川田樹 三

 大浴場からあがって部屋に戻ろうと廊下を歩いて、部屋の前に由芽を見つけた。ホテルの浴衣を着て腕を組み、何やら渋い顔で腕組みしている。僕を見ると、片眉を釣り上げて、じっと睨むような目つき。これは、機嫌悪そうだ。思い当たることは、ありすぎるほどある。

「ねえ――」

 僕が何か言うより先に、由芽が口を開き、組んでいた腕をおろして僕に向き直る。

「今日、甲禅寺の前で黒崎先生が仰ってたことだけど――あれ、本当?」

 仰っていたこと――僕が無理に同行した理由。由芽と黒崎教授、二人での泊りがけ調査を、僕が不安視していたという、そのことだろうか。それしかないだろうなあ。由芽を不機嫌にする理由で、他に思い当たるものがない。

 ここで下手に問い返しなどしたら、さらに逆鱗に触れることになる。話を引き延ばせば延ばすほど後が怖そうなので、僕は頭に手をやりながら、

「まあ――。そういう気持ちも、多少はあったかな――と」

 煮えきらないなあ、と不満げに呟く由芽。背中まである髪を右手の人差し指にくるくる巻き付けながら、

「わたしと黒崎教授が良からぬ関係になるって――そう思ってたんだ」

「良からぬと言うか何というか――その、まあ、邪推ってことは分かってたんだけど、どうにも、じっとしてられなくて――」

 あのね、と由芽が鋭く切り込む。僕は背中をびしっと伸ばして、ハイと小学生のような返事。

「樹のマイナス思考はわたしも知ってるから、今更どうこう言う気はないけど――そうやって、わたしが行こうとする先にあれこれ気を揉んで、一緒に付いてくるとか、束縛だからね?」

「――」

「束縛は嫌だから。何でもかんでも自由にしていいとは思わないけど、わたし、そこまで奔放なことしてるって自覚はないの」

 それは――そうなのだろう。今回だって調査助手というちゃんとした目的がある。

「黒崎先生は尊敬してる。憧れてる。樹には分かってもらえないかも知れないけど、わたしの中では憧れと恋愛で対象が違うの。黒崎先生は大学でもいっぱいファンがいるけど――わたしは、そういう目で先生を見てるわけじゃないから。黒崎先生との仲を疑うって――それ、わたしも信用されてないってことだからね」

 はい。返す言葉もありません。僕は深く項垂れて、ごめん――と言った。

 由芽の言うことが、たぶん全部正しいのだ。悪いのは全て、僕の邪推。自分に自信が持てず、由芽を信じ切ることができていない、僕の心の弱さ――。

 でも一方――。

 誰にも分かってもらえないだろうが、しょうがないじゃないかという気持ちも少しはある。時折思うのだ。由芽は、僕なんかと住む世界が違っていると。容姿にしても、学業にしても、その人間性にしても、本当に僕が横にいて良い相手なのだろうかと。黒崎教授のような人こそが彼女には相応しいのであって、僕とでは格差が広がりすぎているのではないかと。

 これだって僻みだ。それは分かっている。が――分かっていて自分の気持をコントロールできるんだったら、これまでの人間関係、もっと上手くいっていたはずだ。

 もちろん、こんなこと由芽には絶対に言えない。もっと怒らせるか、失望させるか、傷つけることになる。客観的に考えれば、今回の同行、黒崎教授は好意的に見てくれたけれど、気持ち悪い行動であることは否めない。調査に、助手の彼氏が同行する? 浮気を疑って? カッコ悪い。由芽も、バツの悪い思いをしただろう。

 結局、一人で空回りして、周囲に要らぬ迷惑をかける。全ては僕の、卑屈な性格のせいだ。

 もう一度、ごめんと言って由芽に頭を下げた。十秒ほど、頭は下げっぱなしだった。由芽はその間、僕を見下ろしていたようだったが、やがて溜息を吐いて、もう良いよ、と言った。

