第5話

 私と女の子は備品庫のような地下室にいた。さほど広くない室内にスチール棚が整然と配置されており、棚の上は段ボールや薬品が入ったポリタンクがぎっしりと並べられていた。

私は、その一角の壁にむき出しになった鉄骨の柱にロープでくくり付けられている状態だった。車から降ろされた後も全身ロープだらけで相変わらず身動きは取れなかった。また、女の子もロープで足を縛られ、さらに手をスチール棚の柱に縛り付けられてぐったりとしていた。

我々を拉致した連中のうち、デブとフランケンが我々の見張りをしていた。彼らは、我々のすぐそばでスチール椅子に座り暇を持て余していた。デブは生あくびをしながらスマートフォンでゲームをしているようだった。フランケンはただ天井を見つめ、彫刻のように佇んでいた。

正確には分らなかったが、ここに監禁されて3時間ぐらいは経っていた。暗い地下室からは外の明るさは知るべくも無かったが、車での移動時間を考えると、たぶん朝方なのだろうと思った。車に乗せられてたどり着いたのがこの謎の施設だった。おそらく、ここが彼らの秘密の研究施設に違いなかった。この施設の外から見える部分はどう見ても廃工場だった。しかし、構内の奥まった棟にある秘密のエレベーター(セキュリティーが厳しく、外部の者は一切入ることができないようだった)から地下に入ると、最先端の研究施設が広がっていた。

場所の見当がつかなかったが、我々はこの施設の暗い地下の片隅で囚われているようであった。

 見張りの二人が何やら会話をしていた。

「おい、腹が減らないか?」とデブが言った。

「そうだな」とフランケンが答えた。

「そろそろ、飯にするか」とデブがフランケンに食事の提案をした。

「でも、見張りは?」とフランケンは言った。一応自分の任務を心得ているようだった。

「構うもんか、こいつらはどこにも行けやしないさ。それに小一時間俺たちがどこかに行ってもわかりゃしないさ。俺たちは安月給で長時間こき使われてるんだ。飯ぐらいまともに食わないとやってられないよ」とデブは答えた。

「いいよ。わかった。飯だ」と言って、フランケンはデブの提案に乗った。二人は我々を一瞥すると足早に部屋を出て行った。

 部屋には、私と女の子の二人が残された。

「僕が原因でこんなことに巻き込んでしまって、すまない」と私は彼女に謝った。

「ううん、いいの。こんなことになったのは、もとはと言えば、母が変な研究をしていたからよ。私たちの方こそ、あなたを巻き込んでしまったんだわ」と彼女は私に言った。

「ところで、顎鬚の男が言ってたことって本当かい?」と私は彼女に尋ねた。

「顎鬚の男が言ってたことって?」

「先生の施術を何度も受けて無事なのは僕だけってことさ」

「うん、そうよ、あなただけよ。普通の患者さんでも1回や2回なら問題ないけど、それ以上は精神状態が極端に悪くなるって母が言ってたわ。実は、あなたに3回目以降の施術をするか迷ってたみたいよ。でも、あなたは特別だって言ってたわ」

「特別って、どうゆうこと?」

「よくはわからないけど、世界を変える人かもしれないって言ってた」

「世界を変える?」

私は突拍子のないことを言われて少し驚いていた。私の力などたかが知れていた。私は決してキング牧師やジョン・レノンではなかった。世界の変革など到底無理だというのが正直なところだった。

それよりも、ここでは危機を逃れるのが先決だった。とは言え、我々は地下室で拘束され、手も足も動かせなかった。この状況では、時機を待つよりほか無かった。

「ねえ、さっき足音がしたわ。誰かが来る」と彼女の声がした。私の思考は遮られた。確かに物音がした。乾いた靴の音だった。靴の音はこちらに近づいてきた。しかも、その音はデブとフランケンのそれとは違っていた。靴の音は部屋の入り口で一旦止まり、ドアが開く音がした。音の主は室内に入ってきたようだ。そして、我々のすぐ傍に大きな人影が現れた。

 現れたのは、モヒカンだった。彼は立ったまま座り込んでいる女の子をしばらく見下ろしていた。そして、その場にしゃがみ込み、女の子の喉元に大きなサバイバルナイフを近づけながら、彼女のおびえた目をじっと見つめた。

