番外編2 わすれものと蝉のこえ
暇だなあ。そうだ、盆も近いし墓の掃除でもしておくか。
………そんなナメた思い付きで家を出たのが数十分前。その時の俺は完全に宿題に嫌気がさしており、とにかく外気に晒されたい気分だったのだ。もう少し冷静に考えてみれば、夕方の涼しい時間まで待つだとか別の息抜き方法があったはずなのに、全く夏休みの田舎の学生というものはこれだからいけない。
「…………あー、もうだめだ。だめだめ。………」
溜息を吐きながら地面に手桶と柄杓を置く。そうして墓の傍で息を吐きながらしゃがみこんだ。
「……………あつー………」
空を見上げれば、雲一つない青が眼前いっぱいに広がっている。太陽を見ているわけでもないのに、青空だけでこんなに眩しい。真昼間の墓に人なぞ立ち寄らず、セミの鳴き声がうるさく響くのみ。自分の体がからからに乾き、頭がじゅわじゅわと焦げていくのを感じた。ああ、これ無理かも。熱中症かも。
かといって今場所を移るという選択肢も体力も無く、ましてや手持ちの水も無い。もはや住職の見回りを待つのが先か、俺が干からびるのが先か。そんなことを考えてぼんやりと笑っていた瞬間――――――
俺の視界の隅っこに、黒い日傘が映り込んだ。
「…………おい君。大丈夫かね」
「…………あー…………」
日傘を差した、若い兄さんが立っていた。誰だろう。この辺じゃ見ない顔だ。墓参りにでも来たのかな。少し早い盆休み、かな。
ぼんやりとした頭に浮かぶ疑問は、浮かんだだけで発せられない。すでに砂漠と化した喉は音を出してはくれなかった。兄さんはそんな俺を見かねてか、己の持っていた日傘を俺の手に握らせた。
「少し待っていなさい」
兄さんはどこかに走っていく。俺はそんな兄さんの後ろ姿を目で追いかける。彼が着ている着物の袖が揺れた。見慣れぬ着物の、田舎の青年。
「(俺………ついに見ちゃったか?妖怪的なやつ………)」
「――――――――――はあ、生き返る………!!!!」
「そうかい。そりゃあ何より」
「あー、その……ありがとうございます。おかげで助かりました」
同じように横に座り、俺に日傘を傾ける兄さんは「気にするな」と小さく笑う。
ミイラと化した俺に、兄さんはスポーツ飲料と氷を買ってきてくれた。「まだコンビニがあって良かったよ」と兄さんは言う。でしょう、と俺は思う。この寺の一番の長所は、近くにコンビニがある所だ。おかげでライターのオイル切れにも対応できるし、なんなら線香だって買える。そして、真っ昼間に墓掃除に来た向こう見ずな俺を救う氷も水もある。本当に助かってしまった。
「それにしても、墓掃除とはね。真面目な子だ」
「はは。もっと言ってください。熱中症になりかけた俺が報われます」
「調子が良いなあ。誰に似たんだか………」
息を吐きながらも笑う兄さんの言い方に、ちょっと引っかかった。
「…………兄さん、俺の家族をご存じで?」
「どうしてそう思う?」
「そういう言葉って、俺の家族と比べての言葉だなあって思って。もしかして知り合いですか、父ちゃんとか母ちゃんとかと。…………あ」
そこで俺は今いる場所に思い当たる。そうして、墓の方を横目で見ながら「………こっち?」と再度問い直した。
「まあ、ね」
兄さんは頬杖をついて、そんな風に答えた。
■■■
「本当にありがとうございます、家まで送って貰っちゃって」
「帰路に倒れていたらと思うとおちおち観光も楽しめないだろう。次はちゃんと日傘を持ち歩くんだよ」
「いや、もう本当にすみません………」
部活の帰り道、私は立っていられなくなってその場にしゃがみこんでしまった。疲労困憊や水分不足といった四字熟語が流れ星のように頭をひゅんひゅんと飛んでいく中、真ん中にでんと居座っているのが「熱中症」の三文字である。大会が近いからか、無理をし過ぎてしまったかもしれない。家まであと少しだと言うのに、辿り着く力を無くしてしまった。
………そんな矢先に現れたのが、今私の横で日傘を持っているお兄さんである。お兄さんはぐったりしている私を見かねて、コンビニで氷とスポーツ飲料を買って来てくれた。最近、寺の近くにできたコンビニである。ド田舎のコンビニというだけで助かっていたのだが、さらに恩義を感じてしまう。
で、歩けるようになるまで付き添ってくれた上に荷物まで持ってくれて、さらに家まで送ってくれたのである。あんまりにも福利厚生が過ぎる。後から考えると知らない人に家を教えるのはどうかと思うのだが、その時はそこまで頭が回らなかった。なにせ、ヘロヘロだったから。
「お兄さん、良かったらお茶飲んできます?麦茶くらいしか無いけど」
「知らない男を家に上げるんじゃないよ。危機感が無いぞ、若人」
「今日はおかーさんいるからいいもーん。ただいまー!」
引戸を開けてずんずんと家に入っていく。おかーさんはちょうど台所で洗い物をしている所だった。
