第7話 愛情の形
病院に入院していた被害者である深溝雄一が意識を取り戻したのは、事件があってから三日後のことであった。生死の境を彷徨うほどの重症ではなかったので、そのうちに目を覚ますことは分かっていた。そして警察とすれば、彼の意識が戻ればある程度の話が聞けるのではないかと思い、楽観視しているところがあった。
実際に門倉刑事もそう思っていて、それだけに彼が目を覚ます前に自分がこの謎に少しでも迫ることができればと思い、鎌倉探偵と探偵談義をしてみたりした。だが、実際には分からないところが多く、謎を列記するくらいしかできず。どう事件に対応していいのか、まだ方向性すら経っていなかった。それだけに深溝が意識を取り戻したと聞いた時、
「よかった」
と思う反面、
「残念」
と感じるところもあり、複雑な気分になったのも事実だった。
しかし、大半の捜査陣をガッカリさせたのは、担当医師から、
「深溝さんは意識を取り戻してはいますが、まだ事情聴取は難しいかも知れない」
と言われたことだった。
捜査主任はそれを聞いてビックリし、
「どういうことですか?」
と詰め寄ったのはいうまでもない。何しろ、彼の意識が戻るのを今か今かと待っていたのは捜査主任だったからだ。
「彼は、今回のショックと、たぶんクスリの副作用のようなものがあって、意識がまだ朦朧としています。しかも、どうやら部分的な記憶を喪失しているようで、記憶が欠落していると言ってもいいのではないでしょうか?」
「どこまでは分かるんですか?」
「自分が誰かということは分かっているようです。しかし、ショックのあった事件のことはたぶん、今は覚えていないと思います」
と医者がいうと、
「それはまずいな。それはずっと何でしょうか?」
「そんなには酷いものではないですから、そのうちに思い出すとは思いますが、少なくとも今は安静が必要です。特に彼はどうやら性格的に精錬実直な感じがしますので、こうと思い込んだことは無意識であっても貫こうとします。もし記憶を欠落させるような意識が彼にあったとすれば、その原因になったことを根本的に取り除かないと、彼が自分から意識を取り戻そうとはしないと思います。彼のような記憶が欠落した人の記憶が戻るには、自分で記憶を戻そうとする意識が必要なんです。意志である必要はありません。意識を持つだけでいいんです」
と言っていた。
しかし、その記憶を欠落させた何かが警察では分からない。いや、それが事件の核心に迫る部分として、逆に自分たちが知りたいくらいであった。
「ちょっと彼の病室を覗いてもいいですか?」
と捜査主任が聞くと、
「ええ、結構ですよ。でも今の彼は何をするにも無感動であり、何も考えられる状況ではありません。一見、本当にすべての記憶を失っているのではないかと思うほどですが、それは記憶を欠落させた原因が、彼を無気力にさせているんだと思います。私も何とか彼の力になろうと思っていますので、あまり事件のことで彼に余計なプレッシャーを与えることだけはおやめください」
担当医師にそう言われてしまっては、どうしようもない。捜査主任は、病室の扉からチラッと深溝を覗いてみて、看護師が世話をしていたが、自分からは何もしようとしないその状況に、
――やはり、記憶を失っているんだな――
と感じるしかなかった。
「これじゃあ、面会謝絶の状態でしょうか?」
と担当医師に訊ねると、
「そこまでは考えていません。同級生の人や友達が来る分にはいいと思います。普通の病人に対してのお見舞い程度であれば、私は歓迎だと思っていますよ。とにかく精神状態と記憶がない以外は別にどこも異常はないんです。普通に生活をしてもいいくらいだと思いますよ」
と言った。
「私にはかなり重病に見えますが」
と捜査主任がいうと、
「いえ、あれが彼の姿です。普段からあんな感じなんじゃないですか?」
と、これは意外な答えが返ってきた。