「黒崎教授も迷惑そうじゃなかったし、スケッチしてくれてたし――でも、こんなこと、もう金輪際やめてよね。わたしは、そういうつもりで、ここにいるわけじゃないから」

 僕は、かつての由芽と同じく、鞭打ち症に鳴るくらい首を縦にブンブン振った。由芽は、先生が呼んでるから来て――と言い捨てて、僕に背を向ける。

 三、四歩ほど進んだところで立ち止まり、背中越しに僕を見て、でもさ――と口を開いた。

「――来てくれて良かったかも。樹がいなかったら、先生と二人――。緊張しすぎて、わたしが空回ってたかも知れないから」

「――え」

 足手纏がいて助かったってことだよ――と答えて、由芽は少しだけ笑顔を見せた。



 僕らの部屋は、横一列に並んでいた。奥から教授、僕、由芽の順番だ。教授の部屋のドアを由芽がノックすると、中から返事があって、ドアが開いた。黒崎教授が、電話の子機片手に僕らを招き入れる。僕も由芽も入浴を終えてホテルの浴衣姿である一方、黒崎教授は上着を脱いただけのシャツとスーツズボン姿。今この時間も、仕事をしていた様子だった。

 教授は電話機に向かって、ああ、とか、分かった、とか短く話しかけ、それじゃ、と言って電話を切る。それから、突っ立っていた僕らを二人がけソファーの方に案内した。ビジネスホテルで、ベッドが部屋の大部分を占め、窓際に机とソファーが置いてあるだけの、質素な部屋。ベッドには、今回の調査に関係する資料と思しき紙の束や書籍、それに混じって僕が昼間書いた、木乃伊のスケッチまで散らばっていた。

 部屋の中は暗い。ソファーの傍のスタンド型の電灯しか付いていないためだ。そこから遠い隅っこには、靄のような影が立ち込めている。

 闇が部屋の大部分を占める中で、無数の書類に取り巻かられて座っている黒崎教授、怪しい黒魔術でも初めそうな雰囲気だった。

 備え付けの冷蔵庫から、違う種類のジュースの缶を三本出して、僕らに勧める。ありがとうございます、と受け取って、教授がベッドに座るため靴を脱いでいる隙に、由芽と缶を交換した。彼女は炭酸が飲めない。

 ベッドの上に胡座をかいて、缶を一気に呷る黒崎教授。昼間のきびきびした様子とは違い、すっかりリラックスムードである。それでも、僕らへの言葉遣いは変わらず丁寧なもので、

「昼間は、お疲れ様でした。川田君も、手伝ってもらってありがとうございます。このスケッチ、よく描けていますよ」

 と労ってくれる。僕らは鯱張って、特に脛に傷持つ身の僕は不必要に動転して、

「すみません、お邪魔してしまって。こちらこそ、ありがとうございました」

 と、慇懃無礼な返答。横で、由芽が嘆息しているのがわかった。黒崎教授は曖昧に微笑んで受け流し、それで――と身を乗り出す。

「昼間見た、あの人魚の木乃伊ですが――川田君は、どのように見ましたか?」

 正直な感想を聞かせてください。そう言われて、僕は天井をにらめながら、

「どのように――木乃伊なんて初めてみたので、あんな感じなんだって思いました。しかも、それが人魚の木乃伊ですから――。あの、変なことを訊いていたら申し訳ないんですけど、あれが、先生の研究材料になるんですか?」

 不思議に思いますよね、と黒崎教授は肯いて、

「文化人類学と言っても、様々な研究対象がありますが、僕の場合は古今東西の、モノへの信仰なんです。仏像でも遺物でもなんでも良いのですが、それがどのような信仰を集め、またどのように扱われてきたか、その軌跡を探ることで、宗教や進行といったものの変遷を探るのが、僕の一番の興味どころなんですよ」

 ここまで一息に言って、僕が理解しているかどうかを探るように顔を覗き込む。僕が曖昧に頷くと、

「そういう意味では人魚の木乃伊はこの上なく面白い研究材料です。人魚の木乃伊は現在、日本にも十数点ある。また外国、特にヨーロッパには日本産の木乃伊と思しきものがいくつか残っているのです」

「人魚の木乃伊を――輸出?」

「そう。江戸時代のことだと言われています。明治以降まで、人魚の木乃伊の製造、販売が続いていたとの記録もありますよ」

 製造――? と首を傾げる僕。由芽にとってはこのあたりの初歩的なことがもどかしいらしく、

「まさか、昼間のあれ、本物の人魚を木乃伊にしたものだなんて思ってないよね?

