咖喱進化論

半ノ木ゆか

*咖喱進化論*

 うららかな空の下、一人の大学生が学生食堂に入っていった。

「こんにちは」

「あら、いらっしゃい」

 カウンターの向うからおばちゃんのおっとりした声が響く。暖簾をくぐった彼は、インドからの留学生だ。

 おばちゃんが手際よくカレーライスをよそる。彼はカウンターのいつもの席に着き、手を合せた。

「いただきます」

 ほかほかの白いご飯の上に、とろみのついたカレーがかかっている。ねじれスプーンで口に含むと、独特の甘みが舌の上に広がった。思わず目を細める。

「美味しいです」

 おばちゃんも笑顔になった。

「いつもありがとうね」

「ぼくは日本食のなかで、カレーが一番好きです」

 彼の言葉に、きょとんとするおばちゃん。堪え切れずに、口元を隠して笑い出してしまった。彼が目をぱちくりさせる。

「ど、どうして笑うんですか」

「だって、カレーはインド料理でしょ」

 おばちゃんが何を言っているのか、彼にはさっぱり分らなかった。彼は「カレー」という料理を、日本に来るまで食べたことがなかったのだ。

「インドに、カレーという料理はありませんよ」

「まあ、そうなの?」

 こくりと頷く。ふるさとの味を思い出しながら、彼は一所懸命に説明した。

「ぼくの出身の南インドでは、ご飯と一緒にサンバールやラッサムを食べます。甘くてどろどろではなく、辛くてさらさらしています。だから、日本のカレーとは全然違っていて……あっ!」

 彼の体に、いかづちのような衝撃が走った。

 幼いころの記憶がふつふつと甦る。イギリス旅行から帰ってきた父が、こんなことを言っていたのだ。

「まったく、イギリス人はインド料理を誤解してるよ。サンバールも、アヴィヤルも、パラックパニールも、それぞれ違う食べ物だろ? それなのに、彼らはみんな一緒くたにして、『curry』なんていう聞きなれない名前で呼ぶんだ」

 スプーンを持ったまま固まってしまった彼を、おばちゃんが不思議そうに見つめている。

 彼の推測はこうだ。まず、インドの様々な汁物料理がヨーロッパに伝わった。イギリス人はそれをまぜこぜにして、「curry」と呼ぶようになった。

 次に、イギリス人が「curry」を日本に伝えた。日本人はそれを自分好みに作り変えて、じゃがいもやにんじんを放り込んだり、うどんやトンカツにかけてもぐもぐ食べるようになった。日本語の「カレー」という単語は、きっと英語の「curry」が訛ったものだろう。

 彼にはとても信じられなかったが、この美味しい日本食は、ふるさとの料理の遠い親戚だった。アフリカの猿が長い時間をかけて人間に変ったように、食べ物も、時代ともに見た目や味が変ってしまうのである。

「あなたは……『curry』だったのですか?」

 彼は驚きの眼差で、スプーンの上のどろどろを見つめた。



 麗らかな空の下、一人の人物が惑星探査船に入っていった。

「ただいま戻りました」

「ああ、お疲れ様です」

 カウンターの向うから調理人のおっとりした声が響く。食堂に入ってきた彼女は、この船のおさだ。

 調理人が手際よく料理をよそる。船長はカウンターのいつもの席に着いた。

 炊き上がった穀物の上に、とろみのついた汁がかかっている。漆色の匙で口に含むと、独特の甘みが舌の上に広がった。思わず目を細める。

「これ、美味しいですね。特にお肉が良い。初めて食べる料理ですけど」

 調理人も笑顔になった。

「古文書をもとに、地球時代の料理を再現してみたんです。『カレー』という名前の、有名な日本食だそうですよ。肉は、生物学者さんが狩ってきてくれました」

 船長は懐しむように窓を見た。

「地球か……」

 青い空の下に、岩と砂の大地がどこまでも広がっている。弱々しい植物がさみしく風に吹かれていた。

 人類が地球を旅立ったのは、何百万年も昔のことだ。地球という名前は誰でも知っている。古文書によると、青くきらめく美しい星だったらしい。だが、その惑星がどこにあるのか、今となっては誰にも分らない。この船の乗組員たちも、みな地球とは別の惑星で生れ育ったのだ。

