第8話

 老人のボディーガードは無言のまま、施設の玄関まで私を導いた。そして、すぐさま主のもとに帰っていった。

 私は玄関に一人取り残された。いつまでもここにいても仕方がなかった。私は外に出ることにした。

自動ドアを出ると広い車寄せがあり、空港のように車が何台も横付けできるようになっていた。建物の外に出た私は敷地の外門へ足を向けた。

 青々と茂った木々が夏の昼下がり陽気に照らされていた。しかし、日差しの強さのわりには空気がひんやりとしていた。この場所がかなり標高の高い場所であるらしかった。

先ほど私が出てきた建物は、昨晩我々が来たのとは別の出入り口のようだった。振り返って見た外観はどこかの近代美術館のような洗練された形をした白い建物だった。やや深みを増した晩夏の青空にその純白の姿が映えていた。この地下にあの異様な場所があるとは誰も想像できないに違いなかった。

 私はここで夏木医師の娘のことを思い出した。老人の言葉が確かならば、彼女も解放されているはずだった。しかし、ここに出るまでに彼女を見つけることができなかった。ここで私のことを待ってはいないだろうかと思い、私は辺りを見回してみたが、人影らしいものは見当たらなかった。

 彼女のことを心配していると、一台の黒塗りのレクサスが近づいてきて、私の目の前に止まった。

 運転席のウインドウが開き、見覚えのある顔が出てきた。顎鬚だった。

「家まで送るよ。後部座席に乗ってくれ」と彼は言った。

 彼の表情には、これまでの威圧的で人を見下したような表情はなかった。それに、こんな山奥では、バス停を探そうにも右も左もわからなかった。私は彼の車に乗ることにした。

 後部座席に乗ると、そこには、すでに女の子が乗っていた。金崎博士の死をすでに知っているのか、悲しそうにうなだれて黙っていた。

 私が乗り込むと、車は静かに動き出し、外門をくぐり、組織の施設を後にした。

 車内は重い沈黙で満たされていた。

 私は横に座っている女の子を一瞥した。彼女はその大きな瞳を涙で濡らし、指を噛みながら声を上げまいとしていた。

 私は女の子に何か声をかけようと思ったが、すぐにそれを思いとどまった。ここで何を言っても上っ面な慰めにしかならないと思ったからであった。私にとって、博士の死は初対面の研究者が突然命を奪われたという事実以上の意味はなかった。たしかに、人の死に直面したという、誰もが感じるいたたまれなさはあったが、それ以外の感傷はなかった。それは彼が私に不思議な予言をしたとしてもそれに変わりはなかった。他方、女の子の心の中には彼との無数の思い出に満たされていたに違いなかった。もちろん、それを私は窺い知ることはできなかった。知ることができない以上、彼女の悲しみを理解することは私にはできなかったし、それを理解する資格すらなかった。大切な存在を失った悲しみは、他の誰かが受け止めることはできないのだ。

 私は彼女をそっとしてあげるほかなかった。

 車は木々の茂る山を下り、麓のインターチェンジから高速道路に入った。車がスピードを上げてトラックや大型バスを追い抜いていった。車窓には、やや衰えた夏の日差しを受けた車たちの列と道路標識や防音壁などが作る無機質な風景が流れていた。

後部座席でとりわけやることのなかった私は、一人静かに目をつぶり、昨日から今までのことを思い返した。

 麻里子への思いの告白、夏木医師の予言、危険な場所への突然の旅立ち、そこからの脱出、そこでの金崎博士との出会い、老人との対峙。このすべては昨日の夜から先ほどまでに私が経験したことであるが、私にはそれが遠い昔のように思えた。そして、それを経験する前の自分と、今の自分とがうまく繋がらない感じがした。端的に言えば、私自身が変わってしまったような気がした。おそらく、老人の前で屈服しながら自らの願いを放棄して、かつての私は失われてしまったのだ。私は大切なものを求めて旅に出たにもかかわらず、自らの意思で船を降りてしまったのだ。また、その決断をした私自身も半ば損なわれてしまったのだ。

 変わり果てた私は、もう人らしい思いはもはや何も感じることはできないであろうと思った。悲しさも、喜びも、怒りも、愛おしさも。過去の私が失われてしまったことにより、私はそれらから隔絶されてしまった。しかし、それらを失った感傷に浸ることすら私には許されないように思えた。こうなってしまったのは他の誰のせいでもなく、他ならぬ私自身の責任なのだ。いわば、私は自らの半分を殺してしまったのだ。そのような私にできることは、もはや、思い出の残像を懐かしみながら、色彩を失ったこの『世界』の片隅で、ひっそりと残りの人生を過ごすことだけだった。


