探偵

 排気ガスで外壁のくすんだ一軒家を背に、国道沿いを歩く。車道を行き交う車は蚊の如くに耳障りで、酒の残った頭に響く。見えてきた信号を左に折れ、かまびすしい通りに別れを告げる。そんな折、小雨が降ってきた。佐伯は傘を開こうと思ったが、面倒になってやめた。

 駅前のカフェで十時に。指定の場所までは自宅から十五分も歩けば着く距離だったが、先に寄りたい場所があったので早めに出てきた。名目上、広司が事故死した現場だ。ちょうど、待ち合わせ場所の近くにある駅だった。


 雨から逃げるように小走りで街路を進み、遠目に見える駅に向かう。通勤ラッシュを過ぎたこともあり、駅前の人足は疎らだった。世間では、必ずしも日曜日が休日とは限らない。

 広司が存命だった頃はパン屋に勤めていた佐伯だが、酒浸りになって以来そうした感覚が狂いつつあった。毎日が休日で、日曜日を「今日はなぜか人が少ない日」としか認識できずにいた。美化された過去に縋り続けるあまり、未来が先に風化していく。


 それから五分ほど歩を進めたところで、小さく見えていた駅は眼前に大口を開けていた。百五十円だけ払って構内に入る。妙に長い階段を下りてホームに出る。ついさっき電車が出たばかりらしく、ホームには家族連れや旅行者が点々といるだけだった。

 佐伯はホームに長い線を作る点字ブロックを跨いで、線路を覗き込む。ここで広司は肉塊になった。ホームを五線に見立て、千鳥足という名のステップを踏み、最後は書き損じを消すように電車に横薙ぎにされた。警察の話を信じるならば。


 事故当時は深夜で、目撃者は少なかった。たった二人。その二人と佐伯は面識があった。どちらも広司のつるんでいた半グレだ。外見からして、表の人間ではないことは誰の目にも明らか。精神年齢は、永遠に十代前半を彷徨っているような連中だった。

 佐伯はそのどちらか、あるいは両者が広司を殺したと睨んでいた。酒を飲ませて、線路に突き落としたと。証拠はない。だが、動機は推察できる。夫は常日頃から「グループを抜けたい」と口にしていた。一度道を外れた者は、絶対にもといた場所には戻れない。


 そんな社会と弱い心が、広司を底なし沼に引きずり込んだ。傍から見ればろくでなしに違いない。それでも佐伯は、彼にも良心があると知っていた。皮肉にも、無惨な最期がそれを証明した。頭に広司の姿がちらつく。


「あの、大丈夫ですか」


 ふと、うしろから声がした。振り返れば、先ほど見た旅行者風の若い男がいた。心配そうに、こちらの顔を覗き込んでくる。善意のつもりなのか。佐伯の怪訝けげんな視線に気づいたのか、男は顔の前で手を振って他意はないことを示した。


「俯いていたので、具合でも悪いのかと」

「いえ、平気です」


 佐伯は曖昧な笑顔を浮かべる。頬が重く、口角を上げるのも一苦労。朝に、洗面台の鏡に向けた顔のようになっていないか心配になった。今度は男が怪訝な顔をして口を開きかけたので、矢継ぎ早に「ご心配なく」と告げてその場をあとにした。


 覚悟を決めるつもりが、逡巡の溝を深める結果となった。現場に赴いた回数は片手で数えられるほどだが、それがかえって尾を引いているのかもしれない。行動に移る準備は、粗方できている。あとは覚悟だけ。そう思案しながら、佐伯は駅前の飲み屋街を歩く。

 待ち合わせをしているカフェまでの最短経路だ。雨脚が強くなってきたので傘を開く。剥げ落ちたアスファルトの隙間に雨水がたまり、電柱の足下に散った吐瀉物の表層だけが流されていく。まるで、佐伯の煮え切らない心を体現しているかのようだった。


