第9話 結末

 安川は確かに深溝の部屋から注射器の入ったケースを持って帰り、家の大切なものを隠しておく場所に密かに隠しておいた。自分の部屋なのでそこまで厳重にしていなかったのがいけなかったのだろう。深溝を見舞いに行ったその日、家に帰ってきて確認してみると、秘密の隠し場所からなくなっていた。

――この場所を知っているのは、瑞穂だけのはずだ。ということは瑞穂が持って行ったのか?

 と思った。

 実際にそれができるのは瑞穂しかいない。この部屋の合鍵を持っているのは、瑞穂と深溝だけだからだ。深溝は先ほど入院先の病院で出会ったばかりではないか。深溝のはずはない。

 となると、考えられるのは瑞穂だけではないか。

――しかし、何のために?

 確かに瑞穂は、安川の部屋の状況は知っている。そして、彼の性格からどこに隠すかということも分かるのではないか。瑞穂という女は、実に勘のいいオンナだった。それは相手が安川だからなのかも知れないが、彼の行動パターンや何を言い始めるかということはすぐに分かるようだった。

「あなたって分かりやすいものね」

 と言って、よく笑っていたものである。

 安川もまんざらでもなく、その言葉にありがたみを感じていた。なぜなら自分のことを分かってくれている人はなかなかいないと思っていた。ただ、それは深溝が現れるまでで、彼も安川のことが手に取るように分かると言っていた。今ではどっちが一番自分のことを分かってくれているか分からないくらいだが、気持ちは深溝に傾いていた。

 部屋を家探しされた気配はない。それでは瑞穂は最初からそこに大切な何かがあるということに気付いて持って行ったということだろうか? もしそれが彼女の自首と何か関係があるのだとすれば、安川にもこの事件において、何か大きな責任を負わなければいけないところがあるのだろうか。

 瑞穂は、本当に安川のことを愛していたようだ。真面目で実直な深溝を、

「友達としては素敵な人だと思う」

 と言葉では言っていたが、どこか性質的にどこかどうしても許せないところがあったようだ。

「虫が好かない」

 というだけでは片づけられない何かがあるのだ。

 それはまるで、女性がクモのような動物を受け付けられないのと似ている。反射的に払いのけたりして、その後震えがしばらく治らないと言った助教に酷似しているのではないだろうか。

 だから、もし、

「あなたが彼の首を絞めたのよ」

 と言われたら、その時の意識が無意識であったとしても、自分がやったことに違いないと思うことだろう。

 あの時、意識を失っていて、気が付けば自分の手に麻縄が握られていて、その横で首を絞められて死んでいる自分の知り合いがいれば、自分がやったと思っても無理もない。しかもそれが毛嫌いしていて、嘔吐を催しかねない相手だとすれば、自分が殺したと信じ込んでも仕方がない。それだけ状況はひっ迫していたし、まわりに誰もいないので、証明してくれる人もいない。

 だが、逆に目撃者もいない。咄嗟に逃げ帰ることもできるだろう。むしろ普通の女の子であれば、逃げ帰ってしかるべきだ。それをその場に残って、しかも後で自首するなど、よほどふてぶてしい神経を持っているのか、逆に精神的に追い詰められたことで自首という安直な行動を取ってしまったかのどちらかだろう。

 瑞穂を知っている人は、そんな軽はずみな行動ができないことくらい分かっている。それだけに自首の理由が分からなかった。

 安川は瑞穂がなぜそこを物色したのか、想像もつかない。何か安川の弱みでも握って、自分と別れないような策を練ろうと考えたのかも知れない。だが、一度は自首した身、やはり考えが分からない。

 瑞穂はそれを持って、鎌倉を訪ねていた。鎌倉は自宅にいて、今度の事件についてまとめたノートを見て、いろいろ考えていたようだ。瑞穂が訪ねてきたと聞くと、少々驚いたが、すぐに中に通してくれた。

