レイト・サマー

Rico

第1話

私にはよく見る夢があった。

それは夢というより、まどろみの中で見る、ある種の抽象的なイメージといったほうがよいかもしれない。具体的なシーンの流れを伴わず、時間が滞ったように、ただ漠然とした像が私のイメージを包むのであった。

その夢の中では、私は幼い子供に戻っていた。そして、決まって私と同じ年恰好の少女が現れた。

私たちは裸のままの姿になって抱き合い、お互いの心臓の鼓動や息遣いを感じているのだ。私たちはただお互いの存在を感じ、永遠につづくかのような満ち足りた気分に満たされているのだった。

 その夢はある時は短く、また、あるときは長く夜明け前のまどろみの中に現れた。そして、決まって私の心の中に甘美な余韻と淡い感傷を残して去っていった。それを見た日の私はメランコリーを持て余しながら一日を過ごさざるを得なかった。

 ある夏の明け方のことだった。私はその日も同じような夢を見た。しかし、その日の夢は今までにないくらい長く続いた。そして、私は今までにない感覚を覚えた。それはまるで、夢の中の少女こそが私の真実で、彼女を目の前にしているはずの少年はうたかたの幻影であるかのような感じであった。

それは夢から醒めた後も長く私の意識に覆いかぶさっていた。


 その日の午後、私は仕事で取引先のとある町工場の社長室に居た。

社長室と言っても部屋は狭く、書類がうず高く積み上げられた社長のデスクと四人掛けの応接ソファーセットが奇跡的に納まっていた。もともと白であった壁のクロスは煙草のヤニで黄色く染まり、黒革のソファーのほころびからは、中のウレタンがはみ出していた。古い木目のエアコンがさして涼しくもない風を悪臭とともに吐き出だしていた。

脂ぎった初老の男が私と向かい合ったソファーに深く座っていた。彼はここの経営者だった。また、私のとなりで細身のスーツの青年がかしこまっていた。彼の名は水沢と言った。私の会社の営業社員で、商品の支払代金の回収に難渋していた。この日、私は彼にサポートを頼まれ、ここに同行していたのであった。

「今、丁度お金がないんだよね。悪いけどこの話はまた来月にしてくれる?」と男は言った。

「あの、社長、これで三回目なんですけど。こうやって、私たちが未払代金の回収にお伺いするのは。そろそろ払っていただけないでしょうか?お支払いただかないと、今お急ぎの地金の納入、ちょっと無理なんですけど」と水沢は言った。

「おいおい、参ったな。それは勘弁しれくれよ。それとこれとは話が別だろ?頼むよ水沢ちゃん」と社長は言った。「今開発中の新製品、それがないと出来ないんだからさ。今度のヤツは当たればデカいよ。期待してもらっていい。それに、納入してもらえないとなると、あれだよ、おたくへの支払ももっと遅れるかもしれないよ」

「いやぁ、それもちょっと…」と水沢は困惑した声を上げた。

この役目はお人好しの好青年には無理であった。ここは私の出番であった。

「社長、『商品を提供しないとお金は返せない』とおっしゃられましても、それでは、『お金を返すにお金を貸してくれ』といっているのとあまり変わらないような気がいたしますが」と私は言った。

「君、言い方に随分トゲがあるね。何もそうとは言っていないだろう」と社長は不快な表情を浮かべながら言った。

「とにかく、今までの未払代金をなるべく早くお支払いただかないと、ご対応するのはちょっと…」と水沢が口ごもりながら言った。

「そこをなんとか頼むよ。おたくとは数十年来の取引じゃないか?おたくが零細企業だったころからうちはモノを買ってるんだ。たまにはうちを助けたっていいだろう?」と社長は言った。

「それはそうなのですが…」と言って水沢は言葉に詰まった。

 水沢は彼の上司から厳命を受けていた。何としてでも未払代金三百万円の支払の約束を何としてでも取り付けてくること、また、代金の回収がなければ次の商品の納入などあり得ない、と。上司の意思は会社の意思であった。会社員である以上、彼には社長の要求にこれ以上応じることなど出来なかった。かと言って、彼には老獪な経営者を一喝することもできないようだった。

