第3話

 翌日になっても、あのクリニックでの出来事が頭を離れなかった。あれは夢だったのか、現実だったのか?その区別も私の中ではひどく曖昧だった。

 私は夢遊病者のようにふわふわとした感覚の中に居た。仕事はまるで手につかず、気が付けば麻里子との出来事のことばかりを考えていた。

私は、あの体験を再び味わってみたいと強く思った。しかしそれと同時に、あの場所に行くのは躊躇われもした。それは、自分自身がこれまで守ってきた何かが、もっと言えば、私が私であることの根幹が揺さぶられているように思えたからだった。どうやら、私は触れてはいけないものに触れてしまったらしかった。

 私は沸き上がる思いを何度も打ち消そうとした。しかし、何度打ち消けそうとしても、麻里子の顔が頭の中に浮んだ。あの髪、あの瞳、あの声…。

そして、結局はそれに抗うことができず、自然とあの場所へと足が向いた。

同じような葛藤はその次の日も続いた。そして、いつも麻里子に会いたいという思いが勝り、あの場所へ行くのであった。その次の日も、その次の日も。気が付けば、それは私の中で日課のようになっていた。私はこの時ほど自らの存在がはかなく危うげなものになりつつあるのを感じたことはなかった。私は自分自身がこの世界にたよりなくたゆたう陽炎であるかのように思えた。

 クリニックに行けば、受付の女の子と女医がいつも優しく迎えてくれた。私は彼女たちとも少しずつ親密になっていった。

そして、彼女たちの案内で私は夢の世界へ旅立った。もちろん、それは麻里子との逢瀬を重ねるためだった。彼女と会うときは決まって彼女とそっくりな姿になっていた。それは彼女が決めた流儀であるらしかった。

 彼女との秘め事は、ときに激しく、ときに優雅なものであった。そして、唇を重ねる度に、彼女と同化して私というものが無くなってゆくような危うくも甘美な感覚を感じていた。

そして、一時の愉悦を味わったあとは、彼女と実に多くのことを語りあった。私は彼女の前では心まで丸裸であった。私が何かを語ろうとしなくても、彼女は私の考えていることをすべて正確に理解し、それに共感の手を差し伸べてくれた。最初のうちは、私自身の最も深いところにある秘部を思うがまま覗かれているような気恥ずかしさがあったが、次第にそれは心地よさと安らぎへと変化していった。気が付けば、私はそのような彼女に心惹かれていた。

彼女への思いとともに、私の中で、次第に夢の世界の重みが増していった。時には夢の世界のほうが真の現実ではないかと思うようになったほどだった。すべてが形骸化したような世界と、この濃密な感情に溢れた世界とではつり合いが取れないではないか?私はそう思うようになっていった。


