川田樹 二
本堂で、もう一人、今回の調査への参加者に会った。年は四十後半。穏やかな佇まいの一方、切れ長の目に鋭い眼光。見るからに学者然とした面立ちで、事実、上信大学で考古学を教えている藤本教授であるとのことだった。黒崎教授の研究仲間の一人で、事あるごとに同行を申し出合う仲なのだそうだ。
座布団の上で正座、ちりちりとした足の痺れに耐えていると、住職が両手を広げて抱えるくらいの桐匣を持って出てきた。あえて「匣」の漢字を当てるのは、古めかしいと言うか仰々しいと言うか、とにかくそんな感じがしたからだ。住職は畳の上を滑るようにやってきて、そろそろと匣を両教授の目の前においた。二人の後ろに控えている僕らも、首を伸ばして事の次第を見守っている。
では――と住職が確認するように片眉を上げると、黒崎教授が頷く。僕らの前にいる三人とも、ゴム製の手袋をしている。藤本教授は金縁の、時代を感じさせる拡大鏡を持って、準備万端のていである。
住職の手が匣の上にかかる。その指が側面の上の出っ張ったところを抓んで、持ち上げた。匣は落とし戸になっているらしく、するすると持ち上がっていく。
中にあるものを見て――僕ら四人は殆ど同時に、息を呑んだ。
「凄い――初めて見た」
馬鹿みたいな感想だと、自分でも思う。が、誰も僕を咎めない。住職も神妙な面持ちで、目を伏せている。
匣の中には、黒く萎びた干物が仰向け横向きに寝かされていた。僕らの方から見て頭を右にして、清潔な白布で寝床を設えた上で安置されている。すっかり随分が抜けきった、炭のような表面。それが、子供ほどの背丈の輪郭を形作っていて、頭部に当たるところには目や鼻の名残、そして若干の歯が付いていて、この黒乾物が、人間の形をした木乃伊であることを示しているのだった。
少なくとも、上半身については――。
僕の目は、木乃伊の頭がある匣内の右側から、次第に左の方に寄って行く。ぼっくりと凹んだ喉元、すっかり萎びきった胸、枝のように細く、縊れた両腕は、まるで威嚇するように持ち上がって、顔の傍で掌を開き、爪を剥き出しているかのよう。
餓鬼道の亡者のように膨れた腹。そしてその先に――あるべきはずのものがない。
下半身は、細長く緩やかな逆三角形――? いや、腹の断面の輪郭からして円錐だろうか。ともかく、蛇の尻尾のように、先になればなるほど先細っていて、足と呼ぶべきものは存在しない。その部分の体表も、上半身と同じくミイラ化している。上半身に比べて損傷が激しく、崩れ落ちてしまっている部分も多いが、部分部分に明らかに鱗と思われるものがこびりついているのが見えた。先端も欠けている。この形から類推するに、平べったい尾びれのようなものが付いていたのだろうか。
「僕も、実際に見たのは初めてですよ。藤本教授は?」
黒崎教授が、興奮を押し殺したような声で訊いている。藤本先生は冷静に、
「木乃伊自体は、いくつか研究したことがあります。しかし、人魚となるとね――。さすがに初めてですよ」
人魚の――木乃伊。
上半身が人間。下半身が魚。それが違和感なく組み合わさった、異形の死体――。
僕は生唾を飲み込んで、首を伸ばし、目の前にある死体に見入った。車酔いの気持ち悪さや夏の炎天の不快など綺麗に消え去って、興奮とも感動とも知れぬ、ゾクゾクした何かに全身が痺れていた。
これが――人魚の木乃伊なんだ。
資料写真などで見たことはあっても、実際に現物が目の前にあると感じるものは全く違う。匣の中に横たわっているのはただの乾物、かさかさの物体のはずなのに、固く閉じた目や、口を閉じているようでも下顎の皮膚の崩れの奥から覗いている歯などを見ていると、この木乃伊が自意識的に沈黙を守っているような、そんな気さえして背筋が寒くなる。
暫くの間、両教授でさえその木乃伊が放つ不思議な威に打たれて、ただただ眺めるばかりだったが、やがて気を取り直したように二人で頷き合い、前に進み出て研究に入った。そろそろと白布を引っ張り、木乃伊を匣から出す住職。よほど壊れやすいのか、木乃伊本体に触れて移動させるようなことはしないらしい。両教授とも、手袋をしていても、直接触れようとしないのは、事前にそのような取り決めがあったからなのだろう。
黒崎教授は屈み気味になって、木乃伊を色んな方向から眺めて、ぶつぶつ呟いている。その傍にはメモ片手の由芽。教授の呟きを逐一記録するため、メモの上でボールペンを忙しく動かしていた。その顔、いくぶん顔色が悪いようだ。さすがに、木乃伊とは初対面だったらしい。