数時間後、気がつくと、車窓には赤い西日に照らされた高層ビルが増えてきた。どうやら車は東京に近づいて来たらしかった。

「頭はまだ痛むか?」と顎鬚が沈黙を破るように言った。

「少しね」と私は答えた。

「俺は昔から髪が無くてな。この禿げ頭のことを言われると見境が無くなっちまうんだ。悪かったな」と顎鬚は言った。

「もういいんだ。あの後、あんた以上に癖のある奴と会って、頭の痛みなんて忘れてたよ」と私は言った。

「総裁のことか。まあ、それもそうだな」と顎鬚は笑いながら言った。

 ここで、私は夏木医師の消息が気になった。

「ところで、夏木先生はどうしている?」と私は顎鬚に聞いてみた。

「彼女なら無事だ。我々の別動隊が都内の施設に軟禁していたんだが、もうすでに開放したよ。正直に言うと、あの女はいろいろとうるさくて、こっちも辟易としているよ。もうあんな面倒な女を軟禁するのは、上の命令でも金輪際、御免蒙ると言いたいところだ」と顎鬚は顔をしかめながら言った。

「いろいろとうるさいって?」と私は顎鬚に更に聞いてみた。

「万事にうるさいってことだよ。やれ、枕が硬くて眠れないだとか、こんな肉ばかりの脂っこい食事は食えないだとか、部屋の間接照明が気に入らないとか、着替えは絹の下着でなきゃだめだとか…。自分のことをお姫様か何かと勘違いしてやがる」と顎鬚は愚痴をこぼした。

「元気そうで何よりだ。安心したよ」と私は言った。

「まあ、あんたたちの件はもう終わりだ」と顎鬚は言った。そして、ため息をつきながら続けた。「まあ、この仕事が終われば、俺たちも長くはないだろうがな」

「それは、どういう意味?」と私は彼に尋ねた。

「俺たちは、一応、例の開発プロジェクトの専属ということになっていた。プロジェクトが終了ということは俺たちが用済みってことだ」と顎鬚は答えた。「そして、問題なのは、俺たちはあまりにも組織の秘密を知りすぎているってことだ。あんた、総裁に会っただろう?あいつの性格からして、そのまま無事にお役御免とならないのは分るよな。多分、俺たちも命を狙われる側になる」

「あんたらもか?」と私は言って絶句した。

「ああ、間違いない。きっと総裁は俺たちを消しにかかるさ。俺は傭兵としていくつも戦場を渡り歩いてきたが、あんな残忍な奴は見たことがない。人殺しなんて屁とも思っちゃいないさ」

「あんたら裏事師は重宝がられてるんじゃないのか?」

「いいや、俺たちの替わりなんていくらでもいる。あいつはその筋のスカウトには長けているんだ。替わりの連中は、俺たちみたいに洒落はきかねえぞ。まあ、気を付けな」

「気を付けなきゃいけないのは、あんたらもだよ」

「そうだな、そいつは違いねえ。まあ、俺は絶対に生き残る自信があるがな。アフガンでもイラクでも生き残ったんだ。なあに、今度も何とかするさ」

「多分そう言うと思った。あんたは、殺しても死ななそうだからな」

「そうよ。こう見えても、おれは不死身のヒーローさ」

 私と顎鬚は思わず声を上げて笑った。

「ところで、あんた、これからどうする?」と顎鬚は私に尋ねた。

「どうするって?もとの退屈な生活に戻るだけだよ」と私は顎鬚に答えた。

「夏木と出会う前のか?」と顎鬚は再び尋ねた。

「ああ、そうさ」と私は答えた。

 私はそうせざるを得なかった。私が何をしたというわけではないが、自分の存在のせいで死人まで出てしまった。もう自分のことで誰かを巻き込みたくはなかった。私は夏木親子や麻里子と出会う前の生活に戻らねばならなかった。退屈だが、静かな私の世界。その中でただ静かに生きる。これが私に残された責務のようにも思えた。

 しかし、なぜ顎鬚がそんなことを聞くのか少し気になった。

「でも、どうして僕のこれからの身の振り方なんて聞くんだい?」と私は顎鬚に尋ねてみた。

「あんたが明日にでも死にそうな顔してるからさ。いわゆる死相ってやつだよ」と顎鬚は答えた。

「えっ」と私は驚きの声を上げた。意外だった。

「俺はな、余りにも多くの死を見てきたせいか、なんとなく分るんだよ。あんた、今、死ぬことを考えてるな?」と顎鬚は言った。

「何を馬鹿な…」と私が言ったところで言葉に詰まった。

「頭では否定していても、あんたの本音の部分はそうなんだよ。何があったか知らねえが、死ぬのはつまらねえぜ。人間生きてこそ華だ。そうは思わねえか?それでも死にてえと思うなら、死ぬ前に一つ派手なことをやっちまいなよ。あんたも何かあるんだろう?そう言うの」と顎鬚は言った。