そんなある日にことだった。いつもと同じようにクリニックの旅立ちの儀式を経て、麻里子との情事を楽しんだ。

 そして、私たちは長らくその余韻を味わっていた。

事が終わった後、私たちは柔らかな尻を二つ並べるようにベッドに座り、お互いの手を重ねて、その温もりを確かめながら、事の余韻を楽しんでいた。

「あなた、今日はとってもノッてたわよ」と麻里子が言った。

「そうかな?」

私は頬を赤らめながら言った。

「照れてるの?かわいい。心まで女の子になってきたんじゃない?」彼女が私をからかうように言った。

「そんなんじゃないよ」

そう言いながらも、私はまんざらでもなかった。彼女の言うとおり、心までもが女にちかづいていたのかもしれなかった。

「ところで」と彼女は話を切り出した。「私たち、これで会うのは何回目かしら?」

「よく覚えていないな。ずっと昔からいるみたいだ」と私は答えた。

「ここは気に入ってくれたかしら」

「ああ、とっても」

「ここは私とあなただけの世界。ずっと居ていいのよ」

「そんなことができたら夢のようだけど。あっ、そうだった。僕は夢を見ているんだったね」

「夢と現実なんて区別する必要はないわ。あなたが真実だと思ったものが真実よ」

私は元の世界に帰らなければならなかった。退屈ではあるが、そこが私の生きる唯一の世界であった。私は別れの挨拶を言うことにした。

「今日は楽しかったよ。また明日来てもいいかな?」

「ごめんなさい。実は、セックスの最中にあなたにまた別の魔法をかけたの」

「別の魔法って?」

「私たちがずっと一緒にいられる魔法をね。これから、私たちは新しい世界に行って、ずっとそこでくらすの」

「ずっとって、どれぐらい?」

「ずっとはずっとよ。つまり永遠に」

彼女の眼は真剣だった。冗談を言っているのではないらしい。

「永遠に?」

「そう永遠によ」

「それは、それはもう僕が元の世界に戻れないってこと?」と私は彼女に問いただした。

「そうよ」と彼女は冷淡に答えた。「あなたはもう目覚めない。これから行く新しい世界で私とずっと愛し合って生きていくの。同じ姿で。歳も取らずに」

「何を言っているんだい?冗談だろ?」と私は彼女に尋ねた。

「冗談なんかじゃないわ。私、さっきあなたの中に出しちゃったでしょ?実は特別なお薬を飲んいたのよ、あなた。さっきの口移しのワインにはその成分が入っていたの」

 ここは彼女が自由にコントロールできる世界だ。彼女が言うこともあながち嘘ではないかもしれない。

 私は言葉に詰まった。どうやら取り返しがつかないことになったらしい。少しずつ狼狽が胸にこみ上げてきた。

「どうして…」

私はそれ以上何も言えなかった。本当に当惑したときは言葉がろくに出なくなるものらしかった。私は醒めない夢の中で心の中に巻き起こりつつある感情の嵐にただ戦慄するしかなかった。

 私は落ち着いて気持ちを整理しようとした。しかしそれは出来なかった。

そして自分の意思とは無関係に、元の世界の風景が次々と溢れるように頭の中に浮かんできた。私はそこでくだらないものたちに取り囲まれて生きていたのかもしれない。でも、それなりに彼らと上手くやっていたし、愛着も感じていた。それが、たった今、何の前置きもなく失われてしまったのだ。正確にいうと失われてしまったのではなく、誰かが奪ってしまったのだった。それを奪ったのは、そう、私の目の前にいる麻里子であった。私の困惑は次第に彼女への怒りへと変化していった。

「君はなんてことをしてくれたんだ」と私は声にならない声で彼女に言った。

「これが、あなたを救う唯一の方法よ」と彼女は言った。

「唯一の方法?何を言っているんだ。たとえそうであっても、僕はそんなことは望んでいなかった」と私はこみ上げる感情を抑えながらそう言った。

彼女にも憮然とした表情が滲み始めていた。

「何よ、あなたはどうせ、あの世界に辟易してたんでしょ?あなたの望みを叶えてあげたのよ。感謝してもらいたいぐらいよ」と彼女は言って、涙を浮かべた目で私をにらんだ。

「もとに戻してくれ」と私は彼女に言った。

「それはできないわ」と彼女は冷たく答えた。

「ふざけるな。元に戻せ」

「嫌よ」

「戻せよ!」

「絶対嫌よ!何よ!今まで人のことを散々無視しておいて、いい気味だわ、この雌犬」

「何だと。もういっぺん言ってみろ」

「ああ、何回でも言ってやるわよ。この雌犬」

 次の瞬間、パチンという大きな音ともに私の手のひらに熱い衝撃が走った。私は思わず彼女の頬を平手打ちしたらしい。

「何すんのよ!」

再び肉を叩く大きな音がした。彼女も負けずと私の頬を打ったのだった。

「このクソ女!」

 私も負けじと張り手を応酬した。そして、私たちは髪を振り乱して金切声を上げながらお互いに飛びかかった。

そして、取っ組み合いの喧嘩となった。

彼女は私に馬乗りとなり私の体を両腕で上から押し付けたが、私は彼女の体を全力で押しのけ、今度は逆に彼女の上に跨った。私は股間にある彼女の首に手を掛けて締め上げた。彼女は苦しさに顔を紅潮させて苦悶した。やがて、彼女の瞳が大きく見開かれたままになり、脱力したような表情を浮かべた。

