第4話 父との再会
上杉が、父親に会いたいと思っていたその頃、建て替えを行っていた大学の校舎があった。
大学というところは、学部もたくさんある分、敷地も広く、建物もたくさんあった。
「必ずと言っていいほど、どこかの校舎が工事中になっているよな」
建て替えともなると、数年かかるので、一年生の頃に始めたのであれば、自分たちが使えるようになってから、そんなに使うことはできないだろう。二年生や三年生からでは、在学中に使用することはできないかも知れない。
建て替えを行っている校舎は、上杉が入学した頃にはすでに工事が始まっていたので、三年生になる頃には使用することができるようになるだろう。
ほぼほぼ完成が近づいていた時、上杉は友達と工事中の校舎に近づいた。工事関係者はヘルメットをかぶってはいたが、危険な感じはなかった。そんな中で、一人ヘルメットにスーツを着て、ネクタイを締めているアンバランスな服装をした人が目に入った。
丸まった図面を手に持って、時折開いてみては、内部点検を行っている。時々、作業員を呼び止めては、手ぶりでいろいろ指示を与えているようだ。現場監督ではないにしても、工事責任者の一人であることに違いはない。その人の顔をよくよく見ていると、ヘルメットから覗くその顔には見覚えがあった。
上杉の視線に相手も気づいたのか、その男性は上杉に近づいてきた。
「昭雄、昭雄じゃないか」
嬉々とした表情で近づいてきたその人が、父親であることに気づいた上杉は、懐かしさを感じていたわけではないが、思わずニコリと笑みを返していた。
「それじゃあ、俺たちは」
「ああ、じゃあな」
と、気を利かせてくれたのか、皆いなくなった。
「お父さんも元気そうで」
というと、
「お母さんも元気か?」
お母さんのことを言われると、何と答えていいのか躊躇があったが、とりあえず、
「ああ、元気だと思う」
と答えた。
「曖昧だな」
「うん、大学に進学してから、俺は一人暮らしを始めたので、お母さんのことはあまりよく知らないんだ。でも、お父さんがここの工事に関係していたなんて、思いもしなかったよ」
「つい最近まで、お父さんも作業員の一人だったんだけど、現場を任せてもらえるようになって、少しずつ変わってきたような気がする。実はここに、作業員としてずっと来ていたんだけど、責任者の一人としてここに来たのは今日が初めてだったんだ。本当にお前が来てくれるなんて偶然にしても、本当に嬉しいよ」
お父さんは、「偶然」という言葉を口にしたが、上杉には偶然とは思えなかった。
偶然というよりも、父親が変わったことで、自分をここに引き寄せるオーラのようなものがあり、自分がそのオーラに反応したのだと思う方が、よほど自然な感じがした。
「お父さんの姿、本当に凛々しく思えたよ」
「そうか? ありがとう。でも、お父さんもつい最近までは自分が嫌いだったんだ。まわりからはまったく目立たない存在で、皆で工事の仕事をしていても、その存在が道端に堕ちている石のようだって言われたことがあるくらい、存在感が薄いって言われていたんだぞ」
今見た父親からは信じられないが、理屈で考えると、言われたことを信じる方が、よほど理に適っているように思えた。
なぜ急に存在感が増すようになったのか分からないが、存在感を増したことで、オーラが発散され、そのオーラに息子である自分が反応し、ここに呼び寄せられたと思う方が自然ではないだろうか。
確かに、偶然と言われればそうなのだろうが、最初から上杉には、
「今回のことに、偶然など存在しない」
という思いを抱いたことは間違いなかった。
そういえば、お父さんはお母さんと離婚して家を出て行った時、母親の姿は覚えているが、父親の雰囲気はまったく記憶にはなかった。
「街でバッタリ出会っても、きっと分からないだろうな」
と思っていて、
「もし父親が自分を見つけたとしても、下ばかり向いて歩いているだろうから、自分を見つけることはできないんだろうな」
とも思っていた。
それなのに、父と目が合ってしまうというのは、最初の想定外だったこともあって、想定外のことが起こると、偶然であっても、本当に偶然なのだろうかと疑いたくなってしまう。
父も同じことを感じているのかも知れない。二人が顔を合わせた時、懐かしそうな笑顔をしたのは事実だ。しかし、上杉の方には懐かしさはあまり感じなかった。父親の方はどうだったのだろう。
父は少し時間を取ってくれた。ヘルメットを脱いで学食まで行くと、父親は懐かしそうに、
「募る話もいっぱいあるんだ。ゆっくり話がしてみたい」
と言ってくれた。
「そうだね」
上杉の方には何を話していいか分からないという思いが前提にあったので、相手からゆっくり話をしてみたいと言われると、断ることができなかった。
それは、父に悪いという意識ではなかった。どちらかというと、
「言い訳を考えるのが面倒くさい」
という思いの方が強かった。
完全に受け身態勢である。父親の方には息子に会いたいという気持ちが強かったというのが分かるが、息子の方はそれほどでもなかった。むしろ、面倒臭いことになるくらいだったら、会わない方がいいと思っていたくらいで、父から言われた、
「募る話」
というのがどういうものなのか気にはなるが、興味を持って聞くわけではない。あくまでも客観的に話を聞くという立場を貫くだろうと思っていた。
その日の夕方、父と待ち合わせた喫茶店で合流し、そのまま父の馴染みという炉端焼き屋に出掛けた。小料理屋のような雰囲気で、そこの女将が父親好みなのか思わず詮索してしまいそうになったのに気づいて、慌てて想像するのをやめた。
「募る話って何なんだい?」
「お前は俺と母さんが離婚した時、まだ子供だったので分からなかっただろうから、あの時のことをまず話しておきたいと思ってね」
その言葉を聞いて、ガッカリしたのは間違いない。
――何をいまさら――
そんな思いが頭を巡る。
言い訳にしかならないようなことを、いまさら聞かされてどうだというのだ。きっと父親に対して挑戦的な目をしていたに違いない。
「おいおい、そんな目をするなよ。お父さんはお前を大人の男として話をしたいと思っているんだよ。もちろん、謝りたい気持ちもウソではない。でも、お父さんはその時、付き合っていた女性に対して本気になった気持ちにもウソはないんだ」
「だからといって、俺や母さんを捨てる結果になっちゃったじゃないか。それをどう思っているんだよ」
「いい悪いの問題ではないと思っている。ただ、人情としてまだ子供のお前をお母さんに押し付ける形になって、子供にもしなくてもいい苦労を掛けてしまったという思いはあるんだ。だけど、お母さんは離婚の話になった時、すでに私に対しての気持ちはなくなっていて、現実的な話しかしなかった。つまりここが男性と女性の大きな違いだって俺は思っている」
「どういうことなんだい?」
「ここから先は、お父さんとお母さんの問題というよりも、男女の問題という意味で聞いてほしいと思うんだが、あの時、お父さんがお母さんに離婚の話を持ち出した時、お母さんはお父さんを無視し続けた。いくら話をしようと言っても、その返事はまったくなかった。お父さんとしては、どうしていいか分からなくなっていた時、ふいに母親が離婚調停に乗り出したことを知ったんだ」
「知らなかったの?」
「ああ、裁判所から出頭命令が来て、初めて知ったんだよ。お母さんが調停の申し立てをしたんだってね。お父さんは最初、お母さんが何を考えているのか分からなかった。話をしようと思っても、完全に無視されていたからね。でも、いきなり裁判所への出頭を言われたことで一つ分かったことは、お母さんはお父さんとまともに話をしたくはないと思っているということだね」
「そうなんだ」
「離婚の話をするまでは、お母さんもヒステリックになっていた時期もあった。このままでは収拾がつかないとお父さんは思ったんだ。それで、収拾をつけるため、お父さん最後通牒とも思えることを口にしたんだ」
「それは?」
「これは、浮気ではなく、本気だってね」
この話は聞いてはいたが、俄かに信じられるものではなかった。しかし、ハッキリと父親の口から聞かされた言葉に説得力があった。その言葉を聞いた時、背筋に冷たいものを感じ、
――このことが理解できれば、俺は大人になった証拠だな――
という複雑な思いが頭をよぎった。
「こんなことが理解できれば大人になれるんだったら、大人になんかなりたくない」
というもう一人の自分の声が聞こえてきそうな感じだった。
浮気と本気の違い、どういえばいいのか、浮気というのは、「遊び」という言葉に置き換えられると考えていた。もちろん乱暴な考えだが、その乱暴さが大人になりきれていないところだということも分かっていた。
では、本気というとどういうことになるのか?