 「かわいそうに、あんたまで手足を縛られてさ」と彼は言った。「すぐに楽にしてやるよ。これから俺といいことしようぜ」

 彼が女の子に手を出そうとしていることは明らかだった。私は全身をロープで縛りあげられているたので手も足も動かせなかった。娘が下品な男に手籠めにされるのを見せつけられるのは拷問に近かったが、私は傍観するよりほかなかった。

 彼女は、小刻みに体を震わせながら静かにうなずいた。

「そうこなくっちゃ」

モヒカンは意地悪そうな笑みを浮かべながら、彼女の拘束をしていたロープを解いた。そして、彼女の背後から抱きかかり、彼女の髪の臭いを嗅いだ。

「たまんねぇ、女子の香りだ」と言いながら、モヒカンは恍惚の表情を浮かべた。女の子は恐怖と憎悪に全身を震わせていた。そして、彼は彼女の胸を揉みしだきながら、彼女の股間に手を差し伸べた。彼女は膝から下を固く閉ざし、モヒカンの手を拒絶している。

「そう固くなるなよ」

モヒカンは再びナイフを彼女の喉元に近づけた。彼女の白い太腿が開くや否や、彼の汚らしい手が彼女の股間に覆いかぶさった。そして、その指が彼女の股間の上をパンツ越しに躍った。彼女は苦悶の表情で恥辱に耐えていた。

目を背けたい光景だった。無垢な娘が薄汚れて毛先が広がったハブラシのような頭をした男の欲望のなすがままとなっていたのだった。私は公言するのが憚られるような風景は大抵見てきたつもりだったが、この種のものはさすがに見るに堪えなかった。

「へへっ、いい子だ。奥の方でもっと楽しもうぜ」

男は女の子の背後に回ったまま、自らとともにを立ち上がらせ、私の視界から逃れて奥の暗がりに彼女を連れ出そうとした。私が囚われの身であったとしても、淫行の一部始終を私に見られるのはさすがに気が引けたのだろう。 

 女の子は立ち上がり、頭をうなだれたままで、男の動きに抗うようにその場にしばらくじっとしていた。

「おい、何をしている。こっちへ来いよ!」とモヒカンは彼女を急かした。それでも、彼女は身動き一つしない。私は彼女の表情が一変していることに気付いた。何かを心に決めたようだった。

 次の瞬間、彼女は、男の太腿を手で思いっきり叩いた。男は驚いて彼女から手を離した。そして、彼女は振り向きざまに男の目のあたりを拳で殴った。

「ぐぁ!」と男は手を目に当てて悲鳴を上げた。

さらに、彼女は大股開きとなった男の股間をしなやかな脚で渾身の力を込めて蹴り上げた。彼女の足の甲は男の睾丸に当たり、まるでそれを内臓にねじ込むように、強く垂直に叩き上げた。鈍い肉の音とともに、彼のその器官が砕け散ったかのように思えた。

「はぁあ…」

モヒカンは股間を抑えながら声にならない声を上げてその場に倒れこみ、泡を吹きながら気絶してしまった。

私は、しばらく目の前で起きたことがうまく理解できなかった。女の子が襲われそうになっていた場面と男が倒れている場面とがつながらなかったのだ。私が呆気に取られている間に女の子はモヒカンの胸元からサバイバルナイフを取り出し、私の体の自由を奪っているロープを一本ずつ切り始めた。

「あれ、護身術?」と私は彼女に言った。

「そうよ。空手道場に通ってたのよ」と彼女はロープを切りながら続けた。「いざというとき役に立つかなって思って。でも、驚きだわ。男の人って股間が本当に弱点なのね」

 私はそのとき、少年時代に友達と異種格闘技の真似事をして股間を蹴られたことを思い出した。男が金的を蹴られると呼吸ができないくらいのダメージを受けるのだ。私は痛みの記憶に思わず身震いした。そして、少しだけその場で倒れているモヒカンに同情したい気持ちになった。

