第2話

 ガールフレンドと別れた場所は実際には15分も歩けば駅に着くところだった。急げば終電に間に合ったかもしれない。でも、それはどうでもよかった。私はタクシーで部屋まで帰ることにした。私はとにかく疲れていたのだ。

 程なく、一台のタクシーが近づいてきた。私が手を挙げると、タクシーはすぐに私に気づいて、すぐそばの路側帯に停車した。

遠くからはわからなかったのだが、目の前にするとずいぶんと古めかしい形をした車だった。それはクラッシックカーといってよかった。全体的に曲線を帯び、ボンネット部は異様に長かった。また、ヘッドランプは正円形をしており、フロントグリルは以上に幅が狭かった。天井の個人タクシーの行灯は似つかわしくないと思ったが、総じて言えば、悪くないデザインの車だった。洗練されているといってもよかった。例えれば、1960年代のジャガーのようだった。このような車が日本の公道を走っているとは驚きだった。

 後部座席のドアが開いたので、中に乗り込んだ。中には小柄な運転手が乗っていた。車内には最新型のカーナビが備えられていた。カーオーディオもハイエンドモデルのようだった。

「どちらまで?」と彼は、運転手らしからぬ柔和な声で私に行先を尋ねた。前職は俳優か何かだったのかもしれないと思った。

「高田馬場まで」と私は手短に答えた。

「はい。わかりました」と彼がそういうと、車は音もなく滑りだすように発進した。車内は振動やがたつきとは無縁だった。私はよほどいい車なのだろうと思った。運転手の顔は後ろ姿からは、よく見えなかった。しかしながら、助手席のダッシュボードの上にある身分証の顔写真みたところ、まるで、七福神の布袋様だった。大金持ちが趣味でタクシー運転手をしている、そういう表現がぴったりだった。

 シートは固すぎず、柔らかすぎず、実にいい具合だった。また、車内には品のいいジャズが流れていた。チック・コリアとゲーリー・パーカーがピアノとビブラフォンで共演している曲だ。以前聞いたことがあった。悪くない、いい音楽の趣味だと思った。やや世間ずれしたこのタクシーの車内は奇妙な乗り心地だった。言い換えれば、それは気味の悪いくらいの気持ちよさとも言えた。もしかしたら、この車は黄泉の世界からやってきた乗り物で、このままあの世に行ってしまうのではないだろうかと思えた。

 私は後部座席に沈み込み、思考を泳がせた。私の意識は自然と山積している仕事のことに流れた。いくら作ってもきりがない契約書の仕事。掃き溜め掃除のような日々の紛争処理。これらが奔流のように押し寄せ、息つく間すら私から奪っているような気がした。

しかし、助けを求めようとしても私はひどく孤独だった。私の周囲に居る者といえば、狡猾な取引先の人間、私の仕事について理解のない上司、あてにならない同僚、何を考えているかわからない女ぐらいであった。このような者たちに取り巻かれて、このまま心を少しづつ削り取られながら生きてゆかねばならないのだろうか?

私の人生はいったい何なのだろう。私の人生は…。私の人生は…。

そう考えているうちに、それらの思念が白く浄化され、私の自我がすうっと希薄になるような気がした。


「お客さん、ずいぶんお疲れのようですね」と運転手の声がした。

私はその声に突然眠りの淵から連れ戻された。そして、そこではじめて自分が寝入り際にいたことに気付いた。

「ええ、まあ、今週はいろいろあったもので」と私は茫然とした意識の中でゆっくりと答えた。

「明日は日曜日だからごゆっくりされるんですか?」と運転手は言った。

「まあ、そうですね。でも、結局は仕事のことを考えてしまいます」

「そうですか、たまには仕事のことなんて忘れてリラックスできたらいいんでしょうけどね」

「私もそうしたいものです。でも、どうも、気持ちの切り替えが下手なようで。困ったものです」

「その辺はその筋のプロに任せたほうがいいかもしれませんよ。ところで、その方面でいいところがあるんですよ。常連さんの間で評判のところ」と運転手は言った。「ひとりやふたりが言うのなら、ふん、そんなもんか、で済むんですが、不思議なもんでね、五人くらいからよかったって聞くと、それじゃ、そんなにいいのか、っていう気になってくる。それで、これまた偶然なんですがね、広告会社か何かにお勤めで、ちょうどそこの名刺を置いてくれないかという人がいたので車内にそこの名刺を置いてみました。普通は広告お断りなんですがね。ほら、助手席の後ろのホルダーに何枚か入ってるでしょ?それそれ」