私は、ふと我に返った。私はすぐさま彼女の首から手を離した。

長い嗚咽の後、彼女は大きな声を上げて泣き出した。

「大好きだったに…。ずっと一緒に居たかったのに…。ただ、一緒に居たかったのに…。それなのに、あなたは…。あなたは…」

 重々しい空気が私たちを包んだ。私が彼女の上から離れた後も、彼女は私を背にしてしばらくすすり泣いていた。

「もういい。帰って」と泣き止んだ彼女は私に小さく言った。

私はなす術もなく、彼女のそばに座り込んでいた。すると、次第に周りの風景がぼんやりとし始め、次第に色が白んでいき、最後には、視界が一面真っ白になった。


そして、私は目覚めた。マスクとヘッドホンを外すと、目の前に夏木医師がいた。そこは見慣れたクリニック診察室だった。

私は複雑な感情のなかで、硬いベッドの感触に身を委ねていた。

「何かあったの?」と彼女は私に問いかけた。

「今日は少し怖い思いをしたもんで」と私は言った。「現実世界に戻れなくなる夢を見ていたんです。二度と帰れないのかと思いました」

「永遠に戻れないと言っても、それはあなたがそれを真に望むならという条件つきよ。あなたが拒絶すればいつでも帰ってこれるわ」

「どうやら、そうみたいですね」

「夢の世界であったことは本当にそれだけ?」と彼女はさらに問いかけた。私の表情に安堵感以外のものがあるのを見逃さなかったようだ。

「ええ、それだけです」と私はそう答えた。

もちろん嘘だった。私は先ほどの出来事のことを誰にも言いたくはなかった。また、仮に言ったとしても、彼女に理解してもらえる自信はなかった。

「あら、そう。ごめんなさいね、変なこと聞いちゃって。いいわ、言わなくても」

「ごめんなさい」と私は小さな声で彼女に謝った。

「まだ少し時間があるわ。少し休んで、もう一度やってみる?」と彼女は私に再度の夢見を勧めた。

「いえ、今日はこれまでにします」

私はそんな気にはなれなかった。とにかく、気持ちの整理をしたかった。

 しばらく休んで、私はクリニックを後にした。そして、夏の夜風に当たりながら、人通りがまばらとなった街を歩いた。

 私がしたことは正しかったのだろうか?ふと、そんな思いが頭をよぎった。

私はしばらくそれに考えを委ねた。この世界にはまだ未練がある。しかし、この世界は私のことをどう見ているのだろうか?私の存在を異質な要素だと思ってないないだろうか?もはや私には寸土の居場所も与えるのが惜しいと思ってはいないだろうか?だとしたら、この世界を棄てて、彼女とともに新しい世界で生きることを選ぶべきだったのではないだろうか?いや、そうではない。それは間違っている。なぜかは上手く言えないが何かが間違っている。この世界には些末で矮小なものかもしれないが私が生きてきた痕跡がある。それを失うのは、私が消滅してしまうことと同じだ。だから、麻里子の世界には行けない。だが、このまま彼女と別れてしまうのは嫌だ。堪らなく嫌だ。別れるにしても、お互い納得してからにすべきだ。

 私は、とにかく麻里子に謝らなければならないと思った。たしかに、彼女とともに暮らすという提案を受け入れることができなかった。しかし、強引ではあれ、あれは彼女なりの愛なのだと思った。彼女の愛には理解を示さなければならない。それが、誠意というものだ。

 その夜、彼女のことばかりが頭の中をめぐり、私は眠ることができなかった。気が付けば夜が明けていた。


 私はまた、ひまわりクリニックに行って夢見を試みた。しかし、麻里子のもとへは行くことはできなかった。いつものように、診察ベッドに横になり、夏木医師に施術してもらったが、ただ頭の中がぼんやりとなるだけで、夢に落ちる前の不思議な感覚は生じる気配がなかった。私はあきらめて、体を起こした。そして、首を横に振った。

彼女は導入音声機材のスイッチを切った。

「いつもの落ちる感覚がないんです」と私はマスクとヘッドホンを外しながら言った。

「おかしいわね」と夏木医師は言った。「昨日あなたは怖い思いをしたって言ってたけど、もしかしたら、原因はそのことに関係しているのかもね。あなたの顕在意識が防衛反応で潜在意識を拒否しているとか、あるいはその逆で、過剰防衛している顕在意識を潜在意識のほうが排除しているとか」

 私が彼女のことを受け入れられなかったのだから、当然といえば当然であった。

「もう会えないんでしょうか?」と私は彼女に尋ねた。

「会えないって?」と彼女は怪訝そうに尋ね返した。そう言えば、私は夢の中の出来事を彼女に話したことはなかった。夢の中である女と会っていたことも、私自身がその女とそっくりな姿に変身していたことも、そして、その女との秘め事も。迂闊な質問だった。そして、それに対する彼女の反応はきわめて正当だった。

