川田樹 一

 タイヤが軋む。砂利を踏みしめる音と共に車が止まった。

 二本の指が慌ただしく車のロックを解除し、勢いよくドアを開け放った瞬間、身体が外に転がり出た。熱いものがどろりと込み上げてきて、半透明の液体がびたびたと地面に落ちる。

 口の中に広がる、甘酸っぱい不快。うえぇ……と思ういながら口を拭っていると、左頬に冷たいものがぴたりと当たる。両手を地面についたまま、首だけ捩じって見上げると、呆れた顔の由芽が立っていた。水の入ったペットボトル。そこに光が差し込んで、屈折して、僕の顔をてらてら濡らしている。

 ありがとう、と言って受け取り、冷たい水を一気に流し込んだ。口の中の不快感が喉の奥に流し込まれて、ようやっと、立ち上がることができる。

 深々と息を吐く僕を見て、由芽はやれやれと首を横に振る仕草を見せた。

「だからやっぱり――ホテルで待ってれば良かったのに」

「だって――ここまで来たら、見ないわけにいかないじゃないか」

 思ったよりも掠れていない、しかしどうも力みのない声で反論する。由芽は一歩前に出て僕との間合いを詰め、そもそもね――と、少し苛立ちを含ませた声で言った。

「教授のご厚意で同伴させてもらえただけで、樹、専門外でしょう? いつもみたいに、うちで待っててくれたら良かったじゃない。なんで、今回に限って、無理についてこようとしたのよ」

「いや、だって、それは――」

 しどろもどろの僕。と、反対側のドアが閉まる音がして、車のボディを隔てて、黒い影のようなものがぬっと首を出した。八月の猛暑だというのに、ぱりっとした黒いスーツを纏う痩身。彼は眼鏡越しに僕を見て、大丈夫ですか? と問う。僕がそれに答えるよりも先に、由芽がそそくさと彼の方に寄って行き、

「すみません黒崎教授――。昔っから車に酔いやすくて。だから、待ってろっていったんですけど」

 と、子供の悪戯がばれて学校に呼び出された母親みたいに何度も頭を下げる。そんな、謝んなくてもいいじゃないか――と、我がことなのに冷めた目で見ている僕。黒崎教授は細い目をきゅっとさせて、

「いえ、大丈夫なら良いんですよ。僕の運転も、少々荒かったかもしれませんから」

 全然、そんなことないです、と僕が答える前に、教授の眼前にいる由芽が、ブンブン首を横に振る。そんなに振って鞭打ち症になるんじゃないかと心配になってくるくらいの勢いだ。

「全然、全然。本当に、そんなことないです。こいつが弱いのがダメなんです。ほんとに――ゼミ生でもないのに、何で来たんだか」

 肩を竦める由芽。僕はそっぽを向いて答えなかった。そりゃ、由芽としちゃあ何でもないことかも知れないけれど、僕にとっては悩ましい問題なのだ。

 ちろりと横目で、黒崎教授を見た。すらりとしたシルエット、短い癖っ毛や、小顔に不似合いな大き目の眼鏡に不思議な愛嬌がある。僕らの大学にいる教授の中で、この人が一番年若い上に、人気も凄い。ファンクラブまであるという噂だ。そんなイケメン教授と、泊りがけで僻村にフィールドワーク……。

いやいやいや、さすがに看過できません。一応、これでも彼氏なんで。

 僕がいつまでも黙っているので、黒崎教授がとりなすように、

「まあ、良いじゃないですか。他専攻にも拘らず、興味を持って同行してくれるなんて、嬉しいですよ。こういうものは、専攻外の人がいた方が、新しい発見があるものですからね。一つ僕らとは違う見地で、見てもらおうと思っているのですよ」

 と優しく笑いながら言った。その表情に、嘘はない。本心から、部外者である僕の参加を歓迎してくれている人のようだ。

 帽子を被っていないけれど、心の中ではずっかり脱帽していた。話には聞いてたが、本当によくできた人。非の打ち所がない。僕のような、今時もはや流行らないダウナー男子など、遠く遠く及ばない。

