第8話 クスリ
「どうせ俺は、まわりから自由奔放なやつだと思われているし、実際にそうも言われる。これは皮肉を込めた言葉であって、褒め言葉では決してない。『お前の行動には節操がない』あるいは『お前には何を言っても無駄なんだ』という言葉が頭から離れないんだ」
と自分で自分に語り掛けていた。
そして次々に説教されて、何も分からずにヘラヘラと笑っている子供の姿が影絵のように、薄暗くなっている沈みかけた日をバックに浮かび上がっているのが見えてくるようである。
「お前は何を考えているんだ?」
「何も考えていないじゃないか」
「少しはちゃんと考えろ」
そのほとんどの言葉にくっついてくる「考え」という言葉。
一体何を考えるというのだ? 果たして考えるというのはどういうことなんだ? 自分にできないことなのだから、結構難しいことなのか? でも、皆簡単にできているように言われる……。
そんなことをいろいろ思い描いていると、結構自分でも「考える」という言葉も使っているし、自分が浴びせられた罵声を、他の人にも使っている。他の人はどんな気持ちで聞いているというのか、訪ねてみたいくらいだ。
考えるという言葉について、感じることは、
「いくつかあるうちの選択なのではないか?」
ということであった。
「実生活の中で何かを考えるというのは、最終的に何かに決めるということである。その材料は揃っていて、その中からどれを選べば一番の正解なのか、似たようなシチュエーションで、まわりにいるのが同じ人であっても、考えているのが別の人だったら、まったく違った選択をするかも知れない。その人の性格もあり、正しい選択というのは、その人それぞれの性格でも変わってくる。だから答えは一律に一つではないということだ。
だから、まわりの状況、自分の性格、そして過去の経験などから、何が正しいのかを自分で割り出す。それを考えるというのだろう。
人間は成長するものだということなので、同じようなシチュエーションでまわりが同じで、同じ人が考えるとしても、過去と同じ回答をするのが正解とは限らない。この世で二つと存在しない例として十分な場面だと言えよう。
そういう意味で、
「ちゃんと考えろ」
と言われている人が、よく人から説教される時に使われる話として、
「家を出る時に、最初に右足から先に踏み出すか、あるいは左足から先に踏み出すか、それも考えるということだ。つまりは、絶えず何かの選択には考えるということが伴ってくる」
と言われることが多い。
この言葉が考えるということの本質を捉えているのではないか。
安川は子供のことから、このセリフを言われ続けた。親から言われ、学校では先生に言われた。もううんざりだった。
確かに自分は考える、つまり選択においては苦手なところがあった。理屈は分からなくとも、何かを考えるということが選択に当たるのだということをである。だが、選択などにどんな偉さがあるというのだ。二つに一つ、考えなくとも選ぶことはできる。考えて選んでも不正解なら、
「何も考えていない」
と言われる。
しかし、考えなくとも選んだことが正解なら、褒められる。それは理不尽というものではないか。裏でこの思いがあるから、
「ちゃんと考えろ」
という言葉に違和感を抱き、どうしても逆らいたくなる。
その思いが、考えるということがどういうことなのか、分からないという発想委なるのだ。
その思いが大きくなっても承服できない、理解できないことは最初から受け付けなくなってしまったに違いない。そのために世間を欺くような性格を表に発信し、なるべく悪い意味ではない自分を形成しようと思う。その態度が他人から見て、
「自由奔放」
あるいは、
「品行方正」
という四字熟語に当て嵌まるようにまわりに見せているのだろう、
どちらも本来なら悪い意味で使われることは少ない、特に品行方正と聞いて悪く感じる人はいないだろう。だが、最初から自分の性格の隠れ蓑として使っているのだから、
「人を欺くことはそんなに難しいことではない」
などという甘えた思いに至ってしまうこともあるのだろう。
そういう意味での、
「考える」
ということに対してはいつも厳格で、決して間違った選択をしなかったのが、深溝だった。
本当のことをいうと、高校生の頃までは、安川も深溝のような人は嫌いだった。自分も高校生の頃までは人と話をすることもなく、集合写真を撮っても、いつも端の方にしかいないタイプで、誰から見ても、
「その他大勢」
と言われていたのだ。
実際に自分もそれでいいと思っていたし、まわりにいる人間を、
「皆、僕よりも優れている」
という思いもあったが、逆に、
「俺はお前たちとは違うんだ」
と、一人称単語すら違っているほど、正反対の面を持っていた。
実際にどれだけ違っているのか分かるはずもなく、闇雲にまわりとの違いを主張することで、自分の劣等感を払拭しようとしていたのだろう。
そんな中だったので、まわりには誰も寄ってくるはずもなく、自分が何者なのかということすら暗中模索の状態だったのだ。
だから、好きになる人よりも嫌いになる人の方が圧倒的に多かった。高校時代に人間として好きになった相手があっただろうか。きっと自分を好きにならない限り、誰かを人間的に好きになるなどということはありえないと思っていた。
それがどうだろう。大学に入ると、
――なんでこんな奴が大学生になれるんだ?
