第10話

 二日後、私は早朝の飛行機で福岡に向かった。無論、それは麻里子と再び出会うためだった。

 福岡空港の国内線ターミナルから外に出ると、湿気を多分に含んだ生暖かい空気が私を包んだ。空は重々しい雲に覆われており、いつ雨が降ってもおかしくない空模様だった。

私はすぐに、予約していたレンタカー会社のサービスカウンターで車を借りた。この旅は電車では不便だと思ったからだ。車は青色のデミオであった。車種に特別なこだわりは無かったが、この「世界」での最後になるかもしれない旅の伴侶として申し分なかった。

 私は車とともに空港通りを太博通りへ抜け、さらに昭和通りへ出た。時間はすでに九時台であったため、通勤ラッシュを過ぎていたようだった。道の両脇にはオフィスビルが立ち並び、あちこちでスーツ姿の営業マンたちが通りを歩いていた。今にも雨が降り出しそうな雲行きだったからか、彼らの多くは傘を手にしていた。

 私は前方を行く西鉄バスを追走しながら、私の過去のことを思い返していた。

 私はこの街の近郊の裕福な家庭に生まれ育った。父親は地元の有力な不動産開発会社の経営者であった。ただし、会社を興して大きく育てたのは先代の祖父だった。その祖父には男子がなかった。彼は後継者がいないことを憂い、死の間際に彼の娘婿だった銀行員の父に事業を託したのだった。

 辣腕化であった祖父とは違い、父親は数字には厳格であったものの、社員を束ねる力を致命的に欠いていた。祖父の事業を継いだ父親は、会社での祖父の側近だった役員たちとの重圧と軋轢から、次第に気難しい性格になっていった。

そのため、家庭では些細なことで母や私に対して激昂した。幼い私に手を出すこともしばしばだった。

私は三十数年前の夏休みにある山荘で一夏を過ごした。この山荘こそが、私が麻里子と過ごしたあの部屋がある家であった。私が化粧のまねごとをして父親にひどくぶたれた場所もまさにこの部屋だった。

内心女性を軽蔑していた父親にとって、息子がそのようなことをしているのは受け入れがたいことであったのかもしれない。しかし、父親の反応は息子に対するそれとしては明らかに度を超していた。私は父親に叩かれた後、食事も与えられずに真っ暗な物置小屋に丸一日監禁された。そして、もうこのようなことは二度といたしません、と父親の前で誓わされた。この一件は、終生消えない私の心の傷となった。

しかし、それでも私の言葉にならない衝動は治まることがなかった。この衝動は私の中の麻里子を求める声だったに違いなかった。しかし、子供の頃の私にとって、それは説明のできない自らの恐ろしい異常性でしかなかった。このようなものを心に孕んだ私は家庭の中で異質な存在であった。思春期を迎えると、いつしか私は息の詰まるような父親の家を出たいと願うようになった。父親は私を地元の国立大学に進学させるつもりであったが、私は東京の私立大学に進みたいと願い出た。生まれて初めてのわがままだった。始めは強硬に反対した父親だったが、最後には折れて東京への進学を認めてくれた。

その父親の運命も私が上京した3年後に暗転した。長引く不景気の影響で父親の会社は資金繰りに窮するようになっていたが、ついに取引銀行が事業資金の融資をしなくなったのである。

父親は自らの会社を守るために資金繰りに奔走した。冷たい言葉を浴びながら、親戚や友人に金を無心して回った。ときには、高利貸のような連中にも頭を下げた。それでも転落は避けられなかった。次に父親を襲ったのは部下の造反だった。祖父の代からの番頭だった専務が、祖父の株式を相続した祖母と伯母たちを懐柔したのだった。父親は会社を存続の危機に追い落とした戦犯として、社長の地位だけではなく、役員としての地位をも奪われた。

父親は母とまだ少年だった弟とともに路頭に迷った。五十を過ぎて経営者失格の烙印を押された男にできることは少なかった。彼には、これまで築いた財産を切り売りしながら、慣れない清掃員や警備員などのアルバイトで日々をしのぐ以外に道はなかった。

