第7話

 そのとき、部屋の内線用電話機が鳴った。

 「もしもし、金崎ですが」と冷静に戻った博士が電話に出た。「…分りました。彼を連れてすぐに向かいます」

 博士の話の内容からすると、私に呼び出しがかかったらしい。

「桐野さん、申し訳ありませんが、これから総裁、つまりこの組織のトップに会っていただけますでしょうか?彼が是が非でも直接お会いしたいということですので。もちろん、私もご一緒いたします。ご心配には及びません。面会は形式的なものです。あなたのことは私に一任するように了解を取り付けておりますから」と博士は私に言った。

「仕方ありませんね。今の私には選択権はないようですから」と私は博士に答えた。

「私もご一緒させていただきます。ここまで桐野さんと一緒に来たんですから」と女の子は言った。

「いいや、美和子ちゃんはここで休んでいなさい。すぐに戻るから」と博士は突き放すように女の子の同行を断った。

 女の子は黙って頷いた。

 私は博士が女の子に掛けた声に穏やかではないものを感じた。もしかしたら、これから向かう場所はかなり危険な場所かもしれないと思った。いや、この施設全体が危険な場所であった。私は避難場所で一時の休息を取っていたに過ぎなかったのだ。

「それでは、参りましょう」と博士は私に同行を促した。

我々はエレベータで再び地下に降りた。今度は降りたのは地下一階だった。このとき始めて分かったことだが、私が監禁されていたのは地下二階で、ここは別のフロアだった。我々はすぐ左の廊下を奥に進んだ。

程なく、セキュリティドアに突き当たった。博士は自分のIDカードをかざし、パスワードを入力して施錠を解除した。

「ここから先は、一部の者しか入れないスペースです。この組織の中枢とも言える場所です」と博士は言った。

 我々は更にドアの向こう側に進んだ。

「当財団のことは力石君から何か聞かされましたか?」と博士は廊下を進みながら言った。

「いいえ、ほとんど何も」と私は答えた。

「当財団は、名称からお分かりになるかと思いますが、元々は明治時代に難病の研究のためにある財閥一族が私財を投じて設立したものです。私はここに奉職して25年になるが、私が入った当時は社会貢献を目指すまっとうな組織でした」と博士は言った。

「『夢見の技術』の研究は昔から行われていたのですか?」と私は言った。

「それは私が入ってすぐに研究が開始されたものです。当時、精神衛生や脳神経の研究は組織の中でも傍流で、『夢見の技術』はその中でも、私が現総裁と夏木ともに他の研究の気晴らし程度に行うような、細々としたものでした。事情が変わったのは、10年程前に現総裁が今の地位に就任してからです。これまでに信じられないくらいの多額の予算と人員が投じられました。そして、3年前に重大な欠陥はあるものの、今の形になったとういうわけです」

「『夢見の技術』がなぜそこまで重要視されるようになったのですか?」

「その方針転換はすべては総裁の一存によるものですが、彼の真のねらいは私たちにも分らないのです。ひとつ確かに言えることは、ある時を境に現総裁の考えが変わったということです。元々、この研究プロジェクトは、あるゲームソフト開発会社から持ちかけられたものでした。先ほども申し上げたとおり、発足当初は、当時研究主任だった現総裁も含めて、私たちは息抜きのつもりで牧歌的に研究を進めていました。しかし、総裁に就任する直前あたりから現総裁の研究態度が変わりました。まるで人が変わったみたいに。そして、これまで背を向けていた組織内の政治活動も実に熱心にやるようになりました。その結果、彼は組織の実権を握るようになりました。その後、当組織は物騒な連中がしきりに出入りするような危険な団体になってしまいました」

「博士が入られた頃と全く体質が異なる団体になってしまったということですね。ところで、ここを辞めようとは思わなかったのですか?」

「研究プロジェクトが始まってしばらくすると、この技術はあらゆる精神疾患の治療に応用できるという可能性があることが判明しました。私にも研究者としての功名心があった。途中で辞めてしまっては、これまでの成果を大成することができなくなる。どうしても辞めるわけにはいかなかった。ですが、今となってはそれが正しかったのかは分りません」

 我々の会話がひとしきり終わるとともに、部屋の入り口らしい場所にたどり着いた。入口のドアにはパスワードロックがかかっており、表札に小さく「総裁室」と銘打ってあった。

