第3話 シンデレラコンプレックス

 あすなは、上杉の母親のことをずっと意識していた。そのことを上杉は知っていたが、なぜあすなが自分の母親を意識するようになったのかまでは分からなかった。

 理由は上杉自身にあった。

「友達以上恋人未満」

 と思ってきた二人だったが、この思いが強かったのは、上杉の方だった。

 いつもあすなのことを気にしているつもりだったが、どうしても中途半端な気持ちで見てしまうため、あすな自身の目がどこを向いていて、焦点をどこに合わせているかということに気づいていなかった。

 あすなの目が自分の母親に向いているなど、上杉には想像できるものではなく、上杉自身、あすなの中に自分の母親を見ていて、自分の母親の中に、あすなを見ていることに気づいていなかった。

 あすなは、大学に入って油絵を描くようになった。秘密主義のあすなにとって、最大の秘密であり、油絵を描いていることは、上杉も知らなかった。

 ここでも、

「友達以上恋人未満」

 という中途半端な関係が、さらにあすなの秘密を深めていく。

――あすなのことが分からない――

 と、何度感じたことだろう。

 しかし、それでもいいと思っていた。

 完全に分かってしまうのが怖いという気持ちが上杉にはあった。そのことを一番感じたのは、キャンプに行ってからハチに刺されて帰ってきた時からだった。

――明らかにあの時からあすなは変わった――

 ただ、何となく懐かしいと思えるような人に変わっていた。

――近づきにくい――

 という思いがあったのも事実だが、それは、あすなが自分の知っている人に似てきたことが怖くなったからだ、

 しかも、最初は誰に似てきたのか分からなかった、ただ懐かしさを感じるというだけで、似ているという感覚は、

――錯覚だと思いたい――

 という気持ちにも繋がっていた。

 ただ、決定的な違いもあった。それがあすなの「秘密主義」で、肝心なことはどんなことであっても、最初は秘密にしようと考える。

 秘密にしようと考えるのは最初だけで、すぐにまわりに看過されてしまうのだが、看過されたことは、まわりには、そのことをあすなが秘密にしようという意識があったことを知られることはなかった。知っているのは上杉だけだと思っていた。

 だが、そのことを知っている人がもう一人いた。

 それが上杉の母親だった。

 上杉の母親は、あすなのことを二人が子供の頃から気に入っていた。

「あなたのお嫁さんになってくれればいいのにね」

 とよく言っていたくらいだった。

 ただ、あすなのことを気に入っていたのは両親ともではなかった。なぜか父親はあすなといつも距離を置いていた。子供の頃は、

「あの娘は、大人になったら綺麗になるんだろうな」

 と漠然と母親に言っていたのを、母親は忘れることはなかった。

 その時、父親がどうしてそんなことを言ったのか、父親自身も分からない。なぜなら、母親はずっと印象深く覚えていたにも関わらず、言った本人である父親は、自分が言った言葉をすぐに忘れてしまっていた。

 しかも、それは普段忘れるよりも短い期間であった。無理にでも忘れようとした証拠である。つまりは、自分で言った言葉が本心であることに気が付いて怖くなったのかも知れない。自分で言った言葉の責任を負う事ができないと思ったのだろう。その思いが嵩じてあすなと距離を持つようになった。母親には漠然としてしかその気持ちは分からなかったが、もしその意識をハッキリと知ることができる人がいるとすれば、それは上杉以外にはいないだろう。

