第3話 伝染

 佐川と里穂は、自分たちの作品に心理学をテーマとしたホラーなものを取り入れるなど、最初は思ってもいなかった。

「俺は高田という男を見ているうちに、何か不思議な雰囲気を感じたんだ。高校までと違って大学に入ると、様々な人がいる。ただ、それも彼らの過去を知らないというだけで、ずっと変わった性格を表に出したままだったのかどうかということは分からない。それだけにいろいろと想像するのも結構楽しいんだ。特に俺の高校時代というのは、まわりは皆暗く、何を考えているのか分からない連中ばかりだったからな。そういう意味では魑魅魍魎の巣窟のように思えて、大学に入ってからの様々な人よりも、本当はそっちの方が興味を持っていたのかも知れないって思うんだ」

 と、佐川は言う。

「それは私も同じだわ。私の高校もまわりは皆暗かった。自分のことを棚に上げてなんだけどね。でも、中学時代も同じような感じだったんだけど、何かが違うのよ。そう、高校時代は皆まわりが敵に見えていたのかも知れないわね」

「中学時代と、高校時代の一番の違いは、中学時代が思春期だったということかも知れないな。思春期というと、子供から大人への脱皮の時期であり、精神的にも肉体的にも変わっていく時期だからね。僕は精神的なことよりもむしろ肉体的に変わってしまう方が、成長には大きな影響を与えていると思っているんだ」

「そうかも知れないわ。私も精神的に変化がある時に訪れる肉体的な変化よりも、肉体的な変化に伴う精神的な変化の方が、より一層の影響をその本人に与えるんじゃないかって思うのよ」

「なるほど、さすがに鋭いところをついてくるね。僕もその意見にはほとんど賛成だ。すべてではないけどね」

「すべてじゃない?」

「うん、すべてだって言いたいんだけど、すべてが同じなら、そこで話が終わってしまって、それ以上の展開はないだろうからね」

 佐川はそう言って笑った。

――この人らしからぬ言い方だわ――

 と思ったが、それはそれで問題がないような気がした。

「ところでどんな作品にしようと思っているの?」

 と里穂が聞くと、

「何となく頭の中で思いついていることはあるんだ。それもさっきからの君との話の中で思いついたことなんだけど、今はまだそれを言う時期ではないような気がする。もう少し情報を集めてからにしようと思うんだけど、どうかな?」

 と佐川に言われて、

「いいですよ。佐川さんの方でコンセプトを考えていただければ。私の方でもプロットを作るのに都合がいいと思うんです。私もそれなりに何かを考えようと思うので、考えが少しでも出てくれば、メモっておいたりするといいかと思います」

「うん、それがいい。僕もコンセプトと言っても漠然としているだけなので、もう少し掘り下げたところで話ができるようにしていきたいと思うんだ。ただ、テーマの中には、ドッペルゲンガーとカプグラ症候群を織り交ぜたいという気持ちには変わりはないんだけどね」

 ちょっとの時間があって、また彼が続けた。

「僕はカプグラ症候群の取り扱いをどうするかが、この話の筋だと思うんだ。ドッペルゲンガーという大筋にカプグラ症候群を乗っけるのか、それとも逆にカプグラ症候群という大筋に、ドッペルゲンガーを組み込むのか、どちらかにはなると思うんだけどね」

「私はそれは思う。でも、そのどちらでやるとしても、その反対がもう一つの意見というのとは少し違うような気がするのよ」

 と里穂がいうと、

「それはまるで鏡に写った自分の姿のようだね」

 と、佐川がまたおかしなことを言い出した。

 それを見て、怪訝な表情をした里穂に対して、佐川は笑いながら、

「また奇妙な話を始めたと思っているようだね。でも、この話もきっと君は感心してくれると思うんだ」

「どういうこと?」

「鏡に写った自分の姿って、どういう風に写っていると感じる?」

 またしても、漠然としている。

「えっと、左右対称に鏡には写っているんじゃない?」

「そう、その通り。でもね、どうして左右対称に写るか考えたことがある?」

 と言われて里穂はハッとした。

――確かにそうだ。でも一度は考えたことがあるような気がするけど、それをほとんど覚えていないというのは、すぐに諦めてしまったからに違いない――

 と思えた。

「左右対称って、確かにその通りなんだけど、私はあまり鏡を見ていて、そのことを意識したことはないわ」

 と里穂がいうと、

「じゃあ、鏡に写った文字や絵はどうだい?」

 確かに言われてみると、文字や絵だったら、左右が対称であるということを認識している。

 そう思ったところで里穂はまたハッとした。

 このハッとしたという感覚は閃いたという意味である。

「自分の姿って、鏡でしか自分は確認できないでしょう? だから元々の状態を知らないのよ。だから左右対称だって言われると、ハッとするのかも知れないけど、言われなければ意識しない。そういう意味で、いつも普通に見ているものを鏡に写した時だけ、違和感を感じるという考えなんじゃないのかしら?」

 里穂はこの理屈を結構納得のいくものだと思った。

「そうだね。その通りかも知れない。それというのは、感覚の問題なんだ。つまりは『視点をどこに置くか』ということであり、自分中心に見れば、鏡に垂直に写っているものがそのまま投影されると思えば納得もいくんじゃないかな?」

「ということは、自分と、自分以外のものと考えるのが正解なのかしら?」

「この場合の正解が何になるのかというのは、実際には証明されてい派いないんだ。感覚としての問題として、理論的にはありえることも、証明されていないから、一種の学説でしかないんじゃないかな?」

「鏡って、面白いわよね」

 と里穂がいうと、

「じゃあ、鏡についてもう一つなんだけど、鏡は左右は対称い写るんだけど、上下は反転していないよね? どうしてだと思う?」

 またしても、ハッとした。

 今度のはハッとしたというよりも、ドキッとしたと言った方がいいかも知れない。

 同じ素材をテーマにした、しかも似たような発想をさらに発展させた発想なだけに、ドキッとしたという感覚も無理のないことかも知れない。

「う~ん、それは難しいわね。これもさっきの視点という観点から考えるしかないのかしら?」

 と里穂がいうと、

「確かにこっちの方が説としては難しいかも知れないね。実際にこっちの方も昔からいろいろ言われているけど、定説はないんだ。たとえば、左右に関しては主観的な見方にあるけど、上下に対しては客観的な見方になるからだって説もあるようだけど、これって結局、結果論にしかならないような気がするんだ。結果があって、それを帰納法で読み取っていく。他の場合では成り立つことかも知れないけど、ここまで話が難しくなると、そのすべての説は結果論にしか見えなくなって、正しい説が出てきても、それを正しいとする目が養われていないため、やり過ごされてしまうのではないかって思うんだ」

 と佐川は言った。

「結局、ハッキリとした結論が出ていないわけよね。これからも研究されていくんだろうけど、そういうまだ解き明かされていない謎というのも、世の中には結構あるのかも知れないわね」

「うん、それがすべて都市伝説や、心霊現象などという言葉で言いあら合わせないとは思うんだけど、都市伝説や心霊現象の中には、実際の科学では証明できないことも、結構あるんだろうな」

「高田さんなら、そういう研究しているかもですよ?」

 と里穂がいうと、佐川は笑いながら、

「そうだったら、面白いのにな。俺も彼にはそれなりに興味があるんだ。一体何を普段から考えているのか、聞いてみたいものだ」

 と佐川は言った。

 それにしても、佐川は結構心理学的なことを研究しているようだ。ここまでの話は、里穂がほとんど聞いたことのないものであったが、自分の中で考えていたことも少なくはなかった。

――やっぱり佐川さんは私と同じ感性を持っているのかも知れないわ――

 と感じたのだった。

 佐川と高田は、里穂が思っていたよりも、意外と似ているところがあるのかも知れない。一緒にいるとよく分からないのだが、どちらかの友達と話をしてみると、

「あの二人、どこか似たところがあるんだよな」

 という返事が返ってくる。

 佐川をよく知る人は、里穂と同じように佐川という人間を、人間性を垣間見ることで、自己の判断としている。それに比べて高田と親しいと思われる人は、どうやら高田という人間の、

「人間臭い」

 ところに興味があるようで、自己との比較というよりも、その性質に興味を持っている。

 自己との比較という意味では、判明教師的なところを持っていて、お世辞にも、彼の性格を尊敬などしている人は誰もいないようだった。

 まわりに対しての対応や接し方など、どう見ても浅はかにしか見えない。いわゆる、

「KY」

 つまり、空気の読めない状況に、ほとほと閉口していると言ってもいいだろう。

 自分一人が先に進んでいて、まわりを先導しているくせに置いてけぼりにしてしまうその態度は、尊敬はおろか、軽蔑しかない。

 それでも、いつも決まって朝の挨拶だけはキチンとしている。もっとも、それがなければ、彼のいいところなどどこにもないと言わんばかりの連中ばかりなので、そういう意味では彼の態度に反面教師を見る人が多いのも納得できる。