「さあ、どうぞ中へ」と博士はロックを解除し、私に部屋の中に入るよう促した。

 部屋は不自然な程の奥行きがあった。床には赤絨毯が敷かれ、中央に煩雑なデコレーションが施されたテーブルとソファーが置かれている。天井には大きなシャンデリアが輝いていた。また、壁にはギリシアの神殿のような丸みのある柱が並び、その間には古典主義時代の端正な容姿の登場人物が描かれた絵画がいつくも掛けられており、間接照明で照らされていた。この部屋は執務室というより、まるでどこかの王族の謁見の間だ。部屋の奥の高台に置かれた重厚な机と椅子のみが、ここが研究組織の代表者の執務室だと感じさせた。しかしながら、その主はここには居なかった。

 部屋の中をよく見回すと、部屋の手前側の隅に、さらにドアがあった。

「こちらです」博士はさらに奥の方へと私を導いた。

 私の身の回りを蒸し暑さが包んだ。ここは浴室のようだった。だたし、浴室にしてはひどく広かった。その中央には円い柱で支えられた円い大理石の湯舟があり、噴水のようにお湯が噴出していた。そして、その周囲に白く美しい男女の彫刻が集っていた。まるでローマ風呂のようだった。私は、博士に案内されるまま、随所に置かれた観葉植物を横目に見ながらさらに奥に進んだ。

 数十メートル先の広間の前で、博士は足を止めた。

「金崎君か?」と奥に居る誰かが言った。

 声がする方を見ると、痩せこけた小柄な老人が全裸でベッドの上にうつ伏せになりながら私たちの方を見ていた。老人は長く乱れた白い髪と髭を生やし、まるで仙人のように超然としており、その鋭い眼光で我々の方を睨んでいた。また、寝転がった彼の背中を下着姿の女がアロマオイルでマッサージしていた。そして、彼らのすぐそばには、身長が2メートル近くもある、黒スーツとサングラスの屈強な二人のガードマンが無表情で立っていた。

「桐野様をお連れしました」と博士は応答した。

「ご苦労だった」と老人は言った。「君が桐野君かね。彼から話は聞いているよ」

「初めまして」と私は手短に挨拶をした。

「我々が開発した例の『夢見の技術』では、残念ながら、通常の人間は数回で廃人同然となる。にもかかわらず、君は十数回の夢見を経ても至って正常とのことだね。結構なことだ。被験者として大変興味深い」と老人は女にマッサージを続けさせながら言った。

 女がマッサージの手を老人の股間に回して、彼の耳元で何かをささやいた。

「そっちの方は後でな」と老人は女に答えた。

「総裁、桐野様とお話がされたいとのことでしたが?」と博士は老人に言った。

「話は、君にもある、まあ、少し話そう」と老人はベッドからゆっくりと起きながら言った。

 ベッドから起き上がった老人は、女にバスローブを着せられ、そばにあるソファーに腰かけた。女は我々に一礼するとすぐさま立ち去った。

「金崎君、われわれの開発技術に欠陥が見つかってからどれぐらいになる?」と老人はボディーガードが差し出したミネラルウオーターを飲みながら言った。

「もうすぐ3年になります」と博士は答えた。

「ずいぶんな時間が経ったね。にもかかわらず、未だに問題解決の糸口すら見つからない。そうだな?」と老人は言った。

「はい、残念ながら。しかし、彼を調べれば、必ずや手掛かりは見つかると信じております」と博士は言った。

「私もそのように考えていた。だからこそ、力石君たちに彼を連れてくるよう指示をしていた。しかしだ」と老人は言った。「この技術にどれだけの価値があるのかね」

「と言いますと?」と博士は怪訝そうな表情で言った。

「この技術は所詮、人に好き勝手な夢を見せているに過ぎん。たしかに、関心を持つ筋がいくらでもいる。しかし、その連中に技術提供をしたとしても、我々は見返りにはした金を受け取るだけだ。それ以上の旨味はない」と老人は言った。

「しかし、この技術はあらゆる精神疾患の治療に応用できる可能性があります」と博士は反論した。

「可能性の話ではないか?しかもこの二十数年間、可能性の域を出ていない。人の意識作用は極めて複雑で、夢と異常心理の因果関係はそう簡単に客観的な解明ができるわけではない」と老人は言った。