藤本教授も拡大鏡を出して、頭頂から頭部、胸、腹と部位を一つずつ、丹念に観察している。とりわけ、腹の下――人体と魚体の境目は長い時間をかけて、顔を、殆ど木乃伊と接するくらいにまで近づけて眺めていた。
僕は何をするでもなく、ただ座布団の上に座って調査の様子を眺めているばかりだったが、いきなり由芽に名前を呼ばれ、もう少し前に来るよう手振りで示された。痺れる足を前に出し、よろめきながら黒崎教授の座布団位置まで来ると、由芽が僕に、鉛筆と紙と下敷きを渡す。そして僕の耳元に口を近づけて、
「やることないんだったら、この木乃伊、スケッチしておいてくれない? 住職との約束で、写真NGらしいんだ」
ざっくりで良いから――と、それだけ言うと僕の返答は待たずに、黒崎教授の後ろに戻る由芽。教授は今、反対側に回り込んで、腰辺りの部分を見ている。その瞳が、水を吸ったように膨らんでいるようだ。何か、驚きの発見でもあったのだろうか。
木乃伊に顔を接触させそうな両教授の邪魔にならないよう、僕は今いる位置から、スケッチを初めた。やがて、黒崎教授から住職への質問が始まる。その間も、彼らの視線は人魚の木乃伊を逃そうとせず、右に左に回り込んだり、覆いかぶさるように見下ろしたり、頬を畳に擦るくらいの位置から見上げたりと、とにかく様々な角度からの観察を怠らないのだった。
「いくつか確認したいのですが、これを見つけたのはいつ頃のことでしたか?」
三週間前になります、と、住職は穏やかな声で答えた。
「本堂の横に、人形堂を併設しておりましてな。夏が来る前に大掃除をするんですが、その時に見つけました」
「人形堂――」
思わず呟く僕。黒崎教授は僕に微笑みかけ、
「京都の宝鏡寺が有名ですが、供養を目的として人形を回収する寺は全国それなりにあります。後で、案内してもらうと良いですよ。この甲禅寺の人形堂は中々のものです」
それから住職に向き直り、
「もう少し具体的に。奉納された人形の中に混じっていたのですか?」
住職は首を横に振り、
「掃除の際は、人形を一度外に出し、中を清めます。その時も、寺の者総出で、まずは奉納いただいた人形を全て、この本堂に移動させ、床を掃き清めようとしました。そこで、奥隅の床板が欠けて穴が空いていることに気が付きましてな」
「床板が――欠ける、ですか」
「鼠に齧られたか、湿気で腐ったのか――。ほら、ちょうど梅雨明け前で、連日雨が降り続いていたでしょう。何せ本堂よりも古い建物だもので、あちこちが傷んでいてもおかしくはないのですよ」
「人形たちに被害はあったのですか?」
住職は首を振り、
「四隅の近くには置かぬようにしていたのです。ただ人形たちの影に隠れて、入り口からは完全な死角になっていました。だから、いつから空いていたのかも定かでは有りません。大掃除は夏と冬に二回行いますから、昨年の冬以降ということになりますかな」
「なるほど――それで?」
「床板を取り替えるためには寸法が要る。メジャーを持って部屋の隅に行くと、床にぽっかり空いた黒い空間の中に、外からの光を受けて、てら、てらと反射するものがあったのです。何だろうと思って手を伸ばすと、どうやら木の箱のようなのです。それで人を呼んで、引っ張り上げてもらいました」
「住職が発見されたのですね。その箱というのは、今、木乃伊が入っているこれとは別のものなのでしょう?」
住職は頷き、
「土でどろどろに汚れた桐箱でした。あちこちに虫食いや、腐っている部分があって。ただ造りが良かったからか、箱としての役割は今以てしっかり果たしていましたよ。即ち――中に入っているものだけは外の土や湿気から守っていたんです」
「その箱は、どうしました? まだありますか?」
「残念ながら、外気に触れた瞬間に、何かの糸が切れたように急速に崩れていって、塵のようになってしまいました。もう少し丁寧に扱うべきだったかも知れません」
「箱の表裏には何か――文字は書かれていませんでしたか?」
これは藤本教授だ。住職は曖昧に首を横に振り、
「我々が調べたところでは、何も書いていないようでした。ただ表面は土にまみれている上、見るも無惨な状態だったので断言はできません。一応、色んな角度からの写真は撮ってあるので、後でお見せします」
それは朗報です、と藤本教授。黒崎教授が後を継いで、
「それで中の木乃伊を取り出して、匣に移し替えた。この布も新調したものですね。元の箱の中も、同じような状態で置かれてあったのですか?」