 私もできることならそうしたかった。なりふり構わず麻里子のもとへ飛んでいきたかった。そして、甘い抱擁に溺れてしまいたかった。しかし、そんなことは私には無理だった。麻里子の世界に旅立つことは、代償としてこの『世界』を失ってしまうことを意味していた。私にはまだ失ってはならないように思えた。私はまだ、そのような取引に応じることはできなかった。

「ご忠告だけは、ありがたく受け取っておくよ」と私は顎鬚に答えた。このように答えるのが私には精一杯だった。

「そうか、まあ、あんたらしい答えだな」と顎鬚は言った。

車窓には、夕日を照らして赤く輝くビルがひしめきあっていた。間もなく、車は高速道路を降り都会の街並みへと潜って行った。

やがて、車は夕闇の迫る新宿駅の近くに止まった。一日離れていただけにもかかわらず、都会のガード下の轟音と雑踏の音がひどく懐かしく思えた。

「着いたぞ」と顎鬚は到着を告げた。

 私は女の子を一時的に引き受けなければと思った。

「ここで降りようか?」と私は女の子に声を掛けた。

「…」

 女の子は、かぶりを左右に振り、私と共に降りることを拒絶した。今はそのような気分ではないということだった。

「安心しろ。娘は母親が待つホテルまで責任をもって送る。こう見えても俺は職務に忠実だからな」と顎鬚は言った。

 私は顎鬚の言葉を信用してもいいと思った。彼は自らの仕事にプライドを持っていたからだ。

「わかった。彼女のことは任せた」と私は言った。

「もう、あんたと会うことはないと思うが、元気でな」と顎鬚は私に別れを告げた。

「ああ、あんたもな」と私は短く応じて車を降りた。そして、私はテールランプの波に飲まれていく車を見送った。


 私は家に帰る気がしなかったので、少し街を歩くことにした。

 夜が始まろうとするとする街の喧騒の中で、行き交う人たちがそれぞれの理由でそれぞれのなすべきことをしていた。家路を急ぐ人々、宴を前にして仲間と談笑しながら意気揚々と歩く人々、神妙な顔持ちで電話と話す人々。これらの見慣れた風景が私にはどこか遠い国のそれのように思えた。まるで、自分が透明になってこの世界から浮遊し、空中からそれらを俯瞰しているような気分がした。私もこの世界に属していることがまるで嘘のように思えた。

 人並みを避けながら、私はしばらく通りを彷徨った。そして、老人が「世界」について言っていたことを思い返した。

なぜ、彼はこの争いと矛盾に満ちた「世界」を創造する必要があったのだろうか?そして、なぜ、この「世界」に住む矮小な存在にすぎない私を消そうとしてまでこの無様な成り立ちの「世界」を守ろうとするのか?彼の言っていたことには「なぜ?」が見事に欠落していた。

私は自分なりにその理由を推測してみた。

もしかすると、醜い「世界」を意図して作っているのではなく、それしか作れないというのが真実なのではないか、と思った。すなわち、それが彼の力の限界なのであった。そして、本心では、彼はこの自分の理想とは似ても似つかない作品とそのようなものしか作り出せない自分自身を忌み嫌っているのかもしれなかった。また、この「世界」を拒絶することはそのような彼に対する許しがたい冒涜にあたるのかもしれなかった。それが、私のような「危険な不適合者」の存在を容認できない理由なのかもしれないと思った。

しかし、私は彼に許してもらおうとは思わなかった。創造主の作った「世界」の取るに足らない住人に過ぎない私にも、どのようなかたちであれ、そこに存在する正当な権利があり、創造主にもそれを認める義務があるように思えたからだ。何人も、「ある」ものを「ない」ということは何人もできないのだ。私が創造主なら少なくともそうはしない、私はそう思った。

ん、私が創造主?

そのようなこと考えながら歩いているうちに、私は見覚えのある一角にたどり着いていた。そこに一軒のバーが看板を掲げていた。バー「メイデン・ボイジ」。以前、ガールフレンドと来たことのある店だった。宵の口にまだ残る暑さに喉が渇いていた私はここで一休みすることにした。

店内はこの前と変わらないアンティーク物の調度品に囲まれた落ち着いた雰囲気だった。まだ、時間が早いせいか、客はまだ誰も居なかった。

「いらっしゃいませ」と礼儀正しいマスターが入ってきた私を出迎えた。

「ビールをくれる?それと何か簡単に食べられるものを」と私はカウンターに腰かけながら注文した。

マスターは早速よく冷えたグラスにビールを注いで私のもとに差し出した。私はその泡の整ったビールを一気に喉に流し込んだ。

「今日も暑かったですね、夏ももう終わりだというのに」とマスターは言った。

「そうだね」と私は短く答えた。そして、ウィスキーのロックを頼んだ。

 マスターは慣れた手つきで氷を割り、すぐにウィスキー注いで私の前に差し出した。私はそれをまた喉の奥に押し込んだ。胃に流れたアルコールがじわりと血管に染み出し、私の体内を巡った。そして酔いが私のこわばった意識を少しずつ溶かしていった。