「総裁、しかし…」と博士は言い淀んだ。

「私は今が潮時だと思う。この開発プロジェクトは終了だ」と老人は静かに言った。

「待ってください、総裁。急に何を仰るのですか?実用化までもう一歩のところまで来ているのですよ。ここで開発から撤退したら、すべてが水の泡です。お願いです、お考え直しを」と博士は懇願した。

「これはもうすでに決めたことだ。それともう一つ言っておきたいことがある」老人は博士に通告した。「夏木君とそこにいる桐野君の身柄は私が預からせてもらう」

「総裁、彼らの処遇も含めて、この件は私に一任されたではありませんか」と博士は言った。

「たしかに任せたが、それは君が彼らを適切に始末するという条件付きのつもりで任せたのだ。私に無断で二人を釈放しようとするなら話は別だ」と老人は言った。「適切に始末する」とは、言うまでもなく、私と夏木医師が無事に帰れないことを意味していた。

「なぜ、それを?」と博士は驚きの表情で言った。

「当たり前だ。ここは私の組織だ。私が知らないことは何一つない。騙しおおせるとでも思ったのかね?はっきり言って、君には失望したよ。」と老人は博士を見ながら言った。

 老人の合図により、ボディーガードの一人が博士の腕を背中に回してしっかりと掴んだ。そして、もう一人が博士の下半身を抱きかかえた。博士は完全に身動きが取れない状態になった。

「何のつもりだ!やめろ!離せ!」と博士は激しく身をよじらせながら絶叫した。

「君はこれまでだ」と老人は静かに言った。

 ボディーガードたちは、激しく抵抗する博士を抱きかかえるように持ちあげた。浴場には博士の叫び声だけがむなしく響いた。そして彼らは暴れる博士を連れて浴場の外に消えた。

「馬鹿な男だ」と老人は呟いた。

 その直後に、ボディーガードが消えていった方向からパーン、パーンと乾いた銃声が数回聞こえた。博士は死んだに違いなかった。


 この場所には、老人と私だけが残された。

 この状況から察して、この老人は次に私を殺すに違いなかった。そう考えると全身に緊張感が漲った。体が小刻みに震えているのが自分でも分った。私は、突然に死の淵に投げ出されてしまったのだった。

「桐野君、君にも話がある」と老人は言った。

「僕に一体何の話があるというんだ?」と私は彼に尋ねた。

「私が、この『夢見の技術』のコアな部分は私が設計したのだが、その目的を話しておこうと思ってね。せめてもの冥途の土産だと思ってくれ」と老人は言った。

「昔、ゲーム会社から開発を持ちかけられたとかって博士は言っていたが?」と私は言った。

「そんなもの、表向きの理由に過ぎんよ。精神病に効くというのは必ずしも嘘ではないが、根拠の薄い妄言に近いものだ。それを真に受けおって。君たちは度し難い愚か者どもだ。ここではっきりと言っておこう。この技術を作った真の目的は、『世界を守るため』だ」

「『世界を守るため』?何を言ってるんだ?」

「私は、この『世界』というシステムをその崩壊からから守るためだと言っているのだ。君は知らなかったと思うが、この『世界』に属するすべての人間は、その意識の入力と出力を一つの大きなインターフェイスに託している。それが『世界』というものだ」

「何を馬鹿げたことを。あなたは、我々すべての脳がプラグで巨大コンピューターに繋がれているとでも言いたいのか?」

「必ずしもそうではない。君はくだらん映画の見すぎだ。私は比喩として『インターフェイス』と言ったまでだ。言い方が気になるのであれば、『共同幻想』とでも言えばいい。その呼び方はどうでもいい。本題に戻ろう。この『共同幻想』だが、人間どものほとんどはこれを唯一の現実だと信じて疑わない。ところが、中にはそうではない者もいる。彼らは、この世界が自分の属する世界ではないと疑いを抱えながら生きている。いわば、この『世界』の不適合者だ。彼らの中には精神疾患を患っている者も多い。彼らのほとんどは放っておいても問題とはならないが、極めて稀にこの『世界』の存立を脅かすものが現れる」