本気というのは、
「自分の気持ちにウソがない」
ということだと思っていた。
しかし、大人になった今では、浮気というのも、自分は本当に自分の気持ちにウソをついているということだろうか? この解釈が本気と浮気を感じる時の境界線の違いだと感じた。
上杉は、浮気も自分の気持ちにウソをついていない部類に入ると思う。厳密にいえば、
「浮気をしたからといって、自分の気持ちにウソをついているとは言えない」
という考え方だ。
それなのに、浮気と本気の違いは、
「遊びか遊びではないか」
という違いに転換できるとすれば、浮気というのは、もっとも許せないものだとして分類されてしまう。
上杉の思いはそこだった。
上杉が父から聞いた、
「浮気ではなく、本気だ」
という言葉が詭弁にしか聞こえないからだ。
浮気であろうが本気であろうが、自分の気持ちにウソをついていないということに変わりはない。父としては、
「遊びではないから、離婚を考えた」
と言いたいのだろう。
もし、そうであるなら、上杉は父親の考えを許すことはできない。
父親の言葉を言いかえれば、
「浮気だろうが本気だろうが、自分の気持ちにウソはない。ただ、俺は遊びとして終わらせたくはない」
という気持ちを前面に押し出しているだけで、母親にプレッシャーを与えているだけではないだろうか。
これを聞いた方とすれば、
「この人の本気という言葉は、相手に戦意喪失させるための起爆剤のようなものだ」
と考えるだろう。
遊びというのは、相手がどう考えていようが、自分は相手に深入りすることはないという意味である。だから、浮気であれば、妻に対して離婚しないように必死に頼み込むはずだ。
それなのに、遊びではないと言った瞬間、自分は相手と相思相愛であるということを宣言したようなもので、現時点では、あなたよりも不倫相手の方に気持ちを奪われているので離婚したいという、実に都合のいい身勝手な話になってしまう。
しかも最初に、
「自分の気持ちにウソはない」
と宣言しているのだ。
ということは相手に最初に宣戦布告しておいて、畳みかけるというやり方だ。考えれば考えるほど、卑怯にしか思えてこない。
父親と話をしていると、虫唾が走りそうになってきた。どの言葉も欺瞞に満ちているように聞こえてきたからだ。
しかし、心のどこかで、
「もうそろそろ許してやってもいいんじゃないか?」
という声が聞こえてきたような気がした。
いくら自分たちを「捨てた」男とは言え、父親であることに違いはないのだ。再会の最初にここまで相手のことをひどく考えてしまえば、その後は、これ以上ひどく考えることもないと、感じていたのも事実である。
「お父さんは、俺たちを捨てたのかい?」
ストレートに聞いてみた。
父親の、
「浮気ではなく、本気だ」
という言葉は、相手に戦意喪失させるには最高の言葉だったのだろうが、納得がいかなければ最後まで戦うと思っている人には効かないだろう。そういう意味では父親の言葉はそこから重みを失った。しかし子供に対しては十分に効果はあった。
ストレートな聞き方は、
「もし、親父に遭うことがあったら、俺もしてみたい」
と思ったことであって、さすがにあれから十何年も経っているのだ。いきなりストレートに聞かれれば、どう答えていいのか迷うだろう。
「捨てたわけではない」
これが一番考えられる答えだった。
どこか曖昧な言い方は、表面上は捨てたと思われても仕方がないが、心の中では、
「捨てたくて捨てたんじゃない」
と思っているはずだ。
この言い方をすると、最終的に捨てたことになってしまうので、言葉にはできないだろう。
父親は少し考えて、
「捨てたんだろうな」
と弱弱しく言った。
これはこれで最悪な回答だった。
捨てたという事実に対して、もはや他人事。母と別れる時に、
「浮気ではなく、本気だ」
と言った、あの時の本気という言葉はどこに行ってしまったのか、すっかり、怯えているように見えていた。
「自分の気持ちにウソはない」
と言っていた言葉自体がウソに感じられた。
だが、父親が昔ほどではないにしても、もう少し自信に満ち溢れていた李、悪びれた様子がなかったりすると、まず許してあげようとは思いもしなかっただろう。今の父親を見ていると、気の毒に感じられた。
それは、物乞いをしているホームレスを見ているようで、普段なら、
――情けない――
と思うような相手に、無性に同情したくなることがあるが、今まさにそんな気分だったのだ。
「お父さんは、今誰と住んでいるんだい?」
またしても話を逸らした。
上杉は、質問攻めにして、答えたことに対して、自分がどう考えているか、言わないつもりだった。攻撃される方も辛いだろうが、攻撃する方も、結構辛いものがあった。
「お父さんは一人暮らしなんだ」
分かっていたような気がする。
相手がどんな人であれ、一緒に住んでいる人がいれば、もう少し覇気があってもいいはずだ。だからこそ、
「自分たちを捨てたのか?」
という質問に対し、最悪に思えていた、
「捨てたんだろうな」
という、憎まれても仕方のないような回答しかできなかったのだろう。
そんな父を見ていると、
――しょうがない。許してやろう――
という気持ちが芽生えてきた。
しかし、それは同情によるものではなかった。
――こんな情けないおやじなら、今の俺にだっていろいろ命令できるんじゃないか?