人魚の木乃伊って言われているものは大体、上半身が猿で、下半身が鮭、鱒、鯉のような魚。これを引っ付けて作る」

 黒崎教授が後を引き継ぎ、

「そう。簡単に言えば、加工品なんです。日本人は手先が器用でしょう。だから継ぎ目がわからないものが多くて、西洋での評価は高かったそうですよ。これは明治三十二年八月九日の新聞に出ていたことなのですが、日本からイギリスに数多く人魚の木乃伊が輸出され、最初は好事家に喜ばれていたのだが、次第にありふれるようになって値段が下がり、今じゃあ骨董店にさらし置かれて、それでも誰も買わなくなった――というようなこともありました。それくらい、江戸期に流行ったんですよ、人魚の木乃伊ってのは」

「それなのに――信仰の対象として、お寺に祀られていたんですか?」

 そこが面白いところなんですよ、と膝を打つ黒崎教授。

「川田君も、良い目をしていますね。人魚の木乃伊は、日本の民間信仰の対象として、秘仏と同様に大切にされてきました。ところが幕末になると、次第に信仰の対象から外れて、不思議な生き物や珍物としての地位を確保するようになります。見世物化するわけですね。そうなると、人魚という存在の実在を、どこまで信じて木乃伊を観ていたか――という辺りが甚だ曖昧になってくる。中には、人魚の実在を信じ、その功徳にあやかろうと信仰心を篤くさせていた人がいたでしょう。一方、見世物化した人魚を前に、これは作り物で人魚なんて眉唾物だと思っていた人もいたでしょう。そのような、人魚という存在信仰への解像度が、町人層の増加と共に価値観が多様化したことに伴って、これも多様化したと、そういう風に考えられるわけです」

 一方――と、言って黒崎教授はベッドの上から一枚の写真を拾い上げ、僕らに見せながら、

「これはアメリカの興行師P・T・バーナム――映画『グレイテスト・ショーマン』でお馴染みですね――の一座が一八四二年に展示したフィジー人魚と呼ばれるもので、一大センセーションを巻き起こし、ニューヨークのアメリカン・ミュージアムを初めとして各国の博物館が奪い合ったという記事があります。もちろん、これは偽造品、しかもメイド・イン・ジャパンでした。博物館は偽造と知らずに、ザ・サンのようなニューヨーク大手の新聞社でも、『大地と海がいままでに生み出した奇妙な物事のなかでも、最も奇妙な生き物』と絶賛していたそうですが――日本産ということは」

「偽造と分かっていて――それを作った人間がいた、ということですね」

 由芽の言葉に黒崎教授は頷き、

「つまり日本には、人魚の実在を信じてその死体を拝む人がたくさんいた反面、それが紛い物であることを知っており、その上で偽造の木乃伊を拵えていた人がいたということです。仏像を刻んで拝むのと同じか、あるいは全く異なる信仰の現れが、そこにあると思うのですよ。昼間、藤本教授が仰っていた、学文路刈萱堂の木乃伊が文化財指定されたのも、その背景にある信仰の複層的な積み重なりが評価されたとのことでしたからね。人魚の木乃伊は今後、科学的な研究や歴史的な考察がなされて然りの、非常に奥行きのある分野だと思いますよ」

 僕は、はあ――と感嘆の声を漏らすだけだった。黒崎教授の説明全てを飲み込めたわけではなかったものの、その熱意は十分すぎるほど伝わっていた。黒崎教授が、ふうと息を継いで、冷蔵庫から二本目を出してきたところで、僕はふと思い当たったことを訊いてみた。

「黒崎先生としては、人魚の木乃伊は――人間が作り出した偽物であるという前提のもとに立って研究するものなんですか? 人間が、仏像を彫るのと同じように」

「基本的には、そうです。人魚という空想上の生き物が実在して、それがミイラ化したものが今に伝わっている――という見地には立っていません」

「つまり、甲禅寺にあった木乃伊も、誰か人間が作ったものである――と」

「そう――ですね」

 黒崎教授はすぐには答えなかった。ベッドの上の、僕のスケッチを見つめ、口を開くことを躊躇っているような素振りであった。やがて意を決したように、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めたが、その声色は、さっきまでの明朗快活なものとは違っていた。

「あの木乃伊も――人の手で作られた、紛い物。そう、信じたい――ですけどね」

 何か、気になることがあるんですか? と由芽が問う。黒崎教授は再度の逡巡を見せたが、ここでお開きというわけにもいかないことは了解していると見え、僕のスケッチに視線を落としつつ、