 そんな高田が、いやしくも里穂の尊敬に値すると思っている佐川と、

「似たところがある」

 などとよく言えたものだと、里穂は感じていた。

 贔屓目に見ても、二人に似たところなどありえないと思っている里穂は、それでもそう言っている人にその理由を聞いてみた。

「佐川というやつは、とにかく自分の理論を整然とさせないと気が済まない気がするんだ。ある意味では潔癖症とでもいうべきかな? 逆に潔癖症とは無縁に見える高田なんだけど、やつの中にある人間臭さが、神経質な部分を隠そうとしているように思えて、結局あお二人は、神経質という意味で、同類なんじゃないかって思うんだよ」

 これは、佐川と仲のいい知り合いに聞いた話だった。

「そんな見方もあるのね。確かに私も佐川さんには神経質なところも感じるけど、でも、それが高田君と似ているとはどうしても思えないんだけどな」

 と里穂がいうと、

「それは本当に贔屓目なのかも知れないね。それは佐川に対してだと思うんだけど、きっと里穂ちゃんは、佐川のいい部分しか見ようとしていないんじゃないかな? いい悪いの問題ではないような気がするんだけど、里穂ちゃんがそれでいいと思っているのであれば、それが正解なんだって思うしね」

 と、彼は曖昧な話をしてくれた。

 ただ、これを曖昧と捉えるのは、それだけ里穂が佐川に対して贔屓目に見ているからであって、理想を追い求めすぎているという感覚なのかも知れないと思った。

 里穂は、自分のことをそれほど理想を追い求める方ではないと思っていた。少なくとも高校時代までの自分は理想などに向ける目を持っていなかったと思っている。

――理想を追いかけるということは、自分に自信がある人だけができることであって、どうせ自信のない人にとっては。理想なんて絵に描いた餅のようなものだわ――

 と思っていた。

 理想を掲げれば、それに似合うような行動を取らなければいけない。それが理想に近づくことになるのであって、その大前提として、自分に自信を持つことが大切であるという考えだったのだ。

 大学に入って、映像クリエイトの道を歩もうと思った時から、初めて自分が変わったという意識を持てた。それまでは、自分に自信すら持てない自分は、まわりに流されるだけで、自分の意志を持たない生き方しかできないと思い込んでいた。

 だが、何かを作ること、それも何もないところから何かを作るということが喜びに繋がるということを知り得たことで、自分の未来が変わった気がした。

 高校時代まで、まわりが皆敵であり、しかも、何を目標に皆を敵にしなければいけないのかという基本的な理由も分からないまま、本当に流されていたように思えた。

 大学に入って、いろいろな人がまわりにいることに気付くと、自分が変わった気がしてきた。

――まわりが自分を変えてくれたのだ――

 と思っていたが、それも他力本願であるという意識がまだなかった時のことだった。

 普通に考えれば今であれば簡単に分かることなのに、その時にはまったく気づくこともなかった。そのことが里穂には恨めしかったのだった。

「ところで高田君は、何か悩みのようなものってあるの?」

「唐突だな」

 と、高田は笑いながら言った。

 しかし、その表情は笑顔とは程遠いもので、見るからに顔が引きつっているかのように見えた。だが、それでも精いっぱいの虚勢を張っているようで、その様子が滑稽にも見えたのは、不謹慎であろうか?

「いえ、いつもまわりに挨拶をしている高田君を見ると、すごいなと思う反面、そうしないといけない使命感のようなものを感じるんだけど、これって思い過ごしなのかな?」

 と聞くと、

「そんなことはないよ。でも挨拶は無意識にしているつもりなんだよ。ただ、それは今まで育ってきた環境の中で、仕方なくという部分もあるのも事実で、そういう教育を受けていたということかな?」

「親から厳しく育てられた?」

「一般的に言えばそういう言い方になるだろうね。人とのコミュニケーションは挨拶から始まるという基本的なことなんだけど、挨拶を忘れたりすると、よく叱られていたのを覚えているよ」

 と言いながら、微妙に区しhビルが震えていた。軽く奥歯を噛みしめていたのかも知れない。

 高田がどんな家庭に育ったのかは分からないが、高田と話をしていて、彼が口にしたワードで、

「一般的に言えば」

 という言葉に違和感があった。

――一般的って何なのかしら? 他の人をまるで下々の人とでも思っているのかしら? まるで「何様」って感じだわ――

 と、里穂は思っていた。

 気分的にあまりいい感覚は持っていない。どうしてこんな男が佐川と似ていると言われるのだろう。里穂にはそれが分からなかった。

 ただ、叱られていたと言った後に震えている唇を見ると、

――この人も、子供の頃から苦労をしていたに違いない――

 という思いに至る。

 それを差し引いても、彼の態度にはまだ違和感があった。この後に苛立ちを覚えるかも知れないと思いながらも、もっと話をしてみたいという思いに駆られるのは、何か引っかかるものを感じているからだろうか。

 里穂は、自分の親から叱られることも少なからずあった。あれは、小学生の頃のことで、小学生の低学年の頃には、よくクラスメイトから苛められていた。小学生の低学年なので、それほど陰湿でひどい苛めだったわけではないが、まだやっと物心がついたと言ってもいいくらいの子供が、まわりから相手にされずに苛めを受けているというのは、それが自分にとって当たり前のことなのだと思い込むに十分でもあった。

 そういう意味で、まわりが羨ましいという意識があったわけでもなく、どちらかというと、運命を受け入れている気持ちになっていた。

 しかし、人間としての本能なのか、苛めに遭っているということが気持ち悪くて仕方がなかった。運命として受け入れようという思いと、この気持ち悪さというジレンマが小学生の低学年の女の子に襲い掛かるのだ。今から思っただけでも自分があの頃に何を考えていたのか、思い出すことすら困難だった。

 そういう意味で、苛めが収まってきても、絶えず何かを考えるという癖だけは残ってしまった。先生と算数の話をするのが唯一の楽しみだった小学生の高学年の頃、それまでとまったく変わってしまった生活に、嬉しさ半分、戸惑い半分だったように思う。

 まわりから苛めを受けていた小学生の低学年の頃、この頃も絶えず何かを考えていたように思う。算数の法則を考えていたなどということはなかったが、自分に対して怒っている苛めが理不尽なことなのかが分からなかったからだ。

 ただ、自分が苛められていることを知られるのは、最小限に収めたかった。特に親には知られたくなかった。そのためには、本当であれば、先生に話して助けてもらいたいという気持ちもあったが、先生に話すことで、親に話が行くのではないかという恐れを感じたことで、先生にも話せず、一人悩んでいたものだった。

「どうして、私をそんなに苛めるの?」

 と、思い切って苛めている人に聞いてみたことがあった。

「お前がそこにいるからさ。目の前にいるだけで苛めたくなるんだよ」

 という返事が返ってきた。

――なんて理不尽な――

 理不尽なんて言葉、小学生の低学年の生徒に分かるはずもないのに、今思い出すと、そう感じたと思うのはおかしなことだった。

 だが、今思い出してみると、苛めっ子の理屈も何となく分かる。理由もないのに苛めたくなるという理屈。これは今の自分だったらよく分かる。

 高校時代、成績が急によくなったことがあった。別に何か特別なことをしたわけでもないのに、唐突だった。その時、自分がかしこくなったと錯覚してしまったのだが、それも無理もないことで、実際にそれから成績が落ちることはなかったのだから、思い込みだったとしても、それは悪いことではなあったはずだ。

 その時に、まわりを見ると、それまで見えていた光景とまったく違っていることに気が付いた。目線は完全に上から目線で、見下ろしている連中は、自分よりも劣って見えて仕方がない。何よりも生まれて初めて感じた優越感に浸っていたと言ってもいい。その時小学生の頃自分を苛めていた連中が言っていた。

「お前がそこにいるからさ。目の前にいるだけで苛めたくなるんだよ」

 という意味が何となく分かった気がしたのだ。

 高校生の時の里穂だったら、これくらいの言葉を平気で言えるかも知れない。

――優越を感じる人がいれば、劣等を感じる人もいる――

 つまり、優越を感じる人が劣等を感じる人を罵倒したとしても、それは罵倒された人が抗えることのできない事実であるということを、本人同士で分かっていることだと感じるからだった。