「あんまりやりすぎると、過剰防衛になっちゃうよ」と私は彼女に言った。

「過剰防衛って?」と彼女は私に問いかけた。

「正当防衛のやりすぎってことだよ。逆に犯罪になる」と私は答えた。

「いやらしいことをするほうが悪いのよ」と彼女は言った。彼女の言うことはもっともだった。手を出す男のほうが悪いに決まっている。女の防衛本能の前では法律の理屈は無力だ。私は前言について少し後悔した。

 ようやく、ロープがすべて切れ、私は体の自由を取り戻した。女の子の機転により、我々

は千載一遇の逃亡のチャンスを得た。とにかくこの場所から抜け出さねばならない。そして、どこかに囚われている彼女の母も助け出さなければならない。とにかく、ここにこのまま居ても致し方なかった。

「少し様子を見てくる」と私は彼女にそう言って、部屋の出口を探した。壁のようになったスチール棚の向こう側に鉄のドアが見えた。私はドアの前に立ち、ドアノブを回してみた。重い抵抗感はあったものの鍵はかかっておらず、簡単にドアは開いた。

私は少しだけドアを開けて外の様子を見た。外は長い廊下になっていた。また、私たちが閉じ込められている備品庫とは違い、照明に明るく照らされ白の天井と床が際立っていた。壁には等間隔で同じような無機質なドアが並んでいた。

外の廊下はこれまでに見たことがないくらい長かった。端が数百メートルは向こうにあるように思えた。私はこの千里の彼方にあるような廊下の端に目を凝らした。すると、そこに何か動くものが見えた。さらによく見ると、それは二つのものからなっているらしかった。その二つの動くものが微かに揺れながらこちらに近づいて来ているようだった。どうやらそれは人のようだった。人が二人こちらに歩いて来ているのだった。男たちが何やら談笑している声も聞こえた。こちらに向かっていたのは食事から戻ってきていたデブとフランケンだった。それは非常にまずい状況であった。このままでは囚われの身に逆戻りになるのは目に見えていた。私は静かにドアを閉じ、女の子のもとへ戻った。

「食事に出た奴らがもうじき戻ってくる」と私は彼女に告げた。

「えっ、やだ、どうしよう?」と彼女は少し狼狽して言った。

「とにかく、身を隠す場所を探そう」と私は言ってあたりを見回した。室内は物に溢れているとはいえ、身を完全に隠すとなると十分な大きさのものはない。しかし、ここで簡単にあきらめるわけにはいかなかった。我々は奇跡的に一時の自由を得ているのだ。このような僥倖はそう何度も訪れるものではない。壁がだめなら、床や天井に何かないか、と思い天井を見上げた。すると、人が一人通れるくらいの小さなドアを天井に見つけた。幸いなことに、スチール棚をよじ登れば、ドアに近づくことができそうだった。目を凝らすと、ドアには小さな取っ手と鍵穴があり、鍵がかかっているように思えた。しかし、男たちはすぐそばに迫りつつある。ここはイチかバチか賭けるしかない。私は、モヒカンが手にしていた頑丈な懐中電灯を手に取ってスチール棚をよじのぼり、天井のドアの方へ向かった。そして、ドアの取っ手を握り、思い切りドアを上に押し上げた。

 ドアは何の抵抗もなく開かれた。これは奇跡だった。きっと誰かが鍵をかけ忘れたのに違いなかった。

「上に登って来て」と私は彼女に言った。

「やだ、怖い」と彼女は棚によじ登ることを拒んだ。

「大丈夫だよ。それに今は怖がっている場合じゃない」と私は棚の上から彼女に手を差し伸べた。彼女は躊躇しながら、スチール棚をよじ登り始めた。彼女が半ばまで登ったところで、私は彼女の方から腕のあたりを掴んで彼女の体を引っ張り上げた。