 その頃から父親には異常性欲があった。若い娘を気に入ってしまうと、何とか口説きたくなる性格のようで、そのことを上杉は分かっていたのだが、理解はしていなかった

 世の中には、理解して分かることもあるが、この時のように分かっているのに理解できないこともあるのだ。

 ただ、分かっていると言っても漠然として感じているという程度のことなので、厳密に分かっているというわけではないのだ。

 父親には、ヒーローに憧れる傾向があった。

 父親の育った時代は、特撮ヒーローものの元祖が流行った頃で、番組を見ていないと、次の日学校で皆の話についていけなかったりする。

 友達の間では目立つ方だった。いつもヒーローは自分の役だった。自分と同じくらいの男の子や女の子を助けて、有頂天になっている。

――ヒーローだって、目立ちたいんだ――

 ヒーローは負けることはない。絶対的な強さを持っていると信じていた父親は、ヒーローも自分と同じように有頂天になっていると思っていた。

 テレビでは、子供たちを助けた後、何事もなかったかのように去っていくが、子供心に、

「恰好いいけど、テレビに映らないところで、いい思いをしているんだ」

 と、ヒーローに抱いてはいけない思いを抱いてしまっていた。

 それは、自分をヒーローに重ね合わせて見るからだった。

――俺だったら、格好つけて去っていくだけでは我慢できない――

 と思った。

 だが、ヒーローは恰好いいのだ。自分の妄想をテレビの中のヒーローがしていれば、幻滅するに違いない。そんな矛盾を抱えたまま、それでもヒーローに憧れた。友達と遊んでいても、やはり自分がヒーローの役をやっていた。考えてみれば、四、五人の友達がいるのに、誰もヒーローをやりたがらない。なぜだか分からなかった。

 そんな時、一人の男の子が、

「俺、由美子ちゃんが好きなんだ」

 と告白してきたことがあった。

 由美子ちゃんというのは、自分たちグループの中で、一番背が高く、落ち着いているように見えた。父はその女の子を気にしていないと思っていた。なぜなら、自分が好きなのは、笑顔の可愛い女の子だったからだ。

 しかし由美子ちゃんはあまり笑顔を表に出すことはない。いつも冷静で皆の後ろから見ているような女の子だった。

 それまでなら、

「そうか、頑張れよ」

 というのだろうが、その時は黙り込んでしまった。

 あまりにも黙っている時間に息苦しさを感じた父親は、思わず、

「いや、俺も由美子ちゃんが好きなんだ」

 と口走ってしまった。

 最初は、

――しまった――

 と思ったが、後悔が残ったわけではない。

 勢いではあったが、言ってしまったことを否定する気にならなかった。すると友達は、

「ダメだよ。お前はヒーローなんだから、ヒーローが一人の女の子を好きになんかなっちゃいけないんだよ」

 と、言った。

 その言い方はまるで上から目線の言い方で、ヒーローが皆の中で一番上だという思っていた父の気持ちを覆すものだった。

 父は一言も言い返すことはできなかった。自分が由美子ちゃんを好きだと言った言葉の重みにも疑問があり、友達は、

「そんな中途半端な気持ちでそんな大切なことを口にするんじゃない」

 と言いたかったのかも知れない。

 その時から、自分からヒーローになりたいとは思わなくなった。遊んでいても、ヒーローになりたいとは言わない父に対して、

「何黙っているだよ。ヒーローはお前に決まってるじゃないか。ヒーローは自分勝手に辞めちゃったりしちゃいけないんだぞ」

 と、叱責を受けた。

 またしても、何も言い返せない。自分で立候補したものは、簡単にやめることができないということに気が付いたのは、その時だった。

 それから父親は友達と遊ばなくなり、一定の距離を置くようになった。

 孤立してしまったわけだが、その時のオーラがずっと抜けていないようだった。

 父親は笑顔の可愛い幼い女の子が気になる一方、なぜか年上の女性から気にかけられることが多くなっていた。

 中学に入った頃から思春期が始まり、まわりの男子は年上の女性からなぜか気にかけられる父のことが羨ましく思えていた。目には見えない嫉妬が父親のまわりに渦巻いていて、渦中の父親は、そんなことを気にはしていなかった。