と、何かを企んでいる気持ちが見え隠れしていた。
具体的にどうしたいというものはなかったが、許す気持ちになったことが、一つ大人に近づいたのだと思うと、まんざらでもなかった。
気持ちの中に、相手に対しての優越感が、そのほとんどを占めているということに気づいてはいたが、
――許すんだから、それくらいは代償として支払ってもらわなければいけないよな――
と思い、ほくそ笑んでいた。
「お父さんの住んでいる家、見せてもらいたいな」
いきなりの上杉の「注文」だった。
「ああ、いいよ。狭いけどな」
そういうと、父は席を立ち、支払いを済ませると、表に出た。
最初に言っていた
「募る話」
というのは、本当に薄っぺらいものだった。
ダラダラと話が進むだけで、集中して聞いているわけではないからだ。そうしても他人事に聞こえてしまい、話している本人が自己満足しているだけにしか思えなかった。
その中で父は、
「本気になった」
という女と離婚してから一年も経たないうちに別れたという。
まずその時点ですでに集中して話を聞くことができなかったわけで、話の内容が他人事に思えてしまったのも仕方のないことだっただろう。
「捨てたんだろな」
という言葉も、せっかく離婚してまで一緒になった相手と別れてしまったことで、すべてが無駄になってしまったことへの後悔の念があったのではないかと思えたことから、半分自虐的な言い方になってしまったとも考えられた。
そんなことを考えながら、表に出ると、入ってからすぐに出てきたような気がするくらいだった。実際の時間としては、二時間以上は店の中にいたのに、あっという間だったような気がするのは、それだけ話の内容が無駄話だったような気がするからなのか、それとも、女将さんがいたとはいえ、二人きりの世界がまるで別世界のように感じられたからなのかのどちらかだとは思うが、正直どちらなのか、判断がつかなかった。
――両方なのかも知れないな――
と本音として感じていたのかも知れない。
店から出ると、星空が綺麗だった。
「都会の空がこんなにも綺麗だなんて」
上杉が空を見ているのを横で見ていた父親が、先に口に出した。
上杉も同じことを考えていたが、口に出すことをしなかったのは、先に父親に喋らせようと思ったからだった。
「そうだね」
上杉は相槌を打ったが、先に空から目を離し、歩き始めたのは上杉の方だった。
「こっちでいいのかい?」
それを聞いた父親も、慌てて空から目を切って、前を向き直り、
「ああ、そっちでいいんだ」
と上杉についていった。
上杉は、今日だけは自分が完全に主導権を握りたかった。そのためには、普段はしないようなことを、いきなりすることで、相手の出鼻をくじくようなやり方をしていた。もちろん、今までこんなことをしたことはなかった。それを十数年ぶりに遭った父親に対してしなければいけないことに、上杉自身、自虐の念があったのかも知れない。
前を見て歩いていると、普段はもう少し人がいるような気がしていたはずの、普段から通っているこの道が、まるで初めて来たような気がしてきたから不思議だった。
――あの角を曲がると、確か公園があったよな――
と思いながら歩いた。
角に差し掛かって曲がりかけると、目の前に公園が見えてきた。その公園には、さすが夜九時を過ぎたこの時間には誰もいなかった。街灯に照らされた公園は、こじんまりとしていて、まるでそこだけが別世界のように浮かび上がっていた。
――そういえば、高校の頃、予備校の帰りに、時々家の近くの公園のベンチに座って、少しの間、考え事をしていることもあったよな――
という回想が頭をよぎった。
――表から見ると自分がどんな風に見えていたのだろう?
今歩きながら、公園のベンチを見ていると一人の少年が頭を抱えるようにして顔を上げることができずに佇んでいるのが想像できた。その姿は荒んでいて、どうにも情けなく思えた。
――十数年前のお父さんも離婚を考えた時、あんな風に頭を抱えていたのかも知れないな――
と思うと、ベンチに座っている少年が、スーツを着ているが、ネクタイもワイシャツもだらしなくヨレヨレになって、背中をこれでもかというほど丸めて佇んでいるサラリーマンの姿が見えていた。
――お父さん――
まさか、自分の過去を思い出していると、そこに父親の一番見たくないと思っていた、見たこともない姿がフラッシュバックされた状態に見えてくるなど、想像できることではなかった。
だが、よく見ると、父親ではないような気もしてきた。
――まさか、自分の未来の姿?
最初に父親だと思ったのがなぜなのか分からなかったが、自分の未来の姿が見えたと思う方が、自然な気がした。その姿に父親を見たのだとすれば、血の繋がりを感じたからだろう。
「そんなバカな」
上杉はすぐに打ち消した。
父親との血の繋がりを一番否定したいと思って、ずっと今まで生きてきたのだ。
「俺は、自分の結婚した相手に、母親と同じ思いをさせたくない」
と思った。
上杉は父親を人間として憎むことはどうしてもできなかった。子供の頃にはまったく分からなかったが、母親にあんな顔をさせた父親を漠然と憎んでいた。
しかし、思春期になると、
「浮気ではなく、本気」
と言っていた言葉の意味が、漠然としてだが分かるようになった。
だが、自分には付き合っている人や好きな人がいるのに、他の人に心変わりしてしまう気持ちが分からないと思っていた。そう思おうと努力していたからなのだろうが、心変わりしないことで、自分の中に父と同じ血が流れているということを否定したい気持ちになっていたのだ。
――母親との血の繋がりは決定的なものだとは思うが、父親との血の繋がりは否定したい――
この思いが、矛盾していることは分かっている。分かっていても、貫きたい思いであることも事実だった。
――どっちの優先順位が強いんだ?
と考えてみたが、
――父親との血の繋がりを否定したいのは、母親をあんな目に遭わせたことに起因する――
と考えると、父親への憎しみよりも、母親へのいとおしさが深く感じられる。
――お母さんの気持ちを考えると、俺が支えてあげなければいけないと思うと、どうしても父親との血の繋がりを否定しなければいけなくなる――
要するに、どちらも重要で、切っても切り離せないものなのだ。
「優劣つけがたい」
というのは、まさしくこのことをいうのだろう。
もし、矛盾している思いを無意識に感じたことから、公園のベンチに幻を見たのだとすれば、
――本当に父を許してもいいのだろうか?
