川田樹 四
「由芽――どうした?」
ガタガタ揺れる車内で、横に座っている由芽の顔を覗き込みながら、僕は言った。甲禅寺まで、昨日と変わらぬ山道。しかも夜に降った雨のせいであちこちが泥濘んでいて、その足場の悪さは昨日の比ではない。ガタガタどころか、車の左右を掴まれて揺さぶられているような、そんな激しさ。それでいて僕が昨日のように車酔いしないのは、由芽の様子のせいだった。朝から元気がない。顔ろが悪い上、黒崎教授が話しかけても、いつもの背伸びした溌剌さが薄れて、少々生返事の感さえあった。ホテルでの朝食時は、それでもまだ会話に参加していたが、車に乗って甲禅寺に近づくにつて、地蔵のように押し黙って、車窓ではなく足元をじっと見つめ続けている。
黒崎教授は運転に集中し、僕の声に聞こえた様子はなかった。僕は少々由芽の方に体を寄せ、その肩をつんつんと叩いて、
「由芽――何かあった?」
と問う。漸く僕の方に顔を向ける由芽。やはり顔色に血の気がない。
身体でも悪いの? と訊く僕に由芽は力なく首を横に振って、
「大丈夫――ちょっと、気分が悪くなっただけだから」
と小さい声で答える。
もう少しで着きますよ――と、黒崎教授。ミラーで僕らの方をちらりと確認しながら、
「すみません。足場が悪いので、どうしても揺れてしまって。杠葉さん、もし辛いようだったら、遠慮せずに横になっていてください。駐車場に着いても、少し歩かないといけないので」
ごめんなさい――とこれまた力なく言って、由芽は僕の方に倒れかかる。そうして僕の太ももを枕にして、黒崎教授に言われたように、本当に横になった。誰よりも戸惑ったのは、僕だった。憧れている黒崎教授の前で、こんな弱さをみせるなんて。その上、僕の方にしなだれかかって来るなんて――。普段の彼女でも、こんな素振りはアルコールが入って陽気になった時くらいしかない。
少しぼさっとした(これも普段と比べると珍しいことだが)髪の間から覗く顔。席に寝転がった瞬間から、目を瞑っている。息はそれほど苦しそうではなく、ただただ、だるそうな感じだった。
特にこれといった考えもなく、由芽の肩に手を置く。瞬間、由芽はびくりと身体を震わせたが、何かを返すわけではなく、僕に肩に手を置かれるに任せていた。
「――お疲れのようですね」
黒崎教授が、僕に話しかける。ミラーからでは、由芽の顔も、僕の手も見えていないはず。僕は寸時の逡巡を置いた後で、
「ご心配かけて、すみません」
と言った。黒崎教授は、いえいえそういうわけじゃないですよ、と大袈裟に否んだ後で、
「むしろ申し訳ないと思っているくらいです。杠葉さんに、変に気を使わせたんじゃないかって。何せ、本当に優秀な学生さんで、助手としてもすごくしっかりしているので――ついつい、同行していただけるという本人の申し出に有難やと肯いてしまったのですが。こちらこそ、川田くんに心配させてしまって、すみません」
今度は僕がいえいえいと首を横に振る番で――と、こんなことをやっていたら、いつまで経ってもこの“いえいえ地獄”からは逃れられそうもない。終いには二人苦笑して終わりになった。
「今回の調査――由芽が付いていくって言ったんですか?」
「ええ。研究室で彼女の研究テーマについて相談していた時に勘付かれたんです」
「勘付かれた――?」
このひとは本当に目ざといんですね――と黒崎教授は笑う。
「僕からは何も打ち明けてないんですよ。机の上の様子から、僕が何かしらのテーマについて大急ぎで調べているらしいって気付いたようなんです。事実、今回の調査は突発的と言うか突貫的と言うか、甲禅寺から調査の許可が降りてから大急ぎで人魚の木乃伊について調べたようなものなんです」
その猛勉強の様子を、由芽に勘付かれた――と。確かに、そういうところには目が効くタイプだ。周囲から何かしらの手がかりを見つけ出し、それらを統合して物事を先読みするのが実に上手い。一緒にテレビで映画を観ていても、由芽の方が大概先にオチに気付いてしまう。同時に、気ぃ使いでもあるから、ネタバレになるようなことは何も言わない。が、何分、僕のほうが一回観ただけでは表層すら理解できないほど鈍いので、ミステリー映画なんかは結局、由芽の解説を待つことになる。
その話をすると、黒崎教授は声を上げて笑った。それから、さすがですね――と続けて、
「杠葉さんのテーマについて相談するより先に、黒崎先生、調査ですか――? ですから。僕としても、別に隠すようなことじゃないから、夏の間に甲禅寺での調査を予定している――と打ち明けました。そしたら、ぜひ自分も同行したい、ということでね。最初は、インターンを募集する気はなかったんですが、どうしても……というものだから、断るに断れず――」
「これまでに、学生を連れて行ったことはあったんですか?」