 絶えず孤立のオーラを発散させていることが、年上の女性を惹きつけていた。

「どうしてなのか、上杉君のことが気になるのよ」

 一年先輩の女の子同士での会話だったが、

「そうなのよね、別に格好いいわけでもないし、頼りがいがあるわけでもない。かといって、母性本能をくすぐるわけでもない。でも、なぜか気になってしまう。どうしてなのあしら?」

「私も同じなのよ。彼のいいところを探そうとするんだけど、見つからないのよ。気になるようになった部分を探しても見つからなかったので、他に何か気になるところがあるんじゃないかって思って探してみると、分からないのよ」

「本当は、分かりそうなところまで来ているんだけど、そこまで来ると、急に見えなくなってしまうのよ。今まで目の前にいた人が急に消えてしまったようなそんな感覚ね。だから余計に気になってしまう。まるで堂々巡りを繰り返しているようだわ」

 そんな会話が繰り広げられているなど想像もしていない父親は、それでも目は幼い女の子に向けられていた。

 彼のロリコン趣味を知っているのは、ごく一部の友達だけだった。なぜなら、友達が何も知らない他の人に話をするとは思えないからだ。特に相手が女性であればなおさらで、その理由は、

「異常性欲と思しきやつと、同類だと思われたくない」

 と思ったからだ。

 それが幸いしてか、ロリコン趣味を知っている人は少なかった。彼が年上の女性から気にかけられるタイプだということもいい方に働いたのかも知れない。

 父親は何かに興味を持つということはなかった。何に対しても無関心で、子供の頃にヒーローになったことで、やめられなくなった経験があるために、何かに関心を持つことをやめたのだ。

 唯一、幼い女の子を見ているのが楽しみだった。そんな父親に気が付いた女性がいた。名前を敦子と言ったが、彼女は一年先輩だった。

 父親のことを皆気にはしていたが、自分から近づこうとする女の子は誰もいなかった。最初は抜け駆けになるからだと思っていたが、どうやらそうではなかった。

「均衡が破れてしまうから」

 というのが直接的な理由で、皆が気になっている状態でいるのが一番均衡が取れている状態だったのだが、一人が抜け駆けすると、バランスが崩れてしまう。女性の間で静かな戦いで済む問題があからさまになってしまい、収拾がつかなくなることを誰もが分かっていたのだ。

 だが実際に敦子が均衡を破ってみると、思っていたような収拾のつかない状態にはならなかった。

 敦子が抜け駆けした瞬間、他の女性たちの興味は一気に失せてしまったのだ。

 もちろん、それも考えられるに十分なことだったが、可能性としては限りなくゼロに近いと思われていた。

 父親のまわりには見えない膜が敷かれていたが、膜の存在は知られていた。それでも一か所だけ入り込む隙間があったのだが、そこは普通の人には分からなかった。誰が最初に見つけるかということだったのだが、それを見つけたのが敦子だったのだ。

 敦子が入り込んでしまうと、今まであったはずの隙間が閉じられてしまった。敦子はその中から出ることができなくなった。もし出ることができるとすれば、一度父親の気持ちに入り込み、膜を開けるという意識に導く必要があった。まわりに張り巡らされた膜は、誰も入ってくるまでは本人の意思にかかわらず、本能的にしか動作しなかったが、逆に誰かが入り込んでしまって、膜が閉じられてしまうと、ここから先は、本人の意思によるものに変わってしまうのだ。

――大人になるというのは、こういうことなんだ――

 と思ったのは、敦子が自分から離れていくことに気が付いた時だった。

 その時初めて、自分の意志で膜を開くことができることに気が付いた。自分の意志を反映させられることができるようになったことが、大人になったという意識に繋がったのだった。