という思いが頭をよぎった。
ついこの間までは、父を絶対に許してはいけないと思っていたはずだった。心変わりがあったとすれば、父に遭ってしまったからなのだが、もしこれが偶然であれば、この時に自分を顧みなければいけない何かが存在していたということになる。どうしてあの時上杉は父親の部屋を見てみたいと思ったのか、自分でもハッキリと分からなかった。
「どうしたんだ? そろそろ行くぞ」
公園を眺めていた時間がどれほどのものだったのか分からなかったが、その時の上杉は父親の存在を忘れてしまったかのように、公園の中に集中していた。父親に声を掛けられ、ハッとして我に返ったが、その時に見た公園がまるで箱庭のように見えたのは気のせいだっただろうか。
今にも消え入りそうな街灯が浮き上がらせている公園。大学時代、よくこんな場所に一人でいようと思ったものだ。今考えただけでも、背筋に汗が流れ出るのを感じた。
さっきまで自分が先に立って歩いていたが、今度は父親が先導してくれている。完全に立場が変わってしまったが、公園を気にしたのは、立場の逆転を促すための前兆だったのかも知れないと思うのは、突飛すぎるだろうか。
しかも、さっきまで知っている道をどんどん自分が先導するように歩いていたつもりだったのに、父が前に立った瞬間から、知っているはずの道が、まるで初めてきた場所に思えてきたのだ。
――こんな感覚って――
と、不思議に感じながら、歩いていると、いつの間にか早歩きになっているのに気が付いた。
息が切れてきていて、汗も滲んでいる。まわりを見ると、歩いている人は誰もおらず、その空間を紛れもなく二人だけが支配していた。
それなのに、なかなか次の角まで辿り着かない。父はそれほどストライドが広いわけでもないのに、追いつけないのだ。二人が占領している真っ暗な空間には、父の乾いた革靴の音しかしてこない。上杉も同じように革靴を履いているのに、自分の靴音には気が付いていない。まるで夢を見ているようだ。
「ほら、見えてきた」
余計なことを考えていると、目の前に見えてきたアパートを父は指差した。
まるで昭和の建物を思わせるようなアパートで、集合ポストには、ダイレクトメールの束が溢れているのが目立っていた。
しかも、それは一軒だけではなく、何軒も同じだった。きっと入居者は少ないのかも知れない。
二階建てのアパートは八部屋あるようだった。狭い通路の玄関扉の横には、昔の二層式の洗濯機が置かれていて、本当に昭和そのものだった。父の部屋は二階の奥になっていて、同じように、二層式の洗濯機が表に置かれていた。
スーツを着こなして仕事をしているわりには、あまりにもみすぼらしいアパート暮らし、信じられないという思いが強かった。
父はその思いが分かったのだろう、カギを開けながら、
「俺が今の仕事になったのはつい最近なんだ。それまでは、一介の作業員でしかなかった」
そういえば、元々お父さんは離婚するまでは、サラリーマンだったはず。スーツ姿は子供の目として焼き付いていたが、あくまでも子供の目なので、今の父の変わり果てた姿には違和感を感じるまでもなかった。
「さあ、入って」
そう言って、父は先に入り、部屋の電気をつけた。
洗濯物や、ごみなどが散乱している姿を想像していたが、結構片づけられているのを見ると、少し安心した。部屋自体はこじんまりとしていて、家具らしいものはほとんどなく、自炊もしていないのか、食器棚もなかった。
「こんなみすぼらしい生活に、驚いただろう?」
「ああ、でもまさか平成の今の時代に、こんなアパートがまだあること自体、ビックリしているくらいだ」
そういうと、父は少し照れくさそうに頭を掻きながら、
「お父さんがお前くらいの頃は、こんなアパートばっかりだったんだ。学生アパートというとこんな感じだったかな? お父さんは大学時代、一人暮らしをしていたんだが、これと同じようなアパートだった。その頃はほとんど部屋に帰ることもなく、友達のところを泊まり歩いて、夜を徹していろいろな話をしたりしたものだった。そのせいもあってか、部屋は散らかり放題。そうなると、部屋に帰ってくるのが億劫になってくる。そうなると、また部屋が汚くなる……。そんな繰り返しだったな」
「綺麗なマンションやコーポには憧れなかったの?」
「社会人になって憧れたものだから、最初はコーポに入ったのさ。それなりに綺麗にはしていたつもりだったけど、今度は仕事が忙しくて、なかなか部屋にいることもない。コーポ暮らしは、実にアッサリしたものだった」
「それで?」
「何年か、忙しい中で暮らしていたんだけど、そのうちに母さんと知り合って、あれよあれよの間に結婚したものだから、コーポの一人暮らしを味わうという気持ちはなかったかな?」
「結婚って、そんなにすぐに決まったの?」
「時間的には、そんなにすぐではなかったと思うけど、お互いに一目惚れだったこともあって、お互いに最初から結婚するつもりだったのかも知れないな。だから、お付き合いというのもあまり意識したこともなく、一緒になったような気がする」
その話を聞いて、
――なるほど、浮気と本気の区別がつかなくなったのは、結婚するまでのプロセスが原因なのかも知れないな――
と感じるようになった。
今まで知らなかったことが次第に瓦解されていく。それも、まさかと思った父親との再会からだった。
父親を許す許さないの前に、まず真実を知ることが一番であり、そのためには、事実を時系列で知る必要がある。それが上杉の考えだった。
――お父さんとお母さんに交際期間中、恋愛感情というものは存在していたのだろうか?
そんなことを考えてみたが、
――そもそも、二人に交際期間自体があったのかどうかも疑わしい気がする――
と思えた。
それは、上杉の平成の感覚と、両親の昭和の感覚の違いも考慮に入れて考えなければいけないことであった。
「お父さんは、お母さんが本当に好きだったの?」
思った通りこの質問には、父も困惑していたようだ。
「そうだな。何とも言えないな」
「でも、嫌いではなかった」
「それはもちろんさ。しいて言えば、『友達以上恋人未満』というところかな?」
その言葉を聞いて、上杉は愕然とした。頭の中にあすなの顔が浮かんできたからである。
父は話を続けた。
「お父さんは、そんな関係を嫌だと思ったことは一度もなかった。実際に楽しかったし、このまま結婚するんだって正直思っていたよ」
「そして、その通り結婚した?」
「ああ、そうだ。でもお父さんは今でも、『友達以上恋人未満』から出発して、結婚したことを後悔はしていない。だけど、『本当に好きだったのか?』と聞かれると、ハッキリと答えることはできない」
「どうしてなの?」
「どうしてなのって、それはそうだろう。お前だって、これから誰かと結婚することになるんだろうが、本当に好きだったのかって聞かれて、ハッキリと答えられないと思うぞ。なぜなら、結婚してしまえば、好きだという感覚は少しずつ変わっていくものだからな」
「結婚したことがないので分からない」
「だろう? 結婚してから変わってしまったことを、その時のピンポイントで思い出すなんて難しいんだよ。お前だって、たとえば小学三年生の頃、ピンポイントで何を考えていたのかって思い出せるかい? 思い出したとしても、本当にそれが三年生の頃のことだって言いきれるかどうか、怪しいものだと思うんだ」
「確かにそうかも知れないけど、それでもハッキリと覚えている人はいる。個人差があるんじゃないかな?」
「だったら、お父さんにも個人差があってもいいんじゃないか? お父さんはハッキリとその時のことを自信を持って覚えていないというだけだ」
父の言っていることは確かに正論だった。
だが、どうにもしっくりと来ない回答だった。父の答えには到底納得できるものではなかった。
――俺はそんな答えを期待したわけじゃないんだ。ウソでもいいから、好きだったと言ってほしかったんだ――
正直に言ってくれたのは、それだけ父が正直者だという考え方と、もう息子のことを大人として見ていて、
――これくらいの年齢になれば、俺の気持ちも分かってくれる――
と思ったことで、大人同士の会話がしたかったのかも知れない。
それを思うと父親が、どうして今日自分の部屋に連れてきてくれたのか、漠然とだが分かる気がした。
自分のことを知ってもらい、大人の会話がしたかったのではないかと思うと、悪い気はしなかったが、嫌な気分にはなった。
ただ、
――もう少し、父のことを知りたい――
という思いがあったのは事実で、
――自分を納得させてくれることができれば、この人を父として、許してあげられるのかも知れない――
と感じた。
「男同士の会話、大人同士の会話」
それを父が望んでいることは間違いない。
しかし、その目的が何なのか、上杉には、いまさら許してもらいたいという気持ちからに思えて仕方がなかった。本当なら、この場から早く抜け出したという思いに駆られているのに、なぜか立ち去ることのできない自分がいたのだ。
――やっぱり、この人と血が繋がっているんだ――
と思わざるおえない。
まさか自分を味方にでも引き入れようというのか、それで最終的に復縁を迫りたいとでも考えているのだとすれば、もっと、父のことを知るしかない。そういう意味で、気になるのは父が自分たちの今をどれだけ知っているかということだ。母が再婚したことも知っているのだろうか?
