第12話

あの夜から三年が過ぎた。

私はリビングの姿見の前に立ち、いつもと同じようにメイクの仕上がりを確認していた。

アイラインの引きかたも上手くなった。リップグロスも上手く塗れている。メイクが上手くいくと気分がいい。

私は鏡に向かってほほ笑んでみた。ショートカットのヘアスタイルもなかなか似合っている。今日も悪くない。

時計は朝の十時十五分を指していた。もう出かける時間だった。私はスーツの黒いジャケットの上に薄いピンクのコートを羽織り、おろしたてのミュールを履いた。今日は襟の大きなブラウスに黒のロングパンツのスーツという格好だ。

私は玄関の扉を開けて家の外に出た。雲一つない青空から降り注ぐうららかな春の陽光が眩しかった。

「あら、桐谷さん。お出かけですか?」と隣の奥さんが掃き掃除の手を止めて私に話しかけてきた。

「あら、こんにちは。今日はちょっとお仕事で」と私は答えた。

「それにしてもいいお天気ね」と奥さんは言った。

「ええ、本当に」と私は言った。

「ねえ、桐谷さん、ところで、明後日だけど、高橋さんや伊藤さん達と一緒にお芝居を見に行こうと思ってるの。せっかくだから、あなたもご一緒にと思うけど、どうかしら?」

「ごめんなさい。明後日はちょっと忙しくて…。」

「あら、そうなの。それは残念ね。いいわ、また今度お誘いするわ」

 私は奥さんとの立ち話が済むと、駅の方へ歩き出した。するとすぐに、私のスマートフォンが鳴った。

 電話は私が勤めていた会社の後輩の水沢からだった。私が転職活動中の彼を偶然見つけ、個人事務所のマネージャーにと誘ったのだ。今は彼を名目上の社長ということにしている。

「先生、おはようございます」と彼は言った。

「おはよう、水沢君」と私は歩きながら彼の挨拶に答えた。

「先生、今日のスケジュールは大丈夫でしょうか?」と彼は言った。

「十一時までに荏子田タウンホールに、でしょ?覚えているわよ。私はこれでも物覚えがいいほうよ」と私は言った。

「すみません。今日は大事な講演なんで、念のためにと思って。十一時過ぎから簡単なリハーサルをします。その後、お昼休みを挟んで、講演は一時からになります」と彼は業務連絡を続けた。

「はいはい、わかりました。本日のスケジュールの件、了解いたしました」と私は少しふざけた口調で答えた。

「それじゃ、十一時ですよ。遅れないでくださいね」と彼は念を押した。

「大丈夫よ。今、駅に向かってるところだから。それじゃ、現地でね」と私は答えて電話を切った。

 私は歩みのペースを上げた。内心、出発が少し遅くなったことを後悔した。


 私は麻里子と一つになったあの夜の後、すぐに会社を辞め、麻里子の代わりに彼女が生きるべき人生を生きてみることにした。それが彼女と共にあるということだと思ったからだ。私はできるだけ記憶の中の彼女の姿に近づくために、化粧の仕方を覚え、また、女性用の服を着て暮らすようになった。最初は彼女に似ても似つかぬ姿であったが、近頃はようやく板についてきた。私は今の自分の姿がそれなりに綺麗だと思えるようになった。

そして、あの夏の出来事をもとに一編の小説を書いた。最初は個人的な趣味の作品としてブログに細々と載せていたが、すぐに反響が広がり、その物語は大きな出版社から本として世に出ることになった。本は数十万部のベストセラーとなり、ある文学賞で新人賞にも選ばれた。

 文学賞を受賞してからは、私の生活は一変した。様々な雑誌のコラムや連載小説のオファーが舞い込み、今や「売れっ子」と呼ばれる身となった。私は自らがイメージしたものを次々とかたちにしてゆく日々にそれなりの喜びと興奮を覚えていた。

 しかし、新たな暮らしの中で気がかりなことが残っていた。それは、一つになったはずの麻里子のことと夏木親子のことである。

 私はあの山荘で迎えた朝以来、私の前に現れることはなかった。共に生きることを誓ったにもかかわらず、私は麻里子の存在を身近に感じることが出来なくなってしまったのだ。私の心はぽかりと大きな穴が空いたようになっていた。