 だが、それは少し経ってからのことで、膜と通り超えて中に入った敦子は、膜の中では父親の好みの女性になってしまっていた。

――幼さの残る笑顔の可愛い女の子――

 それが膜の中だけの敦子の姿だったのだ。

 最初は年上の女性ということで、敦子に対して大人の女性を感じていた。しかし、膜の中だけの敦子の姿を想像していると、そのうちにまわりからも、

「どうしたのよ、敦子。最近、大人しいじゃない」

 と言われるようになっていた。

 彼女は今まで大人しく見えていたが、それは大人の女の醸し出す色香が大人しく見せていたのだが、父親を気にするようになってから、

――恥じらいのある大人しさ――

 に変わってきた。

 その表情には幼さが残っていて、大人の色香で男性を悩殺していた雰囲気は影を潜めたようだった。

 敦子のことをあまり知らない人は、あまり彼女の変化に気づいていないようだが、友達やいつもつるんでいる男性から見れば、その変貌ぶりは賛否両論だった。

「俺はあんな敦子見たくはないな」

「いやいや、あれでなかなか今までになかった可愛らしさが醸し出されていいものだぞ」

「じゃあ、お前彼女として付き合えるか?」

「今のままの敦子では、彼女としては物足りないけど、これから自分の手で自分色に染めることができると思うと、男冥利に尽きると思わないか?」

「そう思っているのはお前だけなんじゃないか?」

「いやいや、そんなことはない。男というのは、自分の手で女を変えていきたいと思うものだからな」

「そんなもんかな?」

 敦子の知らないところでそんな会話がなされていた。

 もちろん、会話をしている二人も、彼女のまわりにいる人たちも彼女が父親に興味を持ったことを知っていても、そのことと敦子の雰囲気が変わったこととを結びつけて考える人はいなかった。

 当の敦子は、自分が変わってしまったことをそれほど大げさには思っていない。

 元々、

「大人の色香で男性を悩殺している」

 と言われることに違和感を感じていた。

 敦子は、何事も自分発信ではないと我慢できないところがあったが、その原点は、

「新しいものを作り出すことが大好きだ」

 そして、

「自分から、何かを変えることも同じくらい大好きだ」

 という発想から来ていた。

 女を磨くために努力を怠ることはなかったが、それでも、新しいものを自分が作り出したというわけではない。

 努力によって変えられるものには限界がある。それは中学時代の勉強で分かったことだった。いくら頑張って勉強しても、いつも学年で三番以内に入ることは無理だった。

 一番、二番はいつも決まっていた。二番の人も同じことを考えていたことだろう。どんなに頑張っても上に行くことができないのだから、やりきれない気持ちにもなっていたはずだ。

 かと言って、一番の人はいつも安心していたわけではない。下から追いかけるよりも、上にいて追いかけられる方が数倍プレッシャーがかかるというものだからだ。そう思うと、上位三人というのは、誰も安心している人なんかいない。誰もがプレッシャーに押しつぶされそうになっていて、少しでも相手よりも努力しないと、今の地位も危なくなる。

「まるで、川で溺れたカエルのように、息継ぎができるだけで、助かる見込みもない無駄な努力を続けているようだ」

 というイメージを抱いていた。

 だが、

――自分はいつも一人なんだ――

 と考えていたことで、プレッシャーがプレッシャーを呼び、抜けられなくなってしまっていた。

 高校に入ると、友達もできた。あまり成績にこだわることもなくなると、かなり気が楽になった。高校に入学すれば、中学の時のように、いろいろなレベルの人がいるわけではない。高校受験の際に、自分の実力に合わせて学校を決めたので、まわりは、自分と同じレベルである。そのことにいち早く気づいたことで、気が楽になった。成績は中の上、それでいいのではないか。

 その頃から、思春期の発育が目立つようになった。晩生だったのか、高校生になってから急に大人びてきたのだ。中学時代までは、幼さの残る女の子だったのが、急速に大人のオンナに変わっていった。