 すみません――と、ここでようやっと頭を下げる僕。由芽と教授、二人の関係が深くなることが不安で出しゃばっただけでなく、車酔いで無様な姿を晒している自分を、さすがに恥じていた。

 黒崎教授は、僕の傍らを過ぎ去り際にぽんと肩に手を置いて、

「それに、川田君の心配も分かるんですよ。研究のためとはいえ、女子大生と二人と言うのは、いくらなんでもね……。不要な疑いや、良くない噂のタネになりかねない」

「――な……」

 由芽が何か言おうとして、言葉に詰まる。そうして僕の方を睨む。視線が痛い。僕が無理に動向を申し出た、その真意、今更ながらに気づいたらしい。黒崎教授は、僕の背中をどやす真似をして、

「彼氏兼ボディーガードがいてくれた方が、こちらも調査に集中できるというもの。実はね、僕の方から誘おうと思ってたくらいなんですよ」

 何もかもお見通しってわけだ。やはり、敵わないな。

 ってことで、よろしくお願いします――と言い残し、さっさと先に行ってしまった。その後ろを足早に追いかける由芽。顔は見えなかったが、ほのかに耳が赤い。怒っているのか恥ずかしがっているのか――。何にせよ、後で大目玉を食らいそうだ。

 敵わないな――ともう一回心に呟いて、首の後ろを掻き掻き、二人の背中を追った。近くに川が流れているのだろう。虫の声の狭間に、水の流れる音がした。





 教授と由芽は横に並んで、あれこれ話している。近づいていくと、話の内容も耳に届いてくるが、僕の専攻外のことで、何を言っているのかちんぷんかんぷんだ。それでも由芽の弾んだ声で、彼女がこの黒崎教授に心酔していることだけはわかった。

 僕らの大学で文化人類学を主に教えている黒崎数馬教授は、文献調査とフィールドワークとをバランスよく組み合わせた研究スタイルに定評があり、研究者の中では若いのに、優れた知見をいくつも提唱している非常に有能な研究者――なのだそうだ。由芽は、そんな黒崎教授のゼミに所属する信望者の一人で、黒崎教授のゼミを受講するためにこの大学を選んだ、と公言して憚らない。

 元々彼女の父親が、教授と分野は違うが著名な学者であり、前々から黒崎教授とも面識があったのだという。

 由芽が僕に打ち明けた内容によると、彼女は幼い頃に何度か黒崎教授に会っており、子供が年上に対して持つ憧れの気持ちに似たものを、まだ一介の研究者に過ぎなかった彼に持っていたのだそうだ。その後、彼が教授として大学で教鞭を取るようになったことを知り、分野や専攻への興味は二の次で、彼がいる大学と学部専攻を志望し、見事合格してしまった。一回生の頃から、講義も取っていないのに教授への猛アタック――ではなく積極的な接触を図り、現三回生で念願のゼミに入ることができ、四ヶ月が過ぎた今や、教授の助手的存在となっている。教授も教授で、過去に面識のあるお嬢さんだ相手だもんだから、思い入れもひとしおではなく、何より由芽自身の学問的能力が相当のレベルであるらしく、次世代の有望な研究者候補として格別に目をかけているらしいと専らの噂――ではなく、これも本人談。ただ、事実だと思う。じゃなきゃ、こうしたフィールドワーク調査に同伴させる理由がない。由芽の話では、一応公募で自分以外に希望者がいなかったらしいのだが、これについては、どこまで本当だか分かったもんじゃない。

 由芽が幼かった頃に始まり、今日まで脈々と続いている二人の絆を前にしては、僕の存在なんて扇風機の前に撒いた紙クズも同じだろう。由芽にとっては幼馴染かつ小中のクラスメイトという関係でしかなく、ただ僕の方は昔から由芽のことが気になっていて、しかし高校でそれぞれ別の学校に進学して、その恋心は一旦途切れて、ところが大学受験の折に偶然再開し、由芽への想いが甦ってきて、それなのにその受験で由芽は合格して僕は落ちて、この再会の奇跡を絶対無駄にはしまいと猛勉強し、後期入試で合格を勝ち取り、同じキャンパスで一緒に時を過ごす――学部専攻が違うので、一緒と言っても昼食の時ぐらいだったが――うちに、由芽の中にも僕に対する何らかの気持ちの変化があったのか、あるいは悪い風邪にでも脳をやられたのか、二回生の夏の終わりに思い切って告白してみたら意外とすんなり了承をいただいて、それから付き合うことになったという、こんな感じで概略にしてみれば、長々とした一文で片付いてしまう程度の深からぬ経緯しか持たない。