「何かお好きな音楽でも流しましょうか?」とマスターは言った。

「ジャズじゃなくても構わない?」と私は尋ねた。

「ええ、何でもどうぞ」とマスターは答えた。

私は最初に心に浮かんだ曲を頼んだ。間もなく、フィリー・ソウルの甘いオーケストレーションの音が部屋を満たした。ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの『I MISS YOU』という曲だった。寄せては返す夏の終わりのさざ波を表現したようなドラマチックな曲の展開に、リード・ボーカルのテディ・ペンダーグラスの野太く深みのある声が畳みかけた。

 曲は、天の啓示のような素晴らしい響きであるにもかかわらず、歌詞は実に他愛もなかった。女に捨てられた男が酒をあおりながら、ただ、悲しいと泣き言を言うという内容だった。

それにしても、悲しいとはどういう感情なのだろうか、と思った。私は、今、悲しんでいるのだろうか?それすら分らなかった。私の心はすでに石のように硬くなり、涙は枯れ果ててしまったかのように思えた。

 音楽を聴きながら、また一杯、また一杯、と私は杯を重ねていった。私は、酒は嫌いではない。しかし、これほどまでに飲むのは初めてだった。私は夢とも現ともつかないところで漂いながら、この夏のことを思い返していた。そして、私の回想は自然に麻里子とのことへたどり着いた。


 それは、麻里子とともに過ごしたある夜のことだった。

 私たちはいつもの濃厚な愛の儀式の後、抱き合いながらその余韻を楽しんでいた。私たちはベッドで横になり、お互いの顔を見つめながら、まだ消えぬ胸の切なさを感じていた。

私が少し上体を起こして彼女の胸元から乳のあたりを優しく撫でようとしたとき、彼女の首元に光るものを見つけた。それは彼女が着けていた銀色のネックレスだった。それは細密な鎖の中央に、大小二つの可憐なハートを吊り下げていた。ハートの一方は甘く鈍い金属の反射光を放ち、もう一方は細い縁だけのハートであった。それは彼女の優美な胸元を高貴に飾っていた。

「麻里子。これは?」と私は彼女のネックレスについて聞いてみた。

「これは私が大切にしてきたものよ。今日は特別に着けてみたの。似合う?」

「ああ、とても。でも、どうして今日はそれを?」

「私、今日、あなたがここに来る前に嫌なことを考えてしまったの」

「嫌なことって?」

「あなたが私の前から居なくなってしまうことよ」

 彼女への親密な思いが日ごとに増していた私にとって、それは少し心外だった。この時の私には彼女のもとを去ることなど全く想像もしていなかった。

「僕は君から離れられなくなってしまった。君の前なら僕が居なくなるなんて、今は考えられないよ」と私は彼女に言った。

 彼女はおもむろに体を起こし、身に着けていたネックレスを外した。そして、私の首元にそれを付けた。

「これは君の大切なものだろ?」と私は言った。

「いいの」と彼女は答えた。そして、私の体を優しく抱きしめた。

「おまじないよ」

「おまじないって?」

「万が一、あなたがどこかに行ってしまっても、また私のことを思い出して必ず戻ってくるようによ。もう嫌なの、ひとりになるのは。もうどこにも行かないで」

 彼女はいっそう強く私の柔らかな体を抱いた。そのとき私は彼女が臆病な子猫のように愛おしく思えた。

 私たちはその夜、お互いのぬくもりをいつまでも感じていた。


彼女の予感は正しかった。私は彼女の思いを受け止めきれずに、それを拒絶してしまった。その結果、彼女を失ってしまった。そして、彼女を取り戻す旅も止めて、孤独の荒野に一人戻ってきたのだった。しかし、こうなるのは必然だと思った。それでよかったのだ。ここが私にとって終着の場所だったのだ。もはや、なすべきことをすべてなし、見るべきものはすべて見た。もうどこにも行かない。これは私の意思なのだ。あと何十年生きるかわからないが、ここでこのまま死んでゆくのが私にはふさわしいと思った。