「お父さんは、あれからどうしていたんだい? 言いにくいこともあるかも知れないけど、言えることだけでいいんで聞きたいと思う」
というと、父は少し迷っていたようだ。
「中途半端な言い方をすると、事実とは異なってくるかも知れないので、話をできるとすれば、客観的にしか話はできないが、それでいいかい?」
父は言葉を選んで話をしているようだった。
これなら、言いたいことをすべてではなくても聞いていればある程度のことは分かるかも知れない。
「分かった。それでいいよ」
上杉は真剣な顔をしたが、笑顔を絶やすことはなかった。
笑顔を絶やすことのないというのは上杉のいいところなのだろうが、それ以前に、笑顔が消えるほどの恐ろしい話を聞かされたことがなかっただけのことでもあった。
ただ、上杉の人生は波乱万丈といってもいいだろう。それなのに、笑顔が消えるほどのショックを受けていないということは、それだけ神経が図太いのか、嫌なことは客観的に見ることができるからなのか、自分でも分からなかった。
「お父さんは、あれから好きになった人と少し一緒に生活をしていたんだけど、急に相手の方がお父さんの前から姿を消したんだ。因果応報というべきか、彼女にもお父さん以外に好きな女性が現れたらしいんだ」
「お父さんは、その時、どう思った?」
「まず、お母さんの顔が浮かんできたね。申し訳ないという思いが浮かんできたんだ。でも、復縁できるはずもないし、復縁しようとも思わなかった」
「相手の女性を追いかけるという気はなかったの?」
「不思議となかったんだよ。お父さんに対して『ごめんなさい。好きな人ができたの』と言った時、申し訳なさそうな顔をしたんだ。その顔を見た時、スーッと自分の気持ちが冷めてくるのを感じたんだ。やっぱりこの人はお父さんのことを愛しているわけではないってね。お父さんも自分でウスウス気づいていたことなんだけど、お父さんの方も、本当に彼女のことを愛していたのか分からなくなってね。まるで二人は友達だったんじゃないかって思ったんだ」
「そんな」
「そうだよね。お父さんこんな形でお母さんと別れるきっかけを作った女と別れるようになると、離婚がなんだったのかって思うよね」
上杉は、何ともやりきれない気持ちになった。
しかし、その思いは父が感じている思いとは若干違っているようだ。それは、今の父の話し方でよく分かった。
「違うよ。今の僕だから思うんだけど、離婚は間違いではなかったと思う。僕がやりきれないと感じたのは、その後父が、いとも簡単に『本気になった』と言った相手と別れてしまったことなんだ。一体、お父さんにとっての本気って何なんだよ」
上杉は、自分の声が上ずってきていることに気が付いていた。
「お父さんも、この時はさすがに自分の本気が何なのかって考えたものだ。浮気か本気かと聞かれて、二者選択だったら、お父さんは間違いなく本気だったんだ。その気持ちが本当に相手を愛しているという思いに繋がっていると、その時は信じていた。でも、自分がしたのと同じことをされてしまうと、よく分かったんだ。最後通牒を提示されてしまうと、言われた方は、逆らうことができないものなんだってね。逆らうことはできないけど、考えることはできる。そんな状況で考えたとしても、結論は一つしかない。その過程で、気持ちは完全に冷めていくものなんだ」
「じゃあ、あの時のお母さんもそうだったのかな?」
「それは分からない。これはお父さんが感じたことで、人それぞれに感じ方も違うだろうからね。それにお父さんは男で、お母さんは女なんだ。男女の違いというのは、結構大きいかも知れないよ」
父の言葉を聞いていると、納得できる部分もあり、
――なるほど――
と感じることもあった。
やはりそれは、男同士の会話だから感じるのだろうか。上杉も大学生になり、高校の頃までの自分とはまったく違っていることに気が付いた。
――大人になった――
と感じながら、少し背伸びしているところもあったが、父の話に共感できるところもあることを思うと、もっと父の話を聞いてみたいと思うようになっていた。
「お父さんは、その女性と、『友達以上恋人未満』だったのかも知れないな」
「そうだな。それが友達にしか思えなくなったことが、別れの原因だったのかも知れない。相手の女に本当に好きな人がいたのかどうか、お父さんは知らないが、他の人を好きになるにしても、友達にしか見ることができなくなったことが大きな原因だったことに変わりはないだろうからね」
そう言って父は、遠くを眺めていた。
父の話を聞いていると、
――俺にもやっぱり父親の血が流れているのかも知れないな――
と感じた。
それはあすなに対しての感情で、あすなも同じことを思っていても、お互いに納得したところがあった。
だからといって、恋愛感情を持つことはないと言えるわけではない。一つ言えることは、父と決定的な違いがあるということだ。この違いを感じることで、幾分か救われた気持ちにはなったが、根本的な解決にはならないような気がしていた。
――お父さんの場合は、最初から相手のことを好きだと思って付き合っていたが、実は本当は「恋人未満」であることに気が付いて、別れることになったんだ。俺の場合は、最初から「友達以上恋人未満」から始まっているので、父のような失敗はしないだろう――
と感じていた。
だが、自分の中に物足りなさがあるのも事実だった。
それは、自分が本当に相手のことを好きになることができる人間なのかということが分からないからだ。
人によっては、「友達以上恋人未満」を最初に経験して、その後で恋愛をするという人も多いだろう。しかし、そんな人たちは「友達以上恋人未満」という意識がないまま、恋愛するようになる、ただの友達と思うか、それとも「友達以上恋人未満」と思うのかということがポイントだが、最初から恋人未満だとどこか不自然だと思わせるのかも知れない。
恋人未満として見てしまうと、その人には永遠に恋愛感情を抱いてはいけないということになってしまう。自分の中でそんな戒律を設けてしまっていいのだろうか?