「つまり、不適合者を一切出さないことが『世界を守る』ということになると言いたいのか?」

「それはその通りだ。それができるに越したことはない。しかし、それは現実には不可能だ。君には理解できないかもしれんが、私はこれまで幾度となく、『世界』を再建してきた。毎回完璧な『世界』を創造しているはずだが、君らのような不適合者を皆無にできた試しがない。私が完全な『世界』を提供しているにもかかわらず、君たちのように受け入れようとしないものが必ず現れるのだ。そして、その中の誰かが必ずといっていいほど私の作った『世界』のシステムに修復不可能なエラーを起こして破壊してしまう。私はこの問題について長い時間をかけて考えたが、これは確率的に避けることは出来ないという結論に至った。そこで、私は別のアプローチを考えた。不適合者が『世界』に疑問を抱くのは、『世界』に受け入れられていない感覚があるからだ、と。それならば、彼らが完全に受け入れられる世界を夢で見せてやればいい、現実と変わらないレベルで。そして、彼らをあえてこの『世界』から隔離して管理すればよいと」

「それが『夢見の技術』だと?」

「そうだ」と老人は私の目を見ながら断言した。

 私は、これまで堪えていた笑いを吹き出してしまった。これでは年寄りの妄言ではないか。

「ははは、笑わせないでくれ、あんた神様にでもなったつもりか?」と私は笑いながら老人に言った。

「私は真面目に話している。この『世界』は私が創造したものだ。その防衛について話して何がおかしい?」と老人は表情を変えずに言った。

「はあ、あんた正気か?」と私は言った。

「何度も言わせるな。私は真面目だ。私を神と呼ぼうが、仏と呼ぼうが構わない。とにかく、この『世界』の創造者は私だ。お前たちはただの被造物に過ぎん」と老人は言った。

「そんなことは、とてもじゃないが信じられないよ」と私は老人のいうことを拒絶した。

「ならば、これを言えば信じてもらえるかね?」と老人は不気味な笑みを浮かべながら言った。「君は夢の中で麻里子という女と何度も会っていたね」

これまで、夢の中の出来事は誰にも言ったことがなかった。当然、夏木医師にも金崎博士にも言っていない。これは決して誰にも言ってはならないものだと自覚していたからだ。麻里子は私の心の中にいる存在であり、それを誰にも話していない以上、私以外が知っていることはあり得ないはずだった。しかし、現に目の前の老人はその名前を知っていた。私は驚きと混乱のあまり、尻の穴から魂が抜けたようにその場凍り付いたようになった。

「しかも、君はその麻里子とそっくりの姿になって、言葉にするのも憚られるような行為を繰り返していたね。違うか?」と老人は私の夢の中の出来事について更に暴露を続けた。

「なぜ、それを…」と言って私は絶句した。なぜ老人が私の秘密を詳細に知っているのか理由が分らなかった。私の混乱はやがて恐怖へと変わっていった。私はその感情に気がおかしくなりそうだった。

老人は私を嘲笑するようにさらに続けた。「よくもまあ、あんな淫らなことを。誰も見ていないとでも思ったのか?君は実に恥知らずな奴だ。何なら、ここでその詳細を私の口から審らかにしてもいいんだぞ」

「やめろ!それ以上何も言うな!」と私は叫んだ。

「先ほど金崎君にも言ったが、改めて君にも言おう。私が知らないことは何一つないのだ。なぜならここは私の『世界』だからだ。君の意識の中であろうと外であろうと。これで少しは私のいうことは信じる気になってくれたかな?」

「…」

 私は彼が神であることを認めざるを得なかった。認めたくはなかったが、そうでなければ、誰も知らないはずの私の記憶を知っていることが説明できなかった。

 しばらくして、老人は再び口を開いた。

「ようやく理解したようだな。君が理解してくれたところで改めて言おう。君にはこの『世界』から消えてもらう。そして夏木君にも消えてもらう」

「消える?」

「そうだ。この『世界』から絶対的に消滅してもらう」

「なぜ、我々が消されなければならないんだ?」

「問題は麻里子だよ。君が逢瀬を重ねた」

「夢の中で私が何をしようと勝手ではないか?麻里子に会うのと、私たちが消されるのと何の関係があるというんだ?」

「彼女は君とともに新たな世界を築く存在だ。たしかに、君は一度彼女を拒絶した。だが、このまま私が捨て置けば、遅かれ早かれ君は再び彼女と会おうとするだろう。夏木君の協力を得ながら。君と麻里子は新たな世界の鍵と錠のようなものだ。彼女と再会をすれば、必ずや君はこの『世界』を見捨てて、新たな世界を自らの意思で創り出そうとするだろう。しかし、それは絶対に認めるわけにはいかない。なぜなら、世界の創造は、新たな森羅万象の秩序の上書きにより、この『世界』を消滅させることを意味するのだ。この『世界』は私が生みの苦しみの末に作り上げたものだ。この『世界』の主として、何としてでもそれを阻止しなければならない」