「おかえり。うわ、顔真っ赤。暑かったでしょ。」
「地獄だった~。あ、おかーさん。今外にね……」
ちらり、と玄関先に立つ恩人を見る。彼はじっとそこに立っていた。着物を着ているせいで、なんだかそういう怪異みたいだ。……田舎の怖い話でたまに見るパターンだ。そういう時って招き入れちゃいけないんだっけ?まあ、いいか。
「おーい、お兄さん。上がっておいで―。いーっぱい氷入れた美味しい麦茶があるよー」
おかーさんの許可も貰えたので、玄関に向かって声を上げる。お兄さんはそこでようやく私の声が聞こえたような顔をした。
「…………ああ。じゃあ、有難く頂戴しようかな。お邪魔します」
「はーい、どうぞー」
廊下は二人分を支えながらぎし、ぎし、と声をあげる。テーブルの上には麦茶がふたつと、切られたスイカが皿に乗せられていた。
「やった、スイカ!」
「ほら、手洗ってから食べなさい!………あ、すみませんねえ。うちの子、助けてくれたんですって?本当になんとお礼を申し上げていいか」
「いやいや、そんなに頭を下げるものじゃないさ」
「(どう考えても年下なのにタメ口だ………)」
洗面所に向かいながら、そんな会話が聞こえた。見ず知らずの私を助けてくれたり、おかーさんにタメ口だったり、そもそも恰好が変わってたり。おもしろい人だなあ、なんて思いながらリビングから離れていく。会話は遠くになって、もう聞こえなくなった。
「かーさん、お爺ちゃん迎えに行ってくるから留守番頼むね」
「はーい。いってらっしゃーい」
おかーさんを玄関先で送ってから、スイカ二切れ目を目指してリビングに戻る。そこには片手でスイカをしゃくしゃくと食べるお兄さんがいた。見慣れない着物の人が見慣れた部屋で座ってるの、なんだかビビる。
「留守番頼まれちゃった。お兄さん、私と一緒に待ってよーよ」
「危機感の欠片も無いのかい、君。………ところで、君はお爺さんと一緒に暮らしてるのかな?」
「うん。おとーさんとおかーさん、私、弟がふたりとおじーちゃんと六人家族。んで、今おかーさんがデイにおじーちゃん迎えに行ったところ」
「……………へえ。元気なのかい?」
「元気だよ。まあ、結構ボケてるけどね」
「…………そうか。」
「………ねえ、お兄さんってここに何しに来たの?さっき、観光って言ってたよね?」
「ああ。この辺りは魚が美味いと聞いてね。舌鼓を打ちに来た………のと、もうひとつ」
知人の墓参りに来たんだ、とお兄さんは言った。
「………お友達?」
「そう、お友達だ。多分」
「多分ってなにさ」
「なんだろうね。とにかく教えてもらった寺院を探していたんだが、その途中で行き倒れている君を見つけてね」
手を拭きながら私を見て笑う。私は面目ないです、なんて言いながら言葉を続けた。
「お兄さんが色々買って来てくれたコンビニ、あるじゃん。あそこの角曲がってちょっと歩けばお寺があるよ。そこかな?」
「なんと。目と鼻の先にあったとは。良い情報を貰った、ありがとう」
「どういたしまして」
私も二切れ目を食べ終え、麦茶を飲み干す。それから微妙に残っていたスポーツ飲料をコップに移し変えて、氷をじゃんじゃん入れてぐびぐび飲んだ。
「生き返るぅ…………」
「はは。君は何度でも生き返るなあ」
「へへーん、いいっしょ。不死鳥みたいでさ。不死鳥、カッコよくない?だって死なないんだよ。お得じゃんね。」
「……………そうだね。………なあ、お爺様の話をもっと聞いても良いかい?」
「?いいけど。今の話のどこで気になったの?」
「はは、まあまあ」
お兄さんははぐらかすように笑う。私は深く物事を考える性質では無かったから、「ちょっと待ってね」とリビングにお兄さんを待たせて自分の部屋に向かう。そして家族アルバムを引っ張り出して舞い戻って来た。
「お待たせー。せっかくだから写真付きで見よ」
「お、気が利くなあ」
「じゃあ早速適当に……お、これは私が生まれた時のやつだね。抱いてるのがおじーちゃん」
「…………へえ。随分嬉しそうな顔をしているね」
「そりゃ、初孫ですからねえ……」
思えば私は、おじーちゃんにもおばーちゃんにも随分と可愛がってもらった。無論、下の兄弟たちもだ。
「おかーさんがさ、おじーちゃんとおばーちゃんの遅めの子供なのね。だから子供世代は可愛いし、孫世代だって可愛がってくれたし」
「…………愛されてるなあ」
「うん。あ、こっちはもっと古いかな。おかーさんが子供の頃の写真」
今の皺だらけの顔からは想像もつかないほど、若いころのおじーちゃんは凛々しくてシャンとしてる。「カッコイイ中年男性」って感じだ。
「これこれ、若い頃のおじーちゃん。顔良くね?」
「…………そうだな。………本当に、そうだ」