 気が付けば、目の前のグラスが滲んで見える。間接照明の光がシャンデリアのそれのように散乱している。知らず知らずのうちに、瞳から涙があふれてきたようだった。

涙の理由は自分でもわからなかった。この夏の出来事はすでに過去のものに過ぎないはずだった。私にとって今ある現実がすべてであるはずだった。過去への感傷とは無縁であるべきだった。私は決して泣くべきではなかった。泣いてはならなかった。なのに、涙が止まらなかった。本当のことを言えば、もう一度、麻里子と結ばれたかった。少し変わったかたちではあったが、私たちのこれ以上ない関係であった。彼女は私であり、私は彼女であるのだ。我々はずっと一体でいるべきだったのかもしれない。しかし、私は決めたのだ。彼女にはもう会わない。老人が言ったように、我々が会えば新たな世界を創造し、そのことによって、この「世界」が朝露のように消えてなくなるかもしれない。だが、住み慣れたこの『世界』が無くなるのは私が望むところではなかった。だから、私は私の流儀でこの「世界」に属するものたちのささやかな暮らしを守らなければならなかった。それが、この私に課せられた運命なのだった。

私はここ数ヶ月の不思議な出来事のすべてを忘れ去るために、さらに酒を飲んだ。次第に酔いが深くなり、霧が濃くなるように意識が混濁としてきた。

 私は静かな眠りに落ちていった。


 私はいつもの少女が現れる夢を見た。

しかし、今回見た夢は普段とまるで違うものだった。何かを象徴するような具体的な物語らしきものが感じられたし、感覚の明晰さはこれまでと一線を画すものだった。正確には、これは夏木医師が見せてくれた「夢」と同種の仮想現実といったほうが適切かもしれない。

 私は時間をさかのぼり、アニメのTシャツと半ズボン姿の七歳の男の子に戻っていた。そして、ある洋室のベッドの上に寝転がって飛行機の図鑑を読んでいた。そこは見覚えのある部屋だった。そう、そこは麻里子の部屋だった。私と麻里子が情事を重ねていたあの部屋だった。

 そこへ白いワンピースを着た一人の美しい少女がテディ―ベアのぬいぐるみを抱えて入ってきた。彼女は存在しないはずの私の双子の妹だった。このとき私はなぜかそれが分っていた。妹は、私に一緒にままごとをしよう、と誘ってきた。しかし、私は図鑑を見るのに夢中だったので、後で、とぞんざいに答えた。

 私に相手にされず、退屈した妹は、暇に任せて部屋のチェストや机などの引き出しの中を探り始めた。そして、鏡台の引き出しの中に化粧道具を見つけた。

 化粧道具を見つけた妹は、母親の見様見真似で顔に化粧をし始めた。そして、「お兄ちゃん、きれいになったでしょ」と私の前で気を引こうとした。

 私はうるさい、と言うつもりで彼女の顔を見て驚いた。しかしそこで、私は彼女の顔にそれまでに見たことのない輝きを見てしまったのだった。たしかに、化粧の仕方は稚拙だった。ファンデーションは塗りムラがあり、ルージュも唇から大分はみ出ていた。しかし、それでも十分に輝いていた。

 そのとき、私は衝動にかられた。子供だった私の心の中にはそれに抗うものはなかった。ごく自然なかたちで「僕もきれいになりたい」と妹にねだった。妹はにっこりとした表情で頷き、私を鏡台へと誘い、私の顔にファンデーションを塗り、ルージュで唇を赤く染めた。

 鏡の前の私は妹と同じ輝きを放っていた。私たちは自分たちが光の世界からやってきた天使のようになったと喜んだ。そして、生まれたままの姿になってベッドの上で抱き合い、お互いの温かさとつるりとした肌の感触を感じた。私たちはお互いの存在を慈しみ、無上の満ち足りた一時を過ごした。

 しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。

穏やかな静寂を切り裂くように、私の父親が部屋に入ってきたのだった。

そして、「お前は何をやっている?男のくせに!恥を知れ!」と憤慨して私を自らの前に直立させ、私の左側の頬に大きな平手の鉄槌を打ちおろした。私は、数メートルも突き飛ばされるような衝撃を受けて、その場に倒れ込んだ。

 父親はさらに、「お前は誰だ!うちの息子から離れろ」と言いながら、泣き叫ぶ裸の妹の手を引いて部屋から連れ出した。

 私は勢いよく閉じられたドアを開けて妹を追いかけようとした。しかし、ドアが開かなかった。どんなに押そうが、どんなに引こうがドアは私の力ではびくともしなかった。ただ遠ざかる妹の泣く声だけが聞こえていた。私はドアを全力で叩きながら言葉にならない叫びをあげた。しかし、妹の声はさらに遠ざかり、ついに聞こえなくなってしまった。

 その一方で私の体に変化が起きた。体がむくむく大きくなり、身長二メートルぐらいの巨躯になった。そして、私の体のいたるところに毛が生え体中を覆った。私の皮膚の角質は硬くなり、ブツブツとした突起物だらけになった。また、口元からは鋭い牙が露出し、額には鋭く硬い二本の牛のような角が生えた。私は醜い野獣へと変身したのだった。