と思えたり、
――これが大学生なら、何もあんなに必死になって勉強して入学してくる場所ではない――
などと考え、自分の想像をはるかに超える人たちが存在していた。
そんな中、楽しい中にまわりへの疑心暗鬼が浮かんでくると、今まで嫌いだったはずの深溝が現れた。
彼と話をしている間に気付いたことがあった。それは、
――あの頃、彼のようなタイプを見て嫌いだと思ったのは、まるで目の苗に鏡があって、その鏡に写った自分に嫌悪の顔を浮かばれたことで、同類としての哀れみを感じたからではないか――
という思いであった。
実際にはもっと自由な環境に自分も酔ってしまい、それが堕落への道だということを知らず、何かの魔力に引き寄せられるように入り込んでいくことで、少なくとも違った目線から見た深溝が、自分にとって尊敬できる初めての人間として映ったのだった。
いきなり尊敬というのは大げさだが、少なくとも、
「考えるということの被害を最小限に抑えられる部類の人物だ」
ということを感じた。
考えるということへの被害がまったくないなどということはないと思っていた。
「失敗をしない人間なんていない」
という言葉を聞いたことがあるが、それと同じ意味ではないか。
それが、深溝という人間に対しての思いであり、しかも再認識して感じた、完璧な見え方だったのではないかと思った。
深溝が安川に対して、
「俺のベッドの中に来い」
と言った意味を、看護師が理解したのかどうか分からないが、一瞬、身体がビクッとしたのを感じた。
彼が口にした瞬間、反射的にまわりの人を見たので、間違いないと思うが、さすがに一瞬、
――こいつ、何を言ってやがる――
とばかりに顔が羞恥に真っ赤になっていくのを感じたが、そういえば、安川はすでに羞恥など、どこかにかなぐり捨ててきたのを思い出していた。
あれは大学に入学してすぐくらいだったか、実は安川はまだ童貞だった。最初の相手は彼女ではなく、よくある風俗での体験だった。先輩に連れていってもらうというパターンもよくあることだが、
「おい、そろそろお前も童貞を卒業してもいいだろう。俺もいくから連れて行ってやろう」
とばかりに、その日だけは先輩の驕りということで連れて行ってもらった。
それまでの安川は、彼の象徴ともいうべき、
「自由奔放、品行方正」
とは正反対で、高校生がそのまま大学生になっただけの人付き合いもできないような日陰人間だったのだ。
風俗に連れて行ってもらうと、待合室に入ると、そこにいたのは、皆緊張でタバコを何本も吸っている連中だった。
「こいつらだって、もう何回も来ているんだぜ。それでも待合室に入るとこの緊張感さ、人間の羞恥心というのは大したもんだよな」
と、先輩は耳打ちで話してくれた。
確かに待合室という環境は実に複雑な心境を与えてくれる。まわりの人が緊張しているのも分かり、自分もワクワクドキドキが緊張に変わっているのも分かる。だが、決して嫌なものではなかった。病院の待合室などは、同じ緊張でも、なるべくならしたくない心境である。特に歯科医などは、あの薬品の臭いだけで、何もされていないのに、痛くなる。
もっとも病院というのは、基本的に身体のどこかに異変があるから行くのであって、最初から不安感という意識が伴っているので、負の要素から始まっている。しかし、風俗の待合室は、これからの楽しみが約束されている。すでにお金を払って受付を済ませていれば、あとは完全なお客さんなのだ。
だが、楽しい時間は決まっている。その決まった時間が終わってしまうと、憔悴感と一緒に襲ってくるのは何とも言えぬ罪悪感のような自己嫌悪である。この罪悪感は普通の罪悪感ではない、どこから来るものなのか、自分でよく分からないのだ。待合室での複雑な心境の楽しみが強かっただけに感じるものでもあった。
――自分の性のはけ口のために、大金を払うことに対しての罪悪感?