 小学生の頃に苛めを誰にも知られたくないと思ってはいたが、どこから話が伝わったのか、いつの間にか親が知っていた。

 普段通り学校から帰ってきて、自分の部屋にいた里穂を、夜になって父親が帰ってきて少ししてから、

「里穂、下りてきなさい」

 と、二階の里穂の部屋に向かって、階下から父親が叫んでいた。

 それまではそんなことなどなかった。話があるとすれば、部屋の前でノックをする両親だったのだが、階下から大きな声を出すなんて、それだけでもただ事ではないと里穂に感じさせた。

「どうしたの?」

 と、恐る恐る階下に向かった里穂は、リビングに入ると、雰囲気がいつもと違っているのを感じた。

 両親がソファーに座っていたのだが、まったく会話をしている様子もなく、何よりもテレビがついていないことが里穂を一層気持ち悪くさせた。

 父親が里穂の方に振り向くことなく、

「里穂、こっちに来て座りなさい」

 と言われ、まるで先生に怒られるかのような神妙な気持ちになったが、その時の神妙な気持ちは、学校で先生と相対する場合よりも何倍も緊張していた。

 里穂は、神妙にして、まるで借りてきた猫のように、両親が座っている前に鎮座した。

「里穂は、学校で苛めに遭っているのかい?」

 と、父親が結論から先に聞いてきた。

 里穂も人と話す時、まず結論から先に話すことが多いが、それが遺伝であることに気付いたのはこの時だっただろう。

 結論から先に言われるということは、大いなるショックであるが、ただならぬ雰囲気の中で焦らしながら結論を導き出すような言い方をされるのも、ジリジリとして嫌なものである。

――どっちがいいんだろう?

 と思うのだが、いまだに里穂にも分からない。

――ただ、これが親から遺伝した性格だとすれば、本当はこんな性格、遺伝なんかしてほしくなかった――

 というのが、本音であろう。

「う、うん」

 隠しても、どうしようもないことは分かっていた。

 ここで抗ったとしても、どうしようもない。すぐに事実を認めて、相手が何を言い出すのかを聞く方がいいと思った。

 父親はそこで黙ってしまったが、それよりもその後の母親の態度にはビックリさせられた。

 何と母親は嗚咽を催していて、しくしくと泣いていたのだ。

「本当に情けない」

 と、何とか絞り出した言葉がそれだった。

 泣いている理由を、里穂のことが可哀そうだと思って泣いてくれているのだと思っていた里穂は、あっけに取られてしまった。

――えっ、どういうこと?

 戸惑う里穂だったが、どうやら母親は自分の娘を情けないと思っているらしい。

――苛めに遭っているのは私なのよ。それなのに、親だったら、もう少し違った態度を取るでしょうに――

 と感じた。

 必要以上に庇ってくれる必要はないが、母親が子供を情けないと思う理由が分からない。何が言いたいのか、まったく見当もつかなったのだ。

 その後、父親から、事実関係などをいろいろ聞かれて正直に話をしたということは覚えているが、細かいところまでは覚えていない。母親の、

「情けない」

 という言葉で里穂の気持ちは萎えてしまったのか、記憶しようとする気力がなくなってしまっていたのかも知れない。

 その翌日からだった。

 学校の授業が終わってから、校門を出ると、母親がそこに待っていた。

 登校の時は集団登校なのだが、下校の時は皆バラバラで家に帰る。学校が終わる時間を見越して母親が校門のところで待っているのを見て、

――なんで?

 と思った。

 偶然立ち寄っただけには思えない。まったくの無表情の母親は、何も喋らず、里穂も何も言わずに母親の前を通り過ぎると、やはり無言で里穂の後をついてきた。

――ひょっとすると、母親が迎えにくることで、苛めっ子に苛めをやめてもらうように無言の圧力をかけているつもりなのかしら?

 と思った。

 それにしても、無表情で何も言わない母親が何を考えているのか分からないだけに恐ろしかった。苛めっ子からの苛めよりも、母親の様子の方が気持ち悪かった。

 確かに苛めがなければ、こんな母親を見ることもなかったと言えるので、苛めに対してさらなる憤りを感じたのも事実だが、遅かれ早かれ、どこかでこんな母親を見ることになるのだと思うと、母親の本性を見てしまったことに憤りだけではなく、もう少し違った感覚があった。

――今のうちに感じることができて、よかったと思えばいいのかしら?

 と思ったが、そんなことはないと思えて仕方がなかった。

 本当であれば、もっと両親と仲睦まじく生活できたかも知れないのに、知ってしまったことで埋めることのできない溝ができてしまったと思うと、両親に対して何の希望も持ってはいけないと感じるようになってきた。

 何よりも、毎日のように校門の前で待っている母親は、まるで何かへの当てつけのように見えて、それが、

「情けない」

 と言われる自分に対しての思いであることを呪う気持ちになっていた。

 苛めっ子のことを思い出すよりも、まず母親の自分に対しての、

「情けない」

 と言ったその瞬間のことがまず一番最初に思い出されるのが、思い出という記憶の嫌なところだった。

 高田が親から厳しく育てられたという話を聞いた時、

――この人は、私が子供の頃に親に言われた言葉に近いことを察したのかも知れない――

 と思った。

 彼が感じている自分の親に対しての気持ちが、里穂の親に対しての思いと同じようなものなのか、それとも違うものなのか、ハッキリとは分からない。だが、分からないだけに、知りたいという気持ちも大きく、親というものを他の人がどう感じているのか、今までにないほど、里穂は知りたいと思うのだった。

 高田が最初から親のことを口にしたということは、それだけ親に対して何か強い思いを抱いているに違いない。

 基本的に大人になればなるほど、自分の親のことは話したくないというのが、普通の考え方ではないかと思う。

 親のことを話すと、

「まだ親離れしていない」

 だったり、

「親へのコンプレックスが強くて、自分というものをしっかりと持っていないのではないか」

 と思われるに違いないからだ。

 里穂は自分が経験者だけに、その思いが強い。ただ、自分が感じた親への思いと同じような経験をした人はそれほどいないと思っていたが、高田を見ている限り、高田に限ったことではないが、

――意外と少なくはないのかも知れない――

 と感じるのだった。

「高田さんは親にどんなイメージを持っているの?」

「そうだね、恐怖かな?」

「恐怖?」

「圧迫される恐怖というところかな?」

 それを聞いた時、里穂が自分の親に感じている感覚と、若干開きがあるように思えた。

「苛められていたという感じ?」

「うん、虐待とまではいかないけど、僕を見ているとイライラするんだって」

 という高田の言葉に、里穂はドキッとした。

 それは自分を苛めていたクラスメイトが言っていた言葉そのものではないか。それを親から言われるというのはどういう気分なのだろうか。

「学校ではどうだったの?」

 と聞くと、少しうな垂れた様子で、

「学校でも苛めに遭っていたさ。家で迫害され、学校でも苛められていたのさ。よく今まで生きてこれたと自分でも思うよ」

 彼の話を聞いて、苛めについては自分でも少しは分かっているつもりでいる里穂だけに、彼のいう、

「よく今まで生きてこれた」

 というセリフの重みは、誰よりも分かっているような気がしていた。

 そのセリフについて、自分が何かを答えようとは思わなかった。彼が何かの返事を望んでいるとは思えないし、自分でも何と言っていいのか分からないからだ。

 だが、何かを言ってあげなければいけないような気がしていた。これほどムズムズした気持ちもないだろう。答えてあげなければいけないと思いながら何も言えないというのは、まさにジレンマであり、このジレンマと似たジレンマを子供の頃に感じていたことを想い出した。

「苛めって、ジレンマしか生まないのかも知れないわ」

 ボソッと口にした言葉は、本当に無意識だった。

 それを聞いた高田は、しんみりとして、

「まさにその通りだ。何かを生むという発想とは少し違うのかも知れないんだけどね。僕の場合は親から受けていた迫害も、学校で苛められていたことも、どちらもブラックな記憶なんだけど、よくよく考えてみると、それぞれで嫌な思いを打ち消してくれていたんじゃないかとも思うんだ。人が見ていて、あるいは僕の話を聞いて感じるほど、僕の中ではそれほど深刻に思っていないこともあったかも知れない」

「それはきっと、想像力に制限がないということなんじゃないかしら?」

 と里穂がいうと、

「それよりも、知らないことで、知りたいと思う感覚に変わった時、余計な力が入ってしまって、想像以上のことを思い浮かべてしまうことだってあるんじゃないかな? 特に自分に置き換えて考える人なんか、その傾向が強いんじゃないかって僕は思うんだ」

「高田君は、自分のことを人に置き換えたり、人のことを自分に置き換えたりすることができる人なの?」

 と里穂は聞いた。

「皆できるんじゃないのかい? 人それぞれで程度は違うのかも知れないけど」

 という高田の答えに、

「そうなの? 私は人の身になって考えるということをできる人の方が珍しいと思っていたわ」

「これは見解の相違というか、実際にはあり得ることだって思うんだ。だって、こんな話を普通の会話ではしないよね。それは相手が分かっていると思っているからなのか、会話をしていて、この発想が思い浮かぶ場面がないからなのかのどちらかだろうけど、普通に会話している分には、こんな発想が出てくるはずはないように思っているよ」