「僕が麻里子と会うことと、我々が新たな世界を創造してこの『世界』が消えることに論理的な必然性はない。僕が夢の中で誰と会おうとあんたには関係ないじゃないか」

「たしかに、君の言う『論理的な必然性』はない。だが、必ずそうなる。断言してもいい。私の経験則からそう言えるのだ」

「経験則?」

「私が世界の創造を始めて以来、幾度となく、君らのような危険な不適合者が現れた。そして、すでに話したとおり、君らは例外なく私の『世界』を台無しにしてきた。私も君らのような下等な存在の暴走を相手にするのには少々辟易しているが、私の『世界』をこれ以上君らに消滅させされるのは我慢ならない。一時は『夢見の技術』で君たちの存続を容認しようと思ったが、その実現が難しい以上、結局は、危険因子を早期に見つけてしらみつぶしに消すしかないのだ。私に言わせれば、君らは癌細胞のようなものだ。早期に排除するに限る。気の毒だが観念したまえ。これは君が属するこの『世界』のためだと心得よ」

「ふざけるな!『世界』のためだと言われて納得なんかできるか!」と私は老人に憤りをぶつけた。

「だまれ!」と老人は一喝した。「お前など断固消してやる。私はお前ような奴を創造した覚えはない。一体お前は何者だ?どこから来たのだ?」

「俺は俺だ。お前が作った覚えがなくとも、現実にお前の意思とは無関係にここに存在しているんだ。所詮、お前の力などその程度だ!」と私は言った。そう言った途端私は自分自身の言葉に驚いた。これは本当に私の言葉なのだろうか?

「訳も分からぬくせにほざくな…」と老人は言ったきり言葉が出なくなった。


 私と老人は無言のまましばらく睨みあった。

 やがて、人の足音が聞こえてきた。先ほどのボディーガードの一人が帰ってきたようだった。彼は再びこの浴場に入り、私と老人の下に近づいてきたのだった。

 殺される。私は自分の死を予感した。しかし、彼は恐怖で慄く私の横を素通りして老人にそばに進んだ。そして、老人の耳元で何やら囁いた。

 ボディーガードの耳打ちが終わると、老人は一瞬目を見開いたような表情をした。そして、険しい顔でしばらく目をつぶっていた。何かを考えている様子だった。

しばらくして、彼は口を開いた。「くだらんことをしおって…。桐野君、もういい。君は帰りたまえ」

「えっ」と私は拍子抜けした。「どうゆうことだ?」

「どうもこうもない。帰っていいと言っているんだ。夏木君の娘と一緒に帰りたまえ。夏木君もすぐに釈放する」と老人は言い捨てるように言った。

「それでは、失礼させてもらいます」と私は言った。理由はわからないが、とにかくこの組織の最高権力者が釈放すると言っているのだ。こんなところに長居は無用である。

「ただし」と老人は附言した。「重ねて言うが、今後麻里子と会おうとすることは絶対に許さん。もし、会おうとするならば、未遂でも君と夏木君には消えてもらう。私の力をあなどるな。私に見えない所はないのだからな。そして、これは私だけの問題ではない。君が私の警告を無視して彼女に会い新たな世界の創造を望めば、この『世界』が滅びることを君に銘じておきたまえ。君の家族も、友人も、愛するものすべてが水泡のように消えてなくなるのだ。君の行動には、この『世界』とここに住む全生命の命運がかかっていると自覚せよ」

「わかった。麻里子には会わないよ」と私は答えた。本当はあきらめたくはなかった。しかし、夏木医師の命、さらに言えば『世界』の命運がかかっていると言われれば、もう会うわけには行かなかった。

「この男を早く外に出せ」老人はボディーガードに指示をした。そして、彼らは無言で私のそばに近づいてきた。もう、ここを出ろ、との合図だった。

 私は追い出されるように、この場を後にした。

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