「では、彼が治ったというのは、何を持って証明されるんですか? 様子が一緒なら、彼の話を聞くことって難しいですよね。自分で治ったと言っても、信憑性があるわけでもないし、かといって、ウソをついていると確定もできないし、どうなんでしょうね」
と、捜査主任は聞いてみた。
「彼は、元々実直な性格なので、自分の中で辻褄の合わないことを一番嫌うという性質があります。これは性格というよりももっと厳格なもので、その矛盾を自分で意識すると、自分で自分の殻を作ってしまうのではないでしょうか? ただ、今はその機能がない状態ですので、より親しみやすくはなっていると思います。誰か彼の気持ちを和らげてくれる人がいればいいんですが」
と言って、少し考えてみた。
そして、先生は続けた。
「彼に友達はいなかったんですか?」
と聞くと、
「一人いたようです。でも彼女はいなかったようですよ」
というと、
「そうですか。だったらそのお友達と会うというのは記憶を取り戻すきっかけにはなると思います」
「分かりました。友達に相談してみます」
と言って、捜査主任はこの話を門倉刑事に話した。
「安川のことですか? 彼の友達というと」
「そうだね、友達のよしみで、会うように話してくれないだろうか。これは捜査のだめだけではなく、深溝が自分を取り戻すチャンスにもなると思うんだ」
「分かりました。明日さっそく、安川に遭ってみようと思います」
そう言って、安川に連絡を取ると、
「僕がですか? 僕はいいですが、深溝がどうですかね?」
と、含みのある言い方をしたので、門倉は、
「おや?」
と思ったが、とりあえず会わせなければ、何も進展しないと思い、捜査主任のいう通り逢わせてみることにした。
「とりあえず、明日私も病院に行ってみようと思うんだが、一緒に行ってくれると嬉しいんだがどうだろう?」
「僕は構いません」
ということで話が落着した。
それにしても安川は何をそんなに恐れているのだろう。何か気になることがあるのか、それは事件に関係のあることなのか、今時点では何とも言えなかった。
翌日は、午前中学校があるということで、安川と落ち合ったのは、大学キャンパス前に午後一時だった。お互いに食事を済ませてからだったので、そのまま病院へ直行した。
「先生、深溝君の友達を連れてきました」
と言って担当医師に引き合わせた。
「ああ、これは初めまして、深溝君の担当医です。すでに聞かれていると思いますが、彼は今記憶を半分失くしています。普段と少し違うかも知れませんが、そのおつもりで接してあげてください。喜怒哀楽はほとんど出ないと思います。ただ、彼は普段からあんな感じなんじゃないかと思うので、それほど違和感はないかも知れません」
という注意を受けて、
「他に何か注意することはありますか?」
「とりあえず事件のことは口にしないように、そして彼が何かを我慢していて震えを感じたら、話をするのをやめて、私のところにいらしてください。無理にそのまま話そうとすると、きっと両極端になるかも知れません」
と医者は言った。
――両極端?
安川はそれを聞いて、どういうことか聞きただそうかと思ったが、自分の感じていることと少し違うような気がしたので、敢えて聞きなおすことはしなかった。ただ、彼の性格が一変するとは思えなかったからだ。
「それに、君はいつも通りの接し方でいいからね。下手に相手に合わせようとすると、今の彼は神経が敏感になっているので、決して自分から心を開こうとはしないでしょう。いくら親しい中でも最初に心を開かなければ、しばらくは他の人と同じで、相手をすることさえないと思われます。そこは重要なので、しっかりお願いしますね」
と担当医師は言った。
そして、女性看護師に付き添われる形で、安川は深溝の病室の入口へ向かった。他の病人と一緒にしてはいけないという判断で個室に入っていた彼の病室の前には一人の制服警官が立っていた。
「おや?」
それを見て安川は不振に思った。
――なぜ警備が必要なんだ? 彼が自殺をする可能性であるからなのか? それとも、誰かに狙われているのが分かっているのかな?
