生と死。自由意思とは何か。生のために自由を失い、自由を求めて生きようとする。その矛盾の連鎖に憎悪をぶつけ拒むこともまた自由意思の為せる業。それを燃やし続けることこそ生の本質なのか。生と収穫の象徴であり、希望と繁栄を花言葉に持つ麦をの畑の画で切り取った作者の手腕にも感服する。散文詩調のリズムで綴られる掌篇で、これだけの厚みのある内容に仕上げられるのは見事の一言である。是非ご一読いただきたい!
たった500文字の詩が読者に問いかける生きることの意味。私たちは生きていて、そして死んでいきます。その死は、いつ訪れるか分かりません。当たり前過ぎて忘れていたそんな事実を突き付けられます。何のために生きているのか。短い詩の中に込められた重厚なテーマ。ぜひ貴方もこの作品で現実と向き合ってみませんか?
生きることは、ある意味それだけで罪深い。それでも人は清さを求めて生きねばならない。生きることはそれだけで罪深く、この上もなく尊いことだから。
なんということはないのです。ただ、ただ、いきて、あるいはいきなくなるだけ。いきているものは、麦と、ユーゴと。なんということはないのです。ただ、ただ、いきなくなるだけ。いきていない、だけ。なんということはないのです。がんと、巨大なおとをたてて、天が蒼くたちます。うごかなくなったものを、ちいさないのちたちが、明日の糧にします。なんということはないのです。果てに、置いてくるだけだから。果てに、置いて、ふりかえって。幾千兆個の双眸は、たぶん、あなたを許さない。
それでも、人は愛を忘れないのだと。殺伐とした現実を、大人はたんたんと日常にしていく。こどもたちは、わけもわからず、たぶん、ただ、従うだけ。描かれていないバックグラウンドを想像し、心が震えます。これは、ヒューマンドラマだと、私は、思いました。愛、です。
淡々と重なりゆく短歌。ここには一つの殺伐とした物語が詠まれております。寒々とした現実、システマチックな閉塞感、そんな毎日を生きる時、人として抗う術を失い、ただ従い、自らの心を殺す。それは果たして生きていると言えるのでしょうか?生きる為の我慢と我慢を強いられる生、一見似ている言葉ですがそこには明確な違いが存在します。こぼ短歌には、心を失くしてしまう怖さが込められております。だからこそ、人は優しさや想いを失ってはならないのだと僕は思いました。