 スチール棚の最上段にいる我々にとっては、目の前のドアの上に広がる漆黒の天井裏が唯一の退路だった。

「とにかく、今はここしか出口がない。急いで」と私は彼女に天井裏に入るよう促した。

「うわぁ、真っ暗じゃない。こんなところ、絶対嫌よ」と女の子は上半身をドアの中に入れたところで、それ以上入るのを拒んだ。

「今は贅沢を言っている場合じゃない。とにかく上がるだけ上がろう」と言って、私は彼女の尻を天井裏に押し込んだ。そして、自分も天井裏に潜り込んだ。

 天井裏は廊下と同じだけの左右に長く広い空間となっているようだった。私は懐中電灯で辺りを照らした。鉄骨の柱が規則正しく並んでおり、いたるところにケーブル類が走っていた。空間の高さは中腰で歩けるほどもなく、赤ん坊のように這いながら進める程度しかなかった。それでも、逃げ場がないよりはずっとましだった。しかし、左右どちらも行く先は真っ暗で、右に進めばいいのか左に進めばいいのか皆目検討がつかなかった。ここは自らの勘に頼る他なかった。デブとフランケンがやってきた方向に進めば外に繋がっているに違いなかった。私たちは右に進むことにした。

 私は、懐中電灯で先を照らしながら、ケーブル類が走るのと平行に天井裏の狭い空間を這いだした。女の子が私の後に続いた。

 空間はひんやりとした空気に包まれていた。空気は微かにカビの臭いがした。辺りはしんと静まり返っていた。私たちの息遣いだけが聞こえた。

「ねえ、あとどれくらい進めばいいの?」と女の子が私に問いかけた。

「わからないけど、あと、数百メートルはありそうだ」と私は答えた。自分でも見当が付かなかったがそうとでも答えるしかなかった。「ところで、君の母さんはこんな変な施設をつくる組織と関わっていたのかい?」

「母の以前の勤め先のことはよく分らなかったわ。ただ単純に、説明するのも難しい研究をやっているところとしか思わなかったわ」と彼女は言った。

「まあ、そうだろうな」と私は言った。夏木医師の研究内容を子供にかいつまんで説明するのは極めて困難な作業のように思えた。

「母は、クリニックを開業するまでは仕事のことはほとんど言わなかったわ。ただ決まった時間に帰って来て、ご飯を作ってくれて、眠る前に絵本を読んでくれる普通の母親だったわ」と彼女は言った。

「母さんとはずっと二人きり?」

「ええ、物ごころがついたときにはね。私には兄弟や姉妹はいないから、ずっと母と二人きりだった。父は私が生まれる直前に事故で死んだって言い聞かされてたわ。でも、ある時私分ったの。父は本当はどこかで生きているわ」

「それは、どうゆうこと?」

「一度だけ、父からクリスマスカードが届いたことがあるの。私が7歳の頃だったわ。私は父には一度も会ったことはないけれど、直観でそれは実の父が送ってくれたものだってわかったわ。死んだはずの父が生きていたって思うと、とてもうれしかった。だから、そのクリスマスカードを学習机の引き出しの奥に入れて大切にしまっていたの。でも、あるときそのカードが無くなっていたの。私は母になぜ無くなっているのか問いただしたわ。二人暮らしだから、引き出しから持ちだせるのは母だけだもの。そしたら、母が泣き出したの。『ごめんね、ごめんね』っていいながら。父と母の間に何があったか知らないけれど、それ以来、母とは父の話はしていないわ」

「ごめん、何だか聞いちゃまずいことを聞いたみたいで」

「ううん、別にいいの」

 それからしばらく、私たちは無言のままで暗い天井裏を這い続けた。暗闇に目が慣れてきたせいか、ケーブルや柱の表情が詳細に見えてきたような気がした。ケーブルが乱雑にまとめ上げられている箇所や、柱にチョークで数値が殴り書きで書かれた箇所があちこちに見られた。この施設が突貫工事で出来上がっているが伺い知れた。こうして進んでいるうちに、はるか前方に微かな光が見えてきた。

「出口はもうすぐだよ。きっとどこかに繋がってる」と私はにわかにこころを躍らせながら女の子に言った。

「本当に?よかった。このまま一生暗闇をハイハイし続けなければならないかと思った」と彼女は言った。その声には少しだけ安堵が感じられた。

 光がだんだんとはっきりしたものになった。この光は大きな空間の巨大な照明施設から発せられるもののようだった。

 私たちは、ついに長い天井裏の空間から抜け出た。

そこは、サッカーコートが2、3個入るようなとても巨大な空間の天井であった。巨大な照明灯が整然と並び、下の空間を照らしていた。天井と言っても、さきほどと比較にならないほど広かった。人が十分に立って歩ける高さがあり、鉄網状の通路が碁盤の目のように照明灯の周囲を取り囲んでいた。