と感じた。
彼への殺害が未遂に終わってから、そろそろ一週間が経とうとしている。何も警備員が立っていなければいけないわけではないはずだ――
と思ったが、安川は入室に際して警官に頭を下げると、彼は背筋を伸ばして敬礼してくれた。かなり礼儀正しい警官のようだ。
先に中に入った看護師だったが、
「どうぞ、お入りください」
と言って、招き入れられた。
ここまで厳重で、お見舞いも看護師同行というのは初めてで、緊張してしまった安川だったが、天井を見ながら寝ている深溝の頭にクルクルと白い包帯が巻かれているのを見ると、痛々しい限りで思わず目を逸らしそうになった。
「大丈夫かい?」
と言って声を掛けると、深溝はこっちを向いたが、安川はその表情を見て、ギョッとした。
明らかに顔はこっちを向いているが、目の焦点が合っていないのか、安川と目が合っていなかった。その表情はいつもの深溝ではなく、明らかに変だった。
だが、安川は分かっていなかった。これが本当の深溝の表情であることを、そして今のような表情の深溝の方が、世間一般的に見ると、まだ普通に見えるということを理解していなかったのだ。それだけ普段、安川を見る目が異常であり、今安川が深溝を見ているメモ異常に思えるということをである。
今慰めるような言葉を発した時に見せた安川の表情を、看護師は見て見ぬふりをしていたが、本当はゾッとするものを感じていた。安川の表情が異常だということは、男性よりも女性の方が敏感に感じるのだった。
深溝が記憶を失っていて、半分無気力人間になってしまっているのは、安川との面会においては幸いだったのかも知れない。
――ひょっとすると、安川との再会をきっかけにして、深溝の記憶が戻るかも知れない――
と目論んだ門倉刑事の計算は、どうやらうまく行かなかったようだ、
まだ再会したばかりなので、すぐには分からないことではあったが、門倉の考えとしては、
――まず最初の一言を交わした時点で深溝の意識に変化がなければ、安川の存在というだけでは記憶が戻るというのは難しいかも知れないな――
というものであった。
少したとえは変だが、門倉は記憶が戻るとすれば、減算法だと思っていた。安川と深溝の再会は、
「まるで将棋のようだ」
と考えた。
というのは、
「一番隙のない布陣というのは、最初に並べた形(初)であり、一手差す(初手)ごとに隙が生まれる」
と言われている。
つまり、将棋というのは動けば動くほど勝つ可能性も増えるが、負ける可能性も増えるということ。一種の減算法だと言ってもいいだろう。最初に気付かなければ、下手に動いても、そこに効果はないかも知れないというのが、門倉の計算だった。
この場に門倉はいなかったが、門倉は安川と逢わせることで、それほどの復活を期待していたのだろう。門倉は少しは期待していたようだったが、実は鎌倉氏はさほど期待はしていなかった。
鎌倉は安川とは面識があったが、深溝とは面識がない。彼がどのような状況なのか、実際には見ていないのだ。
門倉は彼の状況を把握しているつもりだった。見る限りでは、
――これじゃあ、当分記憶なんか戻りっこないよな――
と気持ちは早く戻ってほしいと思いながらも、現実難しいと思っていた。
ただ、何かの起爆剤があれば違うと思ったが、それが安川であり、瑞穂であった。
瑞穂の場合は、一応殺そうとした相手であり、自首してきているわけだから、もう滅多なことはしないと思うが、逢わせるのは危険であり、瑞穂野気持ちを考えると、かなり無謀なことであった。
それに、深溝に対しても、無理やり記憶を戻すという荒療治に近いものとなるので、それは危険だというのが担当医の考えだった。
「これは昔の電気ショックのようなものなので、失敗すれば取り返しのつかないことになるかも知れない」
というのが、先生の意見だった。
ここでいう、
「取り返しがつかない」
というのが果たしてどういうことなのかというと、
「変に深溝さんの記憶を刺激すると何をするか分からない」
というものであった。
「睡眠薬を服用していたというのは、ある意味神経的にどこか疾患があったから、使っていたのかも知れない。体質ではあるが、人によっては睡眠剤を定期的に服用することで、精神安定剤の代わりにしようと思っている人もいるくらいだからね」
と言っていた。
それに睡眠薬はその種類によって依存性のあるものもあるという、要するに、
「くせになる」
ということだ。
もちろん、彼も医者の処方によって服用していたので、そちらの調べも済んでいた。その担当医によれば、
「彼の服用は、さほど強いものではなく、高校時代の受験勉強により生活が不安定になることで不眠症という情対を引き起こしていました。彼はそれを自覚していて、すぐに通院を始めたので、誰にも悟られず、睡眠薬の服用だけでかなり良くなってきていると思われます」
と言っていた。
彼には睡眠薬を服用する理由もあり、その服用が悪いわけではないということが立証されたのだ、
彼のように実直な性格の人が、そもそも睡眠薬でおかしなことになるというのもおかしなものだ。
だが、なぜか彼には彼女ができない。しかもそのことを自分で気にしているわけでもなければ、誰も相談を受けた人はいないという。
昨日、鎌倉は安川に対して聞いたのは、
「深溝さんには彼女というのはいないのですか?」
という質問に対して安川の返事は、
「僕が知っている限りではいないと思います」
「君にはいるのにね」
と言って、少しニヤッとした鎌倉に、一瞬ドキッとした安川だったが、彼も毅然とした態度で、
「ええ、そのことでやつが僕を羨ましがっているということはなかったと思います」
というと、
「そうかな? 他の学生に聞くと、どうも深溝君は君に嫉妬しているような気がすると言っていたようだったけど?」
と聞くと、
「少なくともそんなことはないと思います。僕にとって深溝は親友なので、彼の心の動きは分かるつもりです」
と、いう言葉には自信が籠っていた。
その自信に鎌倉探偵が不審に感じたのは無理もないことだった。ここまで自信を持って言えるということは、深溝がどう思っているのかは分からないが、安川にとって、二人は対等の関係ではなく、自分の方が優位に立っているという意味での自信ではないかということであった。
鎌倉探偵にとって、この二人は基本的に対等であってほしいと思っていた。自分が優位に感じている友達が、勝手に自分の知らないところで自分の彼女を呼び出した。その時に安川なら何を考えるだろう?