 その時に知り合った男の影響で、それまで知らなかった大人の世界を知ってしまうと、自分に大人の世界を教えてくれたその男を簡単に捨て、他の男性と付き合い始めた。

 最初に付き合ったその男としては、

「何を言っても言い訳になるかも知れないが、あの女を引きつけておくことのできる男はそうはいないだろうな」

 と言いたかっただろう。

 実際に、男と付き合い始めても、すぐに別れ、

「付き合えば別れ、付き合えば別れ」

 という状態を繰り返していた。

 まさしくそれは、「状態」である。その時の敦子に感情などあったのかどうか、まわりから見ていて感情など感じられない。実際に本人にすら分からなかった。

 いや、本人にも分からないことを、まわりが分かるはずなどないというのが、その「状態」だったのだろう。

 それから長くても三か月で男と別れてきた敦子だったが、父親は彼女がそんな女性だと本当は知っていた。知っていて近寄ってきた彼女を避ける気にはならなかった。

――弄ばれるかも知れない――

 そんな思いは確かにあった。

 敦子がこんな風になってしまったのは、高校時代の勉強で、まわりについていけなかったからに他ならない。そのことを一番自分が分かっていたのだが、気が楽になるためには、誰かの助けが必要だった。

 そんな相手を探していたために、男性をとっかえひっかえしていた。捨てられた男たちを可哀そうだと思うのは、早成な判断だと言える。

 敦子が付き合った男性は、皆敦子に近づいてきたのだ。敦子が決して誘惑したわけではない。それに敦子に捨てられたように見えている男性も、自ら身を引いたのが本音である。

 しかし、それを自らいうのは、情けないものだ。だから最初に、

「捨てられた」

 あるいは、

「誘惑された」

 ということにしてしまえば、男の側に傷がつくことはない。

「気の毒な人たち」

 として同情されると思ったのだろう。

 しかし、まわりの判断は違っていた。

「魔性の女に引っかかってしまった情けない男たち」

 というレッテルが貼られる。

 同情というものは、他人から見ると、気の毒には違いないが、それと同じくらいに情けないとしてしか見ていないということである。自分を客観的に見ることのできない人は、自分を悲劇のヒーローにしてしまい、まわりから同情される自分を想像し、それを客観的に見ている証拠だと思い込んでしまう。それは大きな勘違いないのだ。

 敦子は決して魔性の女などではない。そのことを分かっているから、父親は敦子が近づいてきても、遠ざけようとはしなかったが、その代わり、まわりに自分が誘惑されているようには見せなかった。

 なぜなら、今まで敦子がまわりに見せた「誘惑」が、自分から近づいたことによるものではないからだ。男たちの方から近づいてきて、いつの間にか、敦子に誘惑されたかのような感情に男たちはなっていた。

「敦子と一緒にいると気が楽なんだよ」

「それはどういうことだい?」

「そばにいるだけで、ホッとする気分にさせてもらって、その分、こっちが何かをしてあげなければいけないという気持ちになったんだ。別に誘惑されたりしたわけではないんだ」

 敦子と別れてからしばらくして、冷静になった男たちは、皆敦子に対してそんな思い出を持つようだった。もちろん別れてからすぐは、感情が逆撫でされたような気がしてきたので、自分が捨てられた気分になっていたが、実際にはそうではなかった。

「敦子という女性、勘違いされやすいんだ」

 そうしみじみと語るのが印象的だった。

 そんな話も父親は聞いていた。客観的にまわりから見ているのと、別れた当事者に聞く話とでここまで違っていると、父親の方も、敦子に興味を持つようになっていた。お互いに興味を感じた中で、初めて自分から男性に近づいた敦子は、父親に対して、

――他の男性とは違う――

 という何かを感じたに違いない。

 敦子はシンデレラコンプレックスとは逆だった。決して人に依存するわけではなく、白馬の王子様の登場を願っているわけでもない。それだけに、自分から積極的にならなくても、そのオーラが相手に伝わるのか、敦子に引き付けられる男性が増えていたのだ。