 このままでは埒が明きそうになかったので、私が社長に強く出てみることにした。

「水沢君、もっときつく言ったほうがいいよ」と私は言った。「この方は我々をなめきっているようだ。債務不履行は、泥棒と同じだということを分らせてやったほうがいい」と私は水沢をたしなめた。

「君、今、何と言った?」と社長は言った。彼の表情は一変していた。「人を盗人呼ばわりするのかね?」

「何か私が間違ったことを言っていると?」と私は彼に言った。

「桐野君と言ったね。君は実に無礼極まりない男だ。私は何も払わないとは言っていない。ただ、来月まで待ってくれと言っているだけじゃないか?」

「我々はもう待てませんよ。ところで社長、この金銭準消費貸借契約書、公正証書ですよね。この意味分りますか?」

「はぁ?そんなものしらんよ。公正証書といってもただの紙切れだろう?」

「ご存じなかったかもしれないが、これは執行証書といって裁判なしで強制執行ができるんだ」と私は静かに言った。「代金が払えないと言うなら、何か金目のものを代わりにいただくしかないな」

「あんたも面白いこというね」と社長は私を嘲笑うように言った。「うちの会社に金目のものなんでありゃしないさ。あるとしたら、タダ同然のオンボロの生産設備だけだ。そんなものよそに売ってもはした金にしかならない。そして、うちの生産は完全に止まる。そうなればおたくの売掛債権は永久に返ってこない」

「私は別にあんな油まみれで汚い工作機が欲しいとは言ってませんよ」と私は彼に言った。

「他にうちに何があるというんだ」と社長は言った。

「社長、私が何の当てもなくこんなこと言っていると思ってらっしゃるのですが?私は知ってるんですよ。社長のデスクの引き出しに面白いものが入っているのを」と私は言った。

 社長の表情が変わった。「君の言う『面白いもの』って何だね?」

「あなたは長年お一人である合金素材の深絞り技法を研究されていましたね。深絞り技法自体は缶詰の缶の製造にも使われるありふれた工法だが、加工素材である合金が特殊だ。扱いがとても難しい。極めて剛強だが、加工中しているときに間違った方向に力が入ると簡単に割れてしまう。あなたはそれをミクロン単位でコントロールする方法を編み出した。そして、机の中にはその工法の詳細と研究データが記されたファイルが入っている。違いますか?」と私は彼の隠している事実を審らかにした。

 社長は無言で私を睨んでいた。彼の頭からは異常なまでの汗が噴き出していた。

「それだけではありません」と私は続けた。「作業場の一角に小さな小部屋がありますよね、役員待遇の幹部社員でさえ立ち入り禁止の。その工作台の上の段ボール箱の中には、秘密の工法で作られた試作品が無造作に入っている。そうですよね?」

「あんた、なぜそれを?」と社長は小さな声で言った。

「おたくの従業員から教えてもらいましたよ。彼らは沈没船から逃げ出そうとするネズミのようなものだ。何に出もすがりたがる。ちょっと我が社への採用話をちらつかせたんですよ『知ってることを話してくれたら、悪いようにはしない』ってね。すると、まあ、彼らの節操のないこと。この話を聞き出すのは訳もありませんでしたよ」

「それをしゃべったのはうちの誰だ」と社長は狼狽した表情で尋ねた。

「それは言えません。そういう約束ですので」と私は言った。「ところで、社長、長年の夢だった特許出願まであと一息なんでしょう?今や、アメリカのアプリコット社がスマートフォン次期モデルの筐体用にと社長の試作品に興味を示している。この技術を権利化すれば高値で売れるかもしれないのに。惜しいなぁ」