 私はまた、このことについて相談すべき相手も失っていた。

 あの山荘から帰った後、私はすぐに東京に戻り夏木医師の娘に電話をしてみた。しかし、「この番号は現在使われておりません」と無機質なアナウンスが聞こえるだけであった。夏木医師の田舎の別荘にも連絡してみたが、状況は同じだった。その後も何度か連絡を取ろうとしてみたが、消息は分からないままだった。


「先生、こっちですよ」と水沢が講演会場の前で大きく手を振っているのが見えた。

「ごめん、待たせちゃって」と私は彼の方へ小走りで向かった。

私たちは、ホールの職員に出迎えられて、正面玄関から舞台袖の楽屋に通された。楽屋の中は広々としており、十人くらいの役者がメイクや休憩に使うのに十分な程だった。私と水沢は楽屋の中央に置かれた長テーブルのパイプ椅子に座った。

「じゃあ、早速ですが、直前のリハーサルってことで、これから当日の流れを再確認させてください」と水沢は言った。

「いいわよ、そんなの。中学生の英文スピーチ大会じゃあるまいし」と私は彼の申し出を断った。

「えっ、でも人前で講演するの、先生初めてって言ってたじゃないですか。しかも、こんな立派なホールで」

「それはそうだけど、別にどうということはないわよ。私、男だった頃、人前でよくしゃべってたし。それに、聴衆が十人だろうが、千人だろうがやることは同じでしょ?」

「本当にいいんですか?リハなしで」

「ええ、なしで構わないわ。それよりもお昼はまだかしら。ステーキ弁当とかだったら、すごくテンション上がるんだけど?」

「それは、主催団体の日本性多様性研究会の理事長への挨拶が済んでからですよ」

「え~、つまんない」

「『つまんない』じゃありません。駄目ですよ、そんなこと言ったら。人と会うのも作家の大事なお仕事です。家の中でウンウン唸りながら書いてるだけじゃ、今のご時世通用しないんだから」

「はいはい、代表取締役殿。仰せのとおりにいたします」

 私たちは、丁重に主催団体の代表や幹部に挨拶を済ませて、楽屋で早めの昼食を取った。そして、その後は講演が始まるまでそれぞれの自由時間ということにした。とはいえ、水沢には休む間がないようだった。これから始まる講演会の調整はすべて彼に任せており、彼は現場スタッフとの最後の詰めに余念がなかったからだった。私は口には出さないものの、この有能な若きマネージャー密かに感謝していた。

私が彼の働きぶりに感心していると、彼が私に話しかけてきた。「先生、ちょっとすみません。ワイヤレスマイクの電池が切れているみたいなんで、ちょっと近くのコンビニに買いに行ってきます」

「そんなこと、ここのホールの人にやってもらったら?」と私は言った。

「ちょっと係の人が手一杯なようでして。僕がひとっ走りしてきます」と彼は言った。

「あなたって、本当にお人好しね。いいわ。行ってらっしゃい」と私は彼に言った。

 彼は私が言い終わるや否や、ホールの外に向かって駈けて行った。

 楽屋に一人残された私は、講演原稿の最終チェックをすることにした。私は黒革のハンドバックからA4のコピー用紙に打ち出した原稿を取り出した。原稿には色ペンの書き込みがいたるところに散りばめられていた。これらは講演中の私が頼るべき道標になるものであった。私はこれまで何度も原稿を読み直して書き込みを残してきたのであった。先ほどは水沢に対して何も考えていないふりをしていたが、内心はそうでは無かった。本当は逃げ出したい程緊張していたのだった。私は思うところがあって、麻里子になり変わって生きていた。そして、このような私のあり方に理解を示す人々が私に好意の眼差しを向けてくれた。しかし、この新たな世界が私のことを真に受け入れてくれているのかについては自信が持てずにいた。