住職は頷き、
「歳月相応の襤褸に覆われていました。あるいは、箱以上に傷んでいたかも知れません。こちらもやはり、陽の下に晒されて急速に塵と化していきました。ただ、こちらについては無に帰す前に我々の方で詳しく調べましたから断言できますが、何も書いていなかったはずです」
質問を先読みして答える住職。と、それまで忙しくペンを動かしていた由芽が屈み込んで、先生――と、黒崎教授の耳元に囁いてから、木乃伊の腰辺りを指差す。黒崎教授は頷き、
「そう。僕もそれが気になっていた。住職、あの木乃伊の腰辺りに付着しているのは、どうやら木乃伊を覆っていた布の一部のようです。差し支えなければこちらで取り除かせていただき、藤本教授に解析をお願いしたいのですが、いかがでしょう」
木乃伊に傷さえつかなければ問題ありません、と住職。藤本教授は返事を待たずに黒崎教授や由芽がいる側に回り込み、匍匐前進のような体制を取って作業を初める。拡大鏡で腰部のあたりを確認しながら、ピンセットを忙しなく動かしていて、僕のいる位置からだと、それくらいしか見えなかったが、それでも教授の繊細な指使いと、作業の迅速さには驚かされるものがあった。藤本教授の作業中も、黒崎教授は住職への質問を続けている。
「この木乃伊について、解明の参考になる物証はありませんか? 縁起が伝わっているとか、奉納の記録があるとか。特に時代が分かるものがあれば有り難いのだが――」
住職は苦笑いを浮かべながら、頭に手をやり、
「我々もそれが知りたくてね。寺の書架を引っ掻き回して、あれこれ調べてみたのですが、何にも出てこないのです。これでも、奉納品の管理についてはちゃんとしている方でね。数百年前まで遡ることができるんですが、この木乃伊に関する記述だけがどこにも見当たらない。それに――」
とここで言葉を切って、住職はやや猜疑の隠った目で木乃伊を睨め、
「奉納されたものを、ああやって床下に置いておく意味もわからない。とっくの昔に、土に還っていてもおかしくない状態だったのです。何の理由で人形堂の床下なんかに置かれていたのか……」
「言われてみれば、そうですね――。藤本教授、現時点で何かわかることはありますか?」
器用に取り除いた布切れをジップロックに入れ、空気を抜いている藤本教授。ふうと額の辺りを撫で回しながら、
「現段階では何とも――。ほら、少し前に岡山県の円珠院が所蔵している人魚の木乃伊に、X線調査が入ったでしょう。あれくらい本格的に調査すれば時代の特定もできるでしょうけどね。木乃伊を包んでいた布切れ――。これを科学的に分析してもらううところからが、スタートでしょうか」
ふむ――と顎に手を当てて考え込む黒崎教授。暫しの沈黙。僕が鉛筆をさらさら走らせる音だけが遠慮がちに響く。と、黒崎教授がおもむろに顔を上げて、
「スケッチしていただいているんですね。ありがとうございます。住職、申し訳ないのだが、木乃伊を百八十度回転させて、頭の方向を左右逆にしてくれませんか。川田君に、ぜひとも記録しておいてほしい部分があるんです」
と言った。住職は、木乃伊が横たわる白い布の端を持って、持ち上げずにそろそろと向きを変えていく。やがて木乃伊の右側面、僕が今まで見えていなかった部分が、こちらを向いた。
「川田君――木乃伊の脇腹の辺りをよく見てください。その部分を、別途スケッチしておいてほしいんです」
黒崎教授に言われて、僕はおずおずと木乃伊に顔を近づける。そうして黒崎教授が示す辺りを見て、僕の目も、水を吸ったように大きく膨らんだ。
ぷっくりと膨れた腹。しかしその側面が、握りこぶしほどの大きさで抉れているのだ。これがいわゆる“死体”であれば、この傷口は、ゾッとするほど無惨なものとなるだろう。木乃伊は乾物、そもそも表面がざらついているので、内蔵が覗く生々しい傷跡などにはなっていない。ただただ、ざっくり抉れている。
何で――こんなことに――。
鉛筆をさらさら動かしながら、僕ごときが考えずとも良いことを考えてしまう。抉られたのは、木乃伊になる前か、なってからか。なってから、こんなに大きな損傷を受けたなら、この部分は空洞になっているはずだ。実際は抉れているだけで、傷口は肉の断面で埋まっている。木乃伊になる前の傷と考えるべきだろう。傷自体の形は、切り取られたと言うより、無理に引き千切ったような印象を与える。そしてその抉れた部分近くの上下に、小さな凹みが、一列に並んでいる。これが意味するものとは――。