「それはできる人は、無意識のうちのことだって感じなのかしらね?」

「そうかも知れない。でもね、本当であれば、無意識ではなく意識してできるようになるのが一番なんだよ。無意識というのは本能のようなもので、誰にでもあるものだって感覚でしょう? だから、意識してできる人というのは、それ以上の発展であったり、成長を促すことができると思うんだ」

「無意識でできる人って、でも、それに越したことはないと思っていたけど?」

「それは日常的な習慣であって、毎回しなければいけないこと。例えば、朝起きたら歯を磨くといういうことね。誰もが無意識にやっているでしょう? あれは、習慣となっているからであって、意識していても無意識でも、それほどの変わりはないよね。つまり本能なんだよ。でも、無意識が最初にあって、意識するようになったことというのは、少なくとも何かに気付いたから意識するようになったということでしょう? だから意識するというのは、無意識の向こう側にあるものだって思わないかい?」

 高田のいう理屈は理路整然としている。思わず頷いてしまった里穂がいた。

「でも、無意識というのは実は怖いものなんだ」

「どういうこと?」

「例えば、寝ている時に起き出して、夜歩いたりする夢遊病ってあるでしょう? あれだって本人は無意識なつもりなんだけど、実際には起きている時の意識が夢の中に出てくるからなのか、気になっているところに行ったりする。しかも、見えていないはずなのに、ちゃんと道を通ってそこに行けるんだよね。これを想うと、人間の潜在意識ってすごいと思うよね」

「夢遊病って、潜在意識なんですか?」

「だって、夢というのは潜在意識が見せるものだって話でしょう?」

「そうなんだ……」

「知らなかった?」

「ええ」

「夢というのは、どんなに長い夢、時系列の幅の広い夢を見ていたとしても、起きる前の数秒で見るって話もあるんだよ」

「そうなんですね」

「夢の内容を覚えているかい?」

「いいえ、ほとんど覚えていないです。覚えているとすれば、怖い夢を見た時くらいかな?」

「じゃあ、怖い夢以外を見たって記憶は?」

「記憶はあるんだけど、それがどんな夢だったかまでは覚えていない。ただ、目が覚めるにしたがって忘れて行っているような気がするんだけど、その時は怖くない夢だったような気がして仕方がないの」

「そうだよね。怖い夢もあれば、楽しかった夢もある。でも、それは同じように記憶の中に残っていて、楽しかった夢を思い出すことだってあるんだよ。ただ、それがいつのことだったのかまでは覚えていない。ひょっとすると、さっき目覚めた時の寸前に見た夢だったのかも知れないのにね」

「確かにその通りだわ」

「僕は夢のせいなのかどうかは分からないけど、急に被害妄想に襲われることがある。急にまわりが敵に見えることもあって、自分でも制御できないんだ」

 今の高田を見ている限りではそんな様子は微塵にも感じられない。

「それって、カプグラ症候群……」

 思わず里穂は呟いた。

 ついこの間、佐川との話の中で出てきたワードを思い出したのは、被害妄想と、まわりが敵だという言葉から連想したからだった。

「カプグラ症候群という言葉、よく知っているね」

「ええ、この間、佐川さんとの話の中で出てきたんです。高田さんこそ、ご存じなんですか?」

「ああ、知ってるよ。僕も心理学が好きで、心理学を専攻しようかとも思ったんだけど、専攻するよりも、趣味として気楽に見る方がいいような気がしていたんだ。きっと僕のような男が心理学にのめりこむと、抜けられないような気がしてね」

「抜けられないというのは、学問を志す者にとっては、いいことなんじゃないですか?」

「それも時と場合、種類によるさ。心理学は抜けられなくなると、災いを引き起こす可能性もあるから、僕はそんな媒体にはなりたくないんだ」

 彼は少し興奮しているようだった。

 そして、今まで冷静に話をしていた彼が、少し感情的になってきているのではないかと思うと、里穂も少し自分も一緒になって興奮してきていることに気付いていた。

「心理学って、怖い学問なんですね」

「そうだね。怖いというよりも、真剣になればなるほど、自分に対しての恐怖が高まってくる。それが怖いというべきなのかも知れないな」

 と、高田は少し遠くを見るような目で、里穂の頭の上を通り越して、その向こうを見ていた。

――彼の視線の先には何があるんだろう?

 里穂と同じものが見えているのだろうか?

 他の人には見えないものが彼にだけ見えていると言われたとしても、別におかしな気分がしないような気が里穂はしていた。

 高田は続けた・

「僕が心理学を志すようになったのは、親からの虐待が原因というよりも、友達からの苛めが原因だったと思うんだ」

「思うというと?」

「最初は親からの虐待が原因なのかと思ったんだけど、もし、そうだと仮定した場合に納得のいかないことがあった。それが遺伝という感買うだったんだ」

「というと?」

「僕は親からいわれのない苛めを受けていたわけなんだけど、Sん理学で研究してみようと思うと、なぜか親の気持ちが分かったような気がしたんだ。もちろん、本当に分かったわけではなく、分かった気がするだけなんだけど、そう思い込むと、心理学を勉強してまでその理由を知りたいとは思わなかった。もし、僕が心理学を勉強して、それなりの結論を見つければ、せっかく分かったような気になっている気持ちを踏みにじるような気がしたからなんだ」

「どうしてそうなるの?」

「だって、心理学を勉強して一つの結論を導い出したとしても、そこにあるのが本当に正しいことなのかって分からないでしょう? そんな不確かなことのために、せっかく分かった気になっている気持ちを削ぎたくないと思うのは、特に子供だった僕には大切なことだったんだ」

 と、高田は言った。

「じゃあ、友達に苛められていたことを心理学的に研究しようと思ったわけ?」

「そうだね。友達からの苛めを心理学で解明しようと思った時、友達の気持ちが分かるわけではなく、心理的に何ら変化がなかったことで、余計にそう思ったんだけど、考えてみれば、こっちの方が普通なんだよね。親に感じた感覚の方がレアであって、そのことを理屈で解明しようとしても、それは無理なことなんだって思うようになったんだ」

 高田の話には一理あった。

 里穂も彼の立場だったら、同じことを考えたかも知れない。特に心理学というのは難しい学問でもあるし、リアルにその人にとって、本当にありがたい結論を導いてくれるとは限らない。下手をすれば、立ち直ることのできない結論が待っているかも知れない。それを思うと、一歩踏み出すだけでかなりの勇気がいるというものだ。

「ところでカプグラ症候群なんだけど、あなたはどう思っているの?」

 と、確信を突く質問をしてみた。

 さすがにここまで饒舌だった高田も少し考えているようだったが、

「カプグラ症候群というのは、最初に感じたことだったね。何と言っても、自分の近しい人が瓜二つの偽物に入れ替わっているという発想だろう? しかも、ここが大切なんだけど、『確信している』という前提があるんだ。つまりは、ただそう感じているというだけではカプグラ症候群とは言えないんだ」

「そうなんですね。私はそこまで詳しくはないんですが、そんなに怖いものなんでしょうか?」

「確かに怖いかも知れないですね。これは被害妄想であり、幻覚であるんです。いわゆる薬物による『禁断症状』がこれに近いのかも知れないですよね。僕も最初にカプグラ症候群という病名を見て、その内容を確認した時、最初に薬物による『禁断症状』を思い浮かべましたからね」

 高田はそう言って、また遠くを見つめているようだった。

――私の後ろに誰かが見えるのかしら?

 と思ったが、後ろを振り返るのが怖かった。

 しかも、振り返ろうとしても、身体も首も動かない。首から下が、まるで金縛りに遭ったかのようだった。

 そういえば、自分の後ろに誰かがいるという妄想を抱いたことがあった。その時は一瞬だけのことだったので、それほど気にしたわけではなかったが、後ろに誰かがいるという思いを感じた時に一緒に想像したイメージはいまだに頭の中に残っている。

――あれは確か、自分を中心に、前後に鏡を置いた時に見える光景を想像したんだったわ――

 自分の前と後ろに鏡を置いた光景、それはまさしく「無限ループ」を感じさせる思いだった。

 つまり自分の前に写った鏡にはまず自分が写っている。そしてその後ろには鏡が写っていて、その鏡には自分の後ろ姿が写っている。そしてその自分の後ろ姿の向こうにもまた鏡があって、そこにはこちらを向いている自分が写っている……。そんな光景が思い浮かぶのだった。

 これは無限に続く投影である。無限に続くものとしての状況を表現する際によく用いられるシチュエーションであり、よく聞く話でもあった。

 この時一緒に思い出したのが、

「マトリョーシカ人形」

 であった。

 マトリョーシカ人形というと、ロシアの民芸品なのだが、人形の中に小さな人形が入っていて、さらにその小さな人形の中にまた小さな人形が入っているという種類のおみやげ物の一種である。

 これも、無限に続いていく、前後に置かれた鏡に発想は似ているのdろう。

 さらに、里穂はこの無限を大きさで考えていた。

――鏡の中に写っている自分が次第に半分になっていくとすれば、最後にはどうなるんだろう?