「人工のものである、という大前提に立って、あの木乃伊を調べてみたんですが、ちょっと腑に落ちないことがあるんです。さっき篠崎さんが言っていたように、人魚の木乃伊の多くは、猿と魚の死体を引っ付けて作る。職人の腕前や、加工技術の変遷を確かめるなら、見るべきはつなぎ目です。そこが自然であればあるほど、より完成度が高い、リアルなものだとして珍重される」

だから藤本教授も、あんな、舐め回すように腰部の辺りを観ていたというわけか。あれは傍から見ると、中々な画だったけど。

 ところが――と、黒崎教授は眉間に皺を寄せた、一種険のある顔になって、

「あの甲禅寺の木乃伊は、その繋ぎ目が自然すぎるんです。いや、つなぎ目なんて、全くない、と言っても良い。それくらい、上半身と下半身の境目が分からなかったんですよ」

 それから僕のスケッチを拾い上げて、

「川田君のスケッチでも、それが分かります。もちろんざっくりとしたスケッチなので、表皮のディテールなどは省かれていますが、腰部から魚部分に至るまでの輪郭も極めて自然で、分割線を見つけることが難しい。川田君の目にも、あの木乃伊は二つからなる加工物ではなく、それ単体の木乃伊として、映っていたのではないですか」

 僕は曖昧に肯いた。描いている時は、全然そんなこと思っていなかったけれど、出来上がったものを見ると、たしかに全体の輪郭に無理がない。拵え物だと、こう上手くは行かない、ということだろうか。

「だから、製造だと僕が言ったときに、違和感を持ったのでしょう」

「そう――なのかも知れません」

「コンクリートの地ならしのように手をかけて繋目を消していくことも、できないではありません。――が、それにしたって、この木乃伊は全体として纏まりが良すぎる。いち個の身体として、初めからこのような形で成立しているものだとしても、何ら違和感がないのですよ」

 初めから――この形で成立している木乃伊……。

「じゃあ先生は――人魚が実在していると、そのように考えているのですか?」

 これは由芽だ。尊敬する黒崎教授のお言葉とはいえ、さすがに信じられたものではなかろう。教授は即答せずに、

「それを今後、調べていく必要があります。理想なのは、岡山県の円珠院にあるミイラに対して行った、電子顕微鏡による表面調査や、X線による内部撮影ですね。円珠院の調査ではDNA鑑定まで行われています。それくらい徹底して調べれば、いろんなことが分かってきますよ。たとえば、円珠院の木乃伊には内部に主要な骨格がなく、かわりに綿が敷き詰められていたとか、実は上半身は紙や布で作られていて、表面には砂や灰を混ぜた塗料が使われていたとか、放射性炭素の計測によって、作られた年代が測定されたとかね。これによって、明らかな人工物であることが分かれば、僕が持っている幼稚な妄想など、綺麗に雲散霧消できるのだが――」

「住職は、許可してくれるでしょうか」

「科学的な調査をすることには同意してくれていますから、どちらかと言うと、我々の準備の問題ですね。木乃伊を持ち出す許可もいただかなければなりませんし、どこで調査するかも決めなくては。さっき電話で問い合わせてみましたが、うちの大学の設備だけでは不十分のようです。藤本教授とも連携を取って、しっかり調べていく、その段取りを付けていく必要がありますよ」

 別れ際の目配せは、そういうことだったのか――と、僕は心の中で手を打った。

「明日は、そういうことも含めて住職と相談しなければなりません。今回の調査は、下見のようなもの。今後もここには、何度も通うことになりそうですね」

 その時はまた手伝ってください――と、僕に微笑みかける黒崎教授。由芽の手前、どう答えて良いか迷ったが、とりあえず、分かりましたと肯いておく。

 黒崎教授は口を閉ざし、ベッド上の資料を見ている。僕も由芽も、口を開くのが妙に億劫で、ソファーに座ったまま、教授の様子をただ見ているばかりだった。昼間、あんなにも晴れ渡っていた空には暗雲が掻き曇っているらしい。部屋の中に入り込む空気がいやに湿っぽく、やがて滝のような雨が、ホテルの窓を激しく叩き始めた。

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