横で写真を見るお兄さんは、ずっと視線を写真に落としている。そんなにも、他人の家族が気になるんだろうか。会ったばかりの人間の家族写真を見る時の表情だろうか、これが。
……………いや、むしろ。昔からの付き合いと言った方が正しい気さえする。
「………ねえお兄さん」
「うん?」
「お兄さんって、さ。もしかしてうちのおじーちゃんと知り合いだったりする?」
「…………」
「いや……そんなワケないか。私を助けてくれたの、偶然だもんね。それに、お兄さんとおじーちゃんとじゃ年齢差がありすぎるし」
「……………まさか。君を助けたのは、本当に偶然だよ」
あえて、後ろを否定しなかった。さすがに私も、そこには引っかかった。
「………ねえ。お兄さんってさ。なんて名前――――――――」
「ただいまぁ。お爺ちゃん、帰って来たよ」
引戸が開く音がする。私は弾かれたように立ち上がって、「はーい!」と態と大きめの声で玄関へと走った。視界の端でゆらりとお兄さんも立ち上がる。
「あ!おじーちゃん、おかえり!」
「ああ………?ただいま」
デイ帰りのおじーちゃんは移動で疲れたのか、いつもよりぼんやりとしていた。そのぼんやりとした視線は、廊下に向いた。
「―――――――――――………」
「………おじーちゃん?」
いや、廊下じゃない。廊下に立つひとを、お兄さんのことを見ている。
「あ、おじーちゃん。この人はね、私のことを助けてくれた………」
「………久しぶりだな、千草。」
お兄さんがひらりと手を振る。私とおかーさんは、つい目を合わせてしまった。
「何十年ぶりだ?はは、随分老けたなあ」
「……………………」
「こっちに帰って来てたのか。まさか、また会えるなんて思わなかった」
「……………」
「………どうした?驚きすぎて声も出ないか。そうだよなあ。変わってないだろう?俺は」
「………………」
おじいちゃんは。口を開いた。
「誰だい、あんた」
「――――――――――――………………」
お兄さんは、目を大きく開いて。それからぱちくりとまばたきをした。
私は緊張が解けたようにふっと体に力が戻ってきて、お兄さんとおじーちゃんを見比べる。私より先に、おかーさんの方が口を開いた。
「あの……お父さんの知り合い、ですか?」
「…………………いや、…………………………」
お兄さんは動揺を滲ませたあと、ふいに先程までの表情に戻った。
「人違いだったみたいだ。混乱させるような事を言ってすまなかったね」
「でも、千草って。確かにおじーちゃんの名前で、」
「……………いや。いいんだ。」
お兄さんは自分より背の低いおじーちゃんの肩を軽く叩いた。
「長生きしろよ」
「……………?」
それじゃあ、お茶ご馳走様。そう言ってお兄さんは玄関を出た。
「あ、………………」
「…………お父さん、あの人知り合い?」
「………ふじみや」
「それは私たちの名字じゃないの。もう」
私は心臓をざわつかせながら玄関を出る。お兄さんはまだ、道を歩いていた。私はサンダルのまま彼を追いかけて、その背中に声を掛ける。
「あの、お兄さん。その。おじーちゃん、最近ボケてて」
「……………ああ」
「…………色んなこと、忘れちゃうの。だから、その」
許してあげて欲しい、と私は言おうとした。自分でもどうしてそう思うのかわからなかった。
「………いや、いいんだ。むしろ、良かったよ」
「え?」
「安心した、と言ったんだ。じゃあな、お嬢さん。爺さんの事、大切にしてやれよ」
そう言って名前も知らぬお兄さんは、どこかへ去って行った。
何十年経ってもその記憶は、必ずどこかに残っていて。
何十年経っても、その言葉の意味は解らないままだった。
■■■
「………さん、兄さん!」
「!」
ぼーっとしていた兄さんの肩を揺さぶると、少々驚いたような顔でこちらを見た。
「兄さん、もしかして自分が夏バテになってない?良かったらうちで麦茶とか飲んでく?」
「君の、家…………」
「そう、こっから歩いてすぐだから。どう?」
「――――――――――………いや、遠慮しておくよ。それより、君。この日傘は君にあげよう」
「え、え?」
脈絡のない受け答えにこっちが混乱してしまう。日傘も無しに陽の下に歩いていく兄さんの背中に、声を掛けた。
「兄さん――――――兄さん!そしたら俺、日傘ここに置いとくからさ!次の墓参りの時に取りに来てよ!」
兄さんは振り向く。そうして、小さく笑った。
「いいよ。その傘はもう、君のものだから」
そうして兄さんは、眩しすぎる青空の元に吸い込まれていった。
家に帰ってそんな話をしたら、昔母さんも日傘を差した男性に助けられた記憶があるという。
兄さんが俺に日傘をくれた理由は、未だわからないままだ。
フジミヤの肉 缶津メメ @mikandume3
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