第4話 時計の針
「お姉さんは、物覚えのいい方なんですか?」
あすなは、唐突に聞いてみた。
「そうね。あまりいい方だとは言えないかも知れないわ」
という。
「じゃあ、人の顔を覚えるのは?」
「これはまったくダメ。初対面であれば、いくら一緒にいる時間が長くても、その人の顔を覚えることができたためしはないわ。それが私にとって、一つの悩みでもあるのよ」
と言ってくれた。
「そうなんだ。実は私もそうなの。人の顔を覚えようとしても、その人と離れてから少しすれば、記憶の中から、その人の顔の残像が消えているのよ。人の顔を覚えられないのって相手に失礼だし、今後いろいろ都合の悪いことになりそうで、怖いことだって思うんですよ」
「そうよね。仕事上、相手の顔を忘れてしまっているのって失礼に当たることだし、難しいことだと思うわ。でも、必要以上に怖がっていたり意識してしまったりすると、却ってよくないんじゃないかって思うの」
「どうしてですか?」
「人の顔を最初は覚えられなくても、何度か会ううちにいつの間にか覚えているものでしょう? そればかりを気にしていると、他の肝心なことが疎かになってしまって、結局相手に対して失礼に当たるんじゃないかって思うのよ」
「そんなものなんですかね?」
「それにね。気にしすぎると、それがトラウマになってしまって、そのうちに覚えられるようになることだって下手をすれば、難しくなるかも知れない。それを思うと私は必要以上に不安に感じることは逆効果になるんじゃないかって思っているの。『負のスパイラル』という言葉だってあるでしょう?」
「ええ、確かにそうかも知れませんね」
あすなは、お姉さんの言葉を素直に受け取って、自分の中で咀嚼してみた。
「ところでね。さっきあすなちゃんは、残像という言葉を口にしたでしょう?」
「ええ」
「残像というのはすぐに忘れてしまうから、残像として残しておきたいと思うから、人の顔を残像という表現で話してくれたんだって思うのね」
「ええ」
「でも、人の顔を覚えられないんじゃなくて、覚えていたことに対して、他の残像が入り込んでしまったことで上書きされてしまったって考えたことはなかった?」
「というと?」
「人間の目は二つあるけど、脳は一つしかない。二つの目で見ても記憶している残像は一つしかないの。だから、人の顔を残像として意識している間、他の人の顔を見ても残像として残してしまう衝動に駆られるんじゃないかしら?」
「どういうことなんですか?」
「残像を意識するあまり、残像として残しておく必要のない人の顔を残像として残してしまうという癖のようなものと言えばいいかしら? 習性なのかも知れないわね」
「それは、お姉さんにもあると思っているんですか?」
「ええ、私にもあったのよ。今あすなちゃんが言ったように、残像として残そうとしているのに、結果としては残っていない。だから、残像が残っていないと考える。一種の三段論法の類だと思うの」
「なるほど、それだったら分かります。四角形の対角線を行くような感じですね」
「ええ、ワープとでもいうのかしら?」
「なかなか難しい表現をするんですね」
「私は大学で理工学を専攻したので、実は考え方がどうしても物理学や理工学に偏ってしまうことがあるの。でも学校を卒業してから、学生時代とまったく別のことを勉強してみたくなったのも事実かしら?」
あすなも、高校生になって、今は大学受験のための勉強を詰め込みという形でやっているが、そんな勉強を面白いと思ったことはなかった。
「私も受験勉強しかしていないので、勉強を面白いとか楽しいとか思ったことはないわ」
「じゃあ、勉強って面白くない?」
「面白いか面白くないかというよりも、達成感のためにやっているという感じかしら?」
「達成感?」
「ええ、自己満足と言われるかも知れないけど、今日はここまでやると決めてやれば、面白くない勉強でも、達成したという一種の満足感に浸ることができる。受験勉強をしている中での唯一の充実感とでもいえばいいのかしら?」
「それはいいことだと思うわ。世の中のことでどんなに楽しいことでも、百パーセントの楽しみがあるわけではない。逆にどんなにつまらないことであっても、何か楽しみを見つけることはできると思うの。それは視点を少し変えてみるだけでできることであるんだけど、本当はそれが難しいのよ」
「どうしてですか?」