 その時、生物学者が食堂に飛び込んできた。船長はびっくりして、匙を床に落っこどしそうになった。

「どうしたの、そんなに慌てて」

 彼女が訊ねる。生物学者はポケットから、遺物蒐集用のカプセルを取り出した。

「大発見だよ。近くの地層から、こんなものが」

 カプセルを覗き込んで、船長と調理人はきょとんとした。それは、錆びついた捻れスプーンだった。

 船長は、スプーンと自分の匙とを交互に見た。二つは色も材質も違っていたが、大まかな形はとてもよく似ていた。

「どこが大発見なんですか。ただの古い匙にしか見えませんけど」

 調理人に、生物学者が真剣な目で訴える。

「俺が驚いたのは、この匙の古さだ。附着していた食べ物の汚れを、放射性炭素年代測定にかけたんだ。そうしたら、約四〇〇万年前と出た。これは今までに見つかっている、銀河系のどの遺跡よりも格段に古い!」

 彼は続けた。

「さらに、この惑星のすべての生物は、四種類の塩基を含んだDNAをもっている。蛋白質を構成するアミノ酸も二十種類で……要するに、ヒトと同じ材料からできているんだ。こんな偶然が重なる確率は、そう高くない。俺の推測では、ここは地球だ。地球だったんだ」

 食堂がしいんと静まり返った。調理人がお玉を掲げて、叫ぶ。

「ばんざい! 私たちは帰ってきたんだ!」

 船長と調理人が手を取り合って喜ぶ。普段は寡黙な生物学者も、この時だけは八重歯を覗かせて笑った。

 匙で掬った大きな肉のかけらを、船長がぱくりと一口で食べた。満面の笑みで生物学者を見上げる。

「お祝いしなくちゃ。一緒に食べましょ。あなたのとってきてくれたお肉、すごく美味しいんだから」

 その声に、彼は言葉を失ってしまった。顔がすうっと青ざめてゆく。

「あんた、を昼飯にしたのか」

 わなわなと震えながら、調理人を指差す。調理人は小躍りしながら、年代物の酒の栓を抜こうとしていたところだった。彼は「ええ」と頷いた。

「皮膚が薄かったので、庖丁を入れやすくて。毛がなかったので、下ごしらえも簡単でしたよ」

 生物学者は椅子に腰掛け、頭を抱え込んでしまった。調理人が首をかしげる。船長は口をもぐもぐさせながら、二人の様子を不思議そうに見つめていた。

「俺たちの祖先は、地球にとんでもない忘れ物をしたらしいんだ」

 息を整えて、生物学者は語り出した。

「あの動物の姿をよく思い出してくれ。――まず、前脚より後ろ脚のほうが長かっただろ。あれは、祖先が二本脚で歩いていた名残なんだ。次に、両目が正面についていた。あれは俺たちと同じように、物を立体的に見るためのつくりだ」

 船長は、匙を持ったまま固まってしまった。

「俺たちの祖先が地球を旅立って、もう四〇〇万年近く経っているんだ。俺たちは昔ながらの、機械に囲まれた暮しを続けているから、あまり姿が変っていない。だが、もし地球に取り残された人々がいたら、野生での暮しに適応して、一目では人間だと分らなくなっているだろう」

「まさか」

 調理人の声がうわずる。生物学者は彼の目を見て、ゆっくりと頷いた。

「俺も初めは気付かなかった。DNAの解析結果を見返して、驚いたよ。ヒトと九九・八パーセントも一致していたんだ……」

 彼女の体に、雷のような衝撃が走った。

 船長にはとても信じられなかったが、この美味しいお肉は、彼女の遠い親戚だった。インド料理が長い時間をかけて日本のカレーに変ったように、人間も、時代とともに姿や暮しぶりが変ってしまうのである。

「あなた……人間だったんですか?」

 彼女は目を潤ませながら、匙の上の肉片を見つめた。

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