杠葉由芽 一

 耳にまとわりつく、ぞわっとした雨音で目が冷めた。

 喉が渇いている。外は雨なのに空気が乾燥している。轟々と唸る、冷たい風。クーラーの風速を、「急速」にしたまま寝たからだ。しかも、風がまともに当たる位置にベッドがある。クーラーがガンガン効いているくせに、布団を首元まで持ち上げて寝ていた。

 口の中に、嫌な味がする。水を飲もうと、布団を取り払った。浴衣は、見事にはだけている。樹と同室とかにならないで良かった。これでも寝相は良い方なんだけど……。

 前をしっかり合わせ、ベッドから降りようとした寸前、背筋をぞわりと撫でる感覚があって、身を強張らせた。

 この感覚――昼間にも感じた。

 甲禅寺を出て、黒崎先生の車に乗る寸前、悪寒を感じた。咄嗟に、周囲を見回してみた。車を駐めたところは窪地になっていて、周りは背が高く、上は雑木林になっている。その林の中に、何かが蠢くのをわたしの眼は確かに捉えていた。相当な距離があったので、薄ぼんやりとしか見えなかったが。逆に考えれば、そんなに隔たりがあったにも拘わらず、その気配は、まっすぐわたしを射捉えていたことになる。

 見えたのは、赤黒い靄のような、影のような、塗りつぶされた輪郭だけだった。それが、木の後から右半身だけを覗かせて、わたしを見ていた。

 樹にも、黒崎教授にも、見えていなかったようだ。わたしにだけ見え、そして感じられた。

 それと全く同じものが、今、背筋をぞわぞわと撫でまわしている。

 誰かが――わたしを見ている。

 電気を点けようかと思った。しかし、手は伸びなかった。暗闇のままでいるのも怖い。一方、電気を点けて、何かの姿が目の前に大写しになったらと思うと、胸が閊えて息さえできない。

 ベッドから降りられない。布団を胸元でぎゅっと持って、目だけ動かして周りを見た。明かりがなくても、目はすっかり闇に慣れきっている。入口の方に目をやると、入ってすぐのところにあるドアが開いていた。奥は洗面所で、大きな鏡がある。わたしの方を向いてはおらず、闇に閉ざされた部屋の片隅を映しているばかりだ。

 その鏡の中に、何かが蠢くのを見た。

 初めは単なる暗がりだと思った。やがてそれが、密度を持っていることがわかった。海坊主のような、のっぺらぼうのような、黒一色に塗られた人型の輪郭――。その中央に、白くて丸いものが一つだけついていて、ころろろと、コオロギの鳴くような音を立てて、動いている。

 白い丸の中央に、小さな黒点――周りに光などないのに、やけにそれが際立って見える。

 それが目玉だとわかるまでに、時間はかからなかった。

 ころろろとコオロギの鳴くような音。はじかれたように、小さな黒点が蠢動し、周りを見回している。

 生気や感情のない、白と黒の対比――。魚。魚の目だ。

 ――魚眼を付けた、黒塗りのヒトガタ。

 叫びたくても叫べない。わたしは風邪のようにガタガタ震えて、見ているしかない。魚眼を付けた黒い輪郭は、驚くほど緩慢な動きで歩き出し、鏡が映す範囲の外に出る。

 そこで一切の気配が掻き消える。

 わたしの背筋を撫でまわす冷たい感覚も消えた。雨音と冷房のうなりだけが響く静寂の中に、わたしは取り残される。

 あれは――何だったんだろう。

 気の迷いか、まだ夢の中にいるのか。

 訳が分からず、頭を激しく振った。心臓が痛いくらいに脈打っている。心を落ち着けるためにも、やはり何か飲まないといけないと思って、もう一度、ベッドから降りようと体を捩じらせた。

 その瞬間、半開きのカーテンが目に入った。その奥には、降りしきる雨に塗りこめられた夜が広がっているはずだった。

 そのカーテンの半開きの空間から――。

 あれが顔を覗かせていた。

 わたしを見ていた。

 何も言わずに。

 ころろろろろと、コオロギの鳴くような音がして、魚眼がぐるりと動いた。

 その黒点の中に、わたしは、気を失いかけてる自分の姿を見た。

 異常に長い指が、カーテンの奥から伸びてきて、わたしの頬に触れた。

 氷のように冷え切って、死体のようにぶよぶよで――生臭かった。

 意識を保っていられたのは、そこまでだった。形を持った影に取り込められるようにわたしは気を失い、恐怖も戦慄も、わたしの潜在意識のドン底にまで送り込まれ、それからあとは、何もわからなくなった――。


 目が覚めたのは、朝だった。

 



 

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