安川の知らないところで深溝の瑞穂に対して、
「親友の彼女」
ではなく、
「恋愛の対象」
として映ったのだとすれば、横恋慕というものでないだろうか。
そうでないとすれば、親友のことを思ってになるのか、深溝の方で何か勘違いをし、瑞穂が安川のそばにいることで安川がダメになってしまうことを懸念して、彼女に安川との別れを懇願に行ったとも考えられる。
ただ、安川に対しての気持ちが親友以上のものであるかも知れないという懸念を抱いてはいるのだが、それはあくまでも、
「ありえないことはない」
という信憑性としてはかなり薄いものではなかったか。
それ以上のことを想像するのは怖い気がして、なるべく考えないようにした。
――あんなのはマンガや小説の中の世界だけのことだ――
などと、甘ちゃんな考えを持っていたわけではないが、そうでないことを祈るという程度で、どちらかというとそんな発想をしてしまった自分に対して恥ずかしく感じてしまう鎌倉だった。
安川は深溝にいろいろ話しかけるつもりだったが、今の状態で何を話していいのか分からない。言葉が出てこないのだ。ベッドに横たわっている彼を見るだけで恐ろしくなる。
――ベッドの中の彼って、こんなかんじだったのだろうか?
とふと余計なことを安川は考えた。
――いやいや、そんなことはない。俺の顔を見て反応しないなんて、何かが間違っている――
とまで思った。
だが、何が間違っているというのだろう? それを考えると、今自分がこの病室にいることが不自然に感じられた。そして、目の前にいるのは確かに深溝だが、その彼に対して何もできないということが安川にとって緊張感をさらに深めた。
もし、その時深溝に意識があり、この状態での再会だったとしたら、安川はもっと頭が混乱していたかも知れない。だが、何も言わずにベッドで佇んでいて、自分を無視しているように見えるのは、いくら記憶が欠落しているという予備知識を得ていたとしても、かなりのショックであるのは間違いない。
「おいおい、俺が何をしたというんだ」
と、声にならない声を発したかと思うと、今度は何も喋っていないはずの深溝の言葉が聞こえてきた。
「何をしたかだって? 自分の胸に聞いてみるんだな。この裏切り者」
と罵られている気がした。
架空の会話がそのまま続く、
「裏切り者? それはそっちだろう。どうして勝手なことをするんだ」
「お前が俺を見限ったからさ、俺たちはそんな関係だったのか?」
「どんな関係だっていうんだ。俺が恋愛して悪いのかよ。お前だって普通に恋愛すればいいじゃないか」
というと、深溝は顔を真っ赤にする。
それを見て、
――しまった――
と感じた安川だったが、もう後の祭りだった。
「できないことくらい知っているくせに、それを知っていて俺に近づいたのか。俺だったら何とでもなるか思ったんだよな。しょせんお前はそういうやつだったんだ。そんなお前を信用した俺がバカだった。しかもまだ俺は……」
と、ここまでいうと、涙で何も言えなくなったかのようにむせかえっている姿が痛々しく感じられてしまう。
「お前、そんな風に俺を見ていたんだ。俺はそんなに薄情な人間じゃない。確かにお前のように精錬実直ではないが、気持ちに正直なところはお前に負けないつもりだ」
というと、
「そうだよね。それが安川という男なんだよな。分かっているつもりなんだ。分かっていても俺の中の正直な気持ちがそれを許さないんだ。本当に因果な性格なんだって思うよ。お前からすれば信じられないことも多いだろうな。俺だってお前の性格を信じられないし、それは仕方がないことだと思っている。思っていてもダメだと感じるのが、気持ちの中での『負のスパイラル』というやつなのかも知れないな」
と、深溝はいうだろう。
二人の関係は、そんな彼のいう「負のスパイラル」を描いているというのだろうか。安川にはそれが渦巻きとなって海に浮かんでいる「鳴門の渦潮」のように見えて仕方がなかった。
「お前、どうしちゃったんだよ」
思わず、怒鳴ってしまった。せっかく今まで想像で会話をしてきたのに、その想像が自分の中で許容範囲を超えたのであろうか。そう思うと、自然と声が出てしまったのだろう。看護師も警官もビックリして、視線を安川に向けた。