それとも、
―ー相手が彼女ではなく、風俗嬢というお金で繋がった関係に対しての罪悪感?
考えれば考えるほど、お金と快感が切っても切り離せないことに気が付くが、そこには羞恥心という感情が結び付けているものではないかという思いがあった。
――そういえば一番最初に、待合室の中で先輩がここにいる緊張感を羞恥心のように話していたな――
ということを思い出すと、
――なんだ、羞恥心というものを捨てれば、別に罪悪感など感じることはないんだ――
と思うことで、風俗に行き、最後に感じていた罪悪感がなくなっていた。
「人間というのは、何か一つのわだかまりから、自分の性格を形成しているものであり、捨てることができれば、性格だって簡単に変えることができるのだ」
という格言のようなものを感じた。
そう思うと、世の中にはいろいろな特殊性癖が存在し、それらは羞恥心を捨てることで、そっちの世界に入ることができる。しかし逆に羞恥心が邪魔することで、その羞恥心によって、今まで気付かなかった自分の性癖に気付く人もいる。
安川は自分を、
「羞恥心を捨てるタイプだ」
と思い、深溝を、
「羞恥心ありきで、自分の性癖に気付くタイプだ」
と感じていた。
お互いに違うタイプなのに、お互いに惹き合うことを感じたが、ひょっとすると自分が深溝に感化されてしまったのは、自分に気付いたというよりも、人を見る目が養えたからではないかと思うようになっていた。
磁石などでいれば、異なる極が結び付き、同じ極同士では反発しあうものである。しかもその異なるものは正反対の様相を呈しているのだ。そういう意味では、安川と深溝は磁石の異なる極と言えるのではないだろうか。
性格も性質も違っていれば、数学の計算のように、マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるという感覚であろうか。どうしてお互いが交わるほどまでに仲良くなったのかというと、安川の場合は、自分の中に寂しさがあったからではないかと今では思っている。
逆に言えば、その寂しさが解消されれば、紛らわせてくれた相手がいらなくなるというのも道理で、少しずつ距離を取るようになったのは、安川が最初だった。
しかし、安川は知らない。実際には最初に距離を取るように意識し始めたのが深溝であるということを。相手に気付かれないように距離を取ろうと思っていると、自分が避けられていることに往々にして気付かないものである。特に二人のように、決して他人に看破されてはいけない関係にとって、他人に知られることは二人の間の破局だけではない、もっと大きなものを失うということを意味している。
男同士の愛というのは、最近ではボーイズラブなどと言って、マンガでジャンルになるくらいなので、知名度はあるのかも知れない。しかし、それは美男子同士が愛し合うという綺麗に彩られたもので、だからこそ淫靡なイメージを受けるのだ。しかし実際には、むさ苦しい男同士が静かな密室で、悶える姿や、その声などを想像すると、普通なら嘔吐を催してもいいだろう。
そんな場面を他の人に見られでもしたら、それこそ自殺でもいたいと思う人がいてもおかしくないだろう。
意外と同性愛に走る人ほど、羞恥心を把握できていないのかも知れない。
だが、この二人に関しては、羞恥心は心得ていた。安川の場合は羞恥心があるからこそ、同性愛に走ったとも思っている。かなぐり捨ててしまうと、抵抗がなくなってしまい、ただの快楽だけを求める人間に成り下がっていることが分かるからだ。羞恥心が歯止めだとは思っていないが、羞恥心が教えてくれるものは結構あるのではないかと思っている。
そんなことを思っていると、深溝は急に睡魔に襲われたのか、何と目を開けているのに、すでに眠ってしまったいるようだった。
その表情は安心しきったようで、次第に目が閉じていく。その時に彼が白目を?いているように見えて、どこか気持ち悪さを感じた。
「気持ち悪い」
と一瞬感じたが、この顔は今までに見たことのない顔ではなかった。
ベッドの中で快感を貪り、憔悴感が漂ってリル中、すでに力が入らない状態になっている深溝が、たまにする表情だった。
その時は、今のように、
「気持ち悪い」
などということを感じない。
気持ち悪いと感じるのは、その場面ではありえないような表情になった時であろう。本当は今感じることは、
「懐かしい」
という思いであり、決して、
「気持ち悪い」
という気持ちではないはずだ。