「やあ、これはこれは、いらっしゃい。今日はおひとりですか?」

 と、鎌倉が少々驚いたというのは、来訪者が瑞穂一人だったということだ。

「ええ、今日は私一人で参りました」

「どうですか? 少し落ち着かれましたか?」

「ええ、もう大丈夫です。この間はありがとうございました」

「いえいえ、それにしても今日はおひとりとは、つばささんにご予定があったのか、それともおひとりの方が都合がよかったのかな?」

「ええ、私一人の意志です。だから、私一人で参りました」

「なるほど、分かりました」

 鎌倉がやたら一人にこだわるので、瑞穂の方も、意地になっているのかも知れない。

 瑞穂の表情を見ていると、真剣なそのまなざしは前の時と違い、真正面から鎌倉探偵を見つめていた。これは鎌倉探偵に対しての一種の挑戦のようにも見えたならなかった。一緒につばさをともなっていないということで、一人戦闘態勢になっているのかも知れないが、果たしてそれだけであろうか。

 瑞穂は鎌倉探偵が読んでいたノートが目に入り、

「事件のことを研究されていたんですか?」

 と、さっそく目ざとさを示すように、瑞穂がそのことを指摘した。

「ええ、少し頭の中を整理していました」

 と言ってニコニコしていたが、実はこれは瑞穂が目ざといわけではなく、鎌倉探偵がわざとこの話題に振れやすいようにしたのだ。

 それは鎌倉探偵が気を遣ったからなのか、それとも何かの誘導なのか、鎌倉探偵のニコニコした表情から読み取ることはできなかった。

「何か、分かったことはございまして?」

「そうですね。いろいろ分かってきたような気がしますね。でも、まだ何か一つパズルのピースが埋まらないというか、それをいろいろと模索していたというところです」

 と言って、頭を掻きながら、テレたように言った。

「少しでも分かったことがあれば、お聞かせいただけると嬉しゅうございます」

 と瑞穂がいうので、

「そうですね。お話できることはしてみたいですね」

 と言って、自分の書いたノートに少し目を落としていた。

 そして、少し沈黙が続いたが、最初に口を開いたのはやはり鎌倉探偵であった。

「ところでですね。瑞穂さんは今日、安川君が深溝氏の病院を見舞ったのをご存じでしたか?」

「いいえ、初めて聞きました」

 というと、

「そうですか、私は病院の担当医から聞きました。担当医というのが、警察の門倉刑事と昵懇の仲ということだったので、その方から門倉刑事を通して、そのことを聞きました」

 と、鎌倉探偵が話したが、瑞穂が言った、

「初めて聞いた」

 というのは実はウソだった。

 そうでもなければ、今日安川の部屋が留守だということを知ることはなかっただろう。病院の見舞いというと、半日は留守にするはずだ。瑞穂は安川の部屋が留守になるのを実は待っていた。

 瑞穂はいきなり鎌倉探偵から、その話を切り出されたので、少なからずビックリしていた。まるで自分の心の奥を覗かれた気がして、少々気持ち悪くなったと言っても過言ではないだろう。

「お友達同士ですから、お見舞いに行かれたんでしょうね」

 と瑞穂がいうと、鎌倉探偵はニコニコ笑って、今日、担当医が安川に話したのと同じような内容の話をした。

 ただ、ここでは同性愛のことについて言及することはなかった。重要な話なので、最後にはしないといけないだろうが、この事実を瑞穂が知っているのかどうか、分からなかったからだ。

――もし知ったら、かなりショックを受けるに違いない――

 と鎌倉探偵は考えた。

 なるべく、瑞穂には余計なことでショックを与えたくないと思ったからだったが、瑞穂は自分が鎌倉探偵に、そこまで気を遣ってもらっているなどと、思ってもいなかったようだ。

「それにしても、睡眠薬と一緒に何かを使用していたなんて、何を使っていたんでしょうか?」

 先ほどの医者の話から、安川の部屋で見つけたクスリのことが連想され、気になるとどうしようもなくなってきた、

 さすがに瑞穂も何も知らないウブな娘というわけではない。個人で注射器などを持っていると、それが何を意味しているものなのか分かるというものだ。

 実は瑞穂はスナックに勤め始める前、短大で薬学の勉強をしていたことがあった。卒業してしまってから、難しいことはほとんど忘れてしまったが、少々の理屈くらいなら分かる気がする。

――そういえば、睡眠薬の中には麻薬を中和する力のあるものもあった気がしたわ――

 もちろん、中和できるのはすべての麻薬ではなく、特殊な麻薬である。しかも、中和するにはある程度の知識を持っている必要があると聞いていたので、安川にはそういう知り合いがいたのかと、勘ぐってしまった。

 瑞穂が安川の部屋にあった注射器を入れていた容器に、「白い粉」と言われるクスリが入っていなかったことに疑問を抱かなかった。もし、その時彼女がそのことを不思議に思っていれば、それが安川の所有物ではないことに気付いただろう。