私は原稿の上で視線を泳がせてみた。しかし、どことなく上の空で、読むことに集中することが出来なかった。私は気分を変えるため、改めて部屋の中を見回した。入口の開け放たれたドア付近には、私の講演を祝う大小様々な楽屋花がところ狭しと並べられていた。私はその色とりどりの祝い花のほうに近づいてみた。花の大半は連載で付き合いのある出版社からのものだった。中には個人的にお世話になった方々の花もあった。福岡の平尾弁護士や、沢木部長からのものもあった。祝福の花を送ってくれたのは、皆、私の大切な人たちばかりであった。

 その中にひとつ見覚えがある名前を見つけた。夏木美香子―あの夏に出会った夏木医師のフルネームだった。

私の目はその名前が書かれたネームプレートに釘付けになった。

「気に入ってくれたかしら?」と背後の誰かが私に話しかけてきた。そこにいたのは夏木医師だった。彼女は三年前の夏と同じように、黒のワンピース着てそこに静かに立っていた。

「夏木先生!」と私は驚きの声を上げた。

「ふふ、お元気そうね。今は桐谷麻里子先生とお呼びした方がいいのかしら?」と彼女は言った。

「すみません、こんな格好で」と私は顔を赤らめながら彼女に言った。

「ううん。よく似合ってるわ。それに、すごく可愛らしいわよ。あなた、意外と素質があったのね」と彼女は言った。

「今まで、ご無沙汰してすみません」と私は長らく彼女に会えなかったことを詫びた。

「謝るのはこっちのほうよ」と夏木医師は言った。「いろいろと面倒なことがあって、しばらく娘を連れて日本を離れていたのよ。昨日、一時帰国したばかりなの。せっかくだから、少し外で話さない?」

 講演まではまだいくらか時間があった。私はしばらく外出して彼女と話をすることにした。私たちはホールの外に出て、すぐ隣の広場に出た。日曜日ということもあり、子供たちがサッカーや鬼ごっこをして遊んでいた。私たちは広場の周辺を彩る桜並木を二人でゆっくりと歩いた。外は春の暖かな陽気に包まれていた。コートを着ていると少し汗ばむ程だった。

「ねえ、見て。桜の蕾がもうこんなに膨らんでいる。もうじき開花ね」と夏木医師は言った。

「あら、まあ。ここ数日の陽気ですっかり大きくなったみたい」と私は言った。

「いつ見てもいいわね。桜って。いつも新たな命の芽吹きを感じさせてくれるわ」

「ええ、本当に」

「ところで」と夏木医師は話を切り出した。「ニュースか何かで知っているかしら?」

 私は彼女が言いたいことが分かった。それは老人と彼の組織のことについてであった。

 私が麻里子と共に過ごしたあの夜のすぐ後のことだった。捜査当局が老人とその側近たちの逮捕に乗り出したのであった。容疑は組織の専務理事であった金崎博士と『夢見の技術』の被験者七十八人の殺害および死体遺棄だった。東京とその周辺に点在する組織の研究拠点に警官隊が一斉に踏み込んだ。私と夏木医師の娘が囚われていた組織の本部では、警視庁のSAT隊と組織の警備隊との間で激しい銃撃戦が繰り広げられた。双方に数多くの死傷者が出る中、形勢は次第に数に勝るSAT隊に有利となり、遂には組織の警備隊は全滅に近い状態となった。

 戦力を失った組織の幹部たちになす術は残されていなかった。老人と側近らはすぐさま身柄を拘束された。

彼らの裁判は今も続いている。老人は公判中に「私は神である。お前たちは必ずや天罰を受ける」という趣旨の供述を繰り返して、司法関係者を当惑させているという。

世間は内戦さながらの武力衝突と数十名の遺体が冷凍保存されているという事実に戦慄した。当時、マスコミは連日、「あさま山荘事件」や「オウム事件」以来の大事件と騒ぎ立てた。 

トップを失った組織は厳しい非難の中に漂流することとなった。公的な資金援助は絶たれ、資金繰りに窮した。一時は財界出身の新総裁の下に再建を目指したが、重い損害賠償責任を背負っての財政再建は困難を極め、遂には破産手続の開始を余儀なくされた。現在は、裁判所選任の破産管財人の下で清算手続が進められている。