出会いというものが運命だとすれば、いずれ恋愛感情を抱くことになる相手だとしても、自分でそれを否定してしまうと、その後、自分には恋愛感情を抱くことがあっても、成就することのないまま、若い日々を恋愛なくして通り過ごしてしまうかも知れないのだ。
上杉は父親が自分と同じ、「友達以上恋人未満」を意識する人間だということを感じると、自分があすなに感じている思いが一体何なのか、再度考える必要が出てきた。
「友達以上恋人未満」という感覚を持つということは、友達としては最高なのに、恋愛感情を抱いた時に、どうしても譲歩できない何かがあることで、永遠に恋人にはなれないという何かに気がつくからではないかと思うようになっていた。
――あすなに譲歩できないことなんてあるだろうか?
あすなのシンデレラコンプレックスは確かに、容認できるものではない。あすなが、
「白馬に乗った王子様」
を想像しているのだとすれば、上杉にはその役は重荷すぎる。
もっとも王子様は、面識のない人間に限られる。
面識があればそれだけ相手にも自分のことを分かるだろうし、自分も相手のことが分かる。いい部分だけが分かればいいのだが、悪い部分も同じくらいに分かってくる。確かにいい部分だけを強調して見ていると、何かあった時に、
――自分が相手のことを何も知らなかったんだ――
という思いに至るに違いない。
「お母さんはどうしてる?」
ふいに父から聞かれた。
「お母さんは、再婚したよ。僕が大学生になったことで、肩の荷が下りたと思ったんじゃないかな?」
「そうか、お母さんは大丈夫かも知れないな」
「どういうことなんだい?」
「お母さんにも、お父さんと同じようなところがあって、「友達以上恋人未満」という性格が垣間見えたんだ。だから、お父さんはお母さんを好きになった時、自分と同じ匂いを感じるって思ったんだよ。結婚している時は実にうまくいっていたんだが、そのおかげだとお父さんは今でも思っている」
お父さんの話を聞いて、「友達以上恋人未満」という感覚を持っている人が、こんなにもたくさんいるとは思ってもみなかった。
――あすなもそうだもんな――
自分にも同じものを感じている上杉は、まさかこんなに同じ感覚の人が多いとは思わなかった。
「類は友を呼ぶ」
というが、ここまでとは思わなかった。
だが、ここまでくると、「友達以上恋人未満」と思っているのは、皆なのかも知れないとも感じた。そのことをまったく感じることなく一生を終わる人がほとんどであって、知らぬが仏とでもいうべきか、逆に、今のように離婚が日常化している中、理由も分からずに離婚している人も少なくない。その人たちのほとんどは、この時に初めて、「友達以上恋人未満」という言葉を意識し、
「それならば」
と、初めて感じたことをいいことに、それを理由として自分を納得させ、離婚に踏み切っているに違いない。
――相手がどう思おうが、自分が納得できればいい。どうせ相手は離婚を考えている相手なんだから――
ひょっとすると、お母さんも同じことを考えたのかも知れない。
「二度目に失敗しなければいいんだ」
お母さんは、以前スズメバチに刺されたことがあると言っていた。
上杉はあすながハチに刺された時、アナフィラキシーショックの話を聞いていたので、それがどんなものなのか知っていた。
母親は二度目に結婚した相手から別れを告げられた時、きっとアナフィラキシーショックを引き起こすであろう。しかし、この場合のショックは、実際のハチに刺された時と違って精神的なものなので、相手にも共有させることができる。そのため、自分もショックではあるが、相手にも同じショックを与えることで、お互いに抗体を共有し、
「雨降って地固まる」
という状態に持っていけると思っていた。
――もう二度と、あの時のような屈辱は味わいたくない――
好きで一緒になった相手から、
「他に好きな人ができた。浮気ではなく、本気だ」
と言われてしまうと、それ以上何も言えなくなる。
その時の母は、父が他の女性を好きになったということが悔しかったというよりも、そんな父に対して何も言えない自分が歯がゆく、
「これ以上の屈辱はない」
と感じさせたに違いない。
「お母さんは大丈夫かも知れないな」
上杉も遠くを見るような目でそう言った。父親はそれを聞いて、ただ頷いているだけだった。
「お父さんはそれからずっと一人なの?」
「好きになった人もいなかったわけではないけど、もう愛するということはなかった。まるで自分の中に人を好きになってはいけないという抑えがあるようで、その抑えはまるで自分の中にできた抗体のようだっただ」
「抗体?」
「ああ、人を好きになることは、今までに何度もあった。どちらかというと惚れっぽい性格だと思っているからね。若い頃は何度も人を好きになっては、玉砕してきたさ。友達から無謀だと言われた相手まで交際を申し込んだりしてね。でも下手な鉄砲は数打てば当たるもので、結婚前には何人かと付き合ってもみた。でもしょせん惚れっぽいというだけで好きになった相手、長続きするはずもない。結婚前までの交際は、結婚前の『予行演習』みたいなものだったって思うようにしたんだよ。で、結婚してから幸せだったのは、その頃までにできていた抗体がうまく作用していたんだろうな」
「じゃあ、抗体はできてよかったんだね」
「そうでもないかも知れない。離婚した時に感じたことだったんだが、お父さんが離婚のきっかけを作った女性に対して本気だと思ったのは、その時の抗体が影響しているような気がするんだ」
「というのは?」
「お母さんのことも好きだったはずなのに、それ以上に好きな相手が現れた。その女に対してお父さんは、『別れたくない』という気持ちが一番だったんだけど、その気持ちを生んだのは、お父さんの中にあった抗体だったんだ。抗体の正体は、『一番最後に好きになった人が、本当に好きな人だ』と感じさせるものだったんだろうな」
「抗体って、自己防衛の意味合いが強いけど、じゃあお父さんは、本気だといっていたけど、一番最後に好きになった人がその人だったから、本気だと思ったのを、その抗体のせいにしてしまうんだね」
「そういうことだ。卑怯だと言われるかも知れないけど、それほど自分の気持ちの中の本音というものがいくら自分であっても分からないということだよ。逆に自分だから、余計に分からないものなのかも知れないな」
「卑怯だとは思わないけど、恋愛をするのに、そんな抗体があるというのは、どんなものなのかなって思うんだよ。転ばぬ先の杖というべきか、付き合っていても本当に楽しいんだろうか?」
「昭雄は、誰かと今付き合っているのかい?」
「いや、付き合っていると言える人はいないけど……」
「お前もひょっとしてその人のことを「友達以上恋人未満」だって思っているんじゃないか?」
「ああ、思っているよ。だから、付き合うことはないと思っている」