だが、今安川は、ベッドの中での深溝の顔を思い出していた。白目を剥いた顔や、目を開けたまま眠ってしまったという一種異様な光景を、果たして懐かしいと思って今、思い出すことができるのだろうか。
「深溝さん、眠ってしまわれましたね」
と、看護師は独り言なのか、それとも安川に言ったのか分からないほど、微妙に中途半端な声を発した。
「眠ったら、なかなか起きないんですか?」
このまま、何時間も寝続けられていられると、さすがに自分の身のやり場に困ってしまう。
「そうですね。結構眠っていられますね」
「どれくらいですか?」
「少なくとも三時間くらいは目を覚ますことはないと思います。私もずっとついているわけではないのでハッキリとは言えませんが、深溝さんが眠りに就いてからというもの、先生からの指示で、私は三十分に一度は病室を覗くようにしているんです」
と、深溝の掛布団を整えながら言った。
「どうしてですか?」
「先生がおっしゃるには、ひょっとすると今後あまりにも深い眠りに陥ってしまうことがあるかも知れないということでした。特に気が付いたら寝ていたというように高速で寝てしまった場合など、気を付けなければいけませんね」
「じゃあ、今日の秒な状態ですか?」
「ええ、そういうことです」
「分かりました。じゃあ、僕は少し先生とお話して帰ることにします」
と言って一礼して、病室を後にした。
医者は医局にちょうどいたので、声を掛けてみようと思うと、先生の方も安川に気付いたようで、
「どうでしたか? 深溝さん。なかなかご自分のことを思い出せないということで、苦しんでいる時期もありましたが」
「ええ、今は眠ってしまいました。あっという間に寝てしまっていたので、僕もビックリしました」
「そうですか、これは睡眠薬の副作用ではないかと思っているんですがね」
「副作用なんて、そんなに一度飲んだだけで残るものなんですか?」
と聞くと、
「一度ではありませんよ。深溝さんは睡眠薬を常用していたようですね。ただ、普通にしている分にはその副作用も出ませんし、一目見ただけでは睡眠薬の常用とは分かりませんね」
「そういえばさっき、先生は両極端になるかも知れないとおっしゃいましたが、それは正反対という意味とは違っているんですか?」
「ええ、正反対の症状というのは、元々から片方の状況しか表に出していなくて、ふいに何かあった時に、初めて表に出てきた症状を私は『正反対』というようにしていなす。でも正反対の性格や性質であっても、それを時と場合によって使い分ける時、つまりジキルとハイドのようなまったく正反対の性格を表に出すことのできる人間が、今表に出ていることのもう一つを出してきた場合、私は『両極端』と呼ぶようにしています。だから別に正式に決まった言い方ではなく、私オリジナルということですね」
と言って笑った。
さすがに難しい言い回しだが、聞いてみると納得のいくものであった。この先生は神経外科などが専門で、深溝のように記憶を失くした人の治療もたくさん手掛けてきたということだった。
ただ、今回は、
「殺害されそうになった被害者」
ということで、警察からの依頼もあるので、他の人には任せられないということになったのだろう。
「ところで先生。今の先生のお話ですと、彼は目が覚めた時、どちらの自分になっているのか分かっているんでしょうか?」
「そうだね、自分では分かっていると思うよ。ただ、それが自分の意志によるものなのかは難しいところだと思うけど、少なくとも今度の事件が起こるまでの彼は、目が覚めた時の自分をコントロールできるタイプの人間だったんだ。だからこそ、表には精錬実直に見えて、融通の利かないところが欠点だという、まるで教科書のような性格を表に出していたんじゃないかな?」
「そうなんですね。僕も深溝という男のことをもっとよく知っているつもりでいたんですが、なかなか難しいですね」
というと、
「そうでしょう。自分こそが他の誰よりもこの人のことを分かっているという感覚でいたわけでしょう?」
「ええ、その通りです」
「それが、相手には余計なプレッシャーになってしまうことがあるんです。あなたは彼が自分のことを同じように感じていたということを自覚していますか? していないでしょう? 意識していないのではなく、意識しないように自分でコントロールしようとしているんです。それができている間はお互いの関係はこれ以上ないというくらいにうまく行くはずです。ツーと言えばカー、当たり前のことのように思っていたでしょう? 歯車が綺麗に噛み合っていたからです。だから歯車の存在にも気づかない。それが一歩外れると、必ず合わさっているもう一つが崩れます。歯車というのは、皆均等に作られていますから、基本的に一つが噛み合わないと、二度と噛み合うことはありません。それが交わることのない平行線です」