 私は、その名刺を手に取って見た。名刺は今時の広告にしてはひどくシンプルだった。表面には白地に黒い文字だけがひどく手短に記載されていた。


「あなたの心に寄り添いたい。

 心の相談室 ひまわりクリニック

 電話 03-○○○○―××××」


「ここは、心療内科か精神科ですか?」と私は彼に尋ねた。

「まあ、そんなところです。私は行ったことがないので、よくわからないですけど。聞いた話では、とにかく風変りなところらしいですよ。でも、とにかく心のモヤモヤみたいなのがすぅーっととれちゃうらしいんです。この前のお客さんなんか、十年間、トイレの後の手洗いが止められないっていう心の病気だったのが、一回見てもらっただけで、ピタっと症状がなくなったって言ってましたね。いったい、どんな治療をやってるんでしょうかね?そうそう、最近そのお客さんは見かけなくなりましたけどね、この前、心の底から願っていることが叶った、って言ってました。本当なんだかどうなんだか」

「へぇ、それはすごいですね」と私はそう言いながら、内心、そんなおとぎ話みたいな話があるものかと思った。しかし、運転手の言った「心の底から願っていることが叶った」というくだりが妙に気になった。

 ここで告白しなければならない。私には、「心の底から願っていること」一つだけあった。それは公言するのも憚られることだが、女性になりたいということであった。理由はよくわからない。しかしその得体のしれない欲望が常に胸の奥底に熱いマグマのように流動していた。

振り返れば、幼少期には、すでにその言葉にならない思いが私の心に確かに住み着いていた。その頃のそれは、男女の違いすらよく知らない幼児にとってはそれとはわからないかたちで現れた。急に胸が切なくなる。無性に裸になりたくなる。そして、だれかに抱きしめられたくなる。時折そんな気持ちがこみ上げて来た。そのような靄のような気分に包まれて、衝動的に布団の中で一糸まとわぬ姿で眠ることもあった。

中学生になった頃には、それは女性になりたいという願望であることがはっきりと自覚できるようになった。ときには鏡の前で女装した自分を見ながら性の衝動に翻弄されてみたいと思った。

大人になってからもこの妄想に苛まれた。もちろん、男性としてのセックスもそれなりに楽しんできた。しかし、何かが違うと感じていた。全身を愛撫され、荒い息遣いで悶える女をみると、むしろ、君になりたい、と思った。今自分の目の前で快楽に身もだえする君になりかわりたい。そして、全身から溢れる愛の甘い蜜を吸い尽されたい、全身で愛撫されるその快楽を貪り尽くしたい、そのような身が焼かれるような情念が魂の奥底から突き上げてくるのだった。

時折、人目を憚りながら女装してみることもあった。幸運なことに、そのような欲求を満たすサービスを提供する場所に事欠かなかった。それは私のような人間が少なからずおり、そのようなビジネスが成り立っているということであろう。気持ちが抑えがたくなったときは、私はメークを施してもらい、女の恰好で写真撮影してもらうのだった。

しかし、むしろ後から後悔することのほうが多かった。とにかく化粧の仕上がりがひどすぎた。どう見ても、化粧をした三十半ばの不細工なオッサンだった。もちろん、メークや撮影をしてくれた人が悪いのではなかった。悪いのは自分の顔立ちであり、これが現実なのであった。

出来れば、私の中に巣食う得体のしれない魔物には、お引き取りを願いたいと思っていた。私はまるで自分が精神異常者であるかのように思っていた。そして、健康な心を取り戻すことを切に希求していた。

私は、もしかしたら、このクリニックに通えば私の病んだ魂は治るのかもしれない、と思った。私が「心の底から願っていること」はこの病的思考が一掃されることだった。このクリニックに連絡してみることにした。現実を変える唯一の道、それは行動だ。私は手元の名刺を裏返した。裏面には、簡単な地図と住所、それに診療時間やWebサイトのURLが載っていた。

「神楽坂?意外に近いな」と私は思わずつぶやいた。尋ねるのに好都合だった。

 程なくして、車はゆっくりと停車した。もうここは私の部屋の近くだ。

「ご乗車ありがとうございます」と運転手は律儀に到着を告げた。私は料金メーターを確認し、必要な金額を差し出した。そして、つりを差し出しながら彼は続けた。「何かいいことがあるといいですね」

「そうですね」と私は手短に答えた。

 タクシーは私を後にして、テールランプの波に消えた。私は神田川沿いを歩いて深夜の暗がりの中に消えた。


 翌日の夜、私は計画を立てた。

 ひまわりクリニックは土日が休診だ。私は平日にここへ行くためにスケジュール調整をしなければならなかった。万が一ではあると思うが、診療後に仕事に手を付けられない心理状態になるかもしれなかった。そうであれば、診療後に仕事に戻ることは避けたかった。可能ならば、3時ぐらいには仕事を早く切り上げてクリニックに向かいたいと考えた。