 そのせいでまわりからは、

「肉食系」

 として見られてしまい、特に同性から嫌われるタイプであった。

 女性を敵に回すと、あることないこと、ウワサに尾ひれがついてしまい、本人の意識していない思いを男性に抱かせてしまっていた。敦子に引き付けられた男性は、警戒心を感じるどころか、敦子に興味を持つようになる。それは敦子に対してのウワサがどこまで本当なのか見てみたかったのだろう。

「怖いもの見たさ」

 という感覚が働いていたに違いない。

 おかげで敦子の中に、

「男性には不自由はしない」

 という思いが湧き上がった。

 悪い意味での興味であるにも関わらず、敦子は男性が自分に興味を持ってくれることを悪くは思ってはいなかった。

 だが、すべては男性の側からの感情であって、敦子の方から男性に興味が沸くことはなかった。興味を抱く前に相手が自分に引き付けられるのだから、知り合ってしまってから抱く興味とは違うものだった。

 それなのに、父親に対してだけ興味を抱いた。それは敦子にとって初めての感覚だった。

――私が男性を好きになるなんて――

 まだ興味を抱いただけなのに、すでに好きになってしまったと勘違いするほど、男性に興味を持つことに関しては、ウブだったのだ。

 父親に興味を持った敦子に、今度は今まで引きつけられていた男性が急に離れていった。いわゆる「神通力」が消えてしまったのだろう。

「これでいいんだわ」

 夢から覚めた男性は、敦子に関わらなくてよかったと思う反面、今の敦子を見て、

「どうしてあんな女に惹かれてしまったんだ?」

 と、不思議に思ったことだろう、

 父親と知り合った敦子は、彼女の方から甘えるようになっていた。大人の色香はどこへやら、それまで若くてあどけない笑顔の似合う女の子に興味を持っていたが、敦子はまさにそんな女性になっていた。敦子は男性によって変わる女性だったのだ。

 だが、今までの男性は敦子の魅力に引きつけられたもので、敦子に対して、本当の意味でどんな女性が好みなのか、表に出そうとはしなかった。男性の方も、

「大人の色香を感じさせる彼女に惹かれた」

 と思っているので、それ以外の敦子を想像することもなかったのだ。

 父親は、女性と知り合うと、相手のことをすぐに好きになってしまうところがあった。敦子のように相手からも好かれるという相思相愛の状態になったのは、この時が初めてで、それだけに、有頂天になると、敦子に対して想像力を豊かにした。

 その時には気づいていなかったが、それまで自分があどけない笑顔の女性が好きだと思い込んでいたのは、本当は勘違いだった。敦子と知り合って、敦子に対して想像したのが最初だったのだ。それ以前から抱いていた感覚だというのは、自分の中で女性に対しての好みが昔からあったものだということを感じていたいための辻褄合わせのようなものだった。

 敦子が父親に甘えるようになったことで、余計に以前から感じていたものだと思ったのだろう。敦子が、

「相手によってその性格を変える女だ」

 ということを認めたくないという思いから来ているのかも知れない。

 敦子の魅力は父親にだけしか分からない魅力になってしまった。

 しかし、本来はそういうものではないだろうか。自分と相性の合う一人の男性と知り合うことが一番であり、まわりの男性すべてから好かれるようなことは、ありえないという考えを持っていたのは、他ならぬ敦子だったのだ。

 二人の付き合いは公然となった。

 しかし、二人に対して興味を抱く人はもはや誰もいなかった。

 それまで敦子に対して引きつけられるような魔力を感じていたはずのまわりの人たちは、何事もなかったかのように敦子を意識していなかった。

 むしと、敦子のことを無視しているかのようだった。実際に無視しているわけではなく、その存在感や気配を感じていないようだった。

「まるで道端の石ころのようだ」

 道を歩いていて、道端に石が落ちていても、誰がそれを気にするというのだろう。

「目の前にあってもまったく気にしない空気のような存在」

 それが、敦子と父親の関係だった。

 それからというもの、父親が一人でいる時も、まわりの誰も意識することはなかった。歩いていても、こちらがよけなければ、相手はお構いなしにぶつかってくるのではないかと思うほど、相手は父親のことが見えていないようだった。