「あるにはありましたが、大体が近場でね。今回みたいな泊りがけの調査への引率は僕にとっても初めてなことでした。だから、全体募集は最後までせずに杠葉さんと、あと一名と決めていたんです」
「あと一名……その方も学生ですか?」
「僕のゼミの学生で、近藤さつきさんという方です。君たちより一年先輩に当たります。このひとの卒論テーマが偶像崇拝でね。今回の木乃伊に対する信仰に、近いものがあればと思って、杠葉さんから同行を肯かされた時に、もう一人連れて行くなら彼女だなと思っていました。ところが――」
「ところが――?」
連絡が取れなくてね、と黒崎教授。顔を顰めているのが、ミラー越しに見えた。
「出発の三日くらい前に、コンタクトが取れなくなってしまったんです。夏休みで、授業もやっていないでしょう。音信不通になると、こっちからでは連絡の仕様がないのですよ。さすがに杠葉さんだけとの二人旅は問題ありますから、一度は事情を話して僕だけ行くことにしようとしたのですが――強情なまでに、聞き入れてくれなくてね」
「由芽が――へえ」
少々意外な気持ちで、僕の膝を枕にしている彼女の、髪に隠れた横顔を見た。人並みに我が強い由芽ではあるが、相手の事情を斟酌せずに無理強いするほどの我はないと思っていたのだ。相手が尊敬する黒崎教授なら、なおさらである。
意外ですか、と僕の心を読んだようなことを言う黒崎教授。僕は肯く。
「僕も意外に感じました。別に入れ込んで調べていたテーマでもないのに。そもそも彼女の研究テーマはこれからスタートさせようかという段階でしたから。甲禅師の木乃伊に、なぜそこまで執着するか分からなくてね。なんか凄く――焦っているように見えた」
「焦る――」
僕は口を閉ざして考えた。それから訊いた。
「由芽以外の三回生は、もうテーマが決まっているんですか?」
「大まかな見通しが立っている者と、杠葉さん同様にこれから決めていく者と、半々くらいですね。別に、彼女一人が遅れているというわけではないですよ」
「そうですか。でも――」
言い淀んで、窓の外を見た。昨日の夜、ホテルで教授の部屋に入る前、二人で話した時のことを思い出したのだ。
由芽は黒崎教授を尊敬している。何せ、教授のゼミに入るために大学を選んだくらいだ。由芽にとって黒崎教授は好感を持つ異性ではなく、学問の師であり目指すべき存在であり、ゼミの中で自分こそが筆頭に立たねばならぬと強く思っているに違いない。そんなだから、何事においても遅れを取ることを許せないのではないか。たとえ自分一人だけが遅れているわけではないとしても――。誰かであっても何であっても先んじられることが嫌だという、そんな子供じみた心理の表れではないかと、そんな風に思ったのだった。
もちろん、こんなことは黒崎教授にも、由芽にも言えない。部外者の僕が立ち入る内容ではないし、由芽にこんな話をしたら、僕への心象が修正不可能なほど壊滅的なものとなるだろう。事情を知っている分、由芽の焦りは理解できなくもないが、他の誰にも介入できるものではない。由芽自身が自分で切り開いていくしかないことだ。
「今回の人魚の研究――由芽のテーマになりそうですか」
窓の外を見ながら、訊いてみた。黒崎教授は微笑みながら、それは本人次第ですね――と答える。
「残りの大学生活をかけて取り組む内容ですから、素晴らしいものをテーマとしてほしいですね。さっきも言った通り、僕らが研究している分野について、ゼミ生の中でも杠葉さんは非常に優秀です。先行研究にもしっかりと目を通しているし、様々な知識を蓄えてもいます。ただ、そういった優秀な学生が陥る迷いに、彼女もまた直面しているのかも知れません。今回の調査で何かが掴めれば良いとは思いますよ。篠崎さんのためにもね」
そう――ですね。そう返したきり、僕は口を閉ざした。僕の膝を枕にする由芽は、しっかりと目を閉じていて、時折瞼が戦慄いている。車の振動とは関係なく、身体をびくりとさせることもあった。それが眠っているからなのか、あるいは他の理由があるのか、僕には判断できなかった。判断できないがゆえに、この話について、あんまり深くまで踏み込むことを躊躇ったのだった。
いや、もう既に手遅れかもしれないけれど――。
昨日と同じ、参道手前の、既に車が一台置かれている駐車場に着く頃には、由芽もだいぶ元気を取り戻していた。真っ赤な顔で黒崎教授にぺこぺこと頭を下げている様子からは、いつもの由芽が見えて僕もほっとすることができた。一頻りのやりとりの後で、僕らは甲禅寺に続く参道を出発した。
ゴールが見えている分、昨日よりも疲労を感じることなく門前に着いた。と、僕らの姿をみとめた瞬間、大急ぎで駆けてくるのは寺の住職だった。住職は黒崎教授に食い付かんばかりの勢いで迫りきて、目を血走らせながら、あの人魚のミイラが盗まれたことを報せたのだった。
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