 というもので、限りなくゼロに近くはなるのだろうが、絶対にゼロになることはない。

 なぜなら数学でも、ゼロが分母でなければ、どれほど何度割ったとしても、絶対にゼロになることはないという発想である。

 里穂は、高田が、

「自分の後ろに誰かを感じている」

 と思った時、鏡を想像し、マトリョーシカ人形を想像した。

 きっとまだ想像できることもあるのではないかと思ったが。これも心理学の発想として、何を想像するかということが、その人の心理状態を解明するうえで大きな影響があるのではないかと思ったのだ。

「禁断症状というのは本当に怖いですよね」

 というと、

「でも、カプグラ症候群というのは、実際に映画やドラマでテーマとして使われることはないように思うんだけど、結果として後から見た人が、話の展開を見て、それをカプグラ症候群を想像することは結構あると思うんだ」

「それは、私も感じたことがあるわ」

「カプグラ症候群のようなものというよりも、カプグラ症候群を思わせるという表現が適切なんじゃないかって思うんだ。それはいかにもカプグラ症候群のようであるが、厳密には違っているという発想でね。冷静に考えればカプグラ症候群とは違うんだけど、カプグラ症候群というものを発想した時点で、分かってしまったかのような錯覚に陥るんじゃないかって感じるのは僕だけだろうか?」

「そんなことはないと思います」

 彼の発想は、佐川との話の中でも出てきた発想だった。

 だが、そのことは覚えていたのだが、改めて高田の口から聞くと、まるで初めて聞いた話のように新鮮味があった。それだけに高田と佐川がどこか似たところがあると言っていた話に、ここでやっと里穂も納得できるかも知れないと思えたのであった。

「カプグラ症候群というのは、自分の近しい人が入れ替わっているという『妄想』なんだよね。これは妄想であって、事実ではない。ただ本人が確信していることで、本人は事実以外の何物でもないと思っている。この発想にある確信という部分を事実として考えれば、それがドラマや映画や小説に描かれている内容に近づくんだろうね」

「……」

 里穂は佐川が何を言いたいのか、分かりかねていた。

「映画を作る人、さらには小説を書く人のほとんどは、この発想がカプグラ症候群だって思っていないはずなんだ。カプグラ症候群なんて言葉も知るはずなどないしね。だから無意識に似たような話になっているだけなんだろうけど、逆にカプグラ症候群というものを知っている人が何かの作品の題材にしようものなら、本当にできるかどうか、簿記は怪しいと思うんだ」

 里穂は、自分の考えていることを見透かされたかのようだった。

――彼は、私の考えを否定しようとしているんだろうあ?

 里穂の顔は一瞬曇ったのかも知れない。

 それを見て高田は、少し困惑したかのような表情になったが、すぐに気を取り直してまた話始めた。

「でもね、カプグラ症候群という話も作品として作れないこともないと僕は思うんだ」

「どういうことですか?」

「カプグラ症候群というのは、とりとめのない話に思えるんだけど、危険な香りがある。だからそれをダイレクトに題材にするということは、公然の約束としてのタブーなんじゃないかって思うんだよね。だから作品にしてはいけないんじゃないかって思ったんだけど、でも無限という発想も、発想として数学的に曖昧な部分を、公然の約束で触れてはいけないことに抵触していると感じた。だから、これを組み合わせると、一つの作品として十分なものになるんじゃないかって思ってね」

「難しいですね」

 そう言って、高田を見ると、またしても高田は私の後ろを気にしているように思えた。その時に今度はさっきまで感じなかった発想がもう一つ浮かび上がってきた。

――蜃気楼だわ――

 空気の屈折で生まれる蜃気楼。

 つまり見えるはずのないものが見える場合の一つの理屈として考えられることである。

――そういう意味では蜃気楼という発想も、無限という発想と結びつけて考えるおとはできないかしら?

 と考えた。

 里穂はその話をしてみようと思った。

「高田さんは、私の後ろをさっきから気にしているように思えるんですが、何か私の後ろに見えるんですか?」

 と勇気を持って聞いてみた。

「僕は何も意識していないよ」

 まさかの返事だった。

――そんな……

 何を見ていたのかは分からないが、少なくとも何かを見ていたという答えが返ってくると思っていた。

 里穂はそれを聞いて、一瞬金縛りに遭ったかのように思えたが、身体は重たいわけではないので、何かに掴まれているという感覚だった。

「私はあなたが私の後ろに誰かを感じていると思ったので、その時に発想したのが、前と後ろに鏡を置いたというシチュエーションだったんです」

 というと、

「なるほど、それであなたは無限という発想をされたんですね?」

「ええ」

「僕はまったく違った意味で無限という発想をしたんですが、結果としては同じ発想になったのは、偶然という言葉で言い表していいものあって思います」

「まったく違う発想から、似たような結論を導き出される可能性と、ほぼ同じような発想をしていて、まったく違った、あるいは、正反対の発想に至る可能性とではどれほど違うんでしょうね?」

 と里穂が聞くと、

「まったく違う発想から似た結論を導き出す方が圧倒的に多いんでしょうね。でも、似たような発想からまったく違う発想であったり、正反対の発想に至る場合の確率は、似たようなものではないかと思います。ある意味、似たような発想から同じ結論が生まれないのであれば、結果として正反対になる確率は結構高いということなのでhないかと僕は思うんです。もちろん、この考えに何の信憑性もないし、照明もできないんですが、感覚としてそう感じるんです」

 彼は信憑性はないと言ったが、里穂には説得力はかなりのものだと思った。

 もちろん、最初から理路整然とした話を続けてきて初めて感じる説得力ではあると思うのであるが……。

「鏡というのは、結構難しい発想を人間に与えますよね」

 と高田は言った。

「そうですね。左右対称には見えるんだけど、その理由もハッキリとはしないでしょう?」

「そうだね、でも僕は分かる気がする。要するに「視点」という発想なんだよ。自分が鏡を見ているという発想から生まれるものなんだけど、右手を挙げた時、鏡に写ったものを別のもの、つまりは平面に写った被写体だと思うと、左手なんだけど、それを自分だと思うと右手になる。だから左右対称でも、誰も不思議に感じない。いわゆる視覚の錯覚とでも言えばいいのかな?」

「そうですね。実際にその発想が定説のように言われているのかも知れませんね」

「それにですね。もう一つ踏み込んで考えれば、鏡は左右対称なのに、どうして上下は反転しないのかっていうのもおかしなものですよね」

 これも佐川との話で出てきたものだった。

「これは、さすがに僕にも分からない。かなり難しい発想ですよね。一般的に言われているのが、左右対称は主観的に見るもので、上下に関しては客観的に見るものだからというような発想があるようですね」

 高田の話は、まるで心理学の本を読んでいるかのようだった。実際に調べた結果も彼の話と同じだったからだ。

「鏡の向こうに何が見えるのか、鏡の世界が永遠に消えることのない世界のように感じるのは、思い込みからなんでしょうか?」

 と里穂は曖昧な言い方で聞いてみた。

「鏡というのは、目の前にあるものすべてを写し出すというのが基本になっているでしょう? 僕はそこに何か秘密があるんじゃないかって思うんですよ。本当はすべて正しいと思い込むこと自体が何か危険を孕んでいるんじゃないかって思うんです」

 これは新しい発想だった。

 大前提としての、

「すべてを忠実に写し出している」

 という発想が、根底から覆されると、想像もしていなかった想定外の発想が生まれてくるものだ。

 そう思うと、

「鏡は無限の世界を形成している」

 という理屈に迫れるかも知れないと感じていた。

「ただ、これもね、ちょっとした発想を巡らすだけで、誰もが考えたことのない世界を見ることができる気がするんです。いわゆる『結界』のようなものですね。もちろん、そのためには、その『結界』が見えるための発想を一度抱かなければいけない。抱くにも発想の転換が必要で、発想の転換から結界が見える世界に入ることができたとしても、必ずしも見えるとは言えない。その世界が果たしてすべてを表現しているのかというのも怪しいものですからね。いわゆる鏡の向こうの世界を創造した時、僕には発想の堂々巡りを繰り返しているような気がしたんですよ」