 気が付けば、父親には友達は誰もいなくなっていた。

 元々友達が多い方ではなかったが、誰がいつ自分から離れて行ったのか分からないほど、ごく自然にいなくなっていて、気が付けば一人になっていた。

「こんなことってあるんだ」

 そう思いながらも、それが敦子のせいだということに気づくはずもなかった。

 しかも、気が付けば敦子も自分の前からいなくなっていた。確かに付き合っていたはずなのに、敦子がいないことに何ら違和感を感じない。いないならいないで寂しいと思うこともないし、心にぽっかりと穴が開いているわけでもない。

「最初から敦子なんて女はいなかったんだ」

 と、まるで夢だったかのように思おうとしたが、どうしてもできなかった。

 なぜなら、父親の中に、好みの女性として、

「幼さの残るあどけない笑顔の女の子」

 という意識があったからだ。

 しかし、敦子が自分の前からいなくなったという事実は意識としてある。それなのに寂しさを一切感じないという矛盾した感覚の辻褄を合わせるために、好みの女性への印象が、昔からあったものだと思うところに結びついていたのだ。

 それから父親は母親と結婚するまで、女性と付き合うことはなかった。

 好きな女性がいなかったわけではないが、近づこうとして相手を見ると、最初に感じたイメージとかけ離れていて、

「こんな女性を好きになろうとしていたんだ」

 と、否定してしまう自分がいた。

 それは、最初に気になる女性が皆最初から自分の好みではない女性だということを示していて、父親にとって、不思議な感覚だった。

 女性の側から見ると、

「この人は女性に嫌われるタイプだわ」

 何を根拠に感じるのか分からないが、その感覚は直感であることに違いない。

 そう感じたのが一人だけなら、別に無視してもいいのだろうが、これが複数ともなるとそうもいかない。本人は意識していないとはいえ、信憑性に欠ける要素はどこにもなかった。

 父親が人を好きになる時、相互で相手を避けてしまう作用が働いてしまっていたのだ。

 母親に対して、どうしてそんな感覚がなかったのだろうか?

 考えられることとしては、母親がシンデレラコンプレックスを感じていたからではないだろうか。今までの女性と明らかに違うところは、シンデレラコンプレックスがあるかないかだった。

 敦子と付き合っていた時、母親とまったく正反対の女性だったことと、敦子の影響が大きかったことで、父親には自分の意志とは裏腹に、人を惹きつけることのないオーラが備わってしまったのだ。

 そのオーラは完全にマイナスオーラであり、気配を消すという

「路傍の石」

 になり果ててしまっていたのだ。

 だが、元々素質がなければ、いくら相手の女性に影響力があるとは言っても、ここまで嵌ってしまうことはないだろう。

 敦子との出会いは。

「ひょっとすると、数年後に母親と知り合うための、前兆のようなものだったのではないか?」

 と感じるのは、あまりにも都合のいい考えではないだろうか。

 母親は父と出会った時、何を感じたのか、上杉は小さかった頃、母親が独り言のように呟いたのを思い出した。

「お父さんはあなたに似ているわね。ただ、そばにいてくれるだけで、それだけでいいはずなのに、絶えず何かを期待している自分がいる、期待はしているんだけど、達成してほしいとは思わないの。だってね、達成してしまうと、そこで一つ何かが終わってしまうような気がするの」

 と言っていた。

 子供に分かるわけもないが、何か達成すれば、そこで一つ終わってしまうということだけは記憶の中に残ったのだ。

 二人の出会いに、シンデレラコンプレックスが存在していたことを上杉は知らなかったが、そんな父親がまさか、不倫をするとは思わなかった。ただ、不倫という言葉も、母親から聞いただけで、本当は、父親がしていた不倫は浮気ではなく、本気だったのだ。

