第5話 こんにちは、マリア
「ふえ……。」
僕はさっきまで眠っていた。しかしその眠りは妨害されることになってしまった。
音量だけがやたら大きい、不快な音程の下手なホルンを思わせるこの男の大声によって。突発的な出来事により僕の思考は、一気に幼児へと逆戻りし、そのまま泣き叫んだ。
だって怖かったし。
「ぎいいいいい、ぎいやあああああああ」
「おおお前かカルマ!父ちゃんが帰ってきたことがそんなに嬉しいか!なんて歓迎だ!エスピオ山の怪鳥よりももっとすごい声じゃないか!!」
「旦那様!カルマ様を起こしておいて、なんて言いぐさですか。まったくお昼寝中だったのに」
ぶつくさ言いながら僕を抱きかかえたのは、乳母だった。よく知った匂いと感触に僕の興奮状態はだんだんと落ち着いていき、ひっくひっくと言いながら乳母にひしとしがみついた。
元男子高校生が情けないと思うかもしれない。仕方がないのだ、この身体になってから心も赤ん坊らしくなっている。つまり、自分じゃ制御できないのだ。
「ルイーズ様に御用があるのでしょう、今は侯爵様のご子息のピアノレッスンの最中ですから、もうしばらくしたらお帰りになります。お願いですから、静かにお待ちくださいね」
「わかったよ、君は乳母のマリアかね?手紙で聞いている。ルイーズが帰って来るまで息子の世話をよろしく頼むよ」
ハインリヒはマリアと初対面であった。しかしルイーズと交わした手紙の内容から、マリアがカルマの乳母であることは知っていた。
しかし初対面で、彼は直観的にこの女が苦手であるように思った。
マリーのエキゾチックで凛々しい顔立ちは気圧されるような気持ちになるからだ。
両目はこのへんではみないような宝石のような妖しい緑色をしていて、石にされるんじゃないかという気にさえなる。
ハインリヒはメイドに上着を預けて、すごすごと自室へと戻り、久しぶりに自分のベッドで横たわった。
部屋は一年開けていたとは思えないほど清潔だった。ベッドからは太陽の匂いがする。
ルイーズがこのように手配したのに違いない。ルイーズには手紙で近々帰るということはすでに手紙で伝えていた。そしてルイーズはそのことを忘れてくれていなかったんだなということを実感する。
眼をつむってルイーズのことを考えてみる。
はちみつ色の金髪に白い肌。青い目。愛らしい唇とほのかに色づいた頬。
鈴のように笑ったかと思えば、コンサートマスター・ヴァイオリンのように自在に歌う。
愛らしいルイーズのことを思うからこそ辛い出張にも耐えられた。
なのに家に帰ってみればルイーズではなく、あの気の強そうなジプシー女に出迎えられた。
しかしルイーズがあの女をいたく気に入っているらしいことは手紙をみれば一目瞭然だった。
手紙には彼女らの運命的な出会いからマリアがカルマの乳母になった経緯まで事細かに記されていて、その出来事一つ一つに特記される表現それぞれにルイーズの興奮が感じられた。
「お仕事は順調かしら。身体は壊していない?私は元気よ。もちろんカルマもね。でも私はお母さん失格かもしれない。」
彼女のマリアに対する記述の手紙の冒頭はこんな風に始まった。
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