 高田の発想には、限りがない、いわゆる無限である。

――この無限という発想も堂々巡りなんだろうな――

 と、里穂は感じた。

 最初は彼の被害妄想の発想から、カプグラ症候群を想像した。そして、彼が自分の後ろに何かを見ていると感じた時、前後の鏡を想像した。そして、そこからマトリョーシカ人形を想像し、鏡の話をして、彼が、鏡の世界に対しての驚くべき発想をぶちまけた。

 それだけでは堂々巡りとは思わないだろう。それを堂々巡りだと感じたのは、彼の一歩踏み込んだ発想が、またしても、最初に感じた無限の発想に行き着いたからだ。

 一種のスパイラルと言ってもいいのだろうが、負の部分はないような気がした。

「僕はね、大学に入ってから一つの趣味ができたんだ」

 と高田が言った。

「どんな趣味なんですか?」

「絵を描く趣味なんだよ。僕がさっき鏡が本当に真実をすべて映し出していないんじゃないかって発想したのも、絵を描くようになってから感じたことだったんだ。絵を描き始めるまでは、まさかこんな発想ができるなど、思ってもみなかったんだ」

「ということは、絵を描き始めてから、もっと他にも変わった部分が出てきたんじゃないですか?」

 と里穂がいうと、

「確かにその通りですね。絵を描き始めてから、見えてきたものがたくさんありました。元々僕が絵を描き始めたのは、夢を見たからなんですよ」

「夢というと?」

「誰かが絵を描いているというような夢ではなく、ただ覚えているのは、キャンバスの上に描かれた花の油絵だったんです。それは印象に残ってしまって、自分でもできないかと模索し始めたのが、入学してから三か月ほどしてからのことですね」

「大学に入ってから、苛めのようなものは?」

「苛めは中学に入るとなくなりました。家族からの迫害も、父親が僕が中学の時に死んだので、それからはなくなりました。ただ、家族での会話はなくなりましたね。それでも僕を高校まで行かせてくれたのはよかったです。しかも、僕が高校の時に再婚し、義父のおかげで大学にも入れた。義父は地元の有力者なんですよ」

 という高田を見て、

――あまり家族関係に言及することはやめておこう――

 と里穂は感じたのだ。

「実は、俺……」

 と、それまでになく、少し神妙に見えたのは錯覚だったのだろうか、そこで言葉をとぎったことで、何か深刻な話だと思い込んでしまったのか、それとも彼がこれから話す内容を何となく予感できたからなのか分からないが、里穂もその声を聞いた時、緊張が走ったのを感じた。

「どうしたの?」

「君は、ドッペルゲンガーというのを知っているかい?」

 里穂は身構えた。

 これもこの間佐川と話をして、カプグラ症候群と組み合わせた話にできないかと感じた内容ではなかったか。

 それを今ここで高田の口から聞いたということは、彼が何かの能力を持っていて、この間話をしたことを知っていたのではないかと思えたからであった。

 だが、本当にそれだけであろうか?

 ドッペルゲンガーというのは、里穂にとっては、

「話のネタとすれば問題ないが、話題にもしていない人の口から出てきた場合、何かゾッとするものがある

 と感じたからだ。

 確かに高田のように心理学を勉強した人の口からドッペルゲンガーという言葉が出てくるのはさほど無理もないことなのかも知れない。しかし、それがこの間彼とも因果関係にある佐川との話の中で出てきたことだと思うと、何か気持ちを見透かされているのか、自分のすべてを見られているのかという思いからも、ゾッとしたものがあるのだった。

 里穂は、落ち着いて答えた。

「知っているわ」

 落ち着いていたつもりでも、声が上ずってしまっているのを感じ、それを相手に悟られていることも分かっていた。

「ドッペルゲンガーというのは、一言でいえば、『もう一人の自分を見る』ということだよね。それに対してはいろいろな説があるようだけど、実は僕も見たことがあるんだ」

 この言葉は衝撃的だった。

「それはいつのことなの?」

 里穂がそれを最初に聞いたのは、

「ドッペルゲンガーというのは、見ると少しして死ぬ」

 と言われているからだった。

 彼がそれを見たのがかなりの昔だったら、それはドッペルゲンガーではなく、ただの「ソックリさん」というだけのことなのかも知れない。

「世の中には似た人が三人はいる」

 と言われている。

 似ている人に出会う可能性はゼロではないことから、ドッペルゲンガーよりも信憑性が高いに違いない。

 高田は落ち着いて答えた。

「かなり前だったと思う。きっと子供の頃だったと思う」

 と、彼の記憶はかなり曖昧だった。

「どうしてそんなに曖昧なの?」

 と聞くと、

「じゃあ、君は昨日のことをかなり昔のように思えたり、かなり昔のことを昨日のことのように感じることってなかったかい?」

 と逆に質問だれた。

「なかったわけではないけど、そもそもそう感じる時というのは、その両方を意識していて、何かの対象があるからそう思うんじゃないかって思うの」

 自分で言っていて、頭が整理できていないことに気付いた。

――高田君は、私の話を理解してくれたかしら?

 と少し不安であったが、

「僕には比較対象のようなものはなかった。でも、それ以上に曖昧な感じがしたので、それは夢だったんじゃないかとも思ったんだ」

「夢の中でドッペルゲンガーを見たというの?」

「うん、夢で見たということにして自分を納得させようと思ったんじゃないかって感じるんだ。だから、もしそれが本当に夢ではなかったとすれば、そんな発想をするとすれば子供の頃だったんじゃないかなって感じたんだ」

「子供のくせにそんな難しい発想ができるものなの?」

「子供だからってバカにしちゃいけない。子供の方が逆に考えがブレていないので、余計に素直に見ることができる。逆に言えば。歪んで見えるものを本当に歪んで見えると素直に理解できるんだよ」

「それは蜃気楼なんかのこと?」

「ああ、大人になると、変に自分に自信があるから、超常現象を何とか理屈で解決しようと試みる。だからいろいろな研究がなされるのだし、それによって得られる結論というのは、本当に貴重なものだって思う。でも、子供にはそんな理屈を考えるよりも、目の前に見えたものをそのまま信じるという素直な心があるんだ。だから鏡にしても、同じことで、特に鏡の場合は疑いようのない事実だとして大人になっても揺らぐことのない発想として確定される。だから、本当のことを写し出していない鏡の存在を、ありえないと思うんじゃないかな? 蜃気楼だってそうだ。あれは、見ること自体がまったくのレアなケースなので、余計にそう思うんじゃないかな?」

 というのが、高田の理論だった。

 ドッペル減少を見ると死ぬとよく言われているよね? 僕はそれを本当のことだと仮説して考えてみたんだ。そして、そこからカプグラ症候群を絡めて考えてみた」

「というと?」

「怒ぽえるゲンガー自体を妄想の世界のものだとすれば、見た人はその時点で死ぬことが確定しているということになる。でも、カプグラ症候群で入れ替わっていると言われる人は、その時点で死んでいるということになり、入れ替わる人がいないということになるんだ。ただ、この場合はカプグラ症候群の入れ替わる相手は、その人本人ではなく、そっくりな別の存在だと考えると、カプグラ症候群とドッペルゲンガーの発想はうまく説明ができるんだ。だから、ドッペルゲンガーの正体は、似た人ではなく、本当にもう一人の自分だということになるでしょう?」

「ええ」

 里穂は、高田が何を言いたいのかまだ分からなかった。

「つまりね。カプグラ症候群というのは、最近になって発見された学説だと言われていうよね? でもドッペルゲンガーは古代の昔から、その話は存在する。そして、現代に至るまで結構なことが分かってきていると言われているでしょう? それも、今の僕の説のようにカプグラ症候群というものを、途中で絡めると、うまく説明のつくものもある。ということは、最近になって発見されたかのようになっているカプグラ症候群は、本当は結構昔から言われていたことではないかって思うんだ」

「あっ」

 と、思わず声を発してしまった里穂だったが、この説には一理を感じた。

 いや、かなりの信憑性すら感じられる。それを思うと、

――この人の頭の構造ってどうなっているのかしら?