その父親も三年前にこの世を去った。母親もその後を追うようにその半年後に死んだ。相続財産として、弟には父母が建てた家が、私にはかつて一夏を過ごした山荘が残された。裕福だった頃に手に入れたいくつも不動産を次々に手放していった彼が、なぜ、あの山荘だけを手放さず、それを遺言で私に相続させたのか分らない。正直なところ、処分も難しい幽霊屋敷みたいなところを相続してしまったと思い、私は迷惑すら感じていた。

しかし、麻里子との出会いを経て、あの家を相続したことは私の運命だと思った。もしかしたら、父親はどこかの時点で幼い私にしてしまったことを後悔していたのかもしれない。

あれこれと考えているうちに、車は大濠公園付近に差し掛かった。私はコインパーキングを探してそこに車を止めた。目的の場所はここから歩いてすぐのところにあった。私は大通りから少し奥まった場所にあるビルの二階を訪ねた。ドアの表札には、「平尾法律事務所」と銘打ってあった。

「こんにちは」と私はドアをあけながら挨拶をした。

 テニスコートの半面くらいの広さの事務所の中では、数名の事務員がデスクで山積みの書類を相手にそれぞれの仕事をしていた。奥の大きな執務机に座っていた白髪の大柄な弁護士が私の方を見ていた。

「吉彦君。待っていたよ」とその弁護士は言った。

「お忙しいところ、急に連絡してすみません」と私は応答した。

 ここは平尾弁護士の個人事務所であった。彼は父の古くからの友人で、父が会社を経営していた頃はその顧問弁護士であった。私のことも幼少時代から知っていた。

「よく来てくれたね。奥の間で話そうか」と彼は執務机の横にある応接間に案内した。

 事務所の中では平尾弁護士も事務員も全員スーツや事務服姿であった。私だけが黄色のマウンテンパーカーと黒のトレッキングパンツの登山姿であり、明らかに場違いであった。

「すみません、こんな格好で」と私は服装のことをことわった。

「なあに、構わないさ。うちはいろんな依頼人が来るからね」と平尾弁護士は言った。

 私は、彼に勧められるままに、応接間の黒皮のソファーに腰かけた。応接間は書庫も兼ねているらしく、黒い背表紙の『現行法法規総覧』が本棚にずらりと並べられていた。我々が席につくと、程なく女性事務員がお茶を差し出し、すぐに退出した。

「それにしても、久しぶりだね」と平尾弁護士は言った。

「はい、母の葬儀以来ですから、二年半ぶりです」と私は言った。

「それにしても、君が連絡をくれたときは、正直ほっとしたよ。ようやく、きちんとしたかたちで相続してくれる気になってくれたね。これで遺言執行者として肩の荷が下りるよ」と彼は言った。

「これまで、はっきりとご返事をせずにすみませんでした」と私はこれまで父の相続手続を滞らせたことを詫びた。

「いや、実は君に少し同情しているんだよ。あの別荘を処分するのは正直大変だよ。築年数が随分経っているので相当傷みが激しい。それに、一番の問題は立地だ。未だに、なぜ生前の桐野君があんな場所の物件を買ったのか私にはよくわからないんだよ。彼の不動産を見る目は確かだった。なのに、なぜ、あそこなんだ、ってね。この辺で言えば、糸島あたりなら話は分かるが、あそこはあまりにも辺鄙すぎる」と平尾弁護士は言った。

「それでもいいんです。僕にとっては、あの場所にあのままあることに意味があるのです」と私は言った。

 私の口調がつい強くなってしまったからか、平尾弁護士は驚いた表情でしばらく黙って私を見ていた。そして、穏やかな表情で話を続けた。「それは、何か君なりの考えがあるんだろうね。それに、君がそこまで言うのならそれは余程のことだろう。どんな考えであれ、私は君の考えを受け入れるよ。今までと同じようにね。申し訳ない。余計なことを言って」

 彼は常に私の理解者であった。昔、彼はよく私と父の間に立ち、私の立場を弁護してくれた。彼の仲立ちに私はどれだけ助けらたかわからない。私は彼に父親からを得られなかった優しさを感じていた。そのような彼の言葉が私の心に染みた。

「ありがとうございます」と私は感謝の言葉を言った。何についての感謝なのか自分でも分らなかった。今の発言を認めてくれたことなのか、それとも、これまでいつも私の数少ない理解者であったことについてなのか。そして、これが彼との今生の別れになるかもしれないと思うと胸が痛んだ。