 スケジュール帳の7月のページを開いた。幸い、木曜日は業務で外出する予定があった。この日の午後1時にM銀行日本橋支店での抵当権設定契約に同席し、その後、東京法務局で代表者の印鑑証明書を取れば、ちょうど3時ぐらいにはなるはずだった。この日は緊急な仕事が入らなければこの後にやることは特になかった。

この日にクリニックに行くのが一番都合が良さそうだった。

ただし、この日に行くとしても周囲の変な勘ぐりは避けたかった。特に心理療法を受けに行くと上司に知れれば多少厄介な反応が予想された。そこで、事前に早退申請を出すのはよすことにして、急に体調が悪くなったから医者に行くとか言って、クリニックに行く直前にオフィスに電話を入れることにした。どうせ電話をとるのは美菜ちゃんだ。部長が気まぐれで電話を取るとかしなければ、まず面倒なことは起きないだろう、と思った。もし、部長が出たとしても、それらしい言い回しで理由を告げれば済むことであった。医者に行くというのも、あながち嘘ではないのだから。

また、クリニックには電話で予約を入れたほうがよいだろうか、と考えた。名刺には書かれていないが、この手の場所は大抵予約制だ。連絡するに越したことはなかった。昼間に適当な時間を見繕って電話を入れようと思った。もしかしたら、聞かれたらまずいこともあるかもしれない。電話は5階の一番西側のトイレでかけることにした。そこなら昼間はひとがめったに来ないからだ。

 まるで、小学校の遠足の前日のように胸が躍る思いがした。あるいは、緻密な犯行計画を練る怪盗になったかのような気がしたともいえた。このような気持ちになるのは実に久しぶりだった。私だけの秘密の計画が出来上がった。あとは木曜日に決行するのみだった。


 私は、はやる気持ちをごまかしながら数日を過ごした。そして、いよいよ木曜日になった。この日は午後の抵当権設定契約で書類上の不備があったものの、その場の誤記訂正で済むレベルであったため、なんとか仕事を終えることができた。余計な時間がかかってしまったため、法務局へ行くのは後日にした。そして、会社への連絡も手短に済ませた。あとは、例のクリニックに行くだけだった。

 行く前にクリニックに連絡しなければならなかった。できれば昨日までに電話して予約を入れておきたかったのだが、忙しくて直前になってしまった。突然の来院に対応してもらえるか分らなかったが、とにかく名刺に書かれてある電話番号に連絡を入れてみた。

「はい、ひまわりクリニックです」と若い女が電話に出た。ここの先生の助手か何かだろう。彼女が出るまでに随分と間があった。意外と流行っているところなのかもしれないと思った。

「もしもし、私、桐野と申します。今日、これから診てもらいたいんですけど、大丈夫でしょうか?」

「確認いたしますので、少々お待ちいただけますか?」

 待受のベートーベンのピアノソナタを聞きながら、私はクリニックのことを想像した。さっきの女の子は声の感じからおそらく二十代だろう。学生のアルバイトだろうか?それともそこの先生の古くからの友人の娘か何かだろうか?先生はどんな人だろうか?白いヒゲを生やして白衣を着た、「鉄腕アトム」の御茶ノ水博士みたいな人だろうか?

「今なら空いております。ご予約はいかがいたしましょうか?」と受付の女の子は私に尋ねた。

「それはよかった。いま日本橋にいるのですが、1時間後には伺いたいのですが」と私は答えた。

「はい、かしこまりました。それでは16時からということで」

「それでは、よろしくお願いいたします」

 私は駅に向けて歩き出した。


 ひまわりクリニックは、神楽坂の石畳の坂道の途中にある、古い佇まいの2階建ての洋館だった。建物の壁面には瀟洒な窓を避けるように涼しげに蔦が生い茂っていた。入口は緑の外構えからローズアーチにより玄関に導かれていた。まるで、英国人の富豪宅だ。ドアの小さな表札により、そこがクリニックであることが伺い知れた。

「こんにちは」と私はドアを開いて尋ねた。中には誰も見当たらない。窓から差し込む夏の日差しと静寂が部屋にあふれていた。

受付はアンティーク調のカウンターが備え付けられ、パソコンとレジと使い古された電話機が置かれていた。奥のチェストには、書類が所狭しと配列されていた。

受付の奥は待合室のようだった。意外と広い。その奥はオープンガーデンとなっているようだった。その広間の大きなソファーとテーブルが降り注ぐ光を受けて白く輝いていた。

オープンガーデンは、このクリニックにふさわしく、小振りなひまわりの花で花畑のようになっていた。その脇をダリアやベコニアなどの夏の花がかためていた。

「あら、申し訳ありません。桐野様ですね」

庭にいたショートヘアの女の子が私に気付いて振り向いた。大きな眼鏡をした幼顔の彼女は、水差しを持ったまま私に微笑みかけていた。おそらく水やりの途中だったのだろう。彼女は白いブラウスの襟を立て、鮮やかな柄の入ったロングスカートに白いスニーカーを履いていた。医療施設にしては随分カジュアルな恰好であると言ってよかった。