「夢の世界で誰かに会っていたのね」としばらく間を置いて彼女は言った。

「そうです」と私は答えた。成り行きから認めるしかなかったからだ。

「その人はあなたの恋人か何か?」

「そうゆうわけではありません」

「でも、その人を愛してしまったんじゃないの?」

「わかりません。でもこのまま二度と会えないのは嫌なんです」

そう言った後、私は自分自身の言葉に少し驚いた。私が強く自らの意志を伝えるのは稀だったからである。少なくとも、大人になってからはそういうことをした記憶はなかった。

「まあ、落ち着いて」と彼女は私をなだめながら言った。「このところ、あなたは毎日のように夢の世界に行っていたから、すこし脳が疲れてるんじゃないかしら。今日のところはよく休んで、また明日やってみたら?」

 私はその日はここで止めることにした。

 しかし、次の日も、その次の日もあの女に会うことはできなかった。

 私は、すでに手遅れであることを理解した。私はひまわりクリニックに行くのを止めた。


 現実の日々は、私のごく個人的な出来事とは関係なく過ぎていった。私は、麻里子と出会う前のように、職場で淡々と仕事をこなし、帰宅し、眠る日々を過ごした。そして、時折、彼女のことを思った。彼女がいたずらなことを言うときの、その言葉とは裏腹に包み込むようなやさしさを見せる表情を、その澄んだ瞳のことを、そして、その胸のぬくまりを。

いかに甘美であったとしても、彼女とのことは所詮、ひと夏の些細な思い出だ。子供の頃、親に連れられて行ったディズニーランドの記憶と同種のものに過ぎない。いずれは思い出すことも稀になる運命にあるのだ。私の人生に如何ほどの影響を及ぼすものではない。私は、彼女のことが頭に浮かぶ度に、私自身のその思念を冷遇した。

 しかし、私の再三の拒否にもかかわらず、それは、振り払う度に彼女への思いは強固になっていくようだった。また、知らず知らずのうちに、その追想にふける時間が長くなった。


 八月の終わりが近いある日曜日、私は遅い夏休みを取っていた。

 その日は一人で部屋にいた。手短に遅い朝食を終え、一週間ぶりに洗濯機を回していた。休日の午前中に洗濯をする。それが私の休日のルールである。洗剤を投入して洗濯機のスイッチを入れた後、わたしは、近場のドラッグストアで買ってきた安物のインスタントコーヒーを淹れ、それをゆっくりと口に流し込んだ。平板な苦みが舌の上に広がる。まるで特徴のない味だ。しかし、私はこれでもただのお湯よりいくらか楽しめた。私は安上がりに出来ている人間らしかった。

 私は部屋を見回した。何ということはない。北向き窓の、昼でも薄暗い築25年の独居用賃貸アパートの一室だった。こここでの暮らしは大学生の頃以来であった。通常、私と同年代の独り者ならば、もう少し広いところに住むものである。しかし、私はそんなところに住みたいと思ったことはなかった。この部屋はもはや私の一部となっていると言ってよいほど、私はここでの暮らしに馴染み過ぎているのだ。

この部屋の築年数のわりには白くきれいな壁が私を取り囲んでいた。壁が白いのは私が煙草を吸わないからだった。使い古しであるが、流し台やユニットバスが備え付けられ、一通りの暮らしは可能であった。しかしながら、周囲の圧迫感はどうしようもなかった。窓の向こう側は殺風景な民家の壁が迫っていた。その外部を壁に囲まれた狭い空間に、ベッドやパソコン机、洗濯機や冷蔵庫などの生活家電をコンパクトにまとめていた。この部屋は世界から隔絶した私のためのだけの空間であった。

かつて、この部屋にはテレビもあったのだが、数年前に廃棄してしまった。内容の薄い報道番組や使い捨てのタレントを消費するようなバラエティー番組ばかりのテレビをみるのが、いつの間にか馬鹿らしくなってしまったからだった。

そのかわりというわけはないが、部屋に不釣り合いな大きな本棚が、ここの一番いい場所を占有していた。棚の上では、民法や民事訴訟の専門書が埃をかぶりながら、自らの思想と同様に、その分厚い姿をかたくなに守っていた。彼らの傍らで、私が学生時代から買い集めた古い小説や心理学の本、あるいは洋楽のCDが、先住民であるにもかかわらず、申し訳なさそうに寄り添っていた。

本の遍歴が私の人生を物語っているようだ。若いころ、私は大学院に進み文学研究でもしながら過ごすつもりだった。しかし、大学を出る頃に裕福だった私の家の没落が始まった。世間ずれしていた私は、まともに就職もできず、ただ、暗転する運命を前に膝を抱えて途方に暮れるしかなかった。そのときに死んでしまえばよかったのかもしれないが、あいにく、私はその勇気を持ち合わせていなかった。