「えっ、あの、アプリコット社が!」と私のとなりで水沢が驚きの声を上げた。

「うちの社員が、そんなことまで」と社長は青ざめた表情で言った。

「社長の夢がめでたく成就するか、それとも、水の泡と消えるか。我々がその生殺与奪を握っているということですよ」と私は言った。

 彼はしばらく無言で染みだらけの天井を仰いでいた。そして、突然口を開いた。「駄目だ。俺の負けだ」

 彼はデスクの横の金庫に近づき、鍵を外して思い扉を開けた。金庫の中に札束の山があるのが見えた。

「えっ、あるじゃん」と水沢は呟いた。

社長はその札束のうちのを三本取り出した。そして、それを無造作に応接机の上に放り投げた。

「三百万、今ここで耳をそろえて払ってやるよ」と彼は言い捨てた。

「代金さえお支払いただければ、こちらとしては言うことはありません。今後とも良しなに」と私は言った。

「それを持ってとっとと帰ってくれ」と社長は我々に言った。「それと、あんたたちは今後、うちに出入り禁止だ。二度と来るな」

 私たちは足早に町工場を後にした。塩をまいとけ、という大きな声が背後から聞こえた。

 私と水沢は梅雨開けの日差しの眩しさに目を細めながら、駅に向かって町工場が連なる一帯を歩いた。スレート葺きの建物のあちこちから流れ出る無機質な機械音と蝉のけたたましい鳴き声が絡み合いながら私たちにまとわりついているようだった。

「先輩、今日はありがとうございました」と水沢が私に礼を言った。

「いいよ、前の仕事で慣れているから」と私はネクタイを緩めながら彼に言った。

 今の会社では、この手の債権回収は私の本来的な業務ではなかった。しかし、他にできる者もいなかったので、半ば私が担当のようになっていた。

「ところで」と水沢は言った。「あのタコみたいな社長の会社には特許になるようなすごい技術が眠ってるんですね。私、気付きませんでしたよ」

「すごい技術?さあどうかな」と私は彼に言った。

「えっ、だって、さっき権利化の話をしてましたよね?特許になる見込みがあるんじゃなかったんですか?」

「見込み?そんなものないよ。あれは出まかせだよ」

「そうなんですか?」

「まあ、工夫したら特許が取れなくもないだろうけど、あの程度の技術なら、普通は無理だね。それに少なくとも日本国内じゃ、製法の特許なんて役に立たないよ。特許侵害で訴えようにも、相手の会社の製造ラインに不法侵入でもしないかぎり証拠なんて手に入らないぜ」

「じゃあ、アプリコット社が興味を示しているって話も?」

「それは、全くの嘘じゃないけど、あそこの取引契約は業界で『悪魔の契約』って呼ばれてるのは知っているか?」

「どういうことです?」

「品質要求のレベルが病的に高い。しかも、契約に反するような不良品を出せば多額の違約金を払わなければならない。それが払えずに結果的に買収された日系企業はいくらでもある。アプリコット社の真のねらいは会社ごと技術を安く買い叩くことだ。あの会社もいずれ身売りせざるを得なくなるだろうね」

「そうだったんですね」

「虎の子の技術の特許化も難しいし、取引の話も罠のような話だ。いずれにせよ、あの会社の未来はそう明るくない。まあ、今日はいただくものはいただいた。我々としては言うことはないじゃないか」

 歩きながら話しているうちに、我々は快速電車の止まらない小さな駅の近くにたどり着いた。昼下がりの駅前は幾分人がまばらだった。

「先輩、どうですか、そこのそば屋で遅い昼飯でも」と水沢が言った。

「ごめん、悪いけど、先に会社に戻るよ。仕事が溜まってるんでね」と私は彼に言った。

「そうですか、すみません、お忙しいところ無理を言ってしまったようで」と彼は言った。

「いいよ、気にしなくて」とだけ言って、私は彼とここで別れた。


一時間後には、私は会社に戻っていた。日本橋のとあるオフィスビルの、中堅の金属素材メーカーにしては広すぎるワンフロアが我が社の本社ということになっており、私はここの法務部に籍を置いていた。私は各支店や工場からのリクエストに応じて契約書の作成やリーガルチェックをすることを主たる業務としていた。また、時には債権回収や弁護士事務所との折衝、契約立ち合いをもこなすこともあった。

外出から戻ったばかりのオフィスは昼間にもかかわらず、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。クーラーからの静かな送風音により、時間が流れていることをかろうじて感じることができた。

