川田樹 五
「人魚の木乃伊ねぇ……」
所轄から来た、高梨とかいう名前の巡査は、本当に興味のなさそうな声で言った。
僕らは、盗難があったという甲禅寺の本堂に、車座に控えている。僕に由芽に黒崎教授、それから住職に、寺務職員の千里さん。この人は住職の息子の妻で、副住職である息子さんは外向きの法要に忙しく、最近はよく寺を空けるらしい。朝の掃き掃除や法事の受付などは、皆この千里さんが担当しているのだそうだ。千里さんの横には、近所から手伝いに来ているという安田さんという六十過ぎの作務衣姿の男性。庭の手入れや本堂の修繕などは、この安田さんが一手に引き受けている。千里さんと安田さんについては、僧籍がない。
高梨巡査の背後には、女性警官――たしか、遠間とか言ったように思うけれど、この人が仏壇の前に膝をついて、頻りに写真を取っている。高梨巡査は三十を超えたくらいで、遠間巡査はそれよりも五歳は若そうだった。年齢的には、僕や由芽の方が近そうだ。
遠麻巡査が撮っているのは、両手で抱えるくらいの大きさの桐匣で、昨日見せてもらった人魚の木乃伊の寝床になっていたものだ。それが、開いている面を横にして、畳の上に転がされている。落とし戸は「開かれる」ではなく「剥がされる」と言った方が正しいのだろう。乱暴に引きちぎられた木片が、ちょっと離れたところに打ち捨てられてあった。
盗まれたというくらいだ。当然、中には何もない。敷布団代わりだった白い布が、ぼろぼろに千切れて食み出でているだけだ。そして、その布は何らかの液体で、しとどに濡れていた。液体は箱の外にも垂れていて、畳の上に黒々とした染みを作っている。
なんだか、嫌な臭いだった。畳の湿った臭いではない。もっと臭い――穢い、何か。どろりとした透明で粘り気のある、密度の濃い嫌な液体だった。遠間巡査も顔を顰めて、
「先輩――これ、何でしょうね」
と訊く。高梨巡査は、うんん? と間の抜けた声を上げながら振り返り、
「生臭いなあ。スーパーで売ってる魚のさ、ほら、あの白いスチロールの入れ物。あれに溜まった水って、こんな臭いするよね」
と、冗談とも本気とも付かぬことを言う。真面目に取り合っていないのは明白で――まあ、それも仕方がないことかも知れない。いきり立っているのは寺の住職くらいなものだ。黒崎教授も、さすがにこればっかりはどういった顔をして良いのか分からず、間に合せの神妙な面持ちで、僕らの横に控えている。
さてさて――と、高梨巡査はメモ帳片手に僕らに向き直った。
「最初の方から整理させてください。まず、盗まれたのはこの甲禅寺から見つかった人魚の木乃伊。これは三週間前に、こちらの寺にある人形堂の大清掃の際に偶然、見つかったもの。それを昨日、黒崎教授と――ええと、学生である杠葉さんと川田くん、そして藤本教授が調査に来た、と。黒崎教授、杠葉さん、川田くん――お三方とも、ここに来るのは初めてですね」
その通りです、と三人を代表して黒崎教授が肯いた。僕も由芽も、要らぬことは言うまいと、黒崎教授が発言した時だけ、顔をうんうん頷くように二人で申し合わせている。高梨巡査は黒崎教授に向き合って、
「人魚の木乃伊のことは、どうやって知ったのですか?」
と訊いた。僕らを疑っているというよりは、他に訊くことがないから、てきとうに外堀を埋めているようにしか感じられなかった。黒崎教授は少し間を置いて、
「最初の連絡は、藤本教授からもらいました。彼が上信大学の教授になる前からの知り合いで、お互いの研究テーマについてもよく知っているのです。遺物への信仰というところで同じものを研究の対象にすることもよくありますから」
「黒崎教授は崇縁大学の教授でしたね。遠路はるばる、ご苦労さまです」