 私は、天井から広い空間を見渡した。一面にステンレス製と思われる筒状の物体が縦に置かれて並べられていた。筒は直径1メートル、高さ3メートル程であり、ちょうど人が一人入るようなサイズだった。このような筒が百本ほど並べられており、それぞれの筒には配管が施されていた。それぞれの筒には配管により極低温の液体か気体が供給されているらしく、配管のいたるところから冷気が漏れ出て、白く床を這っていた。

「なんだこれは」と私は思わず呟いた。

 空間の片隅、つまり、私たちが居る側と反対側の一角には、作業スペースがあり、白い作業着姿の七、八人程の作業員が何か作業をしていた。全員フードとマスクをしているので彼らの表情を伺うことはできなかった。

作業員の中の二人は大きなバットに入れて氷水に漬ける作業をしているようだった。私はバットの中に目を凝らしてみた。人の手足が見えた。氷漬けにされているのは間違いなく人体だった。頭部に口へのチューブと一体になったようなゴム製の保護マスクをかぶせられた三十代ぐらいの痩せた男性が、体中にカテーテルを繋がれ、砂利氷の中に沈められていた。

 そのすぐそばには、全裸の人体が三体、台の上に横たえられていた。作業員の一人がそれぞれの体の瞳孔を確認していた。すでに彼らの意識はないようだった。彼ら顔はいずれも驚きとも苦悶とも言えないような表情で固められていた。贔屓目に言っても安らかな死に顔とは程遠かった。

「あれは死体だよな?」と私は震える声を殺しながら女の子に話しかけた。女の子は黙って頷いた。

 私たちは彼らが必死に隠し通そうとしているものを眼前に見ているのに違いなかった。おそらく、彼らは死体を冷凍保存しようとしていたのだろう。どこから死体がやってくるのか、また、なぜ冷凍保存しなければならないのかはわからなかった。しかし、この光景を見た以上は、我々の身は無事では済まないであろうことは容易に想像できた。

 しかし、我々はここで驚いてばかりはいられなかった。我々の当面の目的はここを抜け出すことだ。一刻も早く出口を探さなければならないことには変わりがなかった。私はここで天井を見上げた。床からここまですでに10メートルはあったが、天井までさらに3メートルはあった。天井には抜け出せるような穴はなく、また、そこまでよじ登る手段がなかった。であれば、我々は下に降りるしかなかった。私は下に降りる手段がないか、辺りを見回した。すると、我々が立つ側と向かい側の端に鉄製の梯子があるのを見つけた。グレーチングの通路をそのまま歩いて行けばそこにたどり着くのは容易そうだった。しかし、梯子の周囲に身を隠す場所はなく、しかも、作業スペースのすぐ目の前に備え付けられていた。仮に作業員が上のほうに目をやったとすると我々の姿は丸見えであった。彼らが作業中に動くのは危険すぎた。

 私が他に下に降りる方法はないかと思案していたところ、作業員の一人が声を上げた。

「そろそろ休憩にしよう」

彼がそう言うと、他の作業員は手を止め、すぐ傍の通用口に向かい歩き出した。そして、作業スペースには人がいなくなった。

「よし、今だ。とにかく下に降りよう」と私は言った。そして、女の子を連れて梯子のほうに向かった。

我々が鉄製の通路の上を歩く足音が空間中に広がった。私は作業員に気付かれないか少し心配だったが、幸なことにだれも戻ってこなかった。我々は、一歩ずつ慎重に梯子を下り、床に降り立った。私たちはここで辺りを見回した。ここから出るには、作業員たちが出て行った通用口に出るしかなさそうだった。私たちは、スチールの棚に並べられた意識のない人体を脇目に通用口に入った。

通用口の先はひどく曲がりくねった狭い廊下になっていた。見通しが悪いため、角の向こうに人が潜んでいないか気が気ではなかった。我々は角に近づく度に息を殺して角の先を確認した。いくつか角を曲がり先へ進むと、我々は奥の広い部屋に出ることができた。