「それは自分が納得しなければ感じることができないものだからよ。どんなに人から言われても、自分で感心しない限り、その人が言っていることは一般論として受け取ってしまう。一般論としてしか感じることができなければ、それは相手の押し付けであったり、相手の自己満足に自分が付き合わされているだけというマイナスの気持ちしか生まれてこない。そうなってしまったら、話を聞いていることさえ苦痛に思えてくることでしょう。それを思うと私も同じ道を歩んできたということをいまさらのように思い出すことができるのよ」
とお姉さんはしみじみと語った。
まさにその通りである。あすなは話を聞きながら自分でもそう思っていたことに気付かされた。ただそれを言葉にして話をするということは自分にはできない。きっとまだ自分を納得させるだけの材料と経験が自分にないからだと思った。その二つがないことは、まだ自分が子供であるということの証明のような気がして、人に話すことは相手にも失礼だと思うのだった。
「まさしくお姉さんのいう通り。でも私にはそれを口にできる資格もなければ、自信もない」
「それでいいのよ。今のあすなちゃんは、いろいろな人から話を聞いたりして、自分の中で充電する時期なのかも知れないわね。でも、この時期って大切なものなのよ」
「どうして?」
「情報をたくさん詰め込むわけでしょう? 詰め込んだ情報の何が大切で何が大切でないかなど、今はまだ分からない。だから頭の中の整理整頓が必要になってくるの。そういう意味で、今のあすなちゃんはそれができるようになった。だから、私は敢えてあすなちゃんにこのことを話しているのよ」
と言ってお姉さんは、今度はホッとしたような表情になった。
このホッとしたような表情に対しあすなは、
――言いたいことをいうことができたという達成感と満足感からのホッとしたような表情なんじゃないかしら?
と感じた。
そこには、
「やっと言えた」
という感情が先に立っているから、ホッとしたような表情を感じるのかも知れない。
「あすなちゃんは、本当は記憶力は悪くないと思うの。だから余計なことを考えず、つまりは人の顔を覚えられないということを必要以上に悪いこととして考えず、それよりも整理整頓という意識が身に付いたことを喜ぶべきだって思うのよ。そういえばあの人も言っていたわ。製紙整頓ができるようになると、別の世界が見えるようだって」
「別の世界?」
「ええ、あの人はそれを時計の針で例えて話していたのよ」
「時計の針? っていうと、時間を表す短針と、分を表す長針のこと?」
「ええ、その針のことよ」
「どういうことなのかしら?」
あすなは、頭の中で時計を思い浮かべていた。
デジタル時計を見る機会が多いので、なかなかアナログの針が付いた時計を見る機会もない。それだけにたまに見かけると何かが気になる気がしていたのだが、それがどこから来るものなのかまではハッキリと分からないので、ついつい時間を忘れて無意識のうちに時計を見ているという皮肉めいたことになっていることがあった。
さっきお姉さんが、理工学的な考えをよくすると言っていたが、あすなも時計を見ていると時間に対しての理工学的な考えが浮かんでくる。
そもそも期間や時間というのは、どうして十二という単位が多いのだろう?
一年は十二か月、一日は二十四時間だが、昼と夜を分けると十二時間ずつとなる。だから時計も十二時間で一周するように作られているのだろう。そこにどんな意味があるのか調べたことはなかったが、疑問としては絶えず持っているような気がする。
絶えず潜在的に持っているために、いちいち気にすることはない。まるで目の前にあっても誰にも気にされない「石ころ」のようなものではないか。
あすなは時間などの普段生活するにあたって、切っても切り離せないものの中に、単純には割り切れないものがたくさんあることを意識していた。
――そういえば、私って子供の頃から、いつも何かを考えていたような気がするわ――
そんなことは分かっているはずなのに、我に返ったかのように改めて考えてみると、そのこと自体が不思議に感じられる。
あすなはお姉さんの話を聞きながらも、お姉さんの話に共鳴しながら、自分独自の発想を頭の中に描いていることを分かっていなかった。我に返って分かったことであって。あすなは、自分が我に返るという感覚を、定期的に感じているということに、その時初めて気づいた気がしたのだ。
絶えず何かを考えるようになったのはいつ頃からだったのだろう?