 しかし、彼女は気付かなかった。彼女は結構頭がよく、普通の精神状態で、しかも思い込みなどがなければ、少しはそれが安川の持ち物ではないということに対して考えることができたかも知れない。それができなかったというのが、ある意味彼女が、

「思い込みの強い女性」

 ということを示しているのかも知れない。

 深溝は、精錬実直な性格にたがわず、用心深い男でもあった。部屋の中の大切なものを隠しておく場所に、すべてを一緒にして置いておくようなヘマはしていない。もし、見つかったのが注射器だけであり、粉が見つからなければ、言い訳はできる。睡眠薬で中和しているので、身体から陽性が出ることもない。またクスリだけが見つかっても同じことだ。

 いくら陰性であっても、証拠品が見つかった時、セットで見つかってしまっては、そう簡単に言い逃れはできないだろう。

 しかし、証拠品がバラバラになっていれば、いくらでも言い訳ができる。逮捕されたとしても、不起訴になったり、証拠不自由分で釈放もあるからだ。

 そんな神経質で用心深い深溝がそれでも薬物に手を出したのは、それだけ安川を失うのが怖かったのではないだろうか。

 安川は、両刀だった。最初は暗かった自分を見つけてくれた深溝に対し、友情を深く考えた。その友情を深溝はどう感じていたのだろう? 彼の性格からいくと、少々安川という男が怖かったのではないだろうか。ただ、安川はその時、深溝のように、彼に対しては精錬実直だったのだろう。純粋に親友として彼を敬っていたに違いない。それを感じるとまるで深溝は自分が鏡を見ているような感覚になったに違いない。

 そんな自分が何を見ているのか、深溝は分からなかった。ひょっとするとその時に何が見えていたのか、今でも分かっていないだろう。

 もし分かっているとすれば、クスリを使ってまで、安川を繋ぎとめておこうなどという狂気に身を投げ出すことはなかったのだ。

 だが、今の安川は、

「二人の愛の巣」

 となっていた深溝の部屋にあった彼の秘密を持ち出した。

 その理由は深溝が法に抵触するような事実を見つけたことで、彼を脅迫しようという、いわゆる犯罪の正攻法を考えていた。

 深溝がどんな思いだったのか、あるいは、深溝が自分のためにどれだけ気を遣って、さらに愛情迄ささげたのかを考えていなかった。

 そもそも同性居合を持ちかけたのは安川だった。安川がそんなことを深溝に教えなければ、深溝も安川にこんなに執着することもなく、今は普通の生活を送っていたことだろう。それなのに、安川は深溝に飽きると、さっさと瑞穂に乗り換えた。

――やっぱり、オンナがいい――

 と、ばかりに、今までいかつい男の身体に慰めモノになっていた自分を正直気持ち悪いと思っていたことだろう。

 久しぶりに感じた女の肌、まだ童貞の時に、大学の先輩から連れていかれた風俗の店での感動を思い出していた。

 とはいえ、今度はまったく違和感がない。

 今までが異常だったと正常に目覚めたつもりでいる安川は、ひょっとすると、深溝の存在自体が自分にとっての黒歴史になったのではないかと思うようになった。

――もし深溝が誰かに刺されなければ、この俺が刺していたかも知れないな――

 と感じた。

「実は今日私が来たのは、これを見ていただきたいと思ったからなんです」

 と言って、瑞穂が取り出したのは、何と安川の部屋から持ち出した、例の注射器の入った箱だった。

 瑞穂はあの箱を持ち出すことで、安川の麻薬に関わる犯罪を隠蔽しようとでも思っていたのではないか。あるいは、これをネタに、安川を脅迫でもしようと思っていたのだろうか? 少なくともそのどちらかでしかないと思われていたものを、何を思ったか、考えられることのまったく正反対の行動とも言える、証拠品を探偵に示すという暴挙をやってのけたのだ。

「これは?」

 と鎌倉先生が聞くと、

「これは、安川さんの部屋から見つけたものです。彼と私はお付き合いしていたので、彼の部屋に入ることは無理なことではなく、彼が大切なものを隠している場所は分かっていましたので、これを見つけることができました」