 と、里穂は考えた。

「こうやって考えると、思ってもいなかったことを思いつくことがある。実際には物事を線として考えなければいけないのが普通のように言われているけれど、点を絞って、そこに仮説を組み立てていくというのも一つの論法なんじゃないかって思うんだ。今回の都市伝説のように思われている『ドッペルゲンガーは見たら死ぬ』ということを逆転の発想で思い起こすと、別の考えが生まれてきて、そこで点と点が線で結ばれるんじゃないかって思うんだよ」

「高田さんは、その考えをいつの頃くらいから思っていたんですか?」

「だいぶ前からなんだけどね」

 里穂が高田にこの質問をしたのは、

――あれ? この話、どこかで聞いたことがあったような――

 と感じたからだった。

 それがいつ、どこで、誰からだったのか、まったく思い出せなかったが、間違いなく聞いたということだけは意識できた。

 一番曖昧なのは、

「いつ?」

 ということであろう。

 記憶の中で一番ハッキリしないものは、やはり時間であろう。誰から、どこで、というのはほとんど迷うことがないので、思い出していくうちにハッキリしてくる可能性は高いだろう。

 しかし、時間だけは、毎日規則的に通り過ぎるというもので、例えばごく最近のことでも、かなり前のことだったり、かなり前のことが、昨日のことのように思い出されたりと、時間に対しての記憶だけは本当に信憑性がなかった。

 里穂はそのことをしっかりと自覚している。それだけに、

――いつのことなのか、きっと思い出せない――

 と最初から諦めているようだった。

 だが、だからと言って、他のことが思い出されるというわけではない。どこでだったのかは別にして、誰からかは思い出せそうな気がした。しかし、次の瞬間には別の思いが頭をよぎった。

――きっと、どこでだったのかということを思い出せたら、相手がだれだったのかということも思い出せそうな気がする――

 と思うことで、最初に思い出すとすれば、それは、

「どこで?」

 ということになるのだろうと思うのだった。

 記憶の中にあったということは、きっと毎日見ているところではないかと感じた。そうでなければ、もっとすぐに思い出せるような気がして、話を聞いた瞬間にもすでに思い出していたのではないかとも感じた。

――このキャンパス内だわ――

 と思うと、相手も限られてくる。

 そして一番信憑性として高いのは、佐川以外にはいなかった。

 佐川であれば、学校内での話だったとしても別に違和感はない。しかもこういう話を誰よりも好きなのは佐川ではないか。

 今までにも何度も佐川の説を聞いて、

――なるほど――

 と思ったことか。

 佐川の話には説得力があり、話を聞いていて、彼の話に引き込まれることで、時間の感覚を忘れてしまう。しかも、聞いているだけではなく、彼には少なからずの「隙」があり、その間にこちらからの話を入れることができるのだった。

 それは高田にも同じことがいえた。その意味でもデジャブを感じたのかも知れない。話にだけデジャブを感じたわけではなく、その場の雰囲気すべてにデジャブを感じることで、話をしていたのが、キャンパス内であり、相手が佐川だと分かったのではないだろうか。

 佐川から話を聞いたという思いが頭に浮かんだにも関わらず、その時にどんな話をしたのか、曖昧だった。思い出そうとすると、さっきの高殿会話が邪魔になってしまい、思い出すことができなかった。

――まさか、まったく同じ話だったということ?

 話の内容だけではなく、あの時とシチュエーションも雰囲気も同じだったということであろうか。

 もしそういうことであれば、さらに高田には思うところがあった。

――高田さんの話を聞いていて、自分の中で佐川さんをダブらせて聞いていたのかも知れない――

 と感じた。

 さらにそこまで考えてくると、さっきの高田が、まるで佐川のドッペルゲンガーだったのではないかとさえ思えてきた。

――そういえば、今思い出すと、あの時の会話で見た高田さんの顔が思い出せないような気がする――

 いわゆる、

「真っ黒なのっぺらぼう」

 である。

 これも、まさにデジャブではないか。

 以前、高田にも感じた真っ黒いのっぺらぼう、あれが何だったのか、あれから意識することはなかったが、最初に感じた時、確かに、

――未来のどこかで、もう一度意識せざるおえない時がやってくる――

 と感じたはずだった。

 ただ、あの時に感じたものがあったとすれば、それは、

「リアルな恐怖」

 だった。

 ドッペルゲンガーに対しては、ハッキリとしない都市伝説としての、

「見たら死ぬ」

 というものがあるが、あくまでも都市伝説、どこまでの信憑性か分かったものではない。実際に見たのであればリアルなのだろうが、

「ドッペルゲンガーを見た」

 という意識で記憶は残っていなかった。

 それを想えば、これはドッペルゲンガーではなく、

「自分の近しい人が瓜二つの何者かと入れ替わっている」

 と言われるカプグラ症候群に値するものではないかと、今になって考えれば、そう思うのであった。

 里穂はそこまで考えてくると、

「カプグラ症候群というのは、その理屈は分かっていないが、ドッペルゲンガーのような超常現象と違って、神経疾患の一種に違いない」

 と言われていたことを想い出し、

――私がおかしくなってしまったおかしら?

 とも思ってしまう。

 だが、里穂はふとそこで思い出したことがあった。

「お前は思い込みが激しすぎるからな」

 と、以前、あれはいつだったか、確か中学生くらいの頃に言われたのを思い出した。

 それを言ったのは、確か担任の先生ではなかったか。先生はそれほど深い意味で言ったわけではなく、戒めくらいのつもりだったのだろう。里穂も実際にそれほど深くは考えていなかったし、この期に及んで思い出したことであった。

 思い込みの激しさがあったおかげで今の自分がある。

――おかげと言っていいのかしら?

 と感じるのは、自分の発想が他の人とかなり違っていて、

「変わっている」

 と言われるゆえんになっているからであったが、今ではそんな連中に対して、

「それが何か?」

 と澄ました顔で言えるくらいになっていると思っていた。

「他の人と同じでは嫌だ」

 という感覚を持っている。

 それだけ難しい話を考えたり、それができる相手と一緒に話したりできる今の自分を、決して嫌いだとは思わない。その他大勢で、何をするにしても、

「右にならえ」

 と言わんばかりの人たちと一緒にされるのが嫌だったのだ。

 今、里穂はデジャブの正体について考えていて、そこで結び付いてきたのが、ドッペルゲンガーとカプグラ症候群だ。デジャブの正体をそのどちらかに委ねようとしていると言ってもいいだろう。

 デジャブという現象も、科学的には証明されていない。学説としてはいろいろあるが、里穂はそれらとはまったく違った別の発想を持っている。

 もちろん、他の誰かが里穂が考えていることと同じ発想を持っているかも知れないが、少なくとも発表されていないと思っていた。

「デジャブというのは、自分が見たり聞いたり、実際に行ったりしたことがないのに、過去に見た、あるいは、行ったことがあると感じるところである」

 というものであった。

 里穂は考えた。

――本当は行ったこともなければ見たことのないものを見たと思うのは、本当に行っていないということなのだろう――

 とである。

 これを一つの仮定として考えると、まるでカプグラ症候群と同じように思う。瓜二つのものが存在していて、それを実際に見たと錯覚するからである。

 つまりは、自分が行ったことがあるはずはないが、似た光景を絵や写真で見たのを見て、曖昧な記憶の中から、まるで行ったことがあるような錯覚を覚えるというものである。

 それをどう考えるかというと、里穂はそれを、

「辻褄合わせ」

 だと考えたのだ。

 記憶が曖昧なことを自覚していることで、絵を見た時、

――行ったことがないのに、おかしな懐かしさを感じる――

 と感じたということに自分を納得させようという発想であろうか。

 曖昧な自分を納得させるには、いかに辻褄を合わせるかということであり、自分の中だけで辻褄を合わせようとするのであって、別に他人に迷惑を掛けるわけでもない。そう思うと、里穂はデジャブという現象に対して、

――記憶の辻褄合わせ――

 という一言で片づけられるものだと解釈していた。

 この際の記憶はあくまでも、実際に行ったことではないので、

「酷似のものだった」

 だから、ドッペルゲンガーのように、

「もう一人の自分」

 ではなく、

「ソックリな何者かが、自分の近しい人と入れ替わっている」

 というカプグラ症候群に近いもののように思えた。

 ということは、

――カプグラ症候群というのも、何かの辻褄合わせなのかも知れない――

 と思った。

 しかし、これはあくまでもデジャブを独自の考え方で納得している自分だけの意見であった。誰かに話しても、信憑性を疑われるか、そもそも話が難しすぎて理解されないかも知れない。

 里穂の考えでいけば、デジャブいドッペルゲンガーは関係ないのではないかとも思えたが、これも考えてみると、少し違う気がした。

 ドッペルゲンガーというのは、昔から言われているもので、その発想には諸説ある。そのどれもがもっともらしい話で、里穂が聞いた時も、話のほとんどに信憑性が同じくらいにあるので、どれが本当なのか分からなかった。

 そもそも、その中に真実があるという保証もない。下手をすると、

――一つの定説が他で理屈を形成し、一つの流れを作っていたにも関わらず、そこに諸説が生まれたことで、それぞれの発想が独立し、諸説が結び付かなくなってしまったのではないだろうか――