野獣となった私は言葉を発することができなくなっていた。ただ、暗転した部屋の中でいつまでも地鳴りのように咆哮していた。


 私は目が覚めた。

体のいたるところを手で触った。ふさふさとした長い体毛はなかった。いつものがさついた肌触りだった。私はようやく先ほどまで見ていたものが夢であったと理解した。

「よかった、目が覚めたんですね」とマスターが声を掛けてきた。「何度も起こしたんですが、全然起きなくて、一時は救急車を呼ぼうかと思いましたよ」

「すみません。いつの間にか寝てしまって」と私は言った。

店内の大きな壁かけ時計を見ると、三時四十五分を指していた。前に見たときは、まだ十時を回っていなかった。随分長く眠っていたらしい。

「あの、すみません。そろそろ閉店時間でして…」とマスターは申し訳なさそうに言った。

 私は勘定を済ませて、すぐに店を出た。


 その後、どうやって家まで帰ったか全く記憶がない。私は相当に酔っていたらしい。次に意識が戻ったのは自宅のベッドの上だった。

 時間は朝の十時をすでに回っていた。

私はベッドから身を起こそうとしたが、体がさび付いたように動かなかった。また、天井がぐるぐると回転し、胃が鉛で満たされたかのような不快感に覆われていた。つまり、ひどい二日酔いだった。

しばらく、ベッドで苦しんでいると、胃から酸っぱい感覚が突き上げてきた。これはいけない、と私は思った。私は急いでトイレまで這って、便器を抱えるようにへたり込んだ。そして、私は嘔吐した。胃から食道にかけて不快な感覚が支配した。反吐が更なる反吐を呼ぶかのように、私は朦朧とした意識の中で何度も吐いた。私はすべての水分を排出して、このまま干からびて死んでゆくのではないかとさえ思った。それも悪くない。麻里子を失った残りカスのような私には、そのような死に方がふさわしいのかもしれないと思った。

しかし、私の肉体はそうは思っていないようだった。ひとしきり吐いてしまうと、私の体は落ち着きを取り戻した。私はふらつきながら再びベッドで横になった。

仰向けになり、天井を見上げるとぐるぐると回っているような感じがした。酔いはまだ抜け切れていなかった。これほどまでにひどい二日酔いは、これまでにほとんど経験したことがなかった。私は酒の嗜み方を心得ていると自認しているつもりだったが、実際はそうではないことを痛感した。

私は覚醒とまどろみの狭間で昨夜の夢のことについて考えた。

夢の中で私はたしかに麻里子の部屋にいた。私が認識した限りでは、部屋の細かいディテールや雰囲気は全く同じだった。麻里子はそこに居なかったが、もしかすると、夏木医師の手助けなしにあの場所にたどり着いたということにはならないだろうか、と私は考えた。

そして、あの少女は誰なのだろうか、と思った。私には十歳も歳の離れた弟は一人いるが、双子の妹などいないはずだった。しかし、夢の中では彼女が双子の妹であると事実を自然に受け止めていた。また、彼女は自分にとってかけがえのない存在であり、また、失ってはならないものであると思っていた。

結局、彼女は私の意識が作り出した虚構であると言えばそれまでなのだが、父親が私に平手打ちをしたことだけは現実に起きた事実だった。それがいつ、どこでだったかは思い出せなかったが、私が母親の化粧品でメイクのまねごとをしたときに父親から叩かれ、ひどく叱られたときのことははっきりと記憶していた。そのときの父親の凄まじい怒気を忘れることができなかった。しかし、夢の中で父親が妹を連れ出したことと、その後私が醜い野獣に変身したことは何を意味していたのかは分からなかった。

そのようなことを考えているうちに私の意識はまた深い眠りに落ちた。

次に目を覚ましたのは、午後四時過ぎだった。このときには気分がずいぶん良くなっており、吐き気はすっかり無くなっていた。胃腸の中のあらゆるものを吐き出したせいか、ひどく腹が減っている。

私はベッドから起き上がり、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中には、ペットボトルのお茶、缶ビール、先週コンビニで買ってきた賞味期限切れのサラダ、それとプロセスチーズぐらいしかなかった。何か食べるものを買わなければならなかった。

私は二日ぶりにシャワーを浴び、買い物をするために外に出た。

私が住む部屋のある路地を数十メートル歩くと、商店街に出ることができた。商店街の狭い通りは夕飯の買い出しをする人たちで少し賑わい始めていた。魚屋では鉢巻をした店主がサンマを販売用にさばいていた。焼鳥屋の前では煙が立ち込め、常連客の老人たちが店頭で酒盛りをしていた。