 と言った。

 しかし、その言葉を鎌倉は全面的に信用してはいなかった。特に気になったことをさっそく口にしてみた。

「ああたは今、彼が大切にしているところが分かっているので、見つけるのは簡単だとおっしゃいましたが、では、その場所をわざわざ探してみたのはどうしてですか?」

 と聞いたが、これは何かそこにあるという確証があったから、探してみたと言っているのと一緒だ。

 それを鎌倉は指摘したのだ。

「ええ、私は安川さんが私と別れようとしていることに気付いていたので、きっと彼に誰か新しい彼女ができたのではないかと思って探っていたんです。そして探している時にそれをちょうど見つけたというわけなんです」

 と言った。

 この言葉には実はウソはなかった。確かに安川は深溝の男の身体に嫌気がさし、そして瑞穂の身体を求めることを選択した。

 しかし、オトコと切れたから瑞穂に流れたわけではなく、瑞穂だけでは我慢できない自分をその時に同時に知ったのだった。

 安川の次なるターゲットはつばさだった。

 だが、つばさは瑞穂と仲がいい。彼女のことを心配して鎌倉を紹介してくれたのもつばさだった。安川はそんなつばさの行動力にも魅力を感じていた。彼女には、瑞穂にはない眩しさが溢れているように見えたのだ。

「隣の芝は青い」

 という言葉があるが。それは見る視点が違うからだと言われている。

 この場合のつばさが青く見えたことは、瑞穂にも安川がどんな厭らしい目でつばさを見ているかに気が付いた。つばさの方ではまったく意識していないようだったが、男と女というのは、いつどこでどうなるか分からない。それを思うと瑞穂は気が気ではなかったのだ。

 そんな厭らしい視線にまさか瑞穂が気付いているとは安川も思っていない。安川は瑞穂よりも深溝の視線の方が怖かった。逆恨みまではないだろうが、少なくともこちらが優位な状態を保っていないと安心できないと思っていたのだ。

 それは精錬実直で知られている深溝の本性を知っているからだ。彼は下手をすると何をするか分からない男に見えた。殺されたりすることはないだろうが、安川を社会的に抹殺することくらいはできるであろう。

 深溝のような精錬実直でまっすぐな性格の男の言い分と、自由奔放で気ままな安川の言葉と、世間はどちらを信用するだろう。被害妄想的なところもあった安川は、自分に味方をしてくれる人などいないと思っていた、それは瑞穂に対してもそうだった。彼女とは言いながら、何を考えているか分からないところがあると思っていただけに、全面的な信頼は寄せていなかったのだ。

――今まで自分を信用してくれる人がいるとすれば、それは深溝しかいなかっただろう――

 という思いが、皮肉にしか思えないくらいだった。

 深溝を裏切る形になった安川は、同時に味方を失ってしまったことを知った。

「早まったことをした」

 と地団駄を踏んだが、もう後戻りできないことだ。

 特に相手は深溝だけではなく、瑞穂も同じで、相手はまったく性格の違う二人だ。

「こちらを立ててればこちらが立たず」

 まさにこの言葉が示している。

 安川は追い詰められていたのだろう。

 鎌倉は、このあたりまでの事情は分かっていたようだ。

「ま、大体のことは予測がついています」

 と言って、安川が怪しいことを、順序だてて瑞穂に話した。

「まあ、じゃあ、安川さんが企んだことなのかしら?」

「そういうことではないあkと思います。クスリのことにしても、あなたとの関係、深溝君との関係。彼を擁護するつもりはありませんが、彼はある程度追い詰められていたんでしょうね。ただ、瑞穂さんに対しての愛情にウソもなかったと思っています。もし、それを否定するとすれば、この事件は最初からなかったのと同じですからね」

 と、鎌倉は言った。

「ということは、安川さんは私と深溝さんの間に愛情のジレンマと、クスリのジレンマがあったことで、私と深溝さんからいいようのないプレッシャーを感じ、私と深溝さんのどちらも抹殺しようと思ったということでしょうか?」

「ええ、ただ、二人とも完全に息の根を止めるようなことはしたくなかった。そこまでは悪人にはなれなかったんでしょうね。自分がこんなことをするのも、二人のせいだと思い込んだのは無理もないことだと思いますが、そのために行うやむ負えないことというのはあくまでも制裁であって、処断ではないということですね。彼にもそれくらいのことは分かっていたはずです」