私はデスクで一息つこうとしていたが、そこに、同じ部署の若い女子社員が私の背後から声をかけてきた。「あの、桐野さん」

「何だい?美菜ちゃん」と私は彼女に話しかけた。

「部長がお呼びですよ。相当お冠みたい」と彼女は言った。

「面倒くさいな」と私は呟いた。

 次の瞬間、彼女の背後にやたら背の高い銀髪の男が現れた。沢木部長だった。

「桐野。ちょっと来い」と彼は低い声で私に言った。明らかに不機嫌そうだった。

 私はそのまま窓側の奥まった場所にある彼のデスクの前に立たされた。部長はデスクに肘を付けて指を絡めた格好で椅子に座り、私の顔を下から睨み付けた。

「お前、営業部の水沢に拝み倒されて、前野工業に債権回収に行ったな?」と部長は言った。

「ええ、そうですが」と私は答えた。

「やはり、そうか。さっき、前野社長から電話があった。随分とご立腹のようだ。お前、一体、何を言ったんだ?」

「別に大したことは言っていませんよ。代金を払わないなら、強制執行も辞さないと言ったまでです」

「あのな、桐野。前野工業はどういう取引先か分っているのか?小さな取引先だが、うちとは三十年来の取引先だ。しかも、前野社長はうちの会長のご友人だ。決してご無体な扱いをしてはならないお方だ」

「そんなことは百も承知です。しかし、部長、いくら会長とご昵懇でも、債務不履行はいけません。それを回収するのは会社の利益を考えれば当然のことだと思いますが」

「それはそうだが、たかが三百万円じゃないか?ここは目を瞑れ」

「しかしですね、部長」

「しかしも糞もない!」と部長は荒げた声を出して言った。「尻ぬぐいをする身にもなってみろ」

 私は黙るしかなかった。

「とにかく、これから私が菓子折りをもってお詫びに伺うから、お前はもうこの件のことは忘れろ。回収した代金については、第一営業部の島田部長と話をしてそのまま全額をお返しすることにした」

「そんな、それじゃ水沢君があまりにもかわいそうですよ」と私は食い下がった。

「彼には悪いが、もう決まった事だ」

「部長、ちょっと、待ってくださいよ」

「もう話は終わりだ。さあ、早く仕事に戻った、戻った」

 まるでとりつく島もなかった。私の経験則から言えば、こうなれば、彼に何を言っても無駄だった。私はこれ以上議論するのをあきらめるしかなかった。


 債権回収が無駄骨に終わったことを嘆いている暇は無かった。私はその後、山積している仕事に追われた。

私がパソコンの画面に向かい溜まったメールを処理していたところに、私のとなりのデスクの小柄な男が声をかけてきた。「おい、君、聞いたか、昨日の裁判の話。いやぁ、驚いたね。てっきりうちが押してると思ってたけどね」

「まあ、小耳には挟んでいましたが」と私は答えた。

裁判というのは、我が社が競合他社の特許権を侵害したとして二年前から訴えられている件だった。この件は争いの論点が専門的であるため、法務部ではなく知財部が主管していた。法務部員たちは傍観者であることに苛立ちながら蚊帳の外で裁判の「戦況」に聞き耳を立てるしかなかった。私もこの紛争の行く末に全く関心がないわけではなかったが、この時は雑談どころの話では無かった。しかし、無視するのも気が引けるので、仕事をしながら適当に相手をすることにした。

「要は、弁護士に騙されてたってことかね?」と男が言った。

「そう言えなくもないですね」と私は答えた。

「裁判官の心を読むってのも、弁護士のスキルなわけでしょ。やっぱあの先生じゃ無理だったのかな。不利ってわかってれば、他に打つ手もあったかもしれないのにね、早々に降参して和解条項で首が締まらないように拝み倒すとか」と彼はそう続けた。

「上村さん、本気でそう思ってるんですか?」

「いやいや。冗談だよ、冗談」と彼は言った。「しかし、これからしんどいよね。負けるとなると。少なくとも相手に譲歩の必要性はないわけだ。和解交渉になるかね」

「負けが確定する前に、うちも特許権侵害で訴え返したらいいんですよ。前にドラマでやってたみたいに。もしかしたら刺し違えでドローに持ち込めるかもしれません」と私は、パソコンの画面に向かったままでそう答えた。