「じゃあ、今のお前の場合の『友達以上恋人未満』というのは、抗体ではないということだな。抗体というのは、何か自分の中でショックなことが起こって、二度とそんな思いをしたくないという感情から、自分で生みだすものだからな」
「お前は今まで、誰かを好きになって交際したという経験は?」
「そんな経験もない」
「じゃあ、本当にこれからなんだな。だけど、お前を見ていると、今までに何度も恋愛や失恋を繰り返してきた人に見えてくるんだ。それは身体の中にできた抗体が表に対して、そう思わせるような働きをしているからだって思っていたけど、ひょっとすると違っているのかも知れないな」
「今までに、『ああしておけばよかった。こうしておけばよかった』というような後悔は何度かしたことはある。そのたびに、反省はするけど、後悔しないで済むようになりたいって持ったことは何度もあったな」
「それが、お前の中に抗体を作ったのかも知れない。確かに抗体というのは、自分の中に起こった後悔が生み出すものだとは、お父さんも思っていたんだ」
「じゃあ、後悔したことのない人は、抗体を持っていないということかな?」
「そうだと思うよ。だからさっきお前が言った『反省はするけど、後悔はしたくない』という感情になるんだと思うんだ。お前はちゃんと無意識にだけど、『抗体を作りたくない』という感情を持っていることになるんだろうな」
「抗体という意味で、お前はアナフィラキシー食という言葉を知っているかい?」
「極度のアレルギーの一種だよね。スズメバチに刺された時によく聞く」
「ああ、お父さんも一度ハチに刺されたことがあって、その時に医者に言われたんだが、抗体がお父さんの身体にもできているってね。ただ、それはあくまでもハチの毒に対してのことであって、恋愛に対しての抗体という意味ではない。でも、恋愛に対しての抗体を感じさせたのは、紛れもなくハチに刺された時にできた抗体だったんだ」
「ハチに刺されたのは、いつのこと?」
「子供の頃のことだよ。身体にできた抗体は自分だけのものなんだって思うんだけど、恋愛に対してできた抗体は、ひょっとすると遺伝しているかも知れない。だからお前にも恋愛に対しての抗体があるんじゃないかと思ってね」
「あったらどうなんだい?」
「友達以上恋人未満という考えが抗体だとすれば、それがお父さんから遺伝した抗体の一種ではないかって思う」
「そんなバカなことはない。もし僕に抗体があるとしても、それは僕だけの感情から生まれたものであって、遺伝などというものではない」
「そう言い切れるかい? だってお前は今まで人を好きになったわけではないんだろう?」
「そうだけど、僕の中に友達以上恋人未満の感情があったからと言って、それが抗体だって言いきれないだろうし、ましてや遺伝などというバカげた考え、僕は断固として否定するよ」
お父さんは少し黙ってしまった。
――お父さんはどうして今頃現れて、自分にいろいろ話をするんだろう?
抗体の話にしても、挑戦的な言い回しで、次第に口調も挑戦的になってきている。
――何か俺に話すことで、自分の中の納得できないことを納得させようとしているんじゃないか?
とも感じた。
最初は、別れてからのことをいろいろ知ることが目的だと思っていたが、逆に自分の気持ちが上杉に共鳴するかしないかで、自分たちの親子関係に何かの納得を見出そうとしているように見えてきた。
遺伝の話にしてもそうだ、
普通に考えれば、自分たちを捨てて出て行った当の本人が、「どの面下げて」息子の前に現れるというのだ。しかも挑戦的な言い方をしてである。高圧的に見られても仕方がないだろう。
「お母さんも幸せにやっているようだな」
「そうだね。俺には関係ないけど」
「新しいお義父さんは嫌いなのかい?
「嫌いというわけではないけど、あの人はお母さんの夫というだけで、俺の父親というわけではない。そういう意味で関係ないと言っているんだよ」
「そんなことは分かっているさ。急に家にいるのが辛くなってくるんだろう?」
「そうなんだ。お母さんがこの人と再婚するって言った時、別に驚きもしなかったし、嫌な気もしなかった。でもある日突然嫌になってしまったんだ」
「どうしてだか分かるかい?」
「いや」
「それはきっと鬱状態に入ったからだと思うんだ」
「鬱状態? でも、ずっとその状態は続いているんだよ」
「普通の躁鬱症なら、確かに、鬱状態と躁状態と定期的に交互にやってくるものなんだけど、お前の場合は、自分の意識していないところでの鬱状態なんだ。普段からずっと潜在しているもので、たまに表に出てくるが、それが鬱だとは思わないほど軽度なものなんだ。だからお前には鬱状態という意識はなかったと思う」
「確かに言われてみると、そうかも知れない」
「それが、お前の中に抗体がある証拠じゃないか。躁鬱症の人は、抗体を持っていても、その抗体が作用しなかったり、躁鬱症が発症した時点で、抗体が破壊されたりしているということになるんだ」
「じゃあ、躁鬱症も皆発症する可能性を持って生まれてきているということになるのかな?」
「そういうことだと思うよ。躁鬱症が発症するタイミングがあったとしても、抗体の力がどれほどのものかによって発症しても、本人の意識しない程度のものであったり、実際に発症しない人もいる。お前の場合は、発症しても軽度なものだったんだろうな」
「でも、皆ハチに刺されたから抗体ができたんじゃないの?」
「そんなことはない。皆生まれつきに抗体は持っていて、ハチに刺されると、それが活性化される。ただ活性化されただけでは効力は薄いけど、何かちょっとした刺激で抗体が反応しやすくなる。ハチに刺されたりしていない状態の人でも、抗体はあるんだから、過度の刺激に遭うとまず抗体が活性化され、それによって刺激を抑えようとする、でも、その時の反応の具合によって却って症状が悪くなることがあるんだけど、それがいわゆるアナフィラキシーショックというやつだ」
「それは聞いたことがある。だからハチに一度刺されると、二度目は危ないっていうよね」
「ああ、そうだ。だからお前もスズメバチには気を付けなければいけない。でも、違う虫に刺された場合、却ってそれが抗体の抑制に繋がることもある。お父さんが言いたいのは、すべての場合でアナフィラキシーショックを起こすわけではないということだ。ただし、この場合もショック状態に陥った時、手当の手順を間違えないようにしないといけないということになるんだけどね」
「それと、恋愛とどういう関係があるんだい?」
「お父さんは、他の人に本気になってしまったんだけど、それがいけなかったんだろうね。相手に本気になられると冷めてしまう人がいる。お父さんはそのことを思い知った。その時、自分の中の抗体が作用して、精神的に立ち直ったんだけど、何かのショックを感じたんだ。それが何だったのかハッキリとは分からないけど、お母さんと結婚した頃のことばかりが頭の中を巡ったものさ。もちろん、お前のことも気になったんだが、それ以上にお母さんと二人きりの時の時間だけが頭に残っていてね。その時に抗体の存在を知ったのかも知れない。お母さんの抗体とお父さんの抗体が反応したんだろうね」