「でも、精神的にはかなり痛手にはなりました」

「もちろん、そうでしょう。それに彼がやったことは制裁であっても許されることではありません。最終的な動機はエゴも入っていますからね」

「それはつばさに対しての気持ちでしょうか?」

「ええ、ただつばささんに対しての気持ちが本当に愛情なのか、僕には疑問なんです。もし、つばささんに対しての気持ちが愛情であれば、ひょっとすると、もっと安川さんに対しての嫌疑は遅くなっていたでしょうね」

「というのは?」

「もし、つばささんに対しての愛情が本物なら、我々、特に瑞穂さんには、それが自分へのものだと思ったかも知れないということです」

「どうしてそう思われるのですか?」

「安川君というのは、あなたが好きになったので分かると思いますが、恋愛に関しては精錬実直なんです。だから、男同士とはいえ、深溝さんのような精錬実直な人とあのような関係になった。だとすれば、つばささんに対しての愛情もあなたに対してのものと同じような気持ちなので、ちょっと分かりにくいんじゃないかと思うんです。あなたも、安川さんがまさか相手が男だとは思わなかったでしょうが、他に誰かいるなんて思わなかったでしょう?」

 と言われ、瑞穂は少し考えてから、

「ええ、確かにそうですね。でも、深溝さんとまさかと思った時、やっぱりと思ったのも事実なんです。分かってしまうと、いろいろ思い当たるところがあったという感じなんでしょうか」

「なるほど、それも安川君の特徴なのかも知れないですね。あなたをミスリードして深溝君の首に手を掛けさせる。その時、彼は睡眠薬を飲んでいたので、少し絞めただけでも彼は気絶するでしょう。だからあなたは罪に問われるほどきつくは絞めていません。それを安川は知っていたので、少し時間が経ってからでも、まだ深溝さんは昏睡状態だと思っている。そこでもう一度彼を絞めたんでしょうね。でもその時は殺すつもりだったかも知れない」

「でも、実際には殺していませんよね?」

「ええ、そこなんですよ、完全に殺そうと思えばできたのでしょうが、苦しんでいる深溝さんを見て可哀そうだと思ったのか、それとも見たこともない彼の顔を見て、殺そうという気持ちが萎えてしまったのか、本当のところは本人にしか分かりませんが、結局深溝さんは死ななかった。それはあなたにとっても不幸中の才腕。でも一番ホッとしているのは唐の本人である安川君なのかも知れませんね」

「安川さんにとって、私は何だったんでしょう?」

「それは恋人だと思っていると思いますよ。その気持ちに変わりはないと思います。ただ、ひょっとしたら、最初は深溝さんとの間を清算するために、初めてまわりを見て、そこで見つけた相手だという但し書きがあるのかも知れませんが」

「何か複雑な気がします」

「でも、恋愛などというものは、存外そんなものなのかも知れませんよ。好きだった人と別れてから、他の人を好きになるなどということは、当たり前にありますからね。それに前の人を忘れようとして好きになるパターンもあります」

「そうなんですね」

「もちろん、失恋してすぐに恋愛なんかできないと思っている人も多いでしょう。好きになった人の思い出が自分の意識のすべてを満たしている場合、他の何も目に入らないという人もいますからね。要するに他の人を受け入れられないんですよ。だって失恋した相手を最初に好きになった時、『この人は唯一無二の人だ』だなどと思うじゃないですか、その人に対しての思いはたとえ失恋しても、消えることはないでしょうから、急に他の人を好きになるというのは、そんな自分の気持ちを否定することになる、でもね、結局次に好きになる人も同じ思いで『唯一無二』だと思う人なんですよ。だからm頭の回転ができるかできないかではないかと私は思います。視線を変えるとでも言いましょうか。いわゆる『隣の芝が青く見えるか見えないか』ということではないでしょうか?」

 という鎌倉先生の話を聞いて、瑞穂もハッとした。

「なるほど、それが安川さんの方の性格なのではないかとおっしゃりたいのですね?」

「ええ、その性格をあなたと深溝さんには理解できなかった。それがひょっとすると安川君を追い詰めたのかも知れませんね」

「そう思えてきました」

 そう言って少し考えていた瑞穂だったが、ふと思い立ったのか、

「ところであのクスリは?」

 と聞いてみた。

「あの麻薬は、性交渉をする時に、快感を得るためにしようされたんでしょうね。もちろんそれを使用したのは深溝君でしょう。それほど安川君との間の行為に燃えていたんでしょうね。でも、そのうちに依存症がハッキリしてきたので、睡眠薬による中和を考えた。しかも、もう一つ考えたのは、もし警察から何か言われた時に、言い逃れするためもあったでしょうね。彼は麻薬を使うようになって、精神的に不安定になり、疑心暗鬼が強くなってきた。そのせいもあって、睡眠薬も常備するようになった。目には目をというのがm逆に煽る形になったというべきか、症状を打ち消すことには成功していたかも知れませんが、潜在意識としては、相乗効果を生んだのかも知れない。彼は睡眠薬を常用するようになってから、悪夢に悩まされるようになっていたかも知れないですね」