「うちの保有特許で?それは厳しいんじゃないの?だって、うちの特許って、お飾りみたいなものでしょ?そんな特許でも権利が取れたら上のほうはご満悦。使い物にならない特許を抱えて泣きをみるのも、これまでそういう特許ばかり取ってきた知財部の自業自得というものだよね。まあ、よその部署のことなんて知らないけど」と上村は言った。彼は知財部のことを快く思っていないようだった。私も社内での法務部と知財部の仲が悪いのは承知していた。しかし、私はそのような不毛な対立とは意識的に距離を置いていた。

気が付けば、時計はすでに夕方6時を回っていた。フロアは人がまばらになっており、無人のデスクのうえは、西日でオレンジ色に染まっていた。

「ところで、仕事終わんないの?」と上村はそう言った。

「外注先の飯野製作所との秘密保持契約書の条項案を今日中に見直さなければならないんで。先方から契約締結直前に直してくれって泣きが入ったらしいです」と私はそう答えた。もちろん、彼の手伝いは期待していなかった。彼は同僚を助けるような人間ではなかったし、私としても適当に口出しされると迷惑だと思っていたからだ。

「そうか、それは気の毒に。申し訳ないけど、今日は家族と食事に行くんだ。娘がどうしてもとせがむんだよ。遅くできた子なのでつい甘くなってしまうんだよね。最近は残業規制が厳しいから君も遅くならないようにね。8時にはエアコンが強制的に止まるからそれまでには帰ったほうがいいよ。それじゃ、お疲れさま」と彼はそう言って帰っていった。どことなく彼の足取りが軽いように見えた。

 私は仕事に戻った。静まりかえったオフィスでひとり残務を進めていると、なぜか、妻と娘と水入らずで過ごす上村のイメージが頭をよぎった。今日は娘の誕生日か何かだったのだろう。今頃、彼の住む北千住あたりの小奇麗なレストランでささやかな幸せを分かち合っているのだろう。私はそれに構わずに仕事を進めようとしたが、書類を読む私の脳裏に何度もしつこく浮かび上がった。そして、遂には仕事が手につかなくなってしまった。

 私は頭の上で手を組み、薄暗い天井を見上げた。

 「馬鹿らしい」と私は呟いた。

 何について苛立っているのか自分でも分らなかった。ただ、無人のオフィスによく通る自らの乾いた声が誰か他の人のもののように思えた。


 週末の夜、私は「メイデン・ボイジ」というバーに居た。

「ねぇ、聞いてよ。今週は本当にストレスフルな一週間だったわ」とショートボブの女が言った。ピンクの細身のワンピースと髪の間に見えるうなじの白さがまぶしい。

「どうしたんだい。いいよ。言ってみて。何でも聞くからさ」と私はほとんど氷だけになりかけたグラスを傾けながら答えた。

この手の話では、私は専ら彼女の聞き役だった。私は自分の役割はそうゆうものだと心得ており、自分からくだらない愚痴をこぼすことはなかった。仮に私が何か言っても彼女はまともに取り合ってくれなかっただろう。私はそれでも特に不満はなかった。

「先週お店に来た不動産会社の社長からのLINEメッセージがほんとうにウザいの。『どうかこの老いぼれと付き合ってくれないか』って、一日に何度も入れてくるのよ。私、お昼の仕事もしているのは話したことあるよね。昨日なんか、仕事中に何度もメッセージしてくるから周りから変な目で見られるかと思って大変だったわ。あぁ、あのハゲオヤジ、ほんとキモい。個人のIDなんか教えなきゃよかった」と彼女は言った。

そして、さらに彼女は続けた。「それとね、おとといなんか、生意気な新人の子がヤクザのお得意様を怒らせちゃって。私までとばっちりを受けちゃった。『てめぇ、ぶっ殺すぞ』ってね。本当に怖かった。吉彦は気が弱いから泣いちゃうかもね。その後もママから呼び出されて教育係の私が悪いっていうの。ねぇ、ひどいと思わない」