「突然お伺いしてすみません」

「どうぞそちらにお掛けになってお待ちください。」と彼女は窓際の白く長いソファーをすすめた。

「もうすぐ診察できるかと思うのですが、うちの先生、何かに熱中すると患者さんそっちのけになるんです。今は自分の研究で忙しくて…」

「お構いなく。きょうはもう暇だから」

「申し訳ありません」

 私は気長に待つことにした。待っている間、女の子は奥の間と待合室を幾度となく往復していた。私はその様子をぼんやりと眺めていた。もともと、私は待つことをそれ程苦にしない質であった。それに、ここにいると実に気分が落ち着いた。まるで、何十年もここに住んでいたかのようだった。

 しばらくして、受付の女の子が飲み物と洋菓子を差し出してきた。洋菓子はレモネードとチョコレートケーキだった。レモネードはそれほど冷えていなかった。それは瓶に入れて高原の小川にしばらく漬けていたかのような冷え具合だった。昔は凍る寸前のような冷たいコーラを鯨のようにガブ飲みしたものだったが、今となっては、むしろこれぐらいの冷たさのものを少しずつ口にするほうが、より甘味が感じられて好きだった。チョコレートケーキも悪くなかった。私はくどいような甘さには子供の頃から目が無かった。この手の甘いものを一度食べだすと止められない。私はいい年をした甘党なのだ。

「飲み物とお菓子はうちで作ったものでしたけど、お口に合いましたでしょうか?」と彼女は私の反応が気になるようだった。

「いやぁ、おいしいですね。これならいくらでもいけますよ」と私はそう答えた。実際に、なかなか満足していた。

「まぁ、よかった。気に行っていただけて」

女の子は安心したかのようにほほ笑んだ。

「あら、もうこんな時間。もうそろそろ大丈夫かと思いますので、少々お待ちください」と眼鏡の女の子は言った。そして、奥の間に消えた。おそらくそこが診察室なのだろう。

「桐野さん、どうぞ」とすぐさま別の女性の声が聞こえた。

「はい」と私は呼ばれるままに答えて、奥の診察室へと入って行った。

 洋館の主の書斎を思わせる診察室は、ほのかな陰翳に包まれていた。とはいえ、程よく採光されており、診察には問題なさそうだった。むしろ、これぐらいの明るさのほうが心が落ち着く。心療クリニックの診察室としてはこの程度の明るさがむしろ相応しいのかもしれなかった。

 奥には重厚な執務用の机と椅子があり、一人の女が私を背にして座りながら、眼鏡の女の子と簡単な事務連絡をしていた。彼女が用件を終え部屋を退出すると、話の相手はゆっくりと椅子を回して私の方を向いた。

「どうぞ、こちらにお掛けください」と椅子に座る女が診察用の椅子に座るよう私に勧めた。どうやら、この女がここの先生らしかった。彼女は黒のブラウスとタイトスカートに緑のカーディガンを羽織り、肩まで伸びた髪がきれいにカールしていた。若干年配ではあったが、かなりの美人といってよかった。白衣は着ていない。それがここのクリニックの流儀らしかった。

「どうも」と私は手短に答え、勧められるまま簡素な診察用の椅子に腰かけた。

「初めまして、当院の院長の夏木です。驚いたんじゃない?病院らしくなくて」と彼女はそう言ってほほ笑んだ。

「ええ、まあ」と私は中途半端にそう答えた。先生が女であることも含めて、驚かなかったというと嘘にはなるが。

「開業するときに、病院らしくないところ、って不動産屋さんにお願いしたら、ここを紹介されたの。最初は、もうじき倒壊するんじゃないかって思うぐらいオンボロで、リフォームが相当大変だったわよ。でも、すごく今は気に入ってるの。立地もすごくいいでしょ?緑が多くて。あら、やだ、むだ話ばかりして。それじゃ、早速診察に入りましょう。今日はどうされました?」

「最近、よく眠れないんです」

無論、実際にはそんなことはなかった。これは口から出まかせだった。不眠症の男が甘いものをがっつくのは、いかにも不自然だった。

「症状はそれだけ?」

「それと…」私はそう答えて言葉に詰まった。先週、タクシーの運転手に聞いた、「心の底から願っていることが叶った」という言葉が頭をよぎった。そう、私の願いは妄想を一掃することだった。しかし、どうやって自然にそれを伝えるか?迂闊にもノープランだった。