 歩き疲れてきた頃にカフェが見えてきた。チェーン店ではなく、老夫婦が暇潰しにやっている個人カフェだ。外観は木造の小さな小屋で、小手先の修繕では誤魔化せない傷みが目立つ。それなのに黙して風雨に晒されている様は、老夫婦と朽ちゆく運命をともにするとでも言いたげだった。玄関先の傘立てに傘を差し、格子の引き戸を開ける。


「おう、小姐シャオジエ!」


 カウンターの中の老夫婦の挨拶よりも先に、一番奥にあるボックス席から福建語が聞こえてきた。声の主は、仕切りの向こうから手だけを出している。天気が悪いせいか、その男以外に客はカウンターに三人ほど。皆、居心地悪そうにしていた。

 佐伯は、老夫婦に軽く会釈してから奥に進む。カウンターのうしろを通ってボックス席に着くと、アロハシャツの襟に、リムなしサングラスを引っ掛けた中年の男が待っていた。


「陳(チェン)さん、もう少し声を落としてよ」


 佐伯が日本語で言う。すると男、もとい陳は「悪い悪い」と同じく日本語で返してアイスコーヒーを啜る。口先だけの謝罪に辟易としつつ、佐伯は向かいに腰をおろす。


「大陸にいた頃の癖で、面と向かえば不思議と声が弾むんだよ」


 陳は「一ヶ月ぶりか」とこぼし、鋭い目を佐伯に寄越す。陳兆銘(チェンジャオミン)。半グレ連中と同様、昔に夫がつるんでいた福建フージェンマフィア崩れの探偵。探偵と言ってもたちの悪い部類で、手に入れたネタで強請るのは序の口。美人局や、詐欺などのちんけな真似をして生きている。尤も陳に頼らなければ、広司の死の真相の足掛かりすら掴めなかったのだが。


「早速、結果を教えてください」


 一応、敬語で話す。陳は、漫画に登場する中国人みたくエセ日本語を使うこともなければ、女っぽい口調で喋ることもない。日本人を見下したうえで、完璧な日本語を使う。そのことに対する礼節を欠けば、どんな目に遭っても文句は言えない。

 陳は口の端に笑みを作ると、短パンのポケットから封筒を出す。それを机に滑らせ、首を捻る。佐伯が中を確認すると、ある男の顔写真と素行調査票が出てきた。


「そいつが広司を殺った。新里昭(にいざとあきら)。ヤクザになる根性もなく、真面目に生きる誠実さもない。そのくせに楽して、人並み以上に稼ぎたいと思ってるガキだ」


 おまけに、と陳は舌打ちをくれる。


「俺の邪魔までしやがる」


 声に殺気が乗る。恐る恐る仔細を訊ねれば、この新里という男は、陳が食い物にしている連中を同様に狙って金を稼いでいるそうだ。要は、餌場に新顔が割り込んできて面白くないと言う。犬も食わないような話に呆れてしまうが、佐伯は顔には出さず話題を変える。


「新里の親は、県警本部長なんですね」


 素行調査票の上部、対象者情報が記された部分に目をやる。事実を憶測たらしめるものは、心の中で瓦解しつつあった。目撃者が少なくとも、駅の至る箇所には防犯カメラがある。

 佐伯は現物の映像はおろか、その内容さえ伝えられずに事故だと断定された。大方、親が息子の凶行を隠蔽したのだろう。そうであれば、すべて合点がいく。


「子どもは何歳になっても可愛いものだろ。どんな子どもでも、親は守りたいと思う。まあ、俺らの世界じゃあ子どもは利用して、都合が悪くなったら捨てるものだけどな」

「同じく現場にいた、片割れはどうでしたか」

「あれは金魚の糞。鎌かけたら、泣いて「見逃してくれ」って」


 陳は「あれは面白かった」と思い出したように哄笑こうしょうするが、目は笑っていなかった。


「広司が死んで、お前は小姐に逆戻り。二十七で死ぬなんて、本人も想像していなかっただろうな。足を洗うなんて、今さら手遅れなのに間抜けな奴だ」

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