教授の話を聞いていると、どうやら治療を受けている今も状態の深溝は、すでに、我々が感じている理性というものも、羞恥心もないのかも知れない。
「教授、彼の中に、羞恥心や理性のようなものは残っているんですか?」
「それはもちろん、残っているはずです。表に出てこないのは、彼の両極端な部分が出てくることで、裏に回っただけのことです。今までの彼を押さえつけていたものが解き放たれたとでも思っていただければ、分かりやすいかも知れませんね」
と教授はいう。
「このことは警察の人も分かっておられるんですか?」
「ええ、当然報告義務がありますから話をしています。でも、調書という形では残していないようですよ」
「どうしてですか?」
「一応まだ病院ですからね。病気である以上、今の状態で調書を取っても、それを裁判では採用してくれないでしょう」
「なるほど、その通りですね」
と、当たり前のことを聞いてしまったことに思わず苦笑してしまった安川だった。
「ところで、あの睡眠薬ですが、彼は何に使っていたんでしょうね?」
と、今度は医者が聞いてきた。
「何にとは?」
「どうもただの不眠症で使用していたという感じはしないんです。この睡眠薬は特殊なもので、実際にはなかなか手に入らない。病院で処方してもらっていたという話ですが、今彼の身体にある睡眠薬とは違うんですよ。ただ……」
と、教授は少し言葉に詰まった。
「ただ?」
「ええ、ただ気になるのは、彼が睡眠薬とは別に何かの薬を使っているということは分かるんですが、それが何なのか、すぐには分からないんです。もちろん、専門で精密に調べれば分かることなんですがね」
「じゃあ、彼は病院で処方された睡眠薬とは別の種類の睡眠薬を服用しているということですか?」
「そういうことになります。ただし、この睡眠薬も便宜上睡眠薬と言ってはいますが、実際には精神安定剤に近いものです。だから、病院では処方してくれません。それを持っていて、しかも体内から、他の薬物が疑われるというのは、ここから先は警察の分野ですね」
と言われた。
しかし、ちょっと考えれば分かることなのだが、そんな情報を、警察でもなければ探偵でもない一介の学生に話すものであろうか。もちろん、自分よりも先に警察には話をしているのだろうが、ひょっとして警察からも、安川が質問してくれば、話してもいいなどと言われているのだとすれば、警察は安川にこの事件で関係者以上の何かを感じているのかも知れない。
しかも薬物関係に関しては、直接何かを提供したというわけではないとしても、重要なことを知っていると思っているのかも知れない。
そう思うと、話してくれたことに対して疑問を持たなければいけないのに、話の内容が本当に初耳だったこともあって、安川は、まるで魔法い掛かってしまったかのようになっていた。
――ひょっとすると、警察はこの状況も想像していたのかも知れない――
いや、警察なのか、手をまわしているのはひょっとすると、鎌倉探偵なのかも知れない。
彼の依頼者は瑞穂であってつばさである。彼女たちの立場を守るのが彼の仕事であり、安川の立場はこの際関係がないからだ。
安川は、もうすでに羞恥心はなくなっているので、思い切って聞いてみた。
「深溝が同性愛者であるということは、ご存じですか?」
と言われて、教授は一瞬ニヤリとしたが、その表情は安川にも分かった。
「ええ、彼が自分で言っていますからね。今の彼だと、安川さんを見かけて口にしたんじゃありませんか?」
「ええ、その通りです」
「それも懐かしそうに。お相手が目の前にいれば、懐かしさと身体が最初に反応することで、一瞬その時の記憶だけが戻ってくるものなのかも知れませんね」
「先生は相手が私だとご存じでしたか」
「ええ、深溝さんの人間関係は警察から伺っていますからね。それが分からないと、治療もできないということで、話してもらいました」
「そうだったんですね。本当ならお恥ずかしくて言えることではないのですが、これも彼に治ってほしいという思いから、僕も恥ずかしさを捨てて話しています」
というと、またしても教授は苦笑いをし、
「いえ、これは思い切っていただいてありがとうございます。深溝さんの治療には我々も全力を尽くします。ただ、一歩間違えると、他の記憶が戻った時に、そのまま残っていた記憶の一部が完全に消えてしまうという危険性もあるんです。それがこの治療の難しいところではないでしょうか」
