ケダモノ

 横殴りの激しい雨音に目を覚ました。

 黒星を抱えたまま、佐伯は知らない間に寝ていた。真っ暗な部屋を壁伝いに歩き、灯りのスイッチを押す。掛け時計は二十二時を過ぎたことを知らせていた。机の素行調査票を掴み取る。奇しくも待っていたときがやって来た。

 今頃、新里は行きつけの飲み屋で晩酌の酔いに浸っているはず。明日はなにをしようかと考えながら。糸で吊られたように口角が上がる。駅での硬かった表情が嘘かのように。昂る気持ちを落ち着かせ、佐伯は弾倉を入れた黒星を服に忍ばせて外に出た。

 家を出るなり、大粒の雨が頭に弾ける。すぐに傘を開くが、その上からも容赦なく雨が打ちつけて大きな音が鳴る。ひたすらにばちで殴られる太鼓になった気分を味わう。車道を行く車は、歩道に容赦なく水飛沫を巻き上げていた。

 国道沿いを歩き、見えてきた信号を左に曲がる。

 素行調査票にあった飲み屋は、佐伯も訪れたことがあった。三島と喧嘩したときに自棄酒を呷るのは、決まってその飲み屋だった。さほど遠くはない。

 雑踏を縫うように進みながら先を急ぐ。

 目につく誰もがスマートフォンに視線を落としたり、雨音にも負けないくらいの声量で連れと談笑している。まさか拳銃を持った人間が、すぐ隣を歩いているとは夢にも思わないだろう。そんなことを考えて、佐伯は真顔の仮面の下でほくそ笑む。

 捨てられるよりも拾いたい。三島の命が捨てられたなら、それを拾うだけ。佐伯は自分の代わりに雨に打たれる傘を見上げ、例の思考実験を振り返る。テセウスの船。

 結論は出ていた。三島の構成要素が変わった場合、己の許容範囲を逸脱することになる。善良な三島に、彼を夫たらしめるものは一切ない。

 今、手に持っているビニール傘はどうか。外で傘立てに差すたびに誰かのものと取り違え、取り違えられて。その結果として今、握っているものもビニール傘に他ならない。

 当人の匙加減ひとつで、思考は十把一絡じっぱひとからげに。

 その行き着く先はいつもほつれていて、空白を挟んだのちに、夫の無念を晴らすという尤もらしい言い分が頭にちらつく。あらかじめ準備されていたかのように。

 無意味な思索が終わる頃には、佐伯は赤提灯の前に立っていた。店の窓からは煌々と灯りが漏れて、街路に浮かぶ水たまりを明るく彩っている。客の賑やかな声は外まで響いている。それとなしに窓を覗けば、上背のある刈り上げ頭の男が会計をしていた。

 引き戸を開けて男が出てくる。近くで見れば一八〇センチは越えていた。佐伯とは頭一つ分の差だ。佐伯はポケットから顔写真を引っ張り出す。そうしているうちに男はビニール傘を開き、店内に向かって「また来るよ」と機嫌よく言った。

「新里さん、いつもありがとう。お父さんにもよろしく」

 中から声がした。この男で間違いない。傘の下から見えた横顔は、写真とも記憶とも一致していた。佐伯は顔写真を握りしめ、新里のあとに続く。

 十メートルほど距離を空けて、ゆっくりと好機を待つ。さすがに人通りの多い場所で撃つのははばかられる。一人になったときが好ましい。雨が止む気配はない。

 興奮と期待に早まる鼓動。雨の運ぶ湿った香りが、緊張を快楽へと変える。

 新里が再び路地を折れる。かなり酔っているのか、迷路でも歩いているようにその足取りは覚束ない。誰かに指示されるわけでもなく、人気のない路地に入っていく。佐伯は腰から黒星を抜き、遊底を引く。だが予想よりも固く、三回目にして初弾を薬室に押し込む。

 弾倉に六発、薬室に一発。

 素人の腕前では心許こころもとないが、七発もあれば事足りる。そう自分に言い聞かせ、佐伯は傘を捨てて黒星を両手に構える。大きな背中を狙って、引き金を絞る。

 黒星が火を噴く。初弾は雨に消える。反動で手から前腕に痺れが走るも、構わずに次弾を撃つ。銃弾は数メートルの助走をつけて腿に埋まる。

「いった!」

 体勢を崩し、顔から路地にくずおれる。どうやら痛みの原因は転んだことだと思っているらしく、釈然としない様子でふらふらと立ち上がる新里。そこにもう一発放つ。

「あああ!」

 腰を狙った弾は尻を抉る。新里は膝を折り、生まれたての子鹿よろしく内股になって腿を震わせる。佐伯は失笑して、距離を詰めながら二回引き金を引く。一発は脇のブロック塀に、もう一発は肉の塊に吸われた。大きな影がもんどりを打つ。

「……おまえ、誰だよ。ふざけんな」

 ようやく事態を把握できたのだろう。新里は脂の浮いた顔に驚愕の色を浮かべ、なけなしの虚勢を張る。うつ伏せでこちらを見上げる新里に、佐伯は黒星の先を向ける。

「待て、やめてくれ!」

 斟酌しんしゃくの余地はない。死ね、と目で言うと、佐伯は引き金を強く引き絞った。媚びるように歪んだ顔が弾けて、熟れた果実に一転。水たまりの中で崩れる。

 もう一発。転がるビニール傘があけに染まる。遊底の後退した黒星は雨の中、銃口から硝煙を立ち上らせていた。

 濡れた髪を伝って、滴が白い首筋を濡らす。体が強張り、胃の中が干上がる。佐伯は黒星を腰に戻し、スマートフォンを出そうとする。痙攣した指は薄い板を血だまりに投げ出した。舌打ち。欠けた液晶画面に「くそ」と吐き、新里だった塊を睨む。

 陳に連絡する。三コール目を過ぎたあたりで、受話口から上機嫌な声がした。

「佐伯です。片付け、お願いします」

「ちゃんと殺ったか」

「何発か外しましたけど、なんとか」

「おいおい、初心者用の大きな的だぞ」

 数瞬おいて二人の間で哄笑が弾ける。陳には、人を手配してあるから早く現場を離れろ、と告げられた。佐伯はビニール傘も忘れて、通話したまま足早に路地を出る。

「楽しい夜でした。陳さんも体験したことはありますか」

 いかに普段から必要最低限のことしか喋らないように意識していても、今夜は自制するには刺激が強すぎた。饒舌じょうぜつな佐伯の心境を察してか、陳が話に乗ってくる。

「ああ、大陸にいた頃は八人くらい捌いた。北京に上海の連中、それにマフィア以外も。開いた腹から飛び出した腸を、中に押し戻そうとした奴もいたな。必死すぎるよな」

「銃は使わなかったんですか」

「ナイフだ。惨い死体はいい見せしめになるからな」

「……すごい、見直しました」

 意味を測りかねたような「はあ?」という声が聞こえても、佐伯にとっては些末事だった。真顔の仮面を雨滴がこそぎ落としていく。素顔は上気している。復讐を果たしたことよりも、陳の話に心を奪われていた。もう頭の中にある三島の顔は、おぼろげになりつつある。

 想い出も、感光して白飛びしたフィルムの如くに記憶から消えていく。佐伯は高鳴る心音に、新たな春の始まりを覚えた。

「陳さん、また一緒に遊びましょうよ」


 了

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ケダモノたちの手慰み 島流しにされた男爵イモ @Nagashi-Potato

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