 しばらく悩んだ後、私は続けた。

「その…、なんというか、嫌な考えがいつも浮かんで苦しいんです」

「嫌な考え?ふぅん。そうなのね…。わかりました。大丈夫よ、それ以上言わなくても」

「えっ」

「あなたみたいな人はときどきやってくるから、言わなくてもどんなことをしてほしいかは勘で大体わかるの。安心して。怖いことは何もないから」と夏木医師はそう言った。

「言わなくてもわかるって?」と言いながら、私は少し当惑した。私の本当の願望は口の出すことが憚られる種類のものだったからだ。

「もちろん、あなたの心の中はわからないわ。でも心の葛藤で押しつぶされそうなのはよくわかる。いい治療法があるわ。試してみる?うちは特殊なところなの。あなたみたいな人のために特別メニューを用意しているわ」

「特別メニュー?」

「そう。特別メニュー。催眠療法の一種になるかしら」そして、彼女は続けた。「あなた、明晰夢って知ってる?」

「夢をみているときに、自分は夢をみているんだ、って自覚しているやつ?」

「そう、それ。脳波にはいろいろあるんだけど、通常、夢を見ているときは8ヘルツから14ヘルツのアルファ波が支配的だって言われているけど、明晰夢を見ているときは25ヘルツから40ヘルツのガンマ波が見られるの。ちなみに、瞑想中のチベットの修行僧の脳波はガンマ波が優勢であることも知られているわ。それとね、ここが大事なところなんだけど、脳波は音声などを聞かせることによって外部から誘導可能だわ。すなわち、明晰夢が見れる状態は意図的に作れるってことね」

「明晰夢って言っても、ただの夢でしょ?これは夢だって自覚したとしても。目が覚めるとすぐ忘れてしまうような」

「普通はね」と彼女は含みのある笑顔を見せた。

「普通って?」と私は思わずそう答えた。

「さっきから言ってるでしょ?うちは特別なところって。あなたがこれから見るのは夢なんて生易しいものじゃない。言ってみれば、もう一つの現実よ」彼女は続けた。「夢と現実なんて本質的には違いはないの。人は現実の圧倒的にリアリティーのあるものを現実と決めつけて、それ以外の方を夢として区別しているに過ぎないのよ」

「現実と区別できない夢なんて意図的に見ることなんてできるんですか?」

「もっとも、普通に脳波誘導をしただけでは、そんなレベルには到底到達できないわ。私ね、そういうの専門なの。睡眠中の人の脳の発火現象をテーマに博士論文を書いたことがあるわ。それに開業する前は、ある大富豪一族が出資する研究機関にいたの。表向きは医学による社会貢献を謳っているけども、実際は相当怪しげな研究をやっているところだったけどね。でも、そこでは、かなりの額のお給料を貰いながら随分好きに研究させてもらったわ。そこで自由自在に脳内に仮想現実を作り出す研究をしていたの」

彼女は相当優秀な人であるらしかった。しかし、その研究領域はひどく胡散臭いものに思えた。ごく控えめに言っても、あまり深く関わらないほうが得策であるような気がした。その一方で、彼女の話にもう少しだけ付き合っていたい気もした。

少し迷ったが、私は質問を続けることにした。怖いもの見たさの感情が勝ったのだ。私は、このときほど自らが物好きであることを自覚したことはない。心の奥から沸き起こる好奇心を抑えることができなかった。

「脳内に仮想現実を作り出すって、具体的にはどうやるんですか?」と私は率直に聞いてみた。

「現実レベルの夢を見るには脳波の周波数と強度、脳内のドーパミンの最適条件、五感からの情報の完全シャットアウト、それに、これはノウハウだからあんまり詳しくは言えないんだけど、ある種のサブリミナル信号の組み合わせが必要なことを突き止めたわ。特許が取れるんじゃないかって思うぐらいの大発見よ」と彼女は、誇らしげに私の質問に答えた。私は、経験上、科学者とはこのような反応をするものだろうということは理解していた。いわば、一種の自己顕示欲の発露だった。

「私は素人なのでよくわかりませんが、随分素晴らしい技術をお持ちのようですね」と私は話の成り行きで彼女を褒めた。しかし、実際には彼女の理屈は全く理解しかねていた。

「それにね」と上機嫌になった彼女は言った。「その技術を応用して結構いたずらもしたわね」

「いたずら?」

「そう、被験者に嘘の記憶を刷り込んだりして。ある特殊な操作をしてあげれば人の記憶を作り出すことなんて簡単よ。現実そっくりな夢を断片的に何度も見させるの。例えば、猫を飼ったことのない人の夢の中に彼が愛猫と過ごしたという偽の記憶を刷り込むとかね。夢を見てしばらく経てば、潜在意識では嘘と現実の区別なんてできないから、嘘はやがて真になる」

