ケダモノたちの手慰み
島流しにされた男爵イモ
酒浸り女
水曜日の昼下がり。
佐伯は流し台に前屈みで肘をつき、ウイスキーを
アルコールの海は浅すぎる。毎日のように注ぎ足してやらねば、過去はすぐに水面から顔を出す。やがては
ウイスキーにしても今までは水割りを舐めるだけで事足りていたのに、もうストレートでも効かない。家事も手につかない。立派なキッチンドリンカーだ。
コンロのフライパンに朝から焦げついている、目玉焼きの出来損ないをひとつまみして、佐伯は下着姿のままトイレに向かう。
持ってきたグラスを便器の蓋の上に置き、洗面台の蛇口を捻る。
片手を温水に浸しながら、水垢の浮く鏡を覗き込んだ。いかにも不健康そうで若さだけが取り柄の女が姿を現す。痩せぎすの顔に浮かぶのは皮脂と、一日漬けのメイク。
昨夜は風呂にも入らず飲み明かした。気がつけば、流し台に顔を突っ込んでいた。迎え酒をして今に至るわけだ。なぜメイクをしたのかも、溶けた脳味噌は思い出そうとしない。
クレンジング剤も洗顔料も切らしていたので、ぬるま湯で顔をこする。風呂に入った方が早いと悟るも、億劫な気持ちが勝った。乾いたマスカラを頬へと伸ばす。羽虫をすり潰したような色が続く。佐伯は鏡に微笑みかけ、水気を含んだ舌打ちをこぼした。
タオルを首にかけてトイレを出る。台所に向かう前に居間に立ち寄り、窓際に
歩きながら飲みさしのグラスを傾ける。台所につくなり指を滑らせて、シャグ缶を流し台に放ってしまう。衝撃で開いた蓋が台の中に落ち、うわんうわん泣く。それを傍らに下着に挟んだスマートフォンを取り出し、通話履歴の一番上にある番号をリダイヤルする。
相手が電話を取るのを待つ間、佐伯はシャグ缶に同梱していたペーパーを広げてシャグを載せる。ペーパーの端を舐めて巻く。穂先をコンロで染めた紙巻き煙草を咥える。
不純な空気がフィルターを介さずに肺に流れ込む。途端に咳き込み、紫煙が不規則に宙を泳ぐ。そのとき、受話口から男の「なんだ」という声が漏れた。
「あ、えっと、佐伯です。その、今日が期日ですよね」
スマートフォンを肩と首で挟み、酒で傷んだ喉から甘い音色を出そうとする。しゃがれた声しか出ない。すると、ぶっきらぼうに「ああ」とだけ言葉が返ってきた。
「調査の結果、どうでしたか」
「おまえの勘が当たった。他殺だな」
「……じゃあ、夫は」
「詳細は十六時に。前に会った喫茶店で」
通話は切れてしまった。佐伯は、指の間に煙草を挟んだまま頭を掻いた。心のどこかでは否定したかった真実を、自らの手で暴いてしまった。そう思いながら、空になったグラスに煙草を押し込む。紫煙の霧散した宙を見ながら、佐伯はあの日の出来事を思い返す。
内縁関係にあった夫——
三島は酒を一滴も飲めなかった。付き合いでも絶対に口にしない。尤も彼の場合は、仕事のそれとはわけが違う。その日は「連れと飯に行く」と言って、車で家を出た。疑念の種は、そのときから胸の奥で萌芽していた。
三島には数え切れないほどの前科があった。中学生の頃に道を違えて以来、殺人と強姦を除いた大抵のことはしている。有り体に言えば屑だ。連れの人種は想像がつく。佐伯は詮索せずに「気をつけてね」とだけ背中に添えた。
それが最後の言葉となった。あれから今まで、佐伯は過去に囚われ続けている。かすかに苦かったキスの味を思い出すために、夫の愛飲していた煙草を吸い、都合の悪い過去はアルコールに浸す。睦言に充足した日常を覚えたのは遠い昔のようで。
佐伯は台所の床に尻をつき、膝を抱え込む。世間からすれば、三島は救いようのない人間。それでも佐伯にとっては最愛の人で、唯一の希望だった。
母子家庭に育ち、その母にも捨てられた自分の心の拠り所。捨てられるよりも拾いたい。そんな人を救う側への仄暗い羨望に応えてくれた男。
胸に巣食う、ハイブリストフィリア——犯罪者への性的倒錯——の気を差し置いても、彼は一人の人間として十分に魅力的だった。自己陶酔でもなければ、庇護欲を掻き立てられたわけでもない。三島との関係は決して邪なものではない、そう佐伯は信じていた。
視線を落としていた膝が、半紙に水滴を落としたように滲んでいく。
夫は事故で死んだのではない。誰かに殺されたのだ。
今日まで違和は、言外にその存在を訴え続けてきた。佐伯はふらつきながら立ち上がり、覚束ない足取りで居間に向かう。ソファに乱暴に脱ぎ捨ててあった黒のパンツを穿き、淡いデニムジャケットを羽織る。傾いた掛け時計は十五時すぎを示していた。
亀裂の入った
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