 というものであった、

 つまり、起承転結に最初と最後だけ決まっていて、そんな途中をいくつかのストーリーが生まれたとして、それを起は起で、転は転で単独でそれぞれの説に分解した形で言い伝えられ、点と点がキチンとした線になっていないことで、理屈を厄介にしているのではないかという考えである。

 この考えは突飛すぎるかも知れないが、冷静に考えると、理路整然としているような気がする。里穂はその考えの元で考えられるようになった自分を見て、

――佐川のおかげかも知れないわ――

 と思うようになった。

 そして、先ほどの高田の話も、話を聞いているうちに、

――彼が次に何を言い出すか、分かった気がするくらいだわ――

 と思った。

 しかし、それはすべて後になってから思ったもので、話を聞く最初や、聞いている途中で感じたものではなかった。もし、最初から分かっていたり、途中で分かったりしていれば、デジャブを引き起こし、佐川の話を思い出すまでの展開はなかったと思うからだ。

「高田さんの話を聞いていると、佐川さんと話をしたのを思い出したわ」

 どうしたことだろう? 里穂は言わなくてもいいことを口にしてしまった。

 むしろ、話してはいけない部類の問題だった。

「佐川君も、僕と似たところがあるからね。考え方もそうなんだけど、彼と話をしていると、まるで自分と彼が入れ替わったんじゃないかって思うこともあるくらいんなんだ」

 と高田は言った。

「高田さんは、佐川さんと話をすることなんかあったの?」

「ああ、そんなに頻繁ではないんだけどね」

 里穂は、高田と佐川が自分の前で、

――同じ次元――

 で話をしているという発想がまったく思い浮かばなかった。

 話というだけではない、存在自体が同じ次元ではありえないという思いに至っていたのだ。

「私には、何だか不思議な感覚だわ」

 というと、

「実は僕も、君と佐川が一緒にいるという感覚が実はないんだ。まるで別の次元で存在しているんじゃないかって思うような気がするくらいにね」

 と高田は言った。

「それは、ドッペルゲンガーや、カプグラ症候群という発想とは違って、ある意味ではもっと怖い話になっていきそうな気がするくらいだわ」

 と里穂がいうと、

「きっとそうだと思うよ。人は今の僕たちのような発想を常に持っていて。それを口にしようとはしない。それはきっと、頭の中で、『そんなバカな』という発想を持っているからなのか、決して触れてはいけないタブーのような話ということを頭がデフォルトで理解しているからなのかのどちらかではないかと思うんだ」

 高田の発想は、また里穂の想像を超えたものだった。

 だが、里穂は敢えて反対意見を言った。

「それだけなのかしら? もっと他に発想があるような気がするんだけど、それは私の思い過ごしなのかしら?」

 というと、少し高田は考え込んでいたようだったが、

「まさか、里穂さんの方から反対意見が出るとは思わなかった。話をしていて、もし反対意見をいうのであれば、それは僕の方だって思ったからね」

 と言った高田に対して里穂は少し不満であった。

 里穂とすれば、

――反対意見をいうとすれば、それは自分が相手よりも優れているという思いを、意識的であっても無意識にであっても、持っているからなんじゃないかしら――

 と感じていたからだ。

 高田が言ったこの言葉は、あたかも、

「僕の方が君よりも優れた考えを持っている」

 と言わんばかりだったからだ。

――今までの高田さんとは違っているようだわ――

 こんなに自分に自信を持っている人だったとは、思ってもみなかった。

 佐川に対しては、謙遜している雰囲気をいつも抱いていた。しかし、その謙遜は里穂にとって、心地よいものだった。

――そこまでへりくだらなくてもいいのに――

 と思ったことも何度かあったが、それは実は一瞬のことだったということを、里穂は理解していなかった。

 佐川に感じた謙遜の雰囲気はまるで夢のようであった。佐川が人に対して謙遜するなどということは誰に対してもありえなかった。絶えず人の先にいて、自分より前をあるいている人を見たことなどなかったに違いない。それだけに、前に誰もいないということが不安でもあったのだろう。それを人に知られることも怖く、自分が絶えず前にいなければいけないと思っていた。その思いを今まで誰にも悟られることはなかったはずなのに、高田と話をしているうちに、里穂は気付いてしまったのだ。

――高田さんが気付かせてくれた?

 と思うと、そんな佐川のことを、高田は分かっていたのではないかとも思えてきた。

 二人は決して似ていると言える性格ではなかった。それだけに似た人という感覚はなく、逆に他の次元では、同じ人間だったのではないかという妄想すら与えられた。

 高田との話の中で得た感覚は、決して知識ではない。あくまでも妄想なので、妄想が定説のわけはないのだ。学者が厳密に分析すれば、かなり粗のある説だったのではないかと思えるほどで、里穂には理解できたとしても、万人や専門家に受け入れられるものではないと思える。

 高田と話をしていて、そろそろ話の最後に差し掛かってきたような気がした。時間的なものというわけではなく、漠然とした感覚というだけのことではないような気もした。そこで、高田は一つの面白い発想をした。

「カプグラ症候群の話なんだけど、これが病気のように伝染するものにすればどうだろう?」

 という意見だった。

「えっ?」

 と里穂がいうと、

「ここまでは、考えられる説を、僕なりに話してみたんだけど、よく考えてみると、ここでの話は、『脚本を書いて、それを映像作品にする』ということでしょう? いろいろな説は一通りの発想でできたと思うんだけど、それを実際に映像作品のヒントにすることを考えると、僕は伝染病という発想が生まれたんだ。カプグラ症候群も、ドッペルゲンガーも、それぞれ超常現象であったり、精神疾患であったりするものから生まれた発想であるわけでしょう? だったら、これらを病気として捉えればどうなるかって思ってね。でもうまくやらないと、結構危険な作品になってしまう気がするんだ。そこで僕が提案するのは、君の身近な人間をよく見ることで、その人それぞれの性格から、ドッペルゲンガーやカプグラ症候群を考えてみる。そうすれば、何か今まで見えてこなかったものであったり、見えていたかも知れないけど、今なら見えるものがあるかも知れない。それをハッキリさせることで、新たな作品の礎になればいいのではないかと僕は感じたんだけど、どうだろうか?」

 高田の話は、今の里穂の気持ちを代弁しているかのようなものだった。

「ええ、確かにそうね。私も気づいていなかったことを、あなたとの話で気付かされた気がするわ。いや、本当は気付いていたかも知れないこと、あるいは気付いていたはずのことかも知れないけど、自分の中でタブーとして封印してきたことが、今は日の目を見たのではないかと思えるわ」

 と里穂がいうと、

「それは佐川君に関することなんだろうね。僕も以前、彼とこのような話をしたことがあったんだけど、彼とも気持ちが通じ合えた気がしたんだ。そしてその時彼を見ていると、彼は僕と話をしながら、僕の後ろに誰か違う人を意識していたのを感じたんだよ。それが君だったのだということを、今日、こうやって君と話をしていて、やっと分かった気がするんだ」

 と高田は言った。

「佐川さんが?」

「ああ、そうだよ」

 そこに恋愛感情が含まれているのかどうか、定かではなかったが、

――含まれていれば嬉しいな――

 という程度で聞いていた。

 佐川に対しての感情は、それ以上でもそれ以下でもなかったが、高田との話の中で、それ以外に別の感情が生まれてきたことに気付いた。

 それは佐川に対して恋愛感情を持っていれば感じることはなかったもののように思えてならないが、その同じ感覚は高田にも感じていた。

 しかも、この二人に感じた感覚はまったく正反対のもので、一口に言えば、佐川に対して感じたものが、「M」であり、高田に感じたものが、「S」だったのだ。

 ただ、今日高田と話をする前に感じていた思いは、その正反対であった。高田が「M」で、佐川が「S」だったのだ。

 この感覚は、

――里穂の見る目が変わったから――

 というわけではなかった。

 どちらかというと、見る目が変わったわけではなく、

――今まで見えていなかったものだと思っていたことが白日の下に晒された結果ではないか――

 というものであった。

 そしてもう一つのヒントになったのは、最後に高田が語った、

「伝染病」

 という発想が、里穂にその思いを抱かせた。

 この会話が最後になったと思ったのは、本当にその時だったのだろうか?

 里穂は高田のこの言葉を何とか意識の最後に聞いた気がしたが、糸を引くように、いや、伝染病と言う言葉がこだまするかのように、耳の奥に残っていた。

――そういえば、真っ暗いのっぺらぼう、あれは佐川だったのか? それとも、高田だったのだろうか?

 この思いは何かの伝染というものなのであろうか……。


                  (  完  )

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点と点を結ぶ線 森本 晃次 @kakku

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