「えっ」と私は思わず声を出した。私は彼女の発言に半ば驚きながら、この女は正気なのか、と思った。

「それで、被験者はその後どうなるんですか」

「気の毒だけど、そのままよ。もとに戻す技術は今のところないの。でも、思うのよ。特にたちの悪い記憶を植え付けているわけではないから、そんなに心配することないかなって」

「そのままって…」

「安心して。今はそんなことやっていないから。まあ、こんなことばっかりやってたから、前の職場に居づらくなってしまったけどね。一応、これでも反省しているのよ」

この女はやはり少し狂っている、と私は思った。とんだ災難に出会ってしまった。私は一刻も早く帰りたくなった。きっと来る場所を間違えてしまったのだ。

「すみません、せっかくですが、その治療法を試すのはまたの機会にします。今日はなんだかそういう気分じゃなんで」と私は言った。

この場は早々に退散することに越したことはなった。もはや長居は無用だった。私はおもむろに立ち上がり、踵を返そうとした。

「あらあら、もうとっくに治療は始まっているのよ」と彼女は診察室を後にしようとする私に向けてそう言った。

「はい?おっしゃっている意味がよくわかりませんが」と私は彼女に答えた。

「つまり、引き返そうとしても、もう遅いっていいたいのよ」

「遅い?」

そう言った瞬間、急にめまいがした。そして、まともに立っていられなくなった。私は、無意識的にすぐ傍の診察用のベッドにへたり込んでしまった。恐怖感とともに、体のコントロールが急速に失われていくのが自分でも分った。

「あなたが疑り深い人だって、ここに来たときの様子から何となく分ったわ。だって、こんな風変りなクリニックのやることなんて簡単には信じないぞ、って顔に書いてあるみたいだったもの。でも、あなたみたいな人こそ、私の治療を受けてもらう必要があるの。実は、さっきお出しした飲み物とお菓子に眠り薬を混ぜておいたの。大型動物でも倒れこんでしまうような分量で。少し強引だけど悪く思わないでね。これもあなたのためだから」

私は何か言ってやりたかったが、口からは言葉にならない声が力なく漏れるだけだった。

「あなたはこれから深い眠りに落ちるの。でも眠るのは最初のうちだけ。そのあとは超覚醒よ。夢の世界で」

そういうと、女医は私にゴム製の黒い全頭マスクとヘッドホンをかぶせてきた。私は外界からの光と音とは無縁となった。

遠のく意識を集中しようとしたが、無駄であった。私は、ただ暗闇の中で、体の自由とともに自我が失われてゆくのを感じることしかできなかった。漆黒の宇宙のような闇の中でただ聞こえるのは、無機質な音のうねりだけだった。

やがて、抵抗しようとする気も失せてきた。すると不思議な感覚が体を支配していることに気付いた。耳にしている大音声はただの機械音であったが、意外にも心地よかった。まるで体の芯を愛撫されているかのようだった。

「さあ、行くのよ。あなたが本当に望む世界へ…もう扉は開かれている」と彼女はそう言った。いや、そうではなかった。実際には、大音量が流れるヘッドホンをしていたので彼女の声が聞こえるはずはなく、そう言われた気がしただけだった。

しだいに意識が朦朧となり、大きな音とともに黒い空が落ちてくる感じがした。もはや、どちらが上でどちらが下かわからなかった。自分と外界との境界が曖昧になり、周囲の空気が重くなりねっとりとまとわりつくような感覚がした。また、ベッドが液状化し、温かな粘膜にようになったようだった。私は、流動化した生暖かい世界に絡めとられながら深いところへと沈んでいった。まるで底なし沼に堕ちてゆくように。これから、世界の根源に潜りこむ、そんな気がした。また、そこに落ちてゆくとともに体が時を遡っていくようだった。若いころ、少年時代、幼児期…。そして、私の体はさらに小さくなっていった。さらに小さく、さらに小さく…。

気が付けば、耳に鼓動が聞こえた、これはきっと母の心臓の音だった。すると、ここは子宮の中だろうか?

