黒星
「……優しい人なんですよ」
口を衝いて、そんな言葉が出ていた。広司を
「そういえば、俺のやった
「はい」
「大事に使えよ」
子どもに言い聞かせるような口調だった。それとは裏腹に目は、お前のすることは全部お見通しだ、とでも言いたげに冷たく尖っていた。佐伯は封筒をデニムジャケットに押し込み、代わりに少し厚めの茶封筒を机に置く。刃物のような目が一瞬、そちらに向けられる。
「報酬になります。片付けも込みで四百万」
「……広司の遺した金か?」
佐伯は首肯する。陳は中を確認すると、顎をさすりながら小さく笑った。
「もう一度だけ言っておく。大事に使えよ」
氷の溶けたアイスコーヒーを喉に流し込む陳に一礼して、佐伯はカフェをあとにした。
佐伯は自宅に戻って軽く昼食を済ませたあと、居間のソファに横になって素行調査票を見ていた。新里昭。二十九歳。県警本部長の息子。十人ほどの半グレグループを率いており、恐喝や傷害は日常茶飯事。拉致監禁の疑いもある。
現在は親の金を資本に不動産業に手を出し、不動産収入も得ている。収入額からするに、金には困っていないらしい。半グレはあくまで遊び。それに纏わる犯罪も本人にしてみれば、おまけのようなものなのだろう。起訴は絶対にされないのだから。
陳の調査によると、新里の一日の行動パターンは野良犬なみに気ままで単純だった。日中はグループを引き連れて街を闊歩し、夜はいつも決まった飲み屋に立ち寄る。帰りは一人。そのときを狙ってくれ、と言っているようなものだった。
佐伯は机に置いたウィスキーのボトルに直接口をつけて、血中のアルコール濃度を戻す。その折、ふと広司の言葉を思い出す。足を洗いたいと言ったときのことを。
その頃、彼は哲学に夢中だった。なにかに縋りたかったのかもしれない。アリストテレスがどうのとか、唯物論だとか。それらのことは佐伯の関心の
ただ、一つだけ気になった話もあった。テセウスの船。ギリシャ神話をもとにした話で、物体を構成する要素がすべて新しいものに入れ替わった場合、入れ替わる以前とで物体は別物になったのかという、同一性を問う思考実験だ。
得意げに語る彼の無邪気な顔を記憶しているだけで、内容のほとんどは頭の片隅にすら残っていないが、かすかに残る記憶の
——なあ、柚希。もし俺が真っ当な人間になったら、それは俺だと思う?
答えることはできなかった。肯定も否定も、意味を為さない問いかけだと思ったのだ。答えを訊き返しても、彼はわざとらしく渋面を作るだけだった。きっと、肯定してほしかったのだろう。変化に怯える背中を押してほしかったに違いない。本当にそうだったのか。佐伯は、どこまでも都合のいい自らの解釈を鼻で笑った。もうたしかめる術もない。
寝ころんだままボトルを机に置き、ソファの下から麻布に包まれた物体を引っ張り出す。重く不格好な形が布越しでもわかる。オイルの臭いが鼻を衝く。それを腹の上に乗せ、布を広げる。大きな拳銃が姿を現した。
陳が結婚記念にくれた。当時は神経を疑ったが、今では運命のように感じている。これは神よりもたらされた福音なのだと。佐伯は宙に向けて黒星を構える。
弾倉は抜いてあるうえ、薬室に弾は入っていない。それでも玩具を握っているようには思えない。そうして無骨な感触に手を慣らしているうちに、ある疑問が去来する。
この黒星の部品がすべて新しいものに置き換わったら、それは黒星なのか。考えるまでもなかった。黒星は黒星。銃は銃。機能や外観さえ同一であればいい。なのに、それを広司には当てはめられなかった。更生した夫は、自分が愛した夫とは別物に感じたのだ。
彼のなにが好きだったのか、もはや思い出せない。性格、体、想い出。「好き」という想いだけが心の空虚に横たわっている。たまらず、佐伯はソファから起き上がる。記憶の中の広司の印象が、男から人になる。やがては人からヒトへと退行し、抽象化していく。
かつて抱いた好意の形だけが、夫という像を形作っていた。ならば、せめて像だけでも守る必要がある。佐伯は再び黒星を構え、流し台の縁に置いたグラスに照準を合わせる。
「ばん」
グラスの中の氷が、軽い音をたてて崩れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます