第4話
ひまわりクリニックから帰った後、ビールを飲みながら夕飯のパスタを茹でていた。缶詰のミートソースを乗せたパスタとサラダで簡単に済ませるつもりであった。夏の暑さで食が細くなった私にはこの程度の食事がちょうどよかった。
鍋のお湯の中で泳ぐ麺を眺めながら、夏木医師が言っていた「冒険の旅」について考えた。私はこれまで冒険と呼べることは自ら望んでしたことはなかった。時折仕事上の厄介ごとに悩まされたが、それは自ら望んでリスクを背負っていない以上、冒険とは異なるものだった。私にとって冒険とはどこか遠いところの事象のように思われた。そのような冒険などドラクエの勇者に任せておけばよかった。私が望むことはもう一度麻里子に会うこと。ただ、それだけだった。
そして、私が「決定的に変わる」とはどうゆうことだろう、と考えた。私は自らの変化など望んではいなかった。何もかも捨てて一人で生きたいと思うことはあったが、どんな境遇にあったとしても私は私に違いなかった。私の心の世界は何ら変わらない。私はただ静かに生きたい。この世界の片隅で、過ぎゆく月日を惜しみながらひっそりと余生を過ごしていたい。私はそのように思っていた。
私は旅には出たくなかったし、何にも変わりたくはなかった。しかし、予言が正しければ、という前提付きだが、私の望みとは無関係に冒険の旅と私自身の変化が近づきつつあるのだった。
そのとき、私のスマートフォンが鳴った。相手の番号は非通知だ。どうやら、私の知らない誰かが私と話をしたいらしかった。私は嫌な予感がした。本当は電話に出たくないが、仕事上のトラブルの可能性もあった。出ないわけにはいかない。私は電話に出ることにした。
「もしもし」
「あんた、桐野さんかい?」と電話の声の主は言った。声は威圧感に満ちた中年の男のものだった。私の経験上、少々面倒な人種らしいことは想像に難くなかった。
「そうだが」と私は手短に答えた。
「回りくどい話は抜きだ。あんたに少し聞きたいことがあるんだが」と男は言った。
「聞きたいことって?」と私は敢えて男に尋ねた。大方察しは付いてはいたが。
「あんた、夏木って女の医者を知っているよな。ちょっとその医者から受けている治療のことで、あんたにいろいろと聞いておきたいことがあるんだ」と男は言った。「勘違いするなよ。俺はあんたのために言っているんだからな。この意味はわかるだろうな。できれは、我々も荒事は避けたい」
「その医者のことはよく知らない」と私は答えた。彼女との関係は敢えて言わないほうが得策だと思ったからだ。
「調べは付いている。あんた、夏木がやっている病院の常連なんだろ?あんたの通院回数ははっきり言って異常だ」
「調子が悪いからそこに毎日のように通っていたことは確かだが、それが何かおかしいか?」
「いいや、おかしくはないさ、普通の病院ならな。しかし、あんたが通っていたところがやっていることは少々特殊だよな?」
「あんたに話す義務はある?」
私の質問の後、しばらく双方とも沈黙した。
「義務はないよ。しかし、いずれあんたは我々に話したくなるさ。何もかもな。まあいい、また連絡するよ。ちなみに言っとくが、我々から逃げるなんてことは考えんほうがいい。我々は必ずあんたの居場所を突き止める。たとえ、そこがたとえ地の果てであってもな」と男は言うとすぐさま電話を切った。
夏木医師は相当厄介な筋に狙われているらしい。そう言えば、昔、大富豪が設立した怪しげな研究機関に勤めていると言っていたが、一体どういう組織なのだろうか、と思った。そこはひどく秘密主義的なところかもしれなかった。とすれば、組織を出て活動すること自体危険が伴うことは想像に難くなかった。目障りだと思われれば抹殺されることも十分考えられた。もしかすると、あの『夢見の技術』はその組織のトップシークレットであり、公然とクリニックを開いて施術していたことが組織にとって極めて不都合だったのかもしれない。もしそうであれば、電話の男のような連中が出てくることについて説明が付いた。どうやら、私は面倒なことに関わってしまったらしかった。
電話の男の望みどおりに治療の全容を話して、彼女のことを捨て置けば何事もなく過ごせるかというと、そういうことではないだろう、そんな予感がした。私はきっと彼女のもとへ行かざるを得なくなるだろうと思った。言い換えれば、すでにトラブルの渦中に放り投げられていたとも言えた。
もう食事のことはどうでもよくなっていた。私はこれまでのことを振り返った。タクシーでもらった名刺をもとにひまわりクリニックに通い出したこと、夏木医師やその娘と出会ったこと、夢の世界で彼女そっくりの姿になって麻里子と何度も関係を持ったこと、そして、彼女と突然に別れてしまったこと。このところあまりにも奇妙なことが多すぎる。私はきっと知らない間に踏み入れてはならない領域に足を踏み入れてしまったのだ、と思った。
私が考えを巡らせていると、また、スマートフォンの着信音が鳴った。今度の電話の主は、クリニックの受付の女の子だった。事の早すぎる展開を考えると、特に驚くべきことはなかった。
「もしもし。どうしたの?」と私は彼女に尋ねた。
「突然の電話でごめんなさい。桐野さんしか相談できる方がいなくて。母が大変なんです。私が買い物に行っている間に、誰かに連れ去られたみたい」
「どこか散歩にでも行っているとかじゃないの?」
「違うんです。さっきから電話も通じないし、診察室もめちゃくちゃよ。整理整頓が苦手といっても、ここまで散らかす人じゃないわ。きっと誰かともみ合いになったんだわ。怖い。すぐに来て」
「わかった。すぐに行くから。待ってて」
私はそういうと電話を切り、日曜日の夜の、一週間のうちで最も暗くなった通りに駈け出した。Tシャツに七分丈のパンツにキャンバスシューズという着の身着のままの恰好だったが、それでも構わないと思った。着替える暇もないような差し迫った事態のように思えたからだった。
しかし、なぜ私が彼女らを助けに向かっているのか自分でもわからなかった。一つ確かなことは、私がもはや後戻りがきかない場所にいるということだった。とにかく、今は投げ出された状況の中を泳ぐしかなさそうだと思った。
「こっちよ。早く」
私がクリニックに着くや否や、娘はエントランスから顔を覗かせながら手招きして私を呼んだ。
私は待合室の奥の診察室へ案内された。
診察室の中は、雑然としていた。娘が言うとおり、めちゃくちゃだった。机やキャビネットの引き出しという引き出しは荒らされ、文献資料や研究データが書かれた紙が散乱していた。窓のカーテンは引き裂かれ、うなだれるように裂けたその体を晒していた。また、診療用の機材類も投げ出され、無残に破壊されていた。まるで魔物が暴れまわった後のようだった。おそらく屈強な男の数人がかりの仕業だろう。
「ひどいな。これは」と私は思わずつぶやいた。そして、彼女に問いかけた。「近頃、変わった様子はなかった?変な連中に見張られていたとか」
「見張られていたのは、しょっちゅうよ。だって母は研究所にとっては裏切り者だから。ただ、これまで手を出されたことはなかったわ」と彼女は答えた。
「それはなぜ?」と私は再び問いかけた。
「母は、研究所の内情をかなり詳しく知っていたからだと思う。彼らにとって、公にされると困ることも多いんじゃない?」
「例えば、非人道的な実験をしていたとか?」
「あり得るわ。あそこでは、そういうことも公然とやられていたみたい」
常に監視されていながらも、これまで無事に過ごせたのは、簡単に言えば、彼女が組織の秘密という弱みを握っていたからということのようだった。しかし、なぜ、彼らは今回拉致という実力行使に出たのか分らなかった。しかし、陰の部分が明るみになるリスクを冒してまで敢えて実行したということは、それなりの理由があったに違いなかった。それは、決して彼らが容認できない一線を彼女が越えてしまったということを意味していたのかもしれなかった。
「警察に相談したほうがいいんじゃないか?」と私は言った。
「あの人たちに相談しても仕方がないわ。あの人たちは型どおりの捜査をやって、事を面倒にするだけよ」と女の子は答えた。彼女は思った以上に冷静だった。私は前言を撤回したい気持ちになった。
「とにかく、一旦ここを出よう。そして、これからどうするか考えよう」と私は彼女に言った。荒らされた状況から察して、ここはもはや安全ではないことが明らかだったからだ。この場は彼女の身の安全を考えることが先決だった。
「そうね」と彼女は私の提案を受け入れた。
「今夜は僕の部屋に泊まりなよ。狭いけど、ここよりは安全だ。僕は近場のビジネスホテルで寝るとするよ」と私は言った。私は一応未婚の女性への振る舞いは心得ているつもりだった。
「えっ、そんなことしてもらったら悪いわ」
「今は他に行くところはないんだろ?」
彼女は黙ってうなずいた。
「事が決まれば善は急げだ。さあ行こう」
私たちが診察室を後にしてクリニックを出ようとしたそのときだった。不意に人の気配を感じた。
「いやっ」
驚きの声とともに、女の子が不意に私に抱き着いた。そして私の腕の中で体を小刻みに震わせていた。
「どうやら俺と話がしたくなったようだな。それにしても、あんた、気が変わるのが早すぎないか?節操がなさすぎるぜ」
そう言って、クリニックの入り口からやや小柄なサングラスをかけた顎髭の男が現れた。体格のわりに厚い胸板がスーツ越しにもそれがわかった。また、はげ上がった額には、深いしわが刻まれていた。見るからに裏稼業の人間だった。それは小学生でも分かるくらいだった。そして、その男に続いて、黒装束の男が三人入ってきた。彼らはおそらく顎髭の男の手下であった。私は無意識的に彼らにあだ名を付けた。デブ、モヒカン、それにフランケン。まるで漫画のようだった。
「おい、俺が言ったとおりだろう?こいつはすぐに現れるって。単純な奴だ。仲間が連れ去られたって聞くとすぐに出張ってきやがる」と顎髭が手下に言って自らの勘の確かさを自慢した。
「先生をどこに連れ去った?」と私は彼に問いただした。
「まあ、あせるな。いずれ会わせてやる。それにしても会いたかったよ、あんたに」と彼は言うとジャケットの胸ポケットに手をいれ、煙草を取り出した。
「一服どうだい?」
「そんなものはいらない」と私は彼の勧めを拒絶した。
「まあ、そう言うと思ったよ」と彼は言うと、私が吸う予定だった一本にライターで火をつけ、そのまま一服し始めた。彼の吐く煙が私にまとわりつくように立ち込めた。
「私に一体何を聞きたいんだ?」と私は彼に問いかけた。
「あんたのことについて聞きたいだけだ。あんたがなぜ、夏木の手品を受けて平気な顔をしてられるかってことについてな。ふつうはあんたみたいに何回もあれを受けているとみんな気がおかしくなる。しかし、なぜかあんただけは平気だ。」と彼は空中に立ち上る煙草の煙を見ながら言った。
「気がおかしくなる?あれはただの催眠療法だ。特に害はないはずだが」
「そいつは違うな。あんたは分っちゃいねえが、あれは一種の劇薬だ。俺はそっちのほうには詳しくないが、感覚的にそれはわかるね。それに、夏木のせいでおかしくなった奴を何人か見たが、まあ、普通じゃないないな。人間、ああなったら終わりだな」
「おかしくなるのはたまたまだろう?薬の効き方にも個人差がある」
そう答えた一方で、私の心の中のざわめきがさざ波のように起きているのを感じていた。夏木医師は夢見の施術で何をしようとしていたのか?また、その施術を受けてなぜ私だけが無事でいられるのか?
「夏木の施術は随分と人を選ぶが、あんたの耐性は、特異中の特異ってわけさ。ところで、あんたが平気で居られる理由について、うちの上のほうも随分気になってるみたいでね。それでな、上のほうからきつく言われてるんだよ、あんたも絶対に連れてこいって」と男は顔を私に近づけ、見開いた目で私を見つめながらそう囁いた。
「私をどうしようというんだ?」と言いながら私は男を睨み返した。
「察しがついてるだろうが、夏木がやってたことは、組織の最重要研究だ。それに、あんたはその唯一の成功事例だ。組織が見逃すわけはない」
「最重要研究だか何だか知らんが、あんたらに根掘り葉掘り聞かれる筋合いはない」
「あんたは選ばれたんだよ」
「選ばれた?」
「もっと素直に喜べよ。まあ、確率から言って、宝くじに当たったようなもんだ」
「馬鹿馬鹿しい。あんたらには付き合ってられない。帰る!」
私は、男にそっぽを向き、女の子の手をとって彼らに背を向けようとした。そのとき、何者かが私の前の立ち塞がった。
「てめえ、調子こいてんじゃねえぞ」とその誰かが言った。
この野獣の唸りような声の主は顎鬚ではなかった。どうやら、巨漢のフランケンが私に苛ついているようだった。彼はいきなりその巨大な手で私の喉輪を掴んで、ゆうゆうと私を持ちあげた。私は、喉元の苦しさとともに、10cmぐらい宙に浮いた感じがした。
「馬鹿野郎!殺すんじゃねえ!生け捕りだ」と顎鬚は怒鳴ってこの大男を制止した。さっきとは一変した凄みのある声だった。
彼は私を放り出すように喉から手を離した。私はその場でうずくまり、激しく咳き込んだ。
私が息を整えていると、顎鬚の合図とともに、突然、別の手下のモヒカンが後ろから女の子の口を手で塞ぎ、ナイフを顔に近づけた。彼女の目は驚きと恐怖で震えていた。
「なあ、ちょっと俺たちとドライブにでも行かないか?何ならそこの彼女と一緒でもいいぜ」と顎鬚は私に言った。
「その子には手を出すな」と私は顎鬚の顔を睨みながら言った。
「そいつはあんたの心がけ次第だ」と顎鬚はあざ笑うようにそう言った。
どうやら、この状況では彼らに従ったほうが得策のようだった。
「わかったよ」と私は彼に言った。
「そうこなくっちゃ。俺たちも何も好き好んでこんなことをやってるわけじゃないからな。まあ、仲良くやろうや」と彼は言うと煙草を絨毯の上に落とし、靴で踏みしだいた。絨毯に黒い染みが広がった。
「それじゃ、あれに乗ってもらおうか?」
顎鬚が指さした先には、一台の古びれた白いバンが止まっていた。
「悪いがあんたは後ろの荷台だ。あいにく、俺たちとその娘で席がいっぱいだからな。それと、俺たちの後ろで変な気を起こされては困るから、少し細工させてもらうぜ」
顎鬚がそう言うと、背後にいたモヒカンとデブが、いきなり毛布を私の体に巻き付けてきた。そして、その上から黄と黒のトラロープでしっかりと結びあげた。いわゆる「簀巻き」であった。顔は外に出ているものの、身動きが全く取れなかった。
「おめえら、そいつを後ろに放り込んでおけ」と顎鬚が命令すると、手下の二人が私を持ちあげて、バンの後部ドアから車内に私を放り入れた。手が出せないので受け身を取ることもできず、私の腰の辺りに強い衝撃をもろに受けた。その後、二人は女の子を両脇で抑えるようにして後部座席に腰かけた。続いて、顎髭が助手席、モヒカンが運転席に乗り込んだ。
「長居は無用だ。戻るぞ」と顎鬚が言うと、白いバンはまるで夜陰に紛れるかのように静かに発進した。
過ぎゆく道の街燈が車内を微かに照らしていた。そして、車窓から夜の風景が微かに見えた。そこから類推すると、どうやら車は西へ向かっているようだった。私はこの車の行く先を推測してみたが全く見当がつかなかった。私はただ、にわかに動き始めた運命に従うしかなかった。
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