「あなたと最後に別れて数日後、力石さんから連絡があったの。彼が『悪いことは言わないから、娘さんを連れてすぐに日本を離れていたほうがいい』っていうもんだから、着の身着のままで娘とアメリカに渡ったわ。面倒なことはすべて彼が手配してくれたから、出国で困ることはなかったけどね。その数日後に、私がいた組織があんなことになって本当に驚いたわ。今にして思うと彼はこうなることを予見していたのね」と夏木医師は言った。

私はむしろ、顎鬚が老人の悪行を捜査当局にリークしたのだと思った。それが、彼が組織から身を守るための奥の手だったに違いない。しかし、なぜ冷凍した死体のことについて深く関与している夏木親子を騒動の外に置いたのか分らなかった。彼は老人と刺し違える覚悟で行動しており、極力自分とその部下以外を遠ざけたいという心理が働いていたのかもしれない。

「よくぞご無事で」と私は彼女の無事を喜んだ。経緯はどうであれ、私には彼女がここにいることが重要だった。

「私ね、今、アメリカに留学していた頃の恩師の、ハザウェイ博士と一緒に働いているの」と夏木医師は言った。

 私はその研究者の名前に聞き覚えがあった。人体の冷凍保存の第一人者であった。しかも、五年前に到底不可能だと考えられていたドナーの蘇生に成功していた。その成功をきっかけに、彼は不老不死を希求する大富豪たちから出資を募り、人の冷凍保存の商業化に本格的に乗り出そうとしていた。

 老人の組織が保存していた遺体の蘇生についても、彼は「技術的な課題は多いが十分可能である」という見解を示し、自らが行う用意があることを表明した。遺族たちからの突き上げに窮していた組織の新総裁は渡りに舟とばかりに博士に遺体の蘇生を丸投げした。

 夏木医師はその蘇生事業に従事していると言っているのであった。

「この仕事だけは、どうしても私の手でやりたいと思ったの。私が原因を作ってしまったものね。そのことを博士に相談したら、『私も君のことを待っていたんだ』って快く迎えてくれたわ。私が今いる場所があなたの言っていた『新たな世界』での私の居場所ということになるかしら」と夏木医師は言った。

「素敵ですわ、先生。私も陰ながら応援しています」と私は言った。

「あなたの方はどう?『新たな世界』での暮らしは」と彼女は私に問いかけた。

「私の方は、そうですね…」と言って私は言葉に詰まった。私はたしかに物書きとして成功はしていた。しかし、どことなく自分のことであって自分のことでないような感覚があった。 そして、私は返答に迷いその場に立ち尽くした。

「あなた、今、自分自身のあり方に何となく自信が持てないんじゃない?」と夏木医師は心配そうに言った。

「そんなこと、ありませんよ」と私は答えた。

「嘘をおっしゃい。私、さっき楽屋で見たのよ、あなたの原稿。あんなに書き込みと読み返しでボロボロになった原稿は見たことがないわ。不安な心の現れよ。人の見る目が怖いの?」と彼女は言った。

 私は彼女にだけは嘘が付けないと思った。

「実は、僕、怖いんです。逃げ出したいくらいに」と私は言った。

「やれやれ、全く世話の焼ける子ね」と彼女は言った。「今、ここで『怖い』って言っているのは誰ですか?」

「えっ、僕ですけど?」

「そうじゃないでしょ。あなたは麻里子よ。私は桐野さんじゃなくて麻里子さんに会いに来たのよ」

 私は彼女の言葉にはっとした。そうだ、私自身が麻里子だったたのだ。いつか見た夢で父親に連れ去られた少女は私の妹ではなかった。彼女こそが私の実相だったのだ!気まぐれで、癇癪持ちで、泣き虫だけど、お茶目で、天真爛漫で、優しい目をした麻里子であったのだ。なぜ今まで気づかなかったのだろう?決して、桐野吉彦が死んでしまったわけではない。しかし、この新たな世界を生きている私は麻里子であった。この世界で現実に生きる肉体を伴った、新たに生誕した麻里子であった。

夏木医師は私を優しく抱擁してキスをした。

「もっと自分を信じてあげて」彼女は私の耳元でささやくように言った。「あなたは麻里子、この世界の太陽。そして、この世界はあなたのものよ。みんな、あなたのことが大好き。あなたが真に願ったことは何でも叶うの。必要なのは、あなたがそれを信じることだけよ」