もう後戻りできない状況であったが、出てしまったものは仕方がない。気持ちの切り替えが早いのも安川の長所だと言えるだろう。
深溝が今の言葉を聞いてどんな様子かと覗き込んでみたら、いつの間にか彼の視線はこちらを向いていた。今の今までそれに気づかなかったわけだが、こちらを向いたのは、今の大声のせいだと思う。
確かに最初は彼の視線を、
――こんなに無気力だと、こっちを向くこともないだろう――
とタカをくくっていたのは事実である。
そのおかげでこの状況下で、自分の世界に入り、考え事での独り言を言えたからであり、最後には声を発してしまったわけだが、それなりに普段なら感じることのできない思いを、考えられないような場所でできたことは自分でもビックリだった。
しかし今、そんな深溝がこっちをじっと見ている。何かを言いたいのか、ただ何を考えているのか分からなかった。
それよりも気になったのは、彼がこっちを向いた瞬間が分からなかったことだ。確かに自分の世界に入り込んでいると、なかなかまわりを見れなくなるものだが、今の彼の鋭い視線に気づかないほど自分が鈍感だとは思っていない。これだけの視線を浴びれば、その原因が分からなくともドキッとして、身構えるくらいのことはあってもいいはずだ。
それなのに、彼を見て初めてあのような表情に出くわしたのだ。まるでお化けにでも遭遇したような気持ちになるのも無理はないのかも知れない。
彼は数秒、安川を見ていた。安川もその視線から目を逸らそうとするのだが、金縛りに遭ってしまって視線を逸らすことはできない。確かにその顔には恐ろしさを感じるが、初めて感じる視線ではないような気がした。
――前に感じた時も、こんなに怖いと思ったのだろうか?
いや、そんなことはないはずだ。分かっていればその時の感覚を、思い出すはずだからである。
数秒間が結構長く感じられた。まるで、
「ヘビに睨まれたカエル」
と絵に描いたようで、ガマの油が出てくるような錯覚を覚えた。
「魔の数秒間」
とでもいうべきか、長い長い数秒が終わると、今度は今までフリーズしていた深溝の態度が一変した。
――こんなに変わるものか?
と思うほどで、それまでの恐ろしいヘビの視線から、急に笑みが浮かんだ。
目に見えているのは顔全体であったが、視界に入っていたのは、目だけだったような気がする。
その目が微妙に歪んだのだ。最初は笑みだと分からなかったが、目に入っている部分の唇が怪しく歪んだ時点で、笑っているのが分かった。
すると、急に喋り始めた。
「安川じゃないか? どうしたんだ、こんなところで」
まったく今までの記憶がなくなってしまっていたように見えたが、ひょっとすると、最初から意識はない状態だったのかも知れない。
「ああ、見舞いに来たんだよ」
「見舞い? 誰の?」
「何を言ってるんだ。お前だよ、お前」
この状況は記憶がないだけの普段の深溝のように思えて、安川も気安く話しかけていた。「先生からの注意もこれなら関係ないだろう」
という思いが強く、普段通りの接し方になっていた。
「せっかくベッドがあるんだ。こっちに来いよ」
と、いきなり言った。
「おいおい、何を言い出すんだ」
と安川は焦った。
この焦りの真の意味をまわりの人は気付かないだろう。深溝のそのセリフに対してビックリして振り返ることはなかったからである。
そうなると、安川は自分の態度がいわゆる、
「余計な与えないでもいい思い」
をまわりに与えてしまったのではないかと思い、ハッとした。
ただ、彼がベッドを見て自分を誘ったことの理由が自分だけに分かるので、焦ったのも無理のないことだった。
深溝がなぜそんなことを言い出したのか、言ったことの内容には理解があるが、なぜ口走ってしまったのかということは一向に分からない。
深溝が言った言葉の本当の意味は、
「一緒にこの中で愛し合おうぜ」
ということであった。
その恥辱に塗れたそんな言葉をなぜ臆面もなく口にすることができたのか、本来であれば一番言いたくない、知られたくない事実ではなかったか。
――俺はいいんだ――
と、いつも自分に言い聞かせていた。
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