「それで――先生方、いかがお考えですか?」
住職の問いかけに、僕の思考は破られた。すでに大方スケッチは終わっていて、ちょっとバランスは悪いが、抉れた部分がどこにあるのかや、傷口の上下を走る小さな窪みまで、一応は忠実に再現している、心算である。
「この木乃伊を、どうするべきか、についてですよね」
住職は頷き、
「歴史的に価値ある品であるならば、博物館に寄贈することも考えるのですが、藤本教授にお伺いしたところ、そういった例はないとのことでした。であれば、この木乃伊はこの寺にて、然るべき形で置いておくことになると思うのですが――ただ――」
「そうですね――」
と腕組みして唸る黒崎教授。少し考えた後に、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出す。
「寄贈するにしても、この木乃伊に関するデータがあまりにも不足していますね。となると、このお寺が保管しておくしかないと思います。他の人魚の木乃伊も、大体は寺に置いてありますからね」
「何かこう、世間に伝える必要はあるのでしょうか。我々としては、どうにも話がオカルトじみていて、こういった内容でこの寺が話題になるのは、避けたいと思っているのですが――もちろん、檀家を初めとした近隣関係には然るべきタイミングで公表しようと思うのですが」
難しいところですね、と藤本教授。
「人魚の木乃伊は数が少ない上、先も申し上げたように、科学的な考証の対象とはなってきていません。文化財としても、二〇〇九年に和歌山県が学文路苅萱堂の人魚のミイラを文化財指定にした例があるくらいで、それも無病息災の信仰の対象であった実績を考慮しての指定です。今の、何も分かっていない状態で公表しても、住職の仰るように好奇の視線に晒されるだけでしょうね」
「では、このまま静かに置いておくほうが良い――と」
頷く藤本教授。住職は、どこかホッとした顔を見せた。黒崎教授が身を乗り出し、
「住職さえよろしければ、我々もこの木乃伊について、多角的な見地から調査してみたいと思います。調査の結果、この木乃伊が歴史的に重要な遺物であると判明したなら、その時に改めて我々の調査結果も含めて、世間に公表すれば良い。何も分かっていない状態で悪戯な憶測を生むより、ある程度の学術的裏付けを持たせた方が、最終的には良い方向に行くと思うのですが」
けっこうです――と住職。肩の荷が降りたような、すっきりとした顔をして、
「相手は木乃伊ですからね。別に時を急ぐこともないでしょう。保管の方法については、藤本教授から教えを受けるとして、当面の間は、この本堂に別の祭壇を設けて、手厚く供養したいと思います」
住職に木乃伊の長期保存方法を教えるため、藤本教授はもう少し寺に留まるとのことだった。藤本教授は階段の下まで見送りに来たが、特に何か言うでもなく、ただそこに立っていた。黒崎教授も、別段別れの挨拶をするでもなく、しかし去り際に藤本教授に向かって妙な目配せをしたのを、僕は見逃さなかった。黒崎教授は、行きましょう――と僕ら二人の背中を押して、足早に甲禅寺を去った。
帰りはだらだらとした下り坂だった。僕らは殆ど口を聞かなかった。行きに比べて、帰りは早いように思えた。黒崎教授の車は、駐めていた場所に、ちゃんとあった。その横に、さっきは気づかなかった大きなワゴン車が駐めてあったが、たぶん藤本教授の車だろう。
黒崎教授は無言で運転席に乗った。僕ら二人は後部席に乗ることになっていた。ドアを開ける寸前、僕は由芽に、さっきの両教授の妙な目配せのことを伝えようとした。が、由芽は僕の言葉など耳に入らない様子で、甲禅寺に続く参道横に並ぶ、林の方を見ていた。その一点を凝視して、他の何も頭に入らないような様子なのだった。
「由芽――どうした?」
あまりにも由芽が硬直して見えるので、僕は少し強めにその肩をつついた。由芽はハッと目を瞬かせ、何でもない、とだけ言って、そそくさと車に乗り込む。
むわっとした熱気に包まれた車内を、冷房の風が急速に冷やしていく。車は、ゴリゴリと音を立てて走り出した。由芽はスマホでマップを出し、ホテルまでの道を黒崎教授に教えている。僕は窓の向こうに広がる、空の青を見ていた。甲禅寺から遠ざかれば遠ざかるほど、不思議と元気が出てきた。ホテルのある街までは、三十分ほどで到着した。
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