようにもなっていた。
ただ、いい方に違うというわけではなく、むしろ後退してしまっているのではないかと思うようにもなっていた。
三十歳になってから、ますます性欲の方は強くなってきたような気がする。セックスをする相手がいるわけでもない。それまでは夜の街に繰り出すこともなく、いわゆる
「遊び」
というものをまったく知らなかった。
思い出すのは大学時代に穿破緒から連れていってもらい、一時期嵌った風俗のことだった。
「久しぶりに行ってみるか」
と、学生時代ぶりということになるので、約十年ぶりということになる、
そもそも風俗も最初は先輩から連れて行ってもらったが、それ以降は必ず一人で行っていた。誰かと一緒に行くのは、何か恥ずかしいという思いもあったが、一人の方が自由だと思うことからだった。
実際に、風俗の待合室などでは、ほとんど皆一人で黙々と待っている人が多かったが、中には数人の団体でやってくる連中もいて、楽しそうにしてはいるが、見ている方はあまり気持ちのいいものではない。そんな団体連中は、まずほとんどと言っていいほど飲んでいる。自分たちが恥ずかしいという思いを抱いているのか、やたらに声がでかい気がする。
しかも、そんな連中は、フリーで、一番短いコースを選択している。
川島は、どんなに短くても六十分は一緒にいることにしていた。フリーで来て、初めて当たる女の子であれば、当たり外れが分からないからだ。その時によくて、もう一度会ってみたいと思った時であれば、その時は九十分のコースを選ぶだろう。ただ、最初か写真で気に入って指名しようと思った女の子であれば、最初から九十分にすることもある。それなりに自分の目を信じている証拠なのかも知れない。
正直六十分であれば、会話はほぼできないと思っていいかも知れない。もちろん、女の子のペースと男の相性にもよるのだろうが、川島の今までの経験から言って、そう感じるのであった。
大学時代はそんなイメージを持って、月に一度は店に通ったものだ。馴染みの女の子などもできて、旧くっぷんを続けたこともあった。基本的に馴染みの女の子ができて、指名を続ける相手はテクニックというよりも会話の楽しさであったり、いつも気遣いが嬉しい相手だったりした。他の人がお気に入りを作る発想と同じなのか違うのかは、実際には分からなかった。
三十歳になって、身体が寂しさを感じ始めると、また風俗通いを始めるだろうということは分かっていた。気持ちが大学時代に戻ってくるからである。風俗で何が楽しいかというと、一番楽しみなのは、店に行くまでであった。
前もって予約を入れておけば、待合室でさほど待たされることはないが、予約も何もせずに行くと、下手をすると二、三十分は待たされることもある。待ちたくないと思っている時は最初から予約をしていくが、予約をしないでいきなり仕事をしながら、昼過ぎくらいに、
――今日、仕事が終わって行ってみよう――
と思うこともあった。
そんな時は予約をしない。してもいいのだが、しない方が楽しみが徐々に膨れ上がってくるようで、お店に行って初めてどの子が空いているか分かるというもので、その楽しみもあったのだ
店に行くと、待合室には誰もいないなどということはまずない。少なくとも四、五人はいるだろう。そのほとんどはタバコを吸うので、待合室は白い煙に包まれてしまった。喫煙をしない嫌煙家の川島としては、勘弁してほしいと思うところであった。
(もっとも、令和二年から、法律で室内は完全禁煙になったので、その心配はなくなったのだが)
普段は馴染みの女の子がいて、その子を目当てにくるので、急に仕事をしていて行きたくなった時は、まるで別の店に来た時のような気がした。逆にそう思わないと、いつものお気に入りの女の子に入らないという気持ちを持って待合室にいる時は、普段と同じ気分だと辛く感じるような気がするのだ。
しかも、別の店だと思わないと、馴染みの女の子を他の人に取られた気がするからだった。
それはその時間になって予約を入れようとしても、すでに希望の時間を取れない可能性が大だからである。
好きなタイプの女性を他の人に取られたという感覚で、同じ店に行くのは辛い気がするし、さらに好きな女の子を独占できない自分が別の女の子に相手をしてもらうというのも、何か浮気をしている気がして、そちらも気が引ける。
「風俗なのだから、そんな律義な恋人関係の気分になる必要もないはずなのに」
と思うのだが、あくまでも精神的な意味では風俗といえども、疑似恋愛のイメージを持っているので、そこは譲れない気がしていた。
だが、指名しようがフリーでどの子に入ろうが、一番楽しみなのは、行こうと決めてから店に入るまでの時間であった。
その間には、考えなければいけない他のことがある。仕事などが一番なのだが、その大切なことを考えながら、ドキドキとした漠然とした時間が過ごせるのは、実に楽しかったのだ。
受付を済ませ、待合室に入ると、フリーの時はしばらく待たされるのは、どうしても仕方がない。本当に三十分以上のこともあるのだが、他のことをしていれば、時間というのはあっという間に過ぎるというもので、川島は買っておいた文庫本を開いて待つようにしている。
他の人はスマホの画面を一生懸命に見ている。スマホに変えたはいいが、その利用法に疑問を感じていた川島は、スマホをほとんど見ることはなかった。基本面倒くさがりだった川島は、スマホになる前のケイタイも、ほぼ通話かメールをちょっとするくらいだったので、基本的にパソコン派だと言っていいだろう。
――皆、一体何をそんなに一生懸命に見ているのだろう?