 上杉は子供の頃だったので、父親の気持ちが分からなかった。しかし、そんな父親相手でも何とか別れないようにしようと母親がしていたと思っていた。それは上杉を育てるためであり、プライドを捨ててのものだった。

 上杉は、子供の頃に、父親と不倫相手が仲良くしているのを見ていた。子供の頃だけに、

「家族というのは、皆仲良く」

 というのが当然だと思っていた。

 だからといって、表で家族のいないところで、他の人と仲良くしているのが悪いというわけではない。だが、父親を誰かにとられたという思いと、それを知ったら母親がどんな気持ちになるかという思い、さらには、修羅場が見えた気がしたのは、後から感じたからかも知れないが、何とも噛みたくないものを奥歯で必死に噛みつこうとした気分だった。

 今思い出しても、決して気持ちのいいものではない。吐き気を催すほどであったが、相手が父親だからそう思うだけであって、仲良くしている光景自体は仲睦まじく、羨ましいと感じるものだった。

「言われてみれば、あれは確かに本気だった」

 今考えると、本気だったという思いに違いはないだろう。浮気などという中途半端な気持ちで別れてしまったのではないと思うと、潔さのようなものが感じられ、却ってサッパリした感覚だ。

「今のお父さんに会ってみたいな」

 そんな風に感じるようになったのは、父親を許そうという気持ちになったからなのだろうか?

 いや、それよりも、直接のきっかけは、母親がパート先の店長と仲良くなり、結婚したいと言い出したことだった。

「それはよかった。お母さんも幸せになればいいんだよ」

 そう言ったような気がしたが、本当に言ったかどうか、自分でも曖昧な気がしていた。

 父親が不倫をした時、修羅場になったのも、考えてみれば、父親が他の女性を愛しているということが原因ではなかった。お金の問題であったり、面会権の問題だけだったのだ。母親としては、

「そんなにこの人がいいなら、のしをつけてくれてやるわ」

 という捨て台詞の一つも吐いたのではないかと思うほど、修羅場の中の母親は凛々しかったに違いない。

 修羅場であれば、それ以外の情景は思い浮かばず、意外と似合っていると思ったのは、自分でも不思議に思う上杉だった。

 それにしても、母親がどうしてパート先の店長の心を射止めたのか、気になるところだった。

 確かに、一人で子育てをしていて、毅然とした態度の母親は、仕事ぶりも上杉から見ていて献身的であり、かといって、仕事の忙しさにかまけて、家事を怠るようなこともなかった。

 離婚してすぐの頃などは、少々無理をして体調を崩していても、上杉の学校のことも、家事やパートも、すべてこなしていた。

 母親に言わせれば、

「あの頃はまだまだ若かったからね」

 と若さのせいにするかも知れないが、それよりも、一人になったことでの自分へのプライドの再認識と、父親と相手の女を見返してやりたいという反骨精神のようなものとに支えられていたように思う。

 そんな母親も、上杉が大学生になり、成人式を迎えて、

「本当に子育てを卒業する時が来たんだわ」

 という思いに感無量だったのかも知れない。

 それは達成感という思いと、今まで自分の精神力を支えてきた支柱とが、一気に襲ってきて、その後に残るものは脱力感だったに違いない。緊張の糸は完全に切れてしまい、残ったのは、シンデレラコンプレックス。その思いはまわりにオーラとして発散されたとすれば、一番身近にいた店長に届いてしかるべきだった。

 店長は、仕事を一生懸命にするあまり、結婚に執着してこなかった一人らしい。

 この年になって、店長職も板についてきて、精神的に余裕も出てきた。母親のシンデレラコンプレックスに感情移入するのも無理もないことだった。

「これがお母さんの幸せなんだ」

 と思うと、寂しくもあったが、上杉自身も精神的に解放感のようなものが出てきたのではないかと思うのだった。

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