ケダモノたちの手慰み

島流しにされた男爵イモ

酒浸り女

 日曜日の朝。流し台に置いたウィスキーのボトルに、窓から差し込む朝陽が小さな星を作っていた。眩く輝き、ボトル脇のグラスを満たす琥珀を一段と色めかしている。

 佐伯柚希(さえきゆずき)は流し台に肘をつき、ウィスキーをあおった。もやのかかった思考が刺激に焼き払われ、また新たな逡巡が頭の隅から現れる。きりがない。過去を葬るためにアルコールの海に身を沈めたが、そんなことで解決するほど生易しくはなかった。


 一時の忘却は、やがては寸毫すんごうの暇も与えてはくれなくなり、酒の量が増えるばかり。最初は水割りでも十分に酔えたのに、今ではストレートですら水と変わらない。家事は手に着かない。コンロに置いた小さなフライパンには、昨日から目玉焼きが焦げ付いている。

 立派なキッチンドリンカーだ。もはや慢性化した頭痛にため息を漏らしながらも、佐伯はグラスを手に下着姿でトイレに向かう。半開きのドアを開け、洗面台の蛇口を捻る。


 片手を温水に浸しながら、佐伯は水垢の浮く鏡を覗き込んだ。水のついた親指で表面をこすってやれば、いかにも不健康そうで若さだけが取り柄の女が姿を現す。茶髪のウルフは明後日の方向に跳ねている。痩せぎすの顔に浮かぶのは皮脂と、一日漬けのメイク。


 昨夜は風呂にも入らず飲み明かした。気がつけば、流し台に顔を突っ込んでいた。迎え酒をして今に至るわけだ。二十五にして、堕落への道を脇目も振らずに突き進んでいる。

 クレンジングも洗顔も買い忘れていたので、温水で顔をこする。途中、風呂に入った方が早いと悟ったが、億劫な気持ちが勝った。乾いたアイシャドウを指で目尻から頬に伸ばし、鏡に向けて笑顔を作る。アメコミの悪役がそこに映る。佐伯は心の中で自嘲した。


 タオルを首にかけてトイレを出る。台所に向かう前に居間に立ち寄り、窓際にしつらえられた椅子の上からシャグ缶を攫う。缶の表面にはアルファベットの羅列があったが、アルコールに満たされた頭では判読はおろか、佐伯は自らの行動理由すらも曖昧な認識だった。

 歩きながら飲みさしのグラスを傾ける。台所につくと、流し台にシャグ缶を放った。衝撃で開いた蓋が台の中に転がり、うわんうわん泣いている。それを傍らにポケットからスマートフォンを取り出し、通話履歴の一番上にある番号をダイヤルする。


 相手が電話を取るのを待つ間、佐伯はシャグ缶に同梱していたペーパーを広げてシャグを載せる。最後はペーパーの端を舐めて綺麗に巻く。コンロを点火して、そこで先端を赤く染める。準備は整った。紙巻き煙草を咥えて、大きく息を吸い込む。

 不純な空気が、フィルターを介さずに肺に流れ込む。途端に咳き込み、紫煙が不規則に宙を泳ぐ。そのとき、受話口から男の声が漏れた。


「あ、佐伯です。えっと、今日が期日ですよね」


 スマートフォンを肩と首で挟み、酒で傷んだ喉から媚びるような甘い音色を出す。できるだけ、相手を刺激しないように。すると、ぶっきらぼうに「ああ」とだけ返事が聞こえた。


「調査の結果、どうでしたか」

「お前の勘が当たった。他殺だ」

「え、じゃあ夫は」

「詳細は十時に、この前に会ったカフェで」


 通話は切れてしまった。佐伯は、指の間に煙草を挟んだまま頭を掻いた。嬉しくもあるが、避けてきた疑惑を自らの手で確信に変えてしまった。そう思いながら、空になったグラスに煙草を押し込む。紫煙の霧散した宙を見ながら、佐伯はあの日の出来事を想起する。


 内縁関係にあった夫、三島広司(みしまこうじ)が二ヶ月前に事故死した。泥酔して駅のホームから転落したのだ。ちょうど、自宅に帰る途中のことだった。そんなことなら迎えに行けばよかった。なんて後悔に苛まれることもなく、代わりに疑念が胸奥より萌芽した。

 広司は酒を一滴も飲めなかったはず。付き合いでも絶対に酒を口にしない。尤も彼の場合は、仕事のそれとは違う。その日は「連れと飯に行く」と言って家を出た。連れという言葉に違和感を覚えたが、佐伯は言及しなかった。広司を取り巻く人間関係はいびつで、それでいて自然界のヒエラルキーみたく明快だから。


 広司には数え切れないほどの犯罪歴がある。中学の頃に道を違えて以来、殺人と強姦以外の大抵のことはしている。有り体に言えばクズだ。関係する人間は容易に想像がつく。類は友を呼ぶ。詮索せずに「気をつけてね」とだけ、小さくなる背中に添えた。

 それが最後の言葉となった。あれから今まで、佐伯は過去に囚われ続けている。夫の愛飲していた煙草を吸い、在りし日々への逃避を続けている。かすかに苦かったキスの味わいを昨日のことのように覚えている。酒に溺れて、開かれた未来への道を一顧だにしない。下戸の夫が愛らしく思え、睦言に充足した日常を覚えたのは遠い昔のようで。


 思い出すだけで酔いが飛ぶ。佐伯は台所の床に尻をつき、膝を抱え込む。世間からすれば、広司は救いようのない人間。それでも自分にとっては最愛の人で、唯一の希望だった。

 佐伯は母子家庭に育ち、高校生の頃に母に捨てられた。身寄りもない。それを知っていて、男を作って消えた母を外道だとは思わなかった。佐伯は、母の心の支えになれなかった自分を憎んだ。否、そこには拾う側への仄暗い羨望があったのだ。捨てられるよりも、拾いたい。


 それは広司との出会いにも少なからず影響していた。当然、単純に惹かれた部分もあった。生憎と、その理由は自分にハイブリストフィリアの気があるから、という答えが出たが。犯罪者への性的倒錯。とはいえ彼への好意は、邪なものではないと佐伯は自負していた。

 自己陶酔でもなければ、庇護欲を掻き立てられたわけでも、売名行為でもない。夫の半生に、自らと通ずるものを見たのだ。皆に捨てられ、孤独に理解者を待つ姿を。

 視線を落としていた膝が、半紙に水滴を落としたように滲んでいく。嗚咽おえつを漏らし、その度に肩を小刻みに震わせる。また捨てられた。いや、奪われた。


 夫は事故で死んだのではない。誰かに殺されたのだ。


 日増しに強くなる暗示にも似た確信。否定しようにも、違和は言外にその存在を訴える。逡巡は尽きることを知らず、全身の血液をアルコールに置き換えでもしない限り、頭の中に湧き続けることだろう。暗に死ぬか、真相に迫るかの二択を迫られている状況。

 そのことについに答えが出た。佐伯はふらつきながら立ち上がり、覚束ない足取りで居間に向かう。向かって正面のソファに脱ぎ捨ててあった服を乱暴に掴む。黒のパンツを穿き、淡いデニムジャケットを羽織る。掛け時計は九時を示している。


 亀裂の入った三和土たたきに「ト」の字に転がるスニーカーに足を突っ込み、前傾で玄関ドアを開ける。空を見上げると、あんなにも眩しかった太陽は雲に隠れていた。佐伯はうしろ手に傘立てからビニール傘を抜き、鈍色にびいろの世界に飛び出した。

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