と思っていた。
ケイタイの時もそうだったが、若い連中だけではなく、スーツを着た中年のサラリーマンまでもがケイタイをいじっていて、何をしているんだろうと思ったものだ。
だが、川島は自分で本屋に行って、読みたいと思うような本を実際に手に取って見て、そして買ってくるのだ。アナログと言われるかも知れないが、それでもいいと思っていた。
そんな川島がよく読む本は、大正末期から、昭和初期にかけての探偵小説だった。何が楽しいと言って、一番の楽しみは、時代の違いであった。
トリックなども、多彩である。今の時代であれば、警察の科学捜査も発展してしまっているので、当時の犯罪トリックはほとんどと言って通用しないであろう。
例えば、
「死体損壊トリック」
というものがあるが、これは、
「顔のない死体のトリック」
とも言われ、首を切り取ったり、顔をメチャクチャに傷つけたりして、さらに手首を切断してしまえば、指紋照合もできず、身元を確かめることができない。
そのため、よく使われた法則として、
「被害者と加害者が入れ替わっている」
というものがあった。
犯人を被害者と思わせることで、犯人は死んだことになってしまい、決して捕まることはないというものである。
今の世の中では少し非現実的だ。一人の人間がいくら罪を逃れるためとはいえ、この世からいなくなるという設定だからである。
実際にそうなってしまうと、精神的に耐えることができるのだろうか。ドラマなどでは必ずどこかで綻びが出て、いずれは見つかってしまうという話になっていることが多いような気がしていた。
しかし、もっと現実的な話をすると、現代の科学犯罪捜査の上で、死体損壊というトリックはまず成立しないだろう。
昔のようにいくら顔を隠しても、指紋照合に使う手首を切り取ったとしても、今では髪の毛一本からでもDNA鑑定ができる時代なので、死体をどんなに損壊させても、このトリックは成立しない。
もし、死体が見つからないように燃やしてしまうなどすれば、そもそも、
「犯人と被害者が入れ替わっている」
という状況を作り出さなければいけないということで、この方法は本末転倒でしかないのだ。
そう思うと、今の時代に死体損壊トリックは通用しないということになり、他のトリックも同じように通用しないものも多いだろう。
アリバイや密室トリックにしても、今では、どこにでも防犯カメラなどがついている。カメラの映像を見れば、犯人が映っている。映っていないというのは一目瞭然で、これもかなり制約を受け、トリックの幅がかなり狭まるのではないだろうか。
もっとも、それを逆手に取って、新たなトリックを考えるというのであれば、画期的ではあるが、それもなかなか難しい、
川島が読んでいる時代の探偵小説の時代であっても、
「もうすでにトリックというもののパターンはあらかた出切ってしまっているようだ。これからの探偵小説は新しいトリックを見出すというよりも、既存のトリックをバリエーションを利かせて、ストーリーを組み立てていくことが大切なのではないだろうか」
という評論をしている先生もいた。
確かにそうだろう。
今のドラマに見られる殺人トリックで目新しいものはほとんどない。
設定やバリエーションをどこまで広げることができるかということで、ドラマを膨らませることができる、中には、
「二番煎じだ」
というトリックもあるが、それを盗作と言ってしまうと、そもそももう探偵小説などはそれ以上の新作が現れることがなくなってしまう。
そういう意味で、ある程度の柔軟性も必要で、新たに書く人もいかに同じトリックを使った自分以前の作品との違いをハッキリさせておかなければ、面白くない作品というレッテルを貼られたり、さらに、盗作などと言われる可能性を考えなければいけないということで、いよいよ制約の面で、探偵小説の幅が極度に狭まることも懸念される。
だから、川島は新しい作品を読もうとしない。あくまでも、昔の作品を読むのが自分の読書だと思っている。
しかも、時代が今とはまったく違った世界で、今はない軍隊などというものが存在していて、実際に戦争が行われていた。
当時の戦争は全世界に波及していて、戦争のない地域はほとんどなかったと言ってもいいのではないだろうか。
植民地時代であり、国家の弱肉強食の時代である。
戦争というと、
「人を殺すこと」
という観念が、今と決定的に違う。
当時は戦争という名の下に、戦場では殺し合いが行われていた。一日に何十人も撃ち殺し、爆弾でバラバラになった死体なども見ることがあっただろう。
しかし、小説の世界ではどうだろう。これは今の時代とあまり変わっていないのではないだろうか。誰か一人が殺されたとして、必死になって犯人追求に燃えるのは今も昔も同じだ。
しかも、復讐関係に関しては、今よりもひどいのではないだろうか。
「俺はこの復讐に自分の人生を掛けているんだ。お前たちの一族を、子孫に至るまで根絶やしにしてやる」