 私は名残を惜しみながら、しばらくの間、彼との昔話を噛みしめていた。


 その後、山荘の相続手続について簡単な説明を受け、名義変更の委任状にサインと押印をした。そして、山荘の鍵を受け取った。

「君の親父さんは、あれだけの借金を抱えながら自己破産だけはしなかった。あの別荘を手放して破産してしまえば楽になったかもしれなかったが、彼は決してそれをしなかった。大したものだよ。おそらく、彼なりに譲れない理由があったのだろうね」と平尾弁護士は言った。

「ええ、多分そうなのだと思います」と私は言った。今なら父親の仮託を素直に受け入れてもいいと思ったからだった。

「別荘の場所は、ここからずっと南の、佐賀県側の山奥になる。とにかく、慣れないと行き難い場所にあるから地元の人に行き方を尋ねたほうがいい。村に着いたら、山崎製材所というところを訪ねてみなさい。私が連絡しておくから」と平尾弁護士が言って簡単な地図を描いて私に手渡した。

「いろいろとありがとうございます」と私は感謝を述べた。

「元気でな。そのうち、また会おう」と平尾弁護士は別れの言葉を言った。

「それでは、また」と私も彼の言葉に応じた。

 私は、平尾弁護士の事務所を後にした。


 後は目的の場所に向けて出発するだけだった。しかし、まだ一つだけ心残りに思うことがあった。私は再び車に乗り込むと、携帯を取り出してある番号に掛けた。それはひまわりクリニックの電話番号だった。夏木医師はすでに旅立った後であったが、私が話したかったのは、娘のほうだった。もしかしたら、彼女はまだクリニックにいるのかもしれないと思い、何度となく電話をしていたのだった。

この電話で五回目だった。これで出なければ、あきらめるつもりであった。

 三回の呼び出し音の後に誰かが電話に出た。自分でかけておきながら、私は少し驚いた。

「もしもし」と私は電話の相手に呼びかけた。

 しばらく沈黙が続いた。返事はなかった。

「もしもし」と私は再び呼びかけたが、やはり返事はなかった。私はとにかく電話の向こうの相手に語りかけてみようと思った。

「美和子ちゃんだろ?気分はどう?何度か電話したんだけど、ようやく出てくれたね。今は話す気分じゃないなら、ただ聞いてくれるだけでも構わない。最後にもう一度だけ冒険を共にした君と話をしたかったんだ。君の大切な人があんなかたちで亡くなってしまって、僕もどういっていいかわからない。僕なんかに君の心の痛みがわかるとはとても言えないけど、できればずっと君の近くにで寄り添っていたかった。でも、君の母さんに話したとおり、僕はどうしても行かなければならない。だから、今ここで、ちゃんとしたかたちでさよならを言わせてほしい」

 私はしばらく私の言葉を相手が受け止めるのを待った。

「行かないで」と相手は消え入りそうな声で沈黙を破った。

「できればそうしたいけど…。ごめん」と私は言った。

「もう嫌なの」と電話の向こう側の女の子は言った。「私の大切な人がいなくなるのはもう嫌なの。金崎のおじ様が死んでしまって、母とも別れて暮らすことになった。そして、大切なお友達のあなたまで…。もう耐えられない。私をひとりにしないで」

 彼女の「大切なお友達」という言葉が私の胸に響いた。

「必ず戻ってくるよ」と私は彼女に言った。この場ではこう言うしかなかった。

「えっ、本当に?」

「ああ、そうだよ」

「いつ戻るの?」

「やるべきことをやったらすぐにだよ。夏休みに田舎に帰るようなものだよ。そんな大したことじゃない。戻ってきたら必ず会いに行くよ」

「約束よ。きっと会いに来て」

「わかってるよ。僕が戻ったらどこかへ一緒に行こう。こんどは、変な組織の秘密の場所以外にね。ディズニーランドなんかどうだい?」

「私それほど子供じゃないわよ」と彼女は怒ったふりをした。声には少しだけ明るさが戻っていた。

 その後しばらく、私たちは組織の施設で過ごしたときのことを思い出話のように語り合った。つい数日前のことがまるで遠い昔のことのように思えた。そして、彼女にしばしの別れを告げて電話を切った。