私は予感した。ここで私自身の組成が変わるのだと。清らかで美しいものに変わるのだと。

そして、原始の海で生をうけるそのときを静かに待つのだと。

気持ちいい。とても気持ちいい。私はこれから生まれ変わるのだ。きっと、生まれ変わるのだ。

生まれ変わる…。生まれ変わる……。

 やがて、私は強い光に包まれた。そして、私の意識は白い光の中に意識が吸い込まれていった。


目を開けると、夜の空気に包まれていた。

私はどこかの部屋のベッドで横になっているらしかった。部屋といっても、さっきまでいた診察室ではなかった。どこかの寝室に居るようだった。私は目だけで辺りを見回してみた。シェード付きのランプが放つ弱い光が周囲を優しく照らしていた。かなり広い間取りの中に舶来物の瀟洒な家具がバランスよく配置されていた。窓は臙脂色のカーテン掛で覆われているが、かなり広いことが伺い知れた。天井を見上げると、私が横たわっているベッドは天蓋が優雅に膨らんでいた。どこかの避暑地にある別荘の一室―そういう形容がふさわしかった。そして、華美な装飾彫りの施された重厚なチェストの上に、一体の古びたテディーベアが飾られていた。

私は、昔、以前この部屋で過ごしたことがあるように思えた。しかし、それがいつだったのか、また、ここがどこなのかよく思い出せなかった。ただ、漠然とした懐かしさだけが感じられた。

次第に私の意識が明瞭になった。つい先ほどは、たしかに奇妙な女医に夢見の施術を受けていたのだが、ここでは夢を見ているのかどうか定かではなかった。夢にしては感覚がクリアすぎた。もしかしたら、眠っているうちに、どこかに連れて来られたのではないか、そんな気がした。

私は起き上がろうとしたが、普段と体の感覚が何か異なるのに気づいた。シーツの肌触りからすると、裸にどうやらされているようだった。しかし、それだけでは説明できない感覚の違いがあった。つまり、シーツと触れて微かに擦れる私の肌は、滑らかさとキメの細やかさを増しているように感じられたのだった。それはまるで私の皮膚自体が絹に置き換わったような感覚だった。そして、微かではあるが体がいつもより熱っぽく重たかった。まるで、心が微熱を帯びた肉で覆われているような感じがした。そして、それはどことなく心地よいものだった。私は起き上がるのを止めて、寝起きのベッドの温もりをもうしばらく楽しむことにした。

 私はベッドに横たわりながら考えを巡らせたが、私が置かれた状況がまるで理解できなかった。私がいるのはどこなのか、また、私はいったいどうなってしまったのか、それらが全く分らなかった。ひとつ確かにに言えたのは、とりあえず危険な状態にはないということだった。そのような状況ならば、普通は手足をロープで縛られ、口はガムテープで塞がれ、もっとぞんざいに狭い空間に投げ出されているのが相場だ。私はそれなりに丁重に扱われているといって良さそうだった。

 しばらくするとドアが開く音がした。誰かが部屋に入ってきたようだった。私はベッドの反対側にある入口に目を向けた。そこには白いベビードール姿の一人の女が立っていた。彼女は、ウォータサーバーとグラスの載った銀のトレーを持っていた。

 手足はすらりと長く長身であった。また、鼻筋が通った落ち着きのある均整な顔立ちをしていた。大人の色気を漂わせた美女といってよかった。

「目が覚めたようね。のどが渇いたんじゃないかしら。お水を持ってきたわ」そういうと、女は私のほうへ近づいてきた。そして私の傍にある椅子に腰かけた。

彼女の顔が近くに見えた。眉はきれいに整えられ、まつ毛が長く美しかった。間接照明により、瞳は静かな輝きを帯び、肌が滑らかなグラデーションをたたえていた。また、肩まである細く滑らかな髪からは芳醇なコロンの香りがした。

「君は?」と私は言った。

言った直後、私は自分自身の声に驚いた。まるで女の声だ。

「ふふっ」と言いながら、彼女はいたずらな笑みを浮かべた。「麻里子よ。ようこそ私の世界へ。ここはあなたの望みが何でも叶う場所。私、あなたが眠っている間に魔法をかけたの。それはあなたが一番の望んでいたことじゃない?自分で確かめてみて」

私はゆっくりと身を起こした。シーツが体から滑り落ちる。上から見下ろすと胸元が美しく膨らんでいる。滑らかな体には体毛がない。これは間違いなく女の体だった。私は一糸まとわぬ自らの姿に呆然とした。

「あなた、意外と反応が静かね。もっと喜ぶかと思ったけど。まぁ、今は実感が伴わないから仕方ないわね」と彼女は言った。そして、彼女は足を組み換えながら続けた。「もっとよく見たほうがいいんじゃない。さあ、ゆっくり立ってみて」

彼女は私の手を取り、ベッドの脇の大きな姿見の方へ私を導いた。

「これは!」

私は再び絶句した。全身が見える大きな姿見には、裸になった彼女が見えた。いや、そうではない。鏡に映っていたのは、彼女にそっくりな私自身の姿だった。私にはもう訳がわからなかった。