「深溝さんはどうなるんでしょう?」

「まあ、命にも精神的にも異常はないと思います、欠落した記憶もクスリと睡眠薬の相乗効果によるもので、次第に取れていくと、精神的にも安定してくるし、記憶も戻ってくるでしょう」

「そういえば彼の性格なんですが、あれはクスリのせいなんでしょうか?」

 と、瑞穂が聞いた。

「若干はあるかも知れませんね。確かに精錬実直な人は多いとは思いますが、あそこまで落ち着きを払っているのは、少し病的なところがあります。だから、すべてが素の性格だとは言えないところがあると思います」

「なるほど分かりました。では安川さんはどうなんでしょう?」

「安川君も、私はある意味では被害者なのではないかと思います。この事件は、最終的には誰も死んでいないし、大きな事件にはなっていないけど、逆に言えば、僕には犯人はいないのではないかというおかしな意見もあるんですよ。つまり登場人物、主要人物のことですがね。その人たちに少しずつの罪深いところがあって、それが重なりあってこんな自演を引き個々してしまったというべきではないかと思うんです。もちろん、実行した人が一番悪いのでしょうが、すべてを押し付けるのはいけないと思います。やり方として人を陥れるのはいけないとは思うけど、やむ負えない部分もあったということで、私としてはやり切れない気がします」

 と少しうな垂れた鎌倉探偵を見て、

「じゃあ、私にも何か悪いところがあるのでしょうか?」

 と瑞穂は聞いた。

「あるかも知れません。今の私には何とも言えませんが、できれば、それはあなたに自分で探してもらいたい。この事件はある意味、自分に何か悪いところがあるのではないかということを、ウスウス感じていて、それを追求する勇気がなかったことから起こった事件ではないかとも思うんです。だから瑞穂さんには、ぜひ自分の中で解決できることは解決してほしいと思うんです。結局他人には人の気持ちの中までは入りこめないということなんですよ」

 と鎌倉は言った。

「私は、自分で自首する気持ちになった時のあの心境を今思い出していました。今の鎌倉先生のお話を伺ってると、あの時の自分に何か問題があったのではないかとも思っているんですよ」

 と瑞穂がいうと。

「そうですね。私もあの時のあなたには問題があったと思います。自首することですべてを解決しようと思われたのでしょうが、それは浅はかだったという感じだと思います。そのあたりから、もう一度ご自分を思ってみると思いますよ。客観的に自分を見つめるのがいいと私は思います」

「分かりました。そうしてみます」

「この事件は、案外気付きにくいんですが、同じ時にまったく同じことを考えていると思っている人と、まったく別のことを考えている人が存在していたと思います。でも、それはその時だけではあく、考えているんじゃなくて、考えるというべきなんでしょうが、絶えずその場その場であったのではないでしょうか? それがすれ違いになったのではないかと思うのは私の突飛な発想でしょうかね」

 と、意味深な話をした。

 どうやらこの事件は、表に現れた事実から解明するよりも、鎌倉先生のように深層心理を研究することで、見つかった事実を裏付けることになり、

「点を線で結び付けることができる」

 という理屈に繋がってくる一つの例だったのかも知れない。

 深溝には薬物に関しての罪、瑞穂には障害の罪、安川には殺人未遂と、それぞれに罪の代償があったが、それほど大きな罪でもないので、情状酌量により、執行猶予などがついたりして、実刑ということはなかった。

 鎌倉探偵はそのことに安堵はしていたが、何か煮え切らない気持ちになっていたのは事実であった。

「人間というのは、喉元過ぎれば熱さも忘れますからね」

 と門倉刑事に話したのは、三人の刑が確定してから少ししてのことで、二人はそう言いながらやはりやり切れないと言った表情でため息を吐いたのは、言うまでもないことであった……。


                  (  完  )

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加害者のない事件 森本 晃次 @kakku

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