「先生。ありがとう」

私は感情がこみ上げてくるのを感じながら、彼女の胸の中でその温もりを一身に感じた。私はうれしかった。道に迷った私に母のような温かな手を差し伸べてくれたことがうれしかった。そうだ。彼女の言うとおり、この世界は私の世界なのだ。そのすべてが私を受け入れてくれる。何も恐れるものはないのだ。

私は、しばらくの間、彼女に身を任せた。


「少しは落ち着いた?」と抱擁を終えた彼女は言った。

「ええ、もう大丈夫」と私は答えた。

「それは良かったわ」と彼女は言った。「そろそろ、行くね」

「えっ、どこへ?」

「私も以前のあなたと同じように、遠くに行かなければならないの」

「また会えたと思ったのに。寂しいな」

「寂しがることなんてないわよ。また会えるわ。もちろん私の娘にも。あなたが真に望めばね」

「望むも何も。また、お会いしましょう。きっとですよ」

「じゃあね」と言って彼女は私に背を向けて歩きだした。

私は彼女の遠ざかる背中を見送っていたが、広場を出たあたりで彼女の姿が忽然と消えた。私が今まで幻影を見ていたのだろうか?私は呆然とその場に立ち尽くしていた。


しばらくして、私は現実に引き戻された。スマートフォンの着信音が大きく鳴っていた。水沢からの電話だった。

「先生、どこにいるんですか?あと五分で講演が始まりますよ」と電話の向こうで水沢がいった。

「あら、やだ。もうそんな時間?すぐに戻るわ」と私は言った。

 私は電話を切るなり、駆け足でホールの楽屋に戻り、原稿を手にして舞台袖に上がった。

「先生、一体今まで何をしていたんですか?」と水沢は私を咎めるように言った。

「ごめん、ごめん。ちょっと外でお友達と話し込んじゃって」と私は弁解した。

「でも、まあ、間に合って一安心です。本番は間もなくですよ。理事長の挨拶の後に舞台中央の演壇に向かってください」と水沢は言った。

「わかっているわよ。それくらい」と私は言った。

 薄暗い舞台袖からは客席の方を垣間見ることができた。約二千席の客席は満席だった。奥の方には立ち見の客もいる程だった。

「うわぁ、やだ、満員じゃないの。体が震えるわ」と私は悲鳴に近い声を上げた。

「だから言ったじゃないですか。リハーサルはしなくていいですか、って」と水沢は言った。

「違うわよ。これは勝負を前にした武者震いよ。こう見えて、私は元男ですから」と私は彼に言った。

 開演のブザーが鳴った。

 照明に照らされたステージの脇にマイクを片手にした主催団体の理事長が立ち、開演の挨拶を始めた。

「皆さんこんにちは。日本性多様性研究会代表の今井です。本日も誠に多くの皆さんにお集まりいただき心より感謝を申し上げます。今回で我々の企画である『プロファイル・オブ・トランスジェンダー』も七回目となりました。既に次の時代を切り開く六人のトランスジェンダーの言葉を皆さんにお届けしてまいりましたが、今回の演者もまた、先の六人に勝るとも劣らない時代の先駆者であります。今日ご講演いただくのは、作家の桐谷麻里子先生です。先生が処女作『レイト・サマー』で第百二十三回暁新人賞をご受賞されたのは記憶に新しいところです。本日は『内なる自分とのコミュニケーション』という演題で先生に語っていただきます。それでは皆さん、先生のご入場です。心からの拍手をお願いいたします」

会場は割れんばかりの拍手の音に包まれた。

 私は心の中で自分自身に語りかけた。麻里子、いいえ、吉彦、私たちはこれから最高の場所に立つの。もう迷わないわよ。これが私たちの居るべき場所でしょ?

「それじゃ、行くね」と私は舞台袖で後ろの方にいる水沢に言った。

「先生、ここから応援してます。頑張って」と胸元で小さくガッツポーズをしながら水沢が言った。

私はまばゆいステージに向けて一歩を踏み出した。


(完)

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レイト・サマー Rico @Rico_Avalokitesvara

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