 彼女との話を終えた後も、「行かないで」という彼女の言葉がいつまでも私の脳裏から離れなかった。私は彼女のもとに戻らねばならなかった。たとえ、私がどうなっていても、また、新たな世界で彼女がどういう境遇にいても、私は戻らねばならなかった。私はそう約束したのだ。

 私はイグニッションボタンを押して車のエンジンを掛けた。心残りは何もない。後はあの場所へ行くだけだった。私は車を静かに駐車場から発進させて先ほど来た道に出た。私は車を走らせて南の山脈の方へ向かった。


 私にとっては晴れの旅たちとも言ってよかったが、天気について言えば、それとは裏腹であった。空は重々しい雲に覆われ、昼前にもかかわらず夕方のような薄暗さであった。安全のために車のフォグランプをつけなければならないほどであった。

 車は国道263号線を南へ進み、市街地から次第に深い山路に入って行った。標高が上がるにつれて建物はまばらになり、天を突くような杉の森が目立つようになって行った。

そして、長いトンネルを抜けて佐賀県側に出たあたりでやや道幅のせまい側道に入った。乗用車がやっとすれ違うことができる幅しかないこの道が目的地へ通じる唯一の道だった。

道はまるで外部の者の侵入を拒むように曲がりくねった勾配が続いていた。九州の山間部で平家の落人伝説が残されているところがいくつもあるが、このような峻険な狭隘地が源氏の追手から身を隠すのに都合がよかったのかもしれない。

きつい勾配が幾重にも立ちはだかっていた。私は車のアクセルを一層深く踏むと、エンジンはうなりを上げた。私は孤独なマラソンランナーのようなこの車を応援したい気持ちになった。あと少し、あと少しだ。私をあの場所へ連れて行ってくれ、と。

しばらく鬱蒼とした森の山道を進むと、突然視界が広がった。山間の集落に出た。

上から見下ろすとまるで古代ギリシアの円形劇場のように棚田が山に沿って扇形に広がり、中心を流れる清流とともに、階段のように集落の中心に迫っていた。棚田に囲まれた集落の中心にはいくらか民家が集まっていた。また、棚田の反対側は草原が広がり、放牧された牛たちが草を食んでいた。

佐賀県背振郡一番ケ瀬村申ヶ谷地区。それがこの地に与えられた名前であった。人口193人。住民の約7割は高齢者で、見捨てられた空き家も多い。いわゆる限界集落だった。私は棚田の中心を走る道を下り、集落の中心に出た。中心と行っても大きな農家がいくつか建ち並ぶだけで、散歩中の老婆が二、三人いる以外には人影はない。私は集落で唯一の簡易郵便局の角を曲がり、来たのとは反対側の山の裾野の方に向かった。平尾弁護士が紹介してくれた山崎製材所へ行くためだった。

集落の中心から車一台がやっと通れる農道を1キロほど進むと、すぐに製材所に着いた。森がすぐ背後の迫る敷地には加工を待つ杉や檜の原木が所狭しと野積みされていた。敷地の一番奥にあるトタン屋根の古ぼけた建物が作業場のようだった。作業場の一面は壁がなく、巨大な丸鋸の音と舞い上がる粉塵が外に漏れ出るままとなっていた。作業場のすぐ脇にログハウスのような小さな事務所があった。入口には丸太を縦にスライスした大きな看板が掲げられており、そこには墨で大きく「山崎製材所」と書かれてあった。

私は車を止めて事務所へ向かった。事務所のドアを開けて中を覗いてみたが、二、三個のデスクが並んでいるだけで、中には誰もいなかった。しかし、機械が木を切る音はしていたので誰かが近くにいることは間違いなかった。そこで、そのまま作業場の方を振り返ってみると、二、三人の作業者がそれぞれの仕事をしていた。

「こんにちは」と私は大きな声で彼らに呼びかけてみた。すると中肉中背のランニングシャツを着た作業者が私に気付き、タオルで汗をぬぐいながら私の方に近づいて来た。

「ああ、あんたが桐野さんかい?こがん山奥によう来んさった。平尾先生から電話があったけん、待っとたですよ」と彼は言った。彼はここの社長の山崎さんだった。広い額と短髪の白髪が年齢を物語っていたが、肌艶が良く、健康的な印象を受けた。おそらく実年齢よりも若く見られることが多いのだろうと思った。