 この商店街のありふれた風景だった。私はこの街にやってきて以来、何度もこのような風景を見ていた。この日も特段変わったことはなかった。

私はいつもの風景を横目に、商店街の端にあるスーパーに向かって歩いていた。商店街の通りは、いくつかの裏路地が交差していた。

私がそのうちの一本の裏路地にさしかかったときだった。突然、何かが私の意識に引っかかった。

 私はその場に立ち止って奥の目を向けた。この場所にずいぶん長く暮らしていたが、こうして関心をもって見るのは初めてだった。

 裏路地は半分朽ち果てたような建物に両側に分けるように通っていた。道幅が3メートル程度はあるのだが、実際には、けばけばしい色の看板や古いエアコンの室外機、それに路上駐車のバイクのせいでかなり狭くなっていた。そのような狭い場所にうらびれたスナックや雀荘などが窮屈そうに軒を並べていた。私にはこの猥雑な横丁が、この「世界」の最奥部のように思えた。これ以上の混沌は探すのが難しそうだった。

 私はその裏路地のさらに奥の方に目をやった。すると青く葉が茂ったところがあるのに気づいた。街の中に林があるように見えたが、それは違っていた。それは建物だった。植物の茂みに囲まれた建物だった。私は店頭に置かれた小さな看板に目を凝らした。「アンティーク」という文字が見えた。

そのとき、どこからか風が吹いた。

「私はここよ。早く来て」

誰かの声がしたような気がした。そして、その声は茂みの中のアンティークショップに私を誘っているように思えた。

 その声に抵抗する理由はなかった。私は裏路地の方へ足を向け、奥の方へ進んだ。そして、その店の前に立った。

 店の入口は遠目で見た通り緑に覆われていた。実際には壁面を蔦が這うように覆い、店頭で生い茂った鉢植えが蔦と一体化したように見えていた。古ぼけた店頭看板には赤字に白文字で「アンティーク・骨董 かんだ」と銘打ってあった。ショーウインドウらしきものも見えるが、茂みに覆われて商品がよく見えなくなっていた。入るのに少し勇気がいったが、私は意を決して店に入ってみることにした。

「ごめんください」と私はがたついた扉を押し空けながら言った。

 店の棚には、陶器や置物などが所狭しと並んでいた。また、古いランプが数多く置かれ、薄暗い店内をほの明るく照らしていた。壁には年代ものの時計がいくつも置かれ、それぞれ違う時刻を指し、またそれぞれが別個に歯車のかみ合う音を鳴らしていた。ここに長くいたら時間の感覚が狂ってしまいそうだった。

 店の中央にはカウンターが置かれ、その奥でニットキャップを被った小柄な店主が、メガネを鼻にかけて、時計の音を気にもとめずに本を読んでいた。

「いらっしゃい」と店主は本を脇に置き、柔和な声で客を出迎えた。

 私は七福神の布袋様のような店主の顔に見覚えがあった。この前のガールフレンドとのデートの帰りに乗った、不思議なタクシーの運転手だった。

「この前のタクシーの運転手さんですよね?」と私は彼に尋ねた。

「ああ、この前の夜のお客さんでしたか。ずいぶんお疲れのようでしたので、私も覚えております」と店主は答えた。「ここは、元々、私の飲み仲間がやってた店なんですけどね、そいつが体を壊したので店を辞めるって言いだしたので、私が店を引き継ぐことにしたんですよ。つい一ヶ月前のことです。いつかはこんな店をやりたいってのが私の夢だったんですよ。タクシーはまだ乗ってますが、今は、まあ、趣味程度ですよ」

「私はこの辺に住んでいるのですが、今日、通りがかりになんとなく気になって。少し品物を見させてもらってよろしいでしょうか?」と私は店主に言った。

「ええ、どうぞごゆっくり。私の仲間ながら、なかなかいいものを揃えていると思いますよ」と店主は言った。

 私は狭い店内の品物をつぶさに見た。店の品揃えは洋風のものが多く、華麗な草花の文様が入った陶器や微細な装飾加工が施された銀の食器、彫刻のような飾りのある家具などが置かれていた。私はその品揃えの豊富さに感心しながら棚の上に目を泳がせた。きっと、このコレクションを構築するために、前の店主は自らの人生の大半を費やしたのだろうと思った。

また、隣の棚には、大きな目をした数多くの女の子の人形たちが自らの衣装を自慢するように行儀よく座っていた。人形たちはあらゆる色彩で自らの存在を訴求しているかのようだった。ある者の目は青く、ある者の目は緑だった。また、ある者の服は華やかな春の植物をあしらったものであり、ある者の服は赤紫のベルベットであった。