確かにおじさんと遊園地に行った時、何かをずっと考えていたような気がする。おじさんはそのことを分かっていて、あすなに考える時間を与えてくれていたようだ。なぜならおじさんが話しかけてくれた時は、あすなが我に返ったその時であり、あまりのタイミングの良さに、あすなはそれがおじさんのおかげだとは思えなかった。だから、おじさんのことを頼もしいとは思いながらも、どこが頼もしいのか、そして両親とどこが違うのか分からなかった。
きっと、この気の遣い方が両親とは違ったのだろう。だがそれは仕方のないことで、親というものはどうしても贔屓目に子供を見てしまうもの。贔屓目に見てしまうと、自分の所有物であるかのような錯覚に陥ったとしても、それは無理もないことだとあすなは感じていた。
あすなは、時計を思い浮かべてみて、ふと疑問に感じた。その疑問に感じたことをお姉さんにぶつけてみることにした。正解を求めようと思っているわけではない。お姉さんがどう考えているか聞いてみたかっただけだ。
「お姉さん、一つ質問なんだけど」
「何?」
「時計の針って、長針と短針があるでしょう? どうして分を表すのが長針で、時間を表すのが短針なの?」
「うーん、それは難しい問題よね。でも、私は以前人に聞いたお話だったんだけど、自分では納得できる答えだったので、それを信用しているんだけどね」
「それはどういう発想なんですか?」
「短針というのは、長針の回転に応じて論理的に進んでいくでしょう? つまりは時間を調整するには長針だけを動かせばいいという発想から、長針が分針になったという発想なのよ」
「どういうこと?」
「昔の柱時計なんかそうだったんだけど、時計が止まってしまった時、時間を合わせる時って、長針をグルグル動かすでしょう? 長針をどんどん回していけば、短針は勝手についてくる。だから、一番動かしたい針を長くしたという発想なのよね。短い針をグルグル回したら、長い針が邪魔になるでしょう?」
「あっ、なるほど」
「昔の時計を知っている人なら、発想できるかも知れないけど、今は皆デジタルになって、針すら意識しないようになっているから、使い勝手というのもあまり意味をなさなくなっているのかも知れないわね」
とお姉さんは言った。
なるほど、理論的な意味で実に納得できる回答である。
あすなの家には、あすなが小学校低学年の頃まで柱時計があった。マンション暮らしのあすなの家には実に珍しいものであったが、父親が骨董に興味があって、時々アンティークショップに立ち寄っていたらしい。その時に見つけてきたという柱時計があり、その記憶だけはかなり衝撃的に残っていた。
もっとも、物心ついた頃からあったものだから、
「あって当然」
という意識が強く、自分の家にあるのだから、他の家にもあるのだろうという思いがあったのも事実だった。
だが、実際には友達の家に行った時にも見たことがなく、逆に人が家に来た時は、相手が大人であっても、いや、大人だからこそ、
「いや、何これ。こんなの見たことがない」
と言って、感動されたものだった。
柱時計があった最後の頃くらいから、あすなが学校から帰ってきて一人になることが多かった。静けさの中で聞こえる柱時計の振り子が刻む休むことのない一定の時間で刻まれる振り子の音は、恐怖を煽るには十分だった。
最初の頃こそ、そんな中にいるのがいたたまれなくなる気分だったが、次第に慣れてくると、ずっと聞こえる振り子の音がまるで催眠術にでもかかったかのように、睡魔を誘うものであることに気付くと、別に嫌ではなくなっていた。
「どうせ一人ですることもないんだから」
と、睡魔を嫌うこともなく、その状況に身を任せることにした。
半分くらいは、そのまま眠っていたことだろう。眠らなくても、何かをする気分にはなれず、テレビをつけて、モニターに映し出された映像を、何も考えることもなく眺めているだけだった。
その柱時計はいつの間にか取り外されていて、家ではデジタル時計しかなくなってしまった。
柱時計は部屋のどこから見ても見ることができるほど大きなものだったのに、デジタル時計は本当に小さなもので、近くまでいかないと時間を確認できないほどだった。
「あの柱時計は、時計としての機能というよりも、この部屋のシンボルという意味で、部屋の中でのデザイン効果は抜群だったんだわ」
と、時計がなくなったことで感じる閉塞感を、あすなは脱ぎ諌ることはできなかった。
「そういえば、うちには昔、柱時計があったのよ」
とあすなはお姉さんに言った。
「そうなの? 実はうちにも柱時計があったのよ。うちの主人が骨董が好きで、ふとした時に買ってきたのよね。今から思えば、ここのお宅にお邪魔した時があったんだけど、その後くらいに手に入れたって言っているのよ」
とお姉さんは言った。
あすなはその時、ふと閃いた。
――ひょっとして、その柱時計って、うちにあったものなんじゃないかしら?
と感じた。
捨てるにはあまりにももったいない。それはあすなも思っていたことだが、急になくなってしまったことへの寂しさは、今から思い出しても思い出せるほどだった。
「柱時計なんて本当に珍しいですよね。でも、あの振り子の音を聞くと、いろいろなことを思い出すことができる気がするの」
とあすながいうと、
「私は振り子の音を聞くと、小腹が空く感じがするのよ。コーヒーを淹れて、クッキーを食べたくなるような気分になるわ」
もろ和風の柱時計に、洋風のコーヒーとクッキー。一見不釣り合いに感じるが、明治時代であればどうだっただろうか?