「気に入ってくれたかしら。あなたは今、私に戻ったのよ」

「君に戻った?」

「そうよ。ここではあなたは私、私はあなた。そして、私のものはすべてあなたのもの。ねえ、ほら、鏡をよく見て。あなたの思うがままにこの体の好きな個所を眺めていいのよ。触っていいのよ。」

私は姿見の前で左右に体をひねったり、後ろを向いたりしながら、体の細部まで確認した。私の意思と無関係に現れたこの体は、まさしく私のものだった。そう解釈せざるをえなかった。私は理性による状況把握の裏で、抑えがたい感情に突き上げられていた。私はそれに耐えられそうになかった。

「これが君の体、いや、僕の体ということ?少し触ってもいいかな」と私は言った。

「もちろん」と麻里子は言った。

彼女がそう言うや否や、私の手、すなわち、この女体の手がお腹から乳にかけて優しく撫で上げた。

「ああ」と私は声を漏らした。

「好きなだけ声をあげていいのよ。この世界にいるのは、あなたと私だけだから。そして、あなたの心は今、閉じ込められているの。この肉の温まりの中に」と彼女は私の背後でそう囁いた。鏡には、そっくりな顔がふたつ並んでいた。そして、その一方は苦悶とも快感ともつかない表情を浮かべ、他の一方は淫靡な笑みを浮かべていた。

「あなたの思っていることも手に取るように分るのよ。あなたは心の中でこう言っている。『私はあなたにすべてを捧げます…あなたにならどうされてもいい。雌猫のように扱われても構わない。だから、お願いだからこれ以上焦らさないで。私のことだけ愛して』ってね」

彼女は私の体を隅々まで触れるか触れないかの指使いで撫で上げた。彼女の指に触れられることにより、私は自らの熱くなった体を感じることができた。私の体が甘い感覚に抗いながら小刻みに震えていた。

「ふふっ。抵抗しても無駄よ。今のあなたは淫らな女の子。この大きい胸は何?それに股間だって…。感じやすく、傷つきやすい。私はそんなあなたを深く愛しているわ。強く心を惹かれているの」と言って彼女は私の体をまさぐった。私は息苦しく悶えた。

「ああ…」

私は何も考えられなくなった。ただ、波のように打ち寄せてくる感覚に身を委ねるしかなかった。

「本当はあなたも私が大好き。わかっているんだから。もっと欲しいんでしょ?欲しくて、欲しくて、仕方ないんでしょ?いいのよ。我慢しなくて」と言って彼女は私の股間に手を入れた。体に強い感覚が走る。

「あら、やだ。背中をのけ反らせてどうしたの?ふふっ」と彼女は意地悪く笑った。

 そして、彼女の指が私の敏感な場所を掻きまわした。私は大きなよがり声を出した。

「なんて声を出しているの。どう、気がおかしくなりそうでしょ」

 彼女から責め立てられ、やがて、私の体は激しく痙攣がし始めた。

「!!」

 私の意識が一瞬の空白に包まれた。しばしの沈黙。私は恍惚としていた。

それから、彼女の濃厚な愛撫は、とめどなく続いた。そして、いつしか私は疲れ果てて、泥のような眠りに落ちていった。


目が覚めた。目の前が真っ暗だった。顔が何かに覆われているようだった。私はヘッドホンとマスクをかぶせられたのを思い出した。私は身を起こしながら頭からそれらをはぎ取った。頭が露わになると顔に涼やかな空気が感じられた。眠っている間に、私の頭部は汗まみれになっていたようだった。

「お目覚めのようね。それにしてもすごい汗。悪夢にでもうなされていたの」

目の前には夏木医師が座っていた。

「悪夢というわけでは…」と私は虚ろに答えた。

「ごめんなさいね、こうでもしないとあなたは施術を受けてくれそうになかったから」彼女は先ほどの非礼を詫びた。しかしながら、私は全く怒る気はしなかった。

「どうだったかしら、夢への旅は?」と彼女は言った。

「悪くはないです」と私は答えた。そう答えるのが精一杯だった。先ほどの不思議な体験を言葉を選びながら伝えたかったが、それをするには疲れ過ぎていた。

私は甘美な余韻の中で呆然としていた。

「今日はゆっくり休んだほうがいいわ。感想を聞くのは、また今度ね。また夢を見たくなったらいつでもいらっしゃい。一度くれば常連さんだから、診察時間は気にしなくて大丈夫よ。土日もOKよ。常識的な時間ならね。」

 その後、私は丁重に挨拶をし、クリニックを後にした。街はすっかり夕闇に包まれていた。

 私は、しばらくの間、ここを訪れざるを得なくなる。そんな予感がした。

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