変なところで労いの言葉を挟みつつ、高梨巡査の質問は続く。
「藤本教授から人魚の木乃伊の話を聞いたのは?」
「二週間は前でしたね。住職から、人魚の木乃伊についての鑑定依頼が来た――と。住職、そうでしたよね?」
間延びした問答に苦虫を噛み潰したような顔をしていた住職だが、黒崎教授に訊かれると即座に居住まいを正して、
「そう――見つけてすぐ、藤本教授に連絡した。ああいう、よく分からぬものが出てきたで、どうすれば良いか分からんでな。取り敢えず、大学のセンセイなら適切に対処してくれるだろうと思って、電話したんじゃ」
「藤本先生にコンタクトを取ったのは? 大学ならこの近辺にもあるでしょう」
「彼は、ここの出身なんじゃよ」
高梨巡査の問いに、さらりと答える住職。昨日の僕らへの物腰とはうって変わって、だいぶ砕けたものになっている。藤本教授の出生に関しては黒崎教授も初耳だったと見え、僕の横から、へえ――と呟きが漏れていた。
「藤本先生が、ここの出身だとは――いや、不思議だとは思っていたんです。自分のいる大学から、えらく遠方の人魚の話を聞きつけてきたなぁって。そうか、ここの生まれだったんですね」
「藤本先生の家は、それなりに古くてね。甲禅寺の壇家の一つです。藤本家とは特にご縁が深くて、何世代も前からこの寺を経済的に支援してくれていました。彼の家の先人は、全てこの寺で供養させていただいています」
教授への物腰には丁寧さを保つ住職。藤本教授との縁を通じて、大学関係者には尊崇の念があるらしい。黒崎教授は、なるほどなあと頻りに感心しつつ、
「いやね、昨日、こちらに伺った時に藤本教授、妙にこのお寺の地理に明るいなあと思ったんですよ。トイレの位置とかね、住職に尋ねる先から教えてくれましたから」
「子供の頃、よくこの境内で遊んでいたんですよ。今じゃあ立派ななりをした大学教授ですが、子供の頃は相当な悪戯っ子でね。この寺の壁という壁の破れ目という破れ目を熟知して、所構わず忍び込んでいたものです。昨日も、お三方が帰られてから、だいぶ長いこと、思い出話に華を咲かせましたよ」
小さい目ときゅっと細めて微笑む住職。縁の深い人のことになると、つい言葉を継いでしまうようだ。寸時の間を置いて、これは関係ないことをべらべらと――と恐縮しきった顔を見せる。確かに関係ないといえば関係ないけど、苛々されるよりはずっと良かったのに、と僕は心の中に呟いた。
質疑のボールは再び高梨巡査の手に。巡査は今度は住職に向き直って、
「藤本教授から黒崎教授に連絡が入り、昨日の昼過ぎ、ここで人魚の木乃伊のお披露目が行われた。黒崎教授、その場では、どのようなことが分かったんですか?」
「具体的なことは何も――。ただ、継続して調査すると何かわかるかもしれないということと、木乃伊は甲禅寺の所有とし、今その存在を外部に広めるのはあまり宜しくないであろうということと、この二つくらいですね」
「存在を――広める?」
首を傾げた高梨巡査に住職が、
「儂が相談したのじゃ。人魚の木乃伊なんて珍しい――否オカルト染みたものが、この寺にあると聞いて数寄者がやって来るのが嫌でな」
「嫌っつったって――住職、この前、壇家を止める家が続いて、日々の勤めも儘ならんって、こぼしてたじゃないですか」
数寄者の懐から零れ出た不浄など要るものか――と、住職は鼻を膨らませた。高梨巡査はやれやれと首を横に振って、
「それで、調査を終えてから、まずお三方がここを出られたのですね。その後で住職は、藤本教授と話し込んだ――と」
「最初の三十分ばかりは、木乃伊をどのように安置すべきか相談した。結果、この本堂の脇間下手側が風通しも水捌けもちょうど良いということで、そこの箱ごと祭り、小さい祭壇を設えて祀ろうということになった。儂ァ金のことがあるから二の足を踏んだのだが――藤本教授が、是非にというてな。金銭的なことは気にするなと、請け合ってくれたんじゃ」