死ねなかった私は、孤独に自らの運命に抗った。自分自身の存立のためにあらゆることをした。生きるために人に言えないような稼業に手を染めることもあった。時には、人を欺き、裏切るようなこともした。私は、決して強靭な精神の持ち主ではない。魂の痛みに耐えながら日々を戦い続けなければならなかった。今の安穏とした暮らしは近年になってようやく奇跡的につかんだものだった。

 そのような日々の中、私は、本たちと無数の対話をしてきた。そして、自らの魂に刻み込むかのように、メモ書きというかたちでそのときどきの思考を彼らの中に刻んできた。彼らはもはや、私の分身であると言っても過言ではなかった。

しかし、本たちと濃密な関係を結ぶ一方で、多くのものを夢見た。それは私にとってすべて得難いものであった。友人、若さ、経済的な成功、人並みの結婚とその成果物としての温かな家庭。「たら」や「れば」を言えばきりがないが、時々考えることがあった。もっと他の生き方があり得たのではないかと。

 そのような日々の中で、私は麻里子に出会った。

 彼女は私の心に色彩をくれたのであった。私にはまばゆいばかりの色彩を。

 ふと、とりとめのない思考から我に返れば、洗濯はすでに終わっていた。洗ったものは干さねばならなかった。私は窓を開け、物干し竿に洗濯物を干そうとした瞬間、雨が降り始めたことに気付いた。

「また、今日も部屋干しか?」と私は小さく独り言を言った。最近はこうした些細な独り言が増えた。それは私が歳をとったということを意味していた。

 洗濯物を干し終えるころには、雨は本降りとなり、水の滴る音が部屋を包んだ。洗濯の後に買い物に出かける予定であったが、それは止めにして、部屋で一人佇みながら久しぶりに読み慣れた本でも読むことにした。洗濯や外出の不便さは別として、私は雨の日が嫌いでは無かった。降り注ぐ無数の雨滴が作り出す曖昧な銀色の世界にいるほうが、陽気な太陽の光を叩きつけられるよりも心が落ち着くからであった。私は本棚から三島由紀夫の『暁の寺』を取り出そうとした。

 そのときだった。静かな雨音を打ち破るように、スマートフォンの着信音が鳴った。電話はひまわりクリニックからだった。

私は電話に出た。

「もしもし」

「桐野さんですか?よかった。急にお見掛けしなくなって、心配していました」

声の主は受付の女の子だった。

「少し仕事が忙しくなってね」と私は適当に言い訳した。

「急なご連絡で申し訳ありませんが、今日はこれから何かご予定はありますでしょうか?」と彼女は私に尋ねた。

「別に何もありません。今日は暇です」

「突然で申し訳ありませんが、実は、母が、あっ、いえ、院長が少し桐野さんとお話したいと申しておりまして、それで今日お電話を差し上げました。もしよろしければ、これから当クリニックまでお越しいただけますでしょうか?」と彼女は言った。

彼女があの風変りな女医の娘であることは驚きだったが、それよりも、突然の申し出自体に私は少し驚いた。

「先生の話って?」

「詳しくはわかりませんが大事な話だそうです」と彼女は答えた。詳細は分からないようだった。しかし、院長が話したいことは大体察しがついた。きっと、夢見が上手くいかなくなった原因についてだろうと思った。それは、私がここしばらく考え続けていたことでもあった。そして、私にはそれを知る責務があるのではないかと思った。

「構いませんよ」と私は答えた。

「よかった。それでは、時間はいつでも結構ですのでお待ちしております」

「はい、わかりました、これからそちらに向かいます。それでは、後ほど」と言って私は電話を切った。

 私はこの電話を心待ちにしていたのかもしれないと思った。ひまわりクリニックに行けば何かが分かるかもしれないという期待に私は胸が躍った。今、私を急き立てるものが何であるかは知らない。しかし、とにかく行かなければならなかった。真実に近づかなければならなかった。

 私は飛び出すように部屋を出た。八月の終わりにもかかわらず、いっこうにトーンダウンしない不快な暑さが私を包んだ。気が付けば雨はすでに上がっていた。


 私は先ほどの雨に洗われたバラのアーチをくぐり、クリニックの入り口に立った。呼び鈴を押すとすぐさまドアが開いた。

「お待ちしておりました」と娘が微笑みながら、私を中に案内した。建物の中は、午後の日差しを受けていつになく白く輝いていた。娘の白いブラウスと明るい黄色のロングスカートが光を反射してまぶしかった。そして、待合室では観葉植物の小型のヤシの木がその葉を誇らしげに天に広げて陽の光を浴びていた。私はそこでさほど待たされることなく、すぐに診察室に通された。