と教授は言った。
「どういうことですか?」
と安川が聞くと、
「普通の人は記憶がない場合、途中が欠落するというのは珍しい気がします。彼の場合のように途中の記憶が欠落している人は、その部分の記憶がよみがえってくると、記憶を失ってからの今ある記憶が飛んでしまうということが往々にしてあります。もちろん、普通の記憶喪失の人でもありえることなんですが、可能性としては、途中が欠落している人の方が大きいのではないかと思っています。もちろん、ハッキリとしたものがあるわけではありませんけどね」
と、担当医が言った。
「そうなんですね」
「それとクスリというものを、彼が何をどのように何の目的で使用していたのかが分からないと何ともいえないですね」
と言っていた。
この件に関しては担当医よりも警察や探偵よりも安川の方が詳しい。まだ他の誰もそのことに気付いていないと思うと、心のどこかで知っているのが自分だけだという満足感のようなものがあったのは確かなことであった。
安川は、担当医がどれくらいのことを知っているのかということも気になっていた。警察よりも探偵よりもまず最初に分かるのは医者だと思ったからだ。
警察の方ではクスリに関しては、そこまで重要に考えていないふしがあった。
「担当医がそのうちに確定してくれる」
という程度ではないだろうか。
それよりも、もっと必要なことがあるはずだ。被害者の人間関係、そして、その日やその前後の行動、なぜ瑞穂が自首しようと思ったのか。ひょっとすると誰かい自首を強く勧められたのかも知れない。
そうなると彼女の信頼できる相手が問題になってくるが、今のところ考えられる相手とすれば、同僚のつばさか、彼氏である安川になるだろう。安川の方でいえば、彼は被害者と親友という関係でもある。普通に考えれば、安川に相談して彼に自首を促されたと考えるのが一番自然ではないだろうか。
警察はそのあたりから捜査をしていたが、実際には人が死んでいるわけでもないので、言い方は悪いが、もっと優先すべき事件もないわけではない。すべての捜査陣をそちらに割くというわけにもいかないだろう。
安川が病院を訪れたのは、警察の捜査以外の医療的なところでの状況を知りたかったというのも一つあった。それに関していえば、今日得られた情報は想像以上のもので、しかも安川が懸念していたところまで分かっているわけではないということで、安川にとって安心であった。
ただ、いくら羞恥心を捨てているとはいえ、さすがに初めての看護師などの前で、自分が同性愛者だなどということが分かってしまったのは、ちょっとショックでもある、
――羞恥心を捨てたと思っていたけど、それは深溝との間に本当の同性愛が継続しているのであれば、捨てることができていたかも知れないが、今まさに羞恥心が戻ってきたということは自分の中で深溝との間の同性愛という関係が、二度と元に戻らないということを自覚しているからなのかも知れない――
と感じた。
自分が同性愛に目覚めた時期を思い出そうとすると思い出すことができなくなってしまっていた。思い出すことができるとすれば、それはそばに深溝がいるからではないだろうか。深溝を失ってからの安川は、瑞穂に対しても中途半端になってしまい、瑞穂にも余計な気を遣わせてしまったのではないかと思った。
「もう、今日でこれが最後だからな」
と言われて、その覚悟を持って出かけたはずの深溝の部屋。しかしそこに深溝はいなかった。
合鍵を持っていたので、そのカギで中に入ってみたが、いつもは布団から起き上がるだけでもキチンと畳む癖のあった深溝であったのに、その日、部屋の中にいないばかりか、布団も中途半端であった。
まるでのっぴきならない事情が持ち上がって、布団を畳む暇がなかったかのような感じである。
「おーい、いないのか?」
声を掛けても返事がない。
今までにこんなことはなかった。自分が来ると分かっているのに部屋を開けることはなく、開けるなら置手紙か、後から携帯に連絡があるはずだった。そのどちらもなかったので、安川は不安に感じていたが、まさか殺害未遂の状態になっているなど、思ってもみなかったのだ。
だが、考えてみれば、もし瑞穂が自首してこなければ、殺人未遂の参考人として最初に疑われるのは自分だったはずだ。瑞穂が本当に深溝を襲ったのかどうかまでは分からないが、自首したということは、その時一緒にいたということなのであろう。ただ、気を失っていたということでもあるし、本当のところは分からない。まず瑞穂の自首から警察が裏を取っているのだから、自分に対しては少しは猶予があると思っていた。