「突然お邪魔してすみません」と私は山崎社長に言った。

「よかよか。あんたが来られたのは、山ん中の屋敷のことでやろ?」と彼は言った。平尾弁護士が山荘の法律上の管理人ではあったが、実際の管理は現地に住む旧知の山崎社長に依頼していたのだった。山崎社長は時折山荘を見に行ったり、場合によっては、周囲の除草作業をしたりしていたので、現地のことには誰よりも詳しかった。

「そうです。父から相続したので実際に家を見に来ました」と私は言った。「道を教えていただければ、勝手に現場に行きます」

「いや、そいは止めとったたほうがよか。ここ数日、雨がちやったけん、道がぬかるんで普通の車で行くとは難しか。うちの車ば出すけん、乗っていかれたらよか」と社長は言うと、作業ズボンのポケットから古ぼけた携帯電話を取り出して、誰かに電話を掛け始めた。そして、電話の相手に我々がいるところへ来るように大きな声で指示をした。

 数分後、一台の旧式のジムニーが我々のもとへやって来た。色はカーキ色で、タイヤは大きくゴツゴツとしていた。まるで軍用ジープのようだった。車が我々の前で止まると、中からトレッキングの服装をした一人の男が降りてきた。男はまるで山崎社長をそのまま20歳くらい若くしたような風貌だった。体型は彼とほぼ同じで、髪がまだまだ黒々としていた。

「息子にあんたば山ん中の家まで連れていくごて言うたけん、車に乗ってください」と社長は言った。

「初めまして、息子の一郎です。私が桐野さんを現地までお連れいたします」と彼は言って、私に車に乗るように促した。私は山崎親子の提案どおり、車に乗せてもらうことにした。

私を乗せた車はゆっくりと走り出し、製材所前の農道を更に山の方進んだ。

「ここがあまりにも田舎なので驚かれたでしょう?」と運転席の一郎さんは隣に座る私に言った。

「ええ、正直に言えば少し驚いています。でも、いい風景ですね。一面に棚田が広がっていて」と私は彼に言った。

「この辺は、『日本の山村百選』かなんだかに選ばれていて、写真家の間では結構有名なんですよ。もう少しすると田んぼの脇に彼岸花が咲いて、すごくきれいになるんですよ」と一郎さんは言った。

「ほう、そうなんですか?そのうち見てみたいな」と私は彼に言った。

車はやがて舗装されていない側道に入り、山の中へ分け入り始めた。先へ進むと道の起伏は徐々に激しくなり、車上の私と一郎さんは上下に揺さぶられた。

 車はつづら折りの急峻で凹凸の激しい坂道を登って行った。社長が言っていたとおり、道の各所はぬかるんでいた。私が乗って来たレンタカーならすでに立ち往生していたことだろう。この道は四駆のオフロード車でなければ進むのは無理だった。彼がこの車に乗ることを勧めたことの意味を私はここでようやく理解した。

 さらに車はぬかるんだ坂道を進み、崖沿いの細い道に出た。道にはガードレールはなく、一歩踏み外せば数百メートル下の谷に堕ちるしかなかった。私は山荘に続く道がこれほどの悪路だとは予想していなかった。幼い日に一度父の車に乗せられて来ているはずなのだが、このような風景は全く記憶になかった。車の運転がそれほど得意でなかった父がここを無事に通っていることは不思議としか言いようがなかった。

 崖沿いの道をしばらく進んだところで車は突然止まった。

「これは、まいったな」と一郎さんは前を見ながら言った。「梅雨入り前には道が繋がっていたんですけどね。多分7月の大雨のせいで崩れたんだと思います」

彼と同じように前方を見ると、道が数十メートル程崩落し、山肌が露わになっていた。これ以上車で進むのは無理であった。

私は呆然とした。これ以上前に進むのは確かに不可能だ。しかし、私はあの場所へ戻らなければならないのだ。ここであきらめるわけにはいかなかった。

「他に道はないのですか?」私は思わず一郎さんに問いかけた。

「無くはないです」と一郎さんは言った。「でも、結構回り道になる。少し大変ですよ」

「構いません。とにかく行ってみたいんです」と私は言った。

「分りました。それでは行ってみましょう」と一郎さんは言った。

 我々は後方の少し広くなっているところに車を止めて外に出た。外は空気がひんやりとしていて、小雨が降り出していた。ここからは歩いて山荘まで向わなければならないようだった。一郎さんは車のトランクからストックを二組取り出した。