部屋は更衣室のようだった。部屋の一角にはスチール製のロッカーが整然と並べられていた。また、別の場所では作業員が脱いだ作業着がまとめてハンガーに掛けられていた。

部屋の通用口側とは反対の出口はガラスの自動ドアとなっていた。しかし、ドアの脇にカードリーダーが据え付けられており、部外者は出ることができないようだった。

我々がここを出るためには、ここの関係者のIDカードを探さがして、カードリーダーに読ませなければならなかった。私は手当たり次第、ロッカーの扉が開かないか確認したが、どれも鍵がかけられていた。次に作業員たちが脱いでいった服も確認したが、カードは付けられていなかった。全員この部屋を出て休憩に向かったからそれは当然だった。

「ちくしょう!」

私は、思わずロッカーを蹴った。鈍い音が部屋中に広がった。ここであきらめたくはなかった。しかし、ここを出る術がなかった。私は宙を見上げた。

「考えましょう。きっと手はあるはずだわ」

女の子がそう言って私に寄り添った。私は何か手はないか考えなければならなかった。彼女のためにも。

そのときだった。何人かが歩いてこちらに向かう足音が聞こえてきた。作業員の誰かがこちらに近づいているのに違いなかった。先ほどロッカーを蹴ったのがまずかった。彼らは私が発した物音を不審に思ったのだった。

「まずい、隠れよう」

私は隠れる場所を探した。更衣室の一角がカーテンで仕切られていた。我々はそこに身を隠すしかなかった。

「なんだ、さっきの音は?」と部屋に入ってきた作業員の一人が言った。彼はリーダー格のようだった。

「何かがロッカーにぶつかったような音でした」と別の作業員が言った。

「部外者が勝手に中に居るんじゃないのか?」とリーダーが言った。

「班長、誰も見当たりません」と部下が答えた。

「いや、絶対誰か居る」とリーダーは言って、部屋中を見回して精査した。

 彼はきっと我々のほうを見ている。―そう思うと私は心臓が口から飛び出しそうに思えた。私はただ、彼らが我々の存在に気付かないことを祈った。

「ん?あのカーテンの裏にだれか居るな」とリーダーは言った。

祈りは通じなかったらしい。リーダーは我々の方を指さしたようだった。我々はカーテンの外に出るしかなかった。

「君たち、誰?」とリーダーは我々を鋭くにらみながら言った。

「…」

ここは、どう答えるべきか、と私は言い訳を考えた。ここは何を言っても嘘くさかった。私は黙り込むしかなかった。

すると、私のとなりで女の子が突然口を開いた。

「私たち、アルバイトなんです。新薬の被験者にならないかって言われて。でも、何処に行ったらいいのかわからなくて、さっき近くを歩いている人に聞いたらここに通されたんです」

無論、全くの思い付きだった。そんなことを言ったら、余計状況が悪くなるに違いなかった。案の定、リーダーは動じず、我々に刺すような視線を向けたままだった。

重い沈黙がしばらく続いた。

「班長、そういえば」と作業員の一人が口を開いた。「今日から新薬開発セクションが投薬実験をやるって言ってました。それで、今日、アルバイトが10人くらいくるって」

 私はあっけにとられた。まさに、嘘のような偶然だった。

少し間があったが、リーダーは承知したようだった。

「君たち早くここを出て行って。誰が案内したか分らないけど、ここは部外者以外立ち入り厳禁だからね。ここを出てずっと左側にエレベータがあるから、それで地上1階に戻って。受付はエレベータを下りてすぐ右側にあるから。わかった?」と彼は私たちにここから退去するよう促した。

 彼の部下の一人がIDカードをカードリーダーにかざしてドアを開けた。そして、我々はすぐさま部屋の外に追い出された。これは全くの幸運だった。外に出た我々は、ひとまずエレベータがあるという左側に向かった。

 長い廊下を歩いてゆくと、リーダーが言っていたエレベータに行きついた。そして、そのすぐ手前に白い壁に囲まれた人気のない休憩室があった。ここには窓はないものの、照明により明るく照らされ、後ろめたい陰湿さとは無縁のように思えた。簡素な白いソファーとテーブルが部屋の中央に置かれ、壁際に自動販売機が数台置かれていた。