しかし、安川のアリバイは完璧なものだと思っていた。あの日、安川の部屋の前にいて、合鍵で中に入るところを近所の知り合いの人と出会い、会釈などの挨拶をしたのだから、その人が証言してくれるはずだった。
そういう意味で安川は安心していた。
その時安川は深溝の部屋で見慣れないものを見つけた。
金属の、まるでブリキのような角が丸まった長方形の容器だった。その大きさは昔の筆箱くらいのものだったが、そこまで長細いものではなく、どちらかというと、お弁当箱に近かったかも知れない。
ただ、この容器は以前にもどこかで見たことがあるような気がした。しかも、あまり気持ちのいいものではない。鼻を突く臭いを一緒に感じさせるものだった。
しばらく考えていたが、
「ああ、これは注射器の容器だ」
これが何のために使用されるものなのか、見ただけで安川には分かった。
その時の記憶が、さっきの担当医との話に繋がった。
深溝は睡眠薬と一緒に他のクスリを服用していたという。注射による接種ではあったが、それも同じこと。そのクスリが検査によって出ないように、睡眠薬を服用していたとすれば、これは完全に確信犯だ。
――だけど、あれだけ生真面目で、真正面なやつが、まるで化け物の仮面をかぶっているかのような怪しい面も持っていたというのは、すぐには承服できないところがあったよな――
実は、安川が深溝と一緒にいるのは、同性愛というのも一つなのだが、彼に対して感じている、
「自分にないものを持っているやつ」
という思いが強かったからだ。
自分にないもの、それは彼には裏表がないというか、確かに両面はあるのだろうが、表に出ている部分を必死になれるというところであった。
安川も両面を持っていて、そのどちらが本当の自分かというのを考えるあまり、どちらかが善でどちらかが悪だというイメージを持っていた。だから、裏表をハッキリさせたい気持ちになるのだが、深溝はそのことにこだわっていなかった。
安川はそんな深溝の性格を好きであったし、深溝の方も、そんな安川の性格を羨ましいと思っていた。
お互いにそういう気持ちになったからこそ、惹かれあうことになったのだろう。
同性愛にしてもそうだ。二人はお互いにどうして相手が好きなのか、どの部分が好きなのか、思いあぐんでいたようだ。しかし、身体を求めあうという比較的安易な発想で、重ね合った身体に、今度は気持ちがついていくことで、お互いのことが分かってきたのだ。
つまり、お互いのことが分かってきたから身体を求めあったわけではなく、身体を求めあったことから、次第に見えていなかったものが見えてくるという関係をお互いに分かっていて、それが嬉しいと感じていたのだろう。
ただ、同性愛という関係が、本当はそんなに長く続くものではないということなのか、それともやはり男はオンナを求めるものなのか、お互いにどこかでギクシャクし始めていた。
しかも、そのタイミングが一致していたわけではなかった。タイミングが狂うくらいにお互いが行き違っていたことで、身体のリズムが合わなくなってきたのか、それとも安川が女に走ったことが原因なのか、それとも深溝のクスリ依存症が招いたことなのか、ハッキリとは分からない。
安川の女に走ったのと、深溝がクスリに手を出したのはどっちが最初だったのだろう?
安川がオンナと関係を持ったのは、オンナに走ったというよりも、今まで知らなかったオンナを知ることで、さらに深溝との関係を深めたいと思ったのも事実だった。
「だとすれば、深溝がクスリに走ったのも、同じように今までワンパターンの同性愛に一種のエッセンスを与えることで、より快感w得ようとしたのかも知れない」
とも言えるのではないだろうか。
確かに女性とのセックスの前にドラッグを使用するというのは、一般的でもある話なので、あり得ない話でもない。いや、信憑性としてはかなりあるだろう。ということは、深溝はまだ自分との関係を終わりにしようとは考えていなかったということだろうか。もしそうだとすれば、安川は大きな勘違いをしていたことになる。
安川は注射器と、クスリの入ったそのケースを持ち帰った。持ち帰ったことを深溝は知らないだろう。この日が実際に深溝が殺されそうになった日であり、瑞穂が自首した日だったのだ。
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