「お父さんは帰ってこようとは思わなかったの?」
「それはなかった。どの面下げてという気持ちもあったけど、本音は一緒にいるとお互いの抗体は反応しない。今の状態で、距離を保ったままお母さんの思い出の中で生きることをお父さんは選んだんだ」
「何か、それって寂しくない?」
「まわりから見ているとそうかも知れない。でも、お父さんは抗体のおかげで、適度な距離に幸せを見出した。お父さんが感じていたんだから、お母さんもそうだったんじゃないかな? でも、お母さんには現実問題としてお前を育てなければいけないという意識があったので、夢の中だけにいるわけにはいかなかったのさ」
「もし、それが本当だったとしても、お父さんにとっては、あまりにも都合のいい発想にしか思えないけど」
「それを言われると何も言えなくなってしまうんだけど、そういう生き方もあるということなんだ。実は、お父さんは最近まで抗体のおかげで、お母さんとの適度な郷里の中で、一人でいても、寂しいとは思わなかった。お母さんも大変だっただろうけど、寂しさは感じていなかったと思うんだ」
「じゃあ、どうしてお母さんは再婚したの?」
「お母さんの方で抗体を壊したんだよ。きっと何かに気が付いたんだろうね。お父さんは最近、お母さんのことが思い出せなくなった。何かあったんだって思ったよ。再婚したというのは、最近になって聞いた。それが理由だってすぐに分かった。これでお父さんとの縁は切れたんだってね」
「お父さんはそれでいいの?」
「ああ、もうお父さんとすれば満足だ。寂しさも感じていない。でも、一度お前に遭って見たくなったのは、お前にもお父さんと同じような抗体があるのを見てみたかったんだ。お前には幸せになってもらいたいし、そのためにいろいろ話したいと思ってね。お前にはお父さんと同じように、『友達以上恋人未満』の女性がいるだろう? その女性、結構潔癖症なところがあるような気がする。それでいて、白馬の王子様を待っているようなところもある。やっぱり、お父さんが好きになった人と同じような女性を好きになるようだな」
「お母さんもそうだったんだね?」
「ああ、だからお前にはお父さんと同じように離婚をしてほしくない。きっとお前はその女性の抗体と反応しあって、お互いを好きになる。それは一種のショック状態のようなものなんだ。よく言うだろう? 『電流が走ったような』って、それと似たような現象になるんだ。一口に電流が走ったと言っても、言葉だけだといろいろなパターンがある。だから、そのパターンの一つでも感じると、人はその人を好きになるんだ。お前の場合はアナフィラキシーショックなんだ。言われているような過度なショック状態ではなく、恋愛におけるショックなので、心地いいと感じるかも知れない」
「それで?」
「相手の女性はきっと誰かを本気で好きになるのは二度目だろうね。だから、それ以上他の人に本気にはならない。しかし、お前は初めてなんだよ。だから、二度目がありうる。お父さんのように……」
「それは、アナフィラキシーショックだから?」
「そうだね。一度目は抗体と反応して、起こるもの、二度目は抗体に触れずに起こるものなんだ。その二度目は厳密には抗体に反応するんだけど、それはハチの毒によって身体にできた抗体に反応するんだよ。だから、自分の中で最初の時には、『この人を好きになるかも知れない』と感じたとしても、二度目には感じないんだ」
「ハチに刺された人に、二度目があるということなのかい?」
「そうだね、人によって、ハチの毒でできた抗体と反応するのは一度目の場合もあるけどね。だけど、二度目はきっとくると思うんだ。その時にどう自分で対応できるかが問題だと思う」
「今のうちから、そんなこと言われても、対応なんて思いつかないよ」
「それでもいいんだ。意識さえしているだけで全然違うからね」
「僕は、あすなを好きになるかも知れないと思っているんだけど、それは、抗体によるものなのかな?」
「きっとそうだと思うよ。特にお母さんに似たところがあるから、余計に彼女の気持ちも分かっているはずだからね」
「ああ、よく分かっているつもりだよ。きっと彼女の中で、俺が知っていると感じていることよりも、かなり知っているように思っている。自信過剰なのかも知れないけどね」
「いやいや、それくらいがいいんだ。彼女に対して謙虚になる必要はない。お前はお前の道を行けばそれでいいんだ」
「お父さんは、それを伝えに僕のところに?」
「そうだよ。今のうちに言っておかなければいけないと思ってね」
「ありがとう」
そう言って、とりあえずその日は、父と別れた。
なかなかあすなに告白できない上杉だったが、就職して仕事も落ち着いてからやっと告白に踏み切った。優柔不断というよりも、お父さんの話はその時は分かっても、次の日になると、信憑性が一気に薄れてきたからだ。それでも思い切って、
「付き合ってほしい」
と告白すると、あすなは目に涙を浮かべ、
「その言葉待っていたのよ」
「白馬に乗った王子様ではないけど」
「いいの。私にとっては、王子様なんだから、それよりも私、かなり男性依存症なんだけど、それでもいいの?」
「大丈夫」
上杉は自信を持って答えた。
二人は、その後、仲睦まじく付き合っていた。あすなは、母のことも父のことも知っていたが、父との再会に関しては、最近やっと話すことができた。どうして、話さなかったのか自分でも分からなかったが、それを聞いたあすなは、
「お父さんとは、これ以上会わないでほしいの」
「どうしてなんだい?」
と訊ねると、あすなは無言で下を向いていた。
理不尽に思った上杉だが、
――そういえば、お父さんが俺に会いに来てくれた時、まくしたてるように話したけど、あれは、あすなの反応を分かっていてのことだったのかも知れない――
つまりは、もう会うことも難しくなるであろう息子に、心構えを叩きこんでおくくらいの気持ちがあったからなのかも知れない。
二人はゆっくりと愛を育んでいた。だが、二人の中には爆弾があった。
一つは、上杉がもう一度誰かに本気になるかも知れないという父親のような運命を背負ってしまうということ。もう一つはあすなの中に燻っているであろうアナフィラキシーショックがシンデレラコンプレックスといつ反応を起こすかも知れないという発想で、そうなってしまった場合の可能性が計り知れないという思いがあることだった。
「アナフィラキシーショックとシンデレラコンプレックス」
抗体に反応することで死に至らしめるというアナフィラキシーショック、そこからすべてが始まるような気が、心の片隅に燻っている上杉だった……。
( 完 )
アレルギーと依存症と抗体と 森本 晃次 @kakku
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