柱時計という当時としてはハイカラとも思えるアイテムと、西洋からのコーヒーにクッキー、西洋館の中での昼下がりを思い浮かべ、あすなは高貴な気分に浸っていた。
あすなは西洋屋敷を思い浮かべていると、その向こうに何かが見えてきた気がした。そこにはゲートがあり、ゲートの向こうには大きな広場がある。その奥には西洋屋敷が、今あすなの思い浮かべた形で佇んでいる。
――あれは、遊園地だわ――
広場は、無駄に広い、スタッフのみで客は誰もいない光景だけが思い浮かんだ。
休日に出かけた時の遊園地を、一度平日に行ったあの時の残像が思い出させようとしないかのように、強烈な印象を上書きすることで、あすなの記憶の奥に封印してしまっているのだろう。
あすなはそのことは分かっている。風もないのになぜそこにあるのか分からない紙屑が転がるように舞っていた。
――これって夢だったんじゃないのかしら?
時々思い出す光景に、そのほとんどの時、感じることだった。
どうして夢だったと思うのか、実際に見たことを、そう何度も思い出すことはないという思いがあった。しかも、思い出したとしても、その時々で感じ方が違っているというのが、あすなの理論だった。だが、あすなが思い出す時は、感覚的にブレはほとんどない。無意識の上に築かれた感覚は、無意識が作り出した虚栄のようだ。
夢の中だからこそ作り上げられる虚栄を、起きている時に見ることなどできないとずっと思っていたのに、一度これが夢だと思うと、何度もこの光景を想像することができるようになった。
しかも、その記憶は色褪せることはない。逆に見れば見るほど鮮明になっていく感覚だった。
色褪せることはないと言ったが、実際に色がついているわけではない。それもこの記憶を夢だと思った証拠の一つであった。
「夢には色がない」
と言っていた人がいたが、まさしくその通り、瞬時にして賛同してしまったあすなだった。
まったく何も聞こえない目の前の遊園地の閑散とした風景の中で、耳に巻貝を当てた時に聞こえる潮騒の音のようなものが聞こえるのを感じた。風もないのに風の通り抜ける音だが。そのうちにその音も消えてくる。
すると次に感じられたのは、柱時計の振り子がもたらす音だった。
――なるほど、小腹が空いてくる気がするわ――
と、今聞いたお姉さんの話を思い出し、自分もコーヒーとクッキーが目の前に置かれている妄想に駆られた。
クッキーは皿に乗せられているが、その皿には白い紙が添えられている。その横にフォークが置かれているが、ビジュアルとして配置的に最高のフォームを示しているように感じられた。
――これこそ芸術っていうのかしら?
と感じた。
あすなは、今目の前にあるものが残像であることを感じると、先ほどの三段論法を思い浮かべていた。
三段論法は、時計の刻む音と一緒に時計の表示板を写し出している。長針と短針が時を刻んでいるが、次第にその刻む感覚が早くなってくるのを感じる。そのうちに柱時計が歪に見えてきて。小学生の頃に見たアニメの中でのタイムマシンの一場面を思い出した。
「歪な形の時計版がいくつも雲のようなトンネルの中に張り付いていて、その仲をタイムマシンに扮したアイテムが走るように通り抜けていく」
そんな光景であった。
「タイムマシンなんて、理論的に無理なものだ」
という学者がいたが、あすなにもその思いは分かった。
あすなは、理論的な意味よりも、時間的な意味の方を重要視している。
二十世紀というと、科学の発展はめまぐるしいくらいのものがあった。不可能と思えるようなことをどんどん実現し、不可能が可能になっていった時代である。
しかし、タイムマシンやロボットの発想は、科学の発展当初からあった。それなのに、今になっても、SFなどに出てくる実際のタイムマシンやロボットは存在しえないではないか。
タイムマシンに至っては、そのきっかけすらないので、無理もないが、ロボットに関してはAIなどの電子頭脳を搭載したものは存在する。しかし、実際に人間の命令をきく、
「人型ロボット」
に関しては開発される気配はない。
あすなは、SF小説を読むのが好きだったので、
「ロボット工学三原則」
の存在を知っていた。
今から半世紀以上も前に提唱された三原則がネックになって、ロボット開発はこれを解決しなければ不可能であった。
この理論は三すくみのようなもので、負のスパイラルを伴っている。つまりは、
「抜けることのできない袋小路」
を形成しているのであって、その袋小路のせいで、永遠にロボットが開発されることはないと言わしめているかのように思えた。
――ロボット工学三原則のような理論は、まだ発見されていないだけで、他にもたくさんあるのかも知れない――