「それでまあひと段落ついて、思い出話に花を咲かせた――と。その間、人魚の木乃伊はどうしていたんですか?」
「どうしてって――もちろん箱の中に収めておったよ。藤本くんと黒崎教授との間で、明日改まって詳しく調べてみるという同意があったし、その同意を反故にして、儂との縁故を利用して自分だけ先んじて調査するような人間ではなかったからな。木乃伊は、そこの箱にしっかりとしまって、ほれ、そこの須弥壇の前に置いておいた」
住職が視線を送るのは、ここ甲禅寺本堂の内陣に置かれた須弥壇の前。須弥壇の上には小さな厨子が置いてある。須弥壇と前机の間に、箱一個分が入るくらいの間隙があって、そこにすっぽり置いてあると外からは目立たない。前机の手前には向机や脇机、礼盤などが並んでいて、傍には小ぶりの太鼓も置いてある。煌びやかではないが古めかしく、落ち着いた雰囲気を感じさせた。人里を少し離れた小さな檀那寺に、よく合う風情のようにも思えた。
高梨巡査はそれを見ながら、
「朝まで、その形で置いてあったわけですね。藤本教授はいつ頃お帰りに?」
「夕方六時くらいにはここを出た。早急に調べなければならないものがあるで、大学に連絡を入れると言っておった」
木乃伊にこびりついていた、布片のことだろう。あれを検査する算段を、早々に付けたらしい。さすが黒崎教授と肩を並べるだけあって、とにかく仕事が早い。
「それで――その後は?」
「本堂は施錠して、寺務所に戻った。うちは寺務所と庫裏を同じにしておるで、後はそこで飯を食い、もう一度本殿に赴いて夜の勤めを終えたのが二十一時過ぎ。明日もこの方々がいらっしゃるで、早めに床を取って休んだよ」
「最後に本殿を出た時、鍵は――」
高梨巡査に最後まで言わせず、もちろん施錠はした――と住職。
「最近は物騒じゃて、戸締りは二人の目で確かめることになっている。昨日は、千里さんと二人で確かめた。――なあ、そうじゃったろ?」
住職に呼びかけられて、千里さんは、はい……と力なく答えた。委縮しているのか元から引っ込み思案なのか、とにかく居心地が悪そうである。高梨巡査はボールペンの尻をカチカチ言わせながら、
「それで今日の朝、本堂を開けたら盗まれていた――と。昨夜は風も強かったし、不審な物音と言っても――」
住職も千里さんも安田さんも、一様に下を向いて自信なさげである。高梨巡査は頭をガリガリ掻いて、
「しかしなあ、人魚の木乃伊なんて、そんなものを――失礼、盗むような物好きがいますかねえ。そりゃ珍しいかもしれないけど、学術的な価値があるわけじゃないんでしょう」
「学術的価値があるかどうかも含めて、これから調査するところだったんです。藤本先生と一緒にね」
「そういえば、藤本教授、来ていませんね。住職や黒崎教授の方に、何か連絡は?」
二人して首を横に振る。ここまで来て改めて藤本教授の不在が論われるくらいだから、本当に弛緩した現場検証だ。盗まれたものがものだから、本腰入れてかかる気になれないのも仕方がないことだろう。だが少々――薄気味悪い。
昨日は雨が降っていた。匣がここにあるということは、盗んだ誰かは人魚の木乃伊を剥き身で抱いていたのだろう。異形の乾物を脇に抱え、夜道を走る影。生命の影を宿していない塊に、ひたりひたりと雨粒が当たる様を想像すると、背筋に嫌な冷たさがこみあげてきた。
「変と言えば変ですね。約束の時間を忘れるような人ではないはずですが」
黒崎教授も顔を顰めている。それに――と、横から口を挟んだのは由芽だった。
「わたしたちが来る前から、駐車場に一台、車がとめてありました。黒のセダンだったと思うけど……このお寺のものですか?」