 診察室のデスクでは、白衣を着た夏木医師が大きなモニターをにらんでいた。画面には、数多くの波形のグラフが表示されていた。

「どうぞ、そこにお掛けになって」と彼女は私のほうを振り返りもせず、診察用の椅子に座るようにすすめた。

「これね。あなたの脳波。この前、上手くいかなくなった後に測ったでしょ。もう一度、確認しているの。特に異常はないみたいね」と彼女はつぶやくように言った。

「今日はお話があるということで伺ったのですが」と私は本題に入るべく彼女に問いかけた。

「今日来てもらったのは、一つには、あなたへの状況報告のため。もう一つは、ちょっとした予言のためよ」と彼女は答えた。

「予言?」

「せっかちはだめよ。まず、状況を報告させて。あれから、私なりに調べたの。あなたが夢を見れなくなった原因をね。私もこう見えて一応科学者だから」と彼女は言った。そして、書類に視線を移し話を続けた。「さっきの脳波以外にも、いろいろと検査したのを覚えているかしら。血圧、体温、心電図測定、眼球の動き…。とにかく、関係のありそうなデータをすべて検証したけど、すべて異常は見られなかったわ。それと、私なりのやり方で、脳内のドーパミン分泌量の推定も行ったけど、これも異常なし」

「簡単に言えば、お手上げということですが」

「そういう表現は好きじゃないけど、そうね。今回はそう受け止めてもらっても構わないわ。この問題の原因があるとすれば、あなたの心の中にあるとしか言えないわね」と彼女は見かけによらず負けず嫌いであるらしかった。

「そうですか」と私は言いながら、落胆の色を隠さなければならなかった。予想していた答えだったが、実際に直面すると言葉に詰まる感覚があることに気付いた。

「ここまでが、状況報告ね」と彼女は話に一区切りをつけた。そして続けた。「ここからはお待ちかねの予言と行きたいところだけど、その前に確かめておきたいことがあるの」

「確かめておきたいことって?」と私は答えた。

「あなた愛してしまっているんじゃないの?心の中のその人のことを」

「そんなんじゃ、ありません。ただ、納得のゆく別れ方をしたいだけです」

「愛してるんでしょ?」

「違いますよ」

「聞き分けのない子ね。正直に答えなさい。愛してるんでしょ」そう言いながら、彼女は、出会って以来の真剣な眼差しで私を見つめていた。私は黙ってうなずくしかなかった。

「そう。それでいいのよ。それが誰かを好きになるってことよ。そうじゃないと、これから始まる冒険の旅に出られないと思うわ。」

「冒険の旅って?」

「あなたはこれから自分でも信じられないくらい遠くに旅立つことになるわ。あなたが大好きな誰かを探しにね」

「遠くってどこまで?」

「遠くっていっても物理的な遠さとは限らないわ。あなたの場合、あなた自身の心の深淵に旅立つんじゃないかしら。あなたに施術していて、何となくそうなるんじゃないかと思ったの。私ね、不思議と分るのよ、クライアントがたどるそういう未来がね」と彼女はどこか遠くを見つめるような表情で言った。

「仮に、僕がそこにたどり着いたとして、あの人に会えるんでしょうか?」と私は彼女に尋ねた。

「さあ、それはわからないわ。でも、ひとつ確かに言えるのは、あなたが決定的に変わるってことよ」

「変わるって?」

「あなたが真に望む存在に変わるってことよ。進化って言ったら言い過ぎかしら」

 私は、彼女が言うことがあまりにも抽象的過ぎたので、思考の焦点を合わせることができずにいた。しかし、同時に、彼女の言うことがまるっきり出鱈目でもないような気がしていた。

「もうひとつ聞いていいですか?」と私は彼女に尋ねた。

「あら、気分が乗ってきたようね。いいわよ。何でも聞いてくれて」

「私はいつ頃旅立つのですか?」

「すぐによ」

「すぐに?」

 診察室の大きな古時計が鐘を二回鳴らした。午後二時を回ったという合図だった。窓からはまばゆい午後の日差しが降り注いていた。窓越しのガーベラから、一羽のアゲハチョウが太陽に向けておもむろに飛び立っていった。

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