 そういえば、私は昨日の夕方から飲まず食わずであった。ひまわりクリニックで顎鬚たちに拉致同然に連れ出される前に、自分の部屋でビールを飲んだのが最後だった。そう思うと、急に喉が渇いてきた。

「ごめん、ちょっと一息いれよう」と私は女の子に申し出た。

「えっ、今はそれどころじゃないでしょう?」と彼女はあきれ顔で答えた。

「僕が思うに、出口はもうすぐだ。ここらで一息ついても問題ないよ。それに昨日の夜から飲まず食わずだ。正直ガス欠だ」

「もう、しょうがないわね」と彼女はしぶしぶ同意した。

 我々は、自販機で飲み物を買い、中央のソファーに腰かけた。少し前まで、硬い荷台や床の上に放り出されていたためか、ソファーの包み込むような感触が心地良かった。私は缶のプルタブを開け、コーラを口に流し込んだ。水分が渇いた全身にしみこむような感じがした。前に飲み物を飲んだのが数年前のことのように思えた。女の子も私と同様に飲み物を飲みながら安堵の表情を浮かべていた。やはり、ここで休憩をとって良かったのだ。

 私は目をつぶって昨日からこれまでのことを考えた。夏木医師からの予言。そして、彼女の突然の失踪。娘からのSOS。得体の知れない連中との出会い。物置への監禁。天井裏の徘徊。巨大な冷凍墓場からの脱出。信じがたいことだが、これらすべてが、昨日からの短時間で起こったことだった。そして、そのすべてがあまりにも私の日常からかけ離れていた。私は運命の急流が作る巨大な渦に巻き込まれているのだと思った。私ができることは手足をばたつかせて溺れないでいることがせいぜいだった。この先どうなるのか検討もつかない。この渦に巻き込まれたら、私はどうなるのだろう?生きて戻れるのだろうか?そもそも、麻里子のいない世界に生きて戻ったとしてどうするというのか?そのような世界に生きて戻るほどの値打ちはあるのだろうか?もしかしたら、この激流に身を任せて行きつくところまでいくべきなのかもしれない…。

「おい」

私が遠ざかる意識の中で考えていると、遠くから何者かが語り掛けてきた。きっと空耳だろうと思い、私はその声を無視した。

「おい」

しばらくすると、また声が聞こえてきた。捨て置け、気のせいだ、と自分に言い聞かせて私は声を無視し続けた。

「おい、起きろ」

誰かがしつこく私を呼んでいる。しかも声は先ほどよりも大きくなっていた。

「うるさい。いい加減にしてくれ」と私はいら立ちながら答えた。

「何寝ているんだ?さあ、お目覚めの時間だ。起きろ」と誰かの声がなおも続いた。私は、この声に聞き覚えがあることに気付いた。私の記憶によれば、声の主はあまり歓迎できない種類の人物だった。この声を無視しては自分の身に危険が起こる予感がした。私は静かに目を開けた。

「災難の渦中で朝寝か?あんた、いい度胸してるじゃねえか」

目の前にいたのは顎鬚だった。彼は新手の部下を引き連れていた。彼らは警察の特殊部隊のように黒い戦闘服とヘルメットを身に着け、サブマシンガンの銃口を我々のほうに向けていた。しかも、同じ格好の戦闘員が5人もいた。となりに座っていた女の子も恐怖で声が出せないでいた。

万事休すだった。この状況では逃れようがなかった。

「どうしてここがわかった」と一応、顎鬚に聞いてみた。聞いたところであまり意味がないかもしれなかったが。

「そりゃ、当然分るさ。逃げ道は俺たちが作っておいたからな」と彼はそう答えた。

「逃げ道を作った?僕たちは偶然鍵が開いていた扉から天井裏に入ったんだ」と私は彼の発言に反論した。

「その鍵なんだがな。俺たちが事前に外しておいたんだがな」と彼は、意地の悪い笑みを浮かべながらそう言った。

私が幸運にも見つけたと思っていた天井への入り口は、実は故意に鍵を外されたものだったようだ。これは我々の脱出劇が彼らに仕組まれたものだったということを意味していた。