「いや――この寺の車は、倅が外向の勤めで三日ほど前から使っておる。儂と千里さんは寺務所で寝泊まりしておるし、安田は、家が近いで自転車で来る」
「それじゃあ、あれは藤本教授の車? いや、でも変ですよ。住職から連絡を受けて僕らが来た時には、参道手前の駐車場には一台しかとまってなかったし、なんちゃらレンタルって横に描かれた軽自動車でしたよ?」
それ、我々の車です――と黒崎教授。僕も由芽もそろって頷いた。住職は、僕らが寺に着く前に紛失に気付いて電話連絡しており、高梨・遠間巡査がおっとり刀で駆け付けたのは、僕らが来てから十五分後くらい。駐車場から本堂までの参道は早足で行けば五分程度だから、車が消えたのは十分ほどの間隙のうちということになる。
「怪しいですね――。藤本教授」
「藤本君が、人魚の木乃伊を持ち出したとでもいうんですか? そんな馬鹿な――」
疑いをかけるのすら愚か、と言わんばかりに首を横に振る住職に、高梨巡査は、
「いや、だってですね。子どもの頃、ここに出入りして、抜け穴とかにも詳しかったわけでしょ?」
「子どもの頃の抜け穴なんぞが、まだ残っているはずはないし、長身痩躯の彼に通り抜けられるはずがなかろう。それに藤本君が出入りしていたのは本堂じゃなくて、横の人形堂の方じゃよ。危ないからよく𠮟っておったがな」
人形堂――。
そういえば、そんなものもあったな。
一顧の機会さえ与えられずに否まれ、高梨巡査は不満そうである。
「でも、でもですよ。その人魚の木乃伊とやらの存在を知っているのだって、ここにいる皆さんの他にはいないわけでしょう。それが盗まれたという時になって、姿を現さない――やっぱり、怪しいじゃないですか」
いないというだけで疑いをかけるもんじゃない――と、叱り受けるように住職が言う。
「大体、あんたは藤本君に会ったこともないというのに――。彼にも何かしらの事情があって、やむを得ず引き返したということだって考えられるじゃろうが」
それにしたって連絡の一個くらい寄越すでしょうよ、と、高梨巡査も低テンションながら執拗に食い下がる。僕らの中で居た堪れない気持ちだけがぐんぐん上がっていき、これから先のことを思うと気が重くなる一方だった。
そのとき、
「――人形堂」
ぽつねんとした、しかしよく通る声が、巡査と住職の諍いを止めた。
全員が振り返る。僕も首を捩じって声の主――千里さんを見た。
「千里さん、今なんて――」
住職が怪訝な顔で問う。千里さんは住職にも巡査にも、僕にも黒崎教授にも視線を送らず、本堂を漂う気まずい虚空を睨んだまま、
「人形堂に――何かいる」
とだけ言って、顔を伏せる。その後は、クラゲのようにぐにゃぐにゃしてしまって、何を問うても強く揺すぶってみても、何ら反応を示さないのだった。自重を支えることすら難儀であるらしく、遠間巡査の支えなくしてはその場に横たわってしまいそうだ。
「住職、これは――」
高梨巡査の呟きに、答えるものは誰もいない。僕らの頭の中には、人形堂という言葉だけが、不吉な響きを伴っていつまでもこだましている。
息苦しい沈黙に陥りそうになる中、口火を切ったのは黒崎教授だった。
「とりあえず、ここで話し合っていても埒が明かない。藤本教授の不在は気になりますが、千里さんが、人形堂に何かがいるというならそれも捨て置けないでしょう。どうですか? とりあえず皆で、まず人形堂の方を確認しに行っては――」
寸時の逡巡があった後、巡査と住職は顔を見合わせ、それでもそうですね、と立ち上がった。
人魚の贖い @RITSUHIBI
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