などというおぞましいセリフが聞かれるが、それだけ執念深いということであり、人情に関しては、今よりもよほどすごい時代だったということを示している。
それが、大正末期から昭和初期のまさしくそんな時代だったのだ。
これから指名した恩の子とドキドキした時間を楽しもうというのに、何という本を読んでいるんだという声が聞こえてきそうだが、三十歳を超えてからの川島は、こういう店にくると、何かアブノーマルな発想が頭をよぎるのだった。
音楽でいえば、ロックのリズムといえばいいのか、幅広いジャンルではあるが、その中にはどこか挑戦的で攻撃的な感情を持っている。歌詞にしても、セックスに関してのものや、体制に対する反乱であったり、政治や社会問題を浮き彫りにするようないめーひをm芸術的に哲学的に表しているのがロックというジャンルである。
風俗においてのセックスは受け身だと思われがちだが、女の子の反応を見ることで攻撃的であったり、反抗心などが頭をもたげて、自分も受け身だけではなくなってしまっていることに気付かされる。相手がそれを喜んで受け入れてくれるそんな関係が、恋人とのセックスにはないのだ。
お互いに何かを求めている。それは決して二人だけの世界ではなく、愛情という感情が一人よがりではないことを教えてくれる。
ただ、それはあくまでもその時だけのことであって、決まった時間が終わってしまうと、普段の自分に戻ってしまう。
「時間が決まっているのも、愛情を感じることに制限があることで、感情の高ぶりが尋常ではないのかも知れない」
と感じた。
音楽というものは、制限がある、決まった音階の中で、ある程度の時間にも制限があり、ジャンルごとに奏でる音楽が決まってくるのだ。
ただ、この制限があることで、高度な演奏技術を目指すことで、どのような幻想を抱かせるかが決まってくる。音楽というのは、幻想が見せる芸術だと言えるのではないだろうか。
ロックの始まりは、アメリカで一九六〇年代に流行したロックンロールあたりからではないかと追われている。
その頃に体勢に対する反乱、宗教的な面での反発などがあったようには思えず、あったとすれば、さらに昔のヨーロッパであり、まさにクラシックの時代ではないだろうか。そう思うと、一見、クラシックもロックもまったく違ったものに見えるが、どこかに共通性があり、ひょっとすると、お互いに足りないところを補おうとする感情があり、それゆえ、相違点が多く見えるのではないかという考えも成り立つ。
例えば、ロックは歌詞が重要な意味を持ち、歌詞によって音楽を表現しようとするので、そのメルディは、歌いやすいように作曲され、アレンジが加えられているように思える。しかしクラシックの場合は、オペラなどの歌劇音楽でもない限り、そのほとんどがインストロメンタルである。いわゆるインストロメンタルと言われる器楽曲であり、クラシックの中でもピアノ独奏などではその表現がピッタリだ。
だが、クラシックの音楽は、オーケストラが集まって、同じ楽器を何人もの人が演奏し、コンダクターによってコントロールされることで成立している、
聴きようによっては、同じ楽器がそれぞれに違った音を奏でているようで、そこがオーケストラの醍醐味だと感じさせ、クラシックのダイナミックさを表現しているのではないかと川島は感じていた。
クラシックが奏でる芸術は、幻想音楽をいかにダイナミックに見せるか、それが宗教と結びつくことで、まるでこの世の人の叫び声のように聞こえると思うのは、考えすぎであろうか。
宗教的な発想をロックに対して抱くことができれば、ロクッとクラシックとの融合を考えることができるのではないかと思う。どこかに宗教的な幻想が見え隠れしているロックがあれば、それはクラシックを基調に書かれた作品ではないかと思えるのだ。
それは歌詞というだけに限らず、メルディとしての旋律でも生かされるものである。旋律とメロディは同じ意味と捉えられる。大筋では同じ意味だと言ってもいいのだろうが、川島の中では、それぞれに含みを持たせて考えると、違う方向に膨らみを見せているようで、そのふくらみの違いが、ロックに幅の広さを持たせているのではないかと思うのだった。
風俗嬢が与えてくれる至高の喜びは、決まった時間の間にどのようなバランスという時間配分を使い、いかにお互いを高ぶらせることができるかが、重要な気がした。
「お金を払っているのだから、こっちが気持ちよくならなければ意味がない」
と考えるのは間違いで、
「お金を払っているのだから、お互いに盛り上がって、最高の営みから生まれる最高の感情を生み出すことが一番の快感だ」
と言えるのだと思う。
そういう意味で風俗に通っていると、
「もう結婚なんてしなくてもいいかな?」
と感じるようになってきた。
その感情が、次のステップへと移行していく……。
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