さらに奥の方では、ぬいぐるみたちもその身を佇ませていた。猫や兎のぬいぐるみも置かれていたが、前の店主の好みなのか、彼らのほとんどは犬であった。彼らのひたむきな瞳を見ながら、私は彼らのかつての持ち主のことに思いを巡らせた。それは育ちのよい少女であったかもしれなかった。彼女たちはベッドの中で彼たちとともに、寝物語や子守歌を聴きながら毎夜夢の世界に旅立っていたのだろうと思った。

 そして、私の視線は一体の熊のぬいぐるみの前で止まった。熊のぬいぐるみはこの店内ではこの一体だけだった。それは古びたテディーベアだった。人の赤ん坊ほど大きさで、手足がずんぐりと大きかった。その小さくつぶらな瞳は、自らの存在を見る者に訴えかけるように輝いて見えた。

 私は、このぬいぐるみを見たことがあるような気がした。それに偶然似ているものを見ているということではなかった。どういう経緯でここにたどり着いたのかは分らないが、とにかく、このぬいぐるみは以前どこか別の馴染のある場所にあったもののように思えた。

 私は心の中に引っかかるものを感じた。

 私がこれを見たのはどこだったのだろうか?―私はこの疑問を無視してはならないと思った。私の意識は純粋な視点のみの存在となり、私の記憶の河を遡っていった。

そして、すぐにある記憶にたどり着いた。


そこには私の妹がいた。私が到達したのは昨晩の夢の始まりのところだった。

部屋に美しい妹が入ってきた。彼女は大きな熊のぬいぐるみを抱えていた。それは全体の大きさと手足の感じから、この店のテディ―ベアであるように思えた。

しかし、これが彼女のものだとしても彼女自身は私の心の中の存在でしかなく、現実に存在するこのテディ―ベアと繋がるはずはない。

そのとき、私の記憶が私自身に訴えかけてきた。私は他の場面でもこれを見たことがあるはずだ、と。

私の意識はさらに別の記憶へと向かった。

次にたどり着いたのは、私と麻里子が出会った部屋であった。

そこにはお互いを愛おしく見つめる私と麻里子がいた。麻里子は自らのネックレスを外し、女性化した私の首につけようとしていた。そして、室内のチェストの上に一体のぬいぐるみが置かれていた。

私の意識の焦点はそれを見逃さなかった。

このぬいぐるみはさきほどの少女のものと同じであり、また、現にこのアンティークショップにあるテディ―ベアそのものに違いなかった。

しかし、私の心の中の存在でしかなかないのは、彼女についても同じである。やはり、現実に存在するこのぬいぐるみとどうしても繋がらない。

私の意識がその場に立ち止まるように考えていると、私の記憶は更に大きな声で私に叫んだ。そこで立ち止まるな、私の深淵を探れ、と。今しがた感じた例えようのない懐かしさと温もりから何かを思い出すのだ、と。

その声に従うように、私の意識は記憶のもっと深い領域へと潜り込んだ。

そして、漆黒の闇の中にあるいわば、記憶の地底にたどり着くと同時に、私はついに思い出した。麻里子のぬいぐるみ、すなわち少女が手にしていたそれは決して私の意識が作り出した虚構などではなかった。ぬいぐるみは現実にかつて私が手にしたことがあるものであり、私と麻里子が過ごしたあの部屋は実際に私が居たことのある場所であった。

だとすると、なぜ、私の内なる存在の彼女らがそこに?

そのとき、そこから地上に向けて一筋の閃光が走った。閃光はみるみる間に太く強くなり、やがて、私の心の天地をあまねく照らした。

 溢れんばかりの輝き。私の中ですべてが繋がった。

そうだ。存在しないはずの私の妹は麻里子だったのだ。そして、麻里子は幼い日に失った私自身だったのだ!

それは、私にとって当然の事実だった。むしろ、当然すぎる事実だった。なぜ、もっと早く気付かなかったのだろうか?

そんなことも分らずに、私はあの場所で再び麻里子を失ってしまったのだった。そして、麻里子を自らの意思で取り戻すことを放棄しようとしているのだった。でも、それは間違っている。絶対に間違っている。彼女は失われてはならないのだ。我々は離れていてはならないのだ。

 ここで、私の意思は固まった。必ず麻里子のもとに戻らなければならない。どんな犠牲を払ってでもそれは遂行されなければならない。老人の言うように「世界」が消滅することになってもそれは致し方ない。私にとって麻里子と共にあることだけが真実なのだ。

 私は興奮で大きな声を挙げたい気持ちになった。

 私は、棚から麻里子のテディ―ベアをつかみ取り、店主の前で叩き付けるように代金を差し出した。「これを下さい!」

「はい…。ありがとうございます」と店主は驚きでその場に静止して、きょとんと目を見開きながら代金を受け取った。

 私は店を出ると衝動に駆られたように走り出した。

 私は行かなければならなかった。そして、私の犯した間違いを正さなければならなかった。

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