「それは災難だったね」と私はそう返した。実際にはことさら感想はなかった。ただ、私が「気が弱いから泣いちゃうかもね」は余計だと思ったが。

この手の話に対する応対は、アウトラインさえ押さえておけば、あとは適当に同調しておけば事足りる。女の筋道のない長話とはそういうものだ。彼女の声を聴き流しながら、店の中を観察してみた。アンティークの椅子とテーブルのあるこぢんまりとした店の中は、洒落た間接照明で程よい明るさに調整されていた。また、我々が座っている年代物のカウンター越しでは、年配の店主がシェーカーを振っていた。軽快な手首のスナップから、彼のこれまでのバーテンダーとしてのキャリアが伺われた。彼はその軽やかな手さばきでこれまで何万回カクテルを作ってきたのだろうか? 奥のテーブルでは若い男女が何やらささやきあっていた。二人の距離感は今の自分にはまぶしく思えた。BGMの「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」の官能的なサックスの調べが彼らを祝福しているように思えた。

「ねぇ、聞いてる」と彼女が不意に問いかけてきた。

「あぁ、もちろん」と私は反射的に答えた。

 彼女は私に何を求めているのだろう?いまだによくわからない。彼女と出会ったのはいまから半年程前だった。会社の送別会の二次会でいったクラブで彼女がホステスとして我々に同席してくれたのだった。私は職場の酒の席は好きではなかった。普段は一次会で切り上げるのだが、その日は切り上げるタイミングを見極めるのが難しく、どうしてもそれが出来なかった。ラウンジのソファーで所在なくいたところが彼女の目に留まったらしい。この手の店に来る客は、大抵は酔ってコンパニオンに大言壮語を吐く。そんな連中とは明らかに毛色がことなる私のことが新鮮に映ったらしい。彼女は少し年増であったが、それなりに美しかった。私も彼女と親身になれて悪い気はしなかった。気が付けば我々は連絡先を交換していた。

 最初の頃は、我々は非常にうまくいっていた。食事にも何度も行ったし、ドライブにも行った。しかし、二人には乗り越えられない壁があった。それは、彼女の小学2年になる一人息子のことだった。私としては養育する用意があった。私はそれとなく我々の今後のことについて―わかりやく言えば、彼女とその息子と所帯を持つことについて―提案を持ちかけようとしたのだが、彼女は一切乗らなかった。理由はよくわからないが、私は父親候補として不適格と判断したのだろう。我々はどこにもたどり着けないまま、ただ、惰性のみで逢瀬を重ねているのだった。

 その後も1時間ぐらいこのようなやりとりが続いた。私は、彼女が言葉を吐き終えて満足したのを見計らい、店を出ようと切り出した。彼女もそれに応じた。

 「しばらく歩こうか?」と私は酔いを夜風に吹かれて少し覚ましたかった。もう真夜中近くだった。真夏のまとわりつくような生暖かさが残る夜が街を覆っていたが、それでも昼間よりははるかにましだった。通りすがりのヘッドライトが時折私たちを照らした。今日は土曜日のせいか、車の数が少しまばらな感じがした。通りのコンビニの集虫灯に虫たちが群がっていた。

「最初に出会ってからもう半年ね」と彼女は言った。

「そうだな」と私は答えた。

「吉彦はなんで私と付き合ってるの?変な意味じゃなくて」

「それは」と言ってわたしは言葉に詰まった。正直に言えば、私にもその理由がよく分らなかった。

「まあ、そんなことはいいじゃないか」と私はそう答えざるをえなかった。

「それよりも手をつなごうか?」と私は彼女に手を差し伸べようとした。

「いいよ。恥ずかしいから」と彼女は私を避けるように手を自分の胸のほうに引っ込めた。

「そう」と私は手短に了解した。

柔らかだが、冷淡な拒絶。私は自分の行動を少し後悔した。付き合い始めた頃はよく手を繋いで歩いた。だが、今となってはそんな簡単な希望もかなわない、それが現実だった。

「そろそろ帰ろうか。駅まで遠い。タクシーで帰ろう。家まで送るから」と私は彼女に提案した。今日はそろそろお開きだ。

「いいよ。いつも悪いから。それに近くに友達が住んでいるの。もちろん女の子よ。へんなかんぐりはなしよ。今日は彼女のところにお泊りするの」

「彼女は近くに住んでるの?」

「うん、すぐそこ」

「そうか、それじゃ、今日はこのへんで。またね」

「さようなら」と彼女は言って、角を曲がり、路地の奥へと消えた。私は彼女との関係の終わりを感じた。

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