ロボット工学三原則は、ロボット開発の前に提唱されたものだ。
しかし、今後出てくるかも知れない堂々巡りを繰り返す理論は、すでに出来上がっているものに対してのものであろう。
それがさらなるその部門での発展を妨げるだけのものなのか、それともその部門を完全否定するものなのかは分からない。
しかし、それで一つでも完全否定されて、この世からタブーとされることで消えていくのもがどれだけあるというのだろう。
本当は過去にもたくさんあって。消えてしまった瞬間に、そんなものが存在したということすら、世の中の全員に植え付けられる力が存在しているのかも知れない。
それを思うと実に恐ろしい。目の前にあってもそれとは気づかない状態だということになる。
「暗黒星」
目の前にあっても、自ら光を発することもなく、さらにはまわりの光を反射して光ることのない、光を吸収してしまう存在の星、それを創造した科学者がいると言われるが、そのことをあすなは思い出していた。
あすなは、柱時計の存在も、その暗黒星のようなものではないかと思えた。あれだけ存在価値を満たしていたのに、なくなっても部屋は何ら変わりがない。変わりがあるとすれば、あすなの心の中だけのことだ。
影響範囲は極々狭い範囲でしか力を発揮しないが、その影響力は抜群のものがある。これまではそれはあくまでも自分だけのものだと思っていたのに、お姉さんと共有できるなどまるで夢のような気分だった。
人の顔を覚えられないあすなの意識は、このあたりにも影響しているのではないかと思えた。
人の顔を覚えるのは、本当はかなりの労力と専門的な力を有する。それを他の人は本能として持っているが、あすなにはそれがない。本能の一つが欠如しているということだろう。
しかしその代わりに他の潜在意識が影響することで他の人に感じることのできないものを感じることができる。それこそが、あすなの持ち合わせた感性ということができるのではないだろうか。
あすなはさらに潜在意識を感じた。その光景の続きを思い出したからだ。忘れていたわけではないと思っているが、どうして今まで思い出すことがなかったのか、少し考えてみた。
――見たこと自体を虚空だと思っていたからなのかも知れないわ――
という結論を思い描いたが、それが正解なのかどうか分からない。
意識していたはずなのに、その光景を見ると、まるで初めて見た時のような衝撃を与えられたからだ。
「ピエロ」
そう、あの時に次に見たのはピエロだった。広場の閑散とした雰囲気というよりも、強烈な印象を受けたのはピエロの出現があったからだ。
「なぜそのことを忘れてしまっていたのか?」
あすなはいろいろ考えてみたが、何かの力が働いているように思えてならなかった。
そして感じたのは、その力がなぜあすなにピエロを見たということを思い出されては困るのか、それについても考えてみた。
「ピエロの素顔を見てしまったからではないだろうか?」
とあすなは思ったが、その素顔を思い出すことができないように自分の中で自己暗示に掛けていたのかも知れない。
自己暗示というのは、見たことの強烈なイメージを否定する気持ちからであろうが、それが誰だったのか、その顔を今では思い出すことができる。
「あれはおじさんだったんだ」
あすなは、ピエロの顔を自分だと思っていた。
夢の中で時々出てくる一番怖い存在が、
「もう一人の自分」
だったからだ。
もう一人の自分ではなく、そこにいたのがおじさんだったという事実は、あすなに堂々巡りを繰り返させた
その堂々巡りを思い起こさせる原因になったのが、柱時計の長針と短針である。
「長針を動かせば短針も一緒に動く。だから分針としての長針が重要なんだ」
と、さっきお姉さんの言葉から知った。
あすなとおじさん、どっちが長針で短針なのだろう。それを動かしている手があるとすれば、それはお姉さんに違いない。
「あすなは人の顔を覚えることができない」
このことがあすなの頭の中にずっと去来している思いだった。
「覚えられないんじゃなくて、忘れないようにしようとする気持ちにブレーキがかかっているんだ」
と思うと、勢いよく指を回しているその手が急に止まってしまった気がした。
その時がいつの何時何分だったのか、あすなは知る由もない。
その手が時を戻しているとすると、遊園地に出かけたあの日になるのだろう。そこにどんなターニングポイントがあったというのか、きっとあの時のピエロのみが知っているに違いない……。
( 完 )
袋小路の残像 森本 晃次 @kakku
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