私はなぜか笑ってしまった。内心は怒りや徒労感の入り混じった感情が渦を巻いていたのだが、なぜだか私の表面に現れたは笑いだった。人は感情の処理に困ったときは笑うものらしい、と私は思った。

「個人的に試したかったんだよ。あんたを」と顎鬚は言った。「上が会いたいっていう奴がどれほどのものかってことをな。あんたらが、あの仕掛けに無反応だったら不合格だったね」

「不合格ならどうなってた?」私は彼に尋ねた。

「上に会わせるまでもなくあんたを始末する予定だった」彼は表情を変えずにそう答えた。そして彼は続けた。「しかし、仕掛けに気付いてうまくここまでやってきた。まあ、及第点ってとこだな」

「不合格でなくて良かったよ」と私はそう言った。無論、この点については嘘ではない。私は不合格となった自分を想像して恐怖を覚えた。そして彼に再び尋ねた。「僕たちはこれからどうなるだ?」

「何度も言うように、我々の主にあってもらう。まあ、それまで、待合室で待ってもらう。鉄格子付きのな」と顎鬚は言った。そして、彼は顔を私に近づけて言った。「今度は、逃げようなんて気は起こさせないからな。分っているだろうな」

「逃げてやるさ。どんな手を使っても、このハゲ野郎」と私は彼の目を睨んでそう言った。

「あっ、今なんて言った?」

「ハゲって言ったんだよ」

顎鬚の顔がみるみるうちに怒りで紅潮し、額には血管が浮き出た。彼に髪のことをいうのはタブーだったらしい。

「このガキゃあ、頭のことだけは許せねえ!」

 次の瞬間、ごつっ、という鈍い音とともに、私の目の前に火花が走った。そして、私の額のあたりに強烈な痛みが走った。

頭が割れて、脳漿が流れ出しているような気がした。私は溜まらず頭を抱えてうずくまった。顎鬚が私の頭に頭突きをしたのだった。

「調子に乗ってんじゃねえぞ!」と顎鬚は悶絶する私を見下ろしながら言った。

「ちくしょう…痛いじゃないか…」と私は声にならない声で答えた。

「おい、お前ら、こいつらを一人ずつ独房にぶち込め」と彼は戦闘服の部下たちに指示を出した。部下たちの一人が私の両腕を後ろの方で羽交い締めにした。私は強烈な頭の痛みのせいでそれを拒否することもできなかった。

私が背中で手錠をされようとしていたまさにそのときだった。

「やめなさい。大切なお客様ですよ。もっと丁重に扱いなさい」

廊下から一人の男がそう言いながら近づいてきた。

 彼を見るや否や、顎鬚と部下たちの態度が一変した。彼らは私と女の子に銃を構えるのを直ちに中止し、その場で背筋をのばして直立不動となった。そして、男に向かい敬礼をした。

 私たちは、状況の変化を理解できず呆然としていた。少なくとも言えることは、再び監禁されることを免れたらしいということだった。

「あなた方は何をしているのですか?彼らは大切なお客様ですよ」と男は顎鬚を問い詰めた。

「彼らがここから出ようとしたので、致し方なく警備班の者を同行させてそれを阻止しようとしただけです」と顎鬚は男に言った。そして憮然とした表情で続けた。「お言葉ですが、彼らの身柄をどうするかは我々の裁量の範囲内です。我々の任務遂行に不備があったとは思えませんが」

「あなたがたは想像力が欠如しているのではないですか?この方をお連れした目的を考えて御覧なさい。決して身体に危害が及ぶおそれがあることをしてはならない。そのようなことがあれば、臨床データに及ぼす影響は計り知れないのです。今後の試験で間違った分析結果が得られたら、あなた方はどうするつもりですか?」と男は顎鬚の言い訳に反論した。

 顎鬚はそれを無言で聞きながら、直立不動で男を睨んでいた。

「まあ、彼らが無事だったので良しとしましょう。先ほど総裁にお話してこの件は私がすべて引き受けました。あなた方の任務はこれまでです。お疲れ様でした」と男は言って、顎鬚と武装した一団にこの場を立ち去るよう促した。

 顎鬚たちは無言のままその場を退去した。

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