 ――しかもなあ。

 僕は深々と溜息を吐いて、話興じる二人の後ろ姿を、居た堪れない思いで見た。

 絵に描いたような美男美女カップルだ。黒崎教授のスタイリッシュさは言うまでもないことで、由芽の方も――一応は彼女だからとかそういう贔屓抜きにして、冷静かつ公平に見ても、奇麗だと思う。容姿がどうとかファッションがどうとか、そういう具体的な見映えではなく――夏目漱石の言葉を借りるなら、「水晶の珠を香水で暖めて、掌に握ってみたような心持ち」にさせる存在なのだ。うだつの上がらない、キャンパスに掃いて捨てるほどいる僕なんかとは、何をどうしたって釣り合わない。

 住む世界が違いすぎる二人が、僕の前を通っていく。僕は後について行って、彼らの世界から漂う残り香に吸い寄せられる蛾か何かの気分である。空はこんなに青く、山間の景色は瑞々しく輝いているというのに――いや、だからこそ、自分のことがこの上なく惨めだった。いつもはこんなにマイナス思考ではないはずなのに……。少々愚痴が過ぎるようだ。もう少し別のことを考えたい。

「――着きました」

 気分転換に好きな作家のことでも考えようとしていたその矢先、黒崎教授の声に足を止められた。はっと前を向くと、いつの間に門を通っていたか、地面は掃除の行き届いた石畳になっていて、数歩先には階段と靴箱。その先には古めかしい本堂が、碧空に屋根を伸ばしている。僕の左右には神仏習合の名残の狛犬。その少し奥には手水舎があり、左右の手に球を持つ漆黒の龍の口から、清水が流れ出ていた。

「ここが――」

 と呟く僕。相槌や応答を求めたわけではない呟きだったが、黒崎教授は顔から柔和な笑みを消し去って深々と頷き、

「ええ。ここが甲禅寺。この世に二つとない、珍しいものを保蔵している場所です」

 と言って、靴音を響かせながら足早に歩いて行った。

 階段を上った先の本堂の障子の前に、住職と思しき人が立って、こちらを見ている。黒崎教授はそそくさと靴を脱ぎ、階段を上がっていく。

 ――ここに、あれがあるのか。

 低頭しながら名刺を渡している黒崎教授を見上げながら、僕は思った。いつの間にやら、由芽が傍に来ている。何を言うでもなく、ただほんの少し僕に体を寄せている。僕のこと、怒っているのだろうか。あるいは逆に道中、教授とばかり話していて、置いてきぼりにした僕に気を使っているのだろうか。

 ――いや、違う。

 表情で分かる。僕と同じことを、由芽も感じているのだ。

 由芽の体温を左肘に感じながら、僕は周囲を見回す。緑々とした木々に囲まれた本堂。鳥の声と虫の歌に囲まれた、長閑な空間。しかしそこを漂う空気は冷えていてどこか刺々しい。不穏さすら感じる。不穏と言えば、本堂の佇まいにも気になるところがあった。何の変哲もない素朴な作りで、うちの近所でもよく見かける形の建物、のはずが、何故かこちら側に身を伸ばして覆いかぶさってくるような、そんな無言の圧を感じるのだ。この場所に漂う、渦々とした、寒々しい、妙な気配が、そのように感じさせるのだろうか。

 由芽も体を強張らせているということは、車酔いが見せる気の迷い、ということではないのだろう。僕らはすぐには階段を上がれず、この場所が湛える不思議な空気に中てられ、立ちすくんでいた。やはり、この近くを川が流れているらしい。耳を澄まさずとも、その水音はやけにハッキリ、僕らの耳を捉えて離さなかった。

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