「ここから先はこれを使ったほうがいい。うちの家内ので申し訳ありませんが、これを使ってください」と一郎さんは言いながら、二組あるストックのうちの一組を私に差し出した。

「これが、必要なんですか?」と私は少し驚きながら彼に尋ねた。

「ええ、かなり険しい道ですから。ここから少し戻ったところから、獣道のような登山道が山の中を通っています。そこを登って行けば目的地のすぐそばに出ることができるはずです。大丈夫ですよ。私は趣味の山登りで何度も通っています。安心してください」と一郎さんは私を励ますように言った。私の不安な表情を読み取ってそう言ったのだった。

「それで、どれぐらい時間がかかるんですか」と私は一郎さんに聞いてみた。

「そうですね、上手くいけば二時間くらいかな?」と一郎さんは答えた。

「二時間!?」と私は驚きながら言った。

 私は、やれやれ、と言いたい気持ちになった。一応山登りの服装だけは整えていたのだが、本格的な登山をすることになるとは全く予想していなかった。

「さあ、先を急ぎましょう。のんびりしてると帰りが夜になってしまう」と一郎さんは出発を促した。

 我々はリュックサックを背負って目的地に向かい歩き始めた。

 私は一郎さんに先導してもらい、その後に続いた。彼が言っていたとおり、少し戻ったところから登山道が伸びていた。我々は森の中へと登山道を進んだ。先ほどまでの道とは違い、森の中は杉などの木々が作る陰のため一層暗い。晴れた日なら木漏れ日も期待できるが、小雨が降る中ではそれは無理だった。暗く湿った森の中は落葉の中に生えた低木やシダ、苔類の山の植物が生い茂り、まるで異質な人という存在の侵入を拒む異界のようだった。我々はその異世界を曲がりくねりながら細々と走る獣道をとぼとぼと歩いて行く他はなかった。

 登山道はときおり岩ばかりの上り坂が続いた。岩を一つ一つ踏みしめながら登ると、汗が体中から吹き出し、息が上がった。歩き出した当初は一郎さんの世間話に応じることができたが、次第にその余裕も無くなり無言になっていった。

 小一時間ほど歩くと、少し開けた場所に出た。そこには岩がちの沢があり、清流がごうごうと音を立てて流れていた。遠くに山々が連なっているようだが、山霧のためぼんやりとしか見えなかった。

「ここで小休止にしましょう」と一郎さんは言った。我々は少し休憩を取ることにした。

 私は清流で顔を洗い、水を口にした。きれいな水で体内が洗われるような感じがした。

「美味い」と私は思わず言葉を漏らした。

「ここの水はきれいですからね。ヤマメだって住んでいますよ」と一郎さんは言った。

 我々は適当な岩を椅子がわりにして、少しだけ体を休めた。山歩きに慣れた一郎さんはけろりとしていたが、私はそうは行かなかった。足に疲労が溜まり、ひざやふくらはぎがこわばり始めていた。このまま目的地まで私の足が耐えられるか密かに心配であった。

「今、私たちはどれぐらいまで来ているのですか?」私は一郎さんに尋ねた。

「そうですね、半分と少しくらいですかね」と彼は答えた。ここまでで半分ということであれば、目的地まではなんとかなりそうだった。

 ここで、目的地の山荘の現状がどうなっているのか急に興味が湧いて来た。

「ところで」と私は彼に問いかけた。「例の山荘は今どんな感じですか」

「私はあの屋敷のことにはあまり詳しくないのですが、それでも時々除草作業を手伝いに行っていますので少しは分ります。外から見た感じでは、相当傷んでいるようです。幸い、屋根や壁はまだ原型をとどめているようですが、雨漏りは相当しているでしょうね」と彼は答えた。

 父親が存命中は、時折目立つところは補修していたようだったが、細かなところまでは手入れが出来ていなかったのは容易に想像できた。しかし、それでも全く構わなかった。私のそこでの目的からすれば、最低限雨風がしのげればそれで十分だった。

「実は」と私は彼に思い切って言った。「私だけ山荘に残り、一泊しようと思います」

「本気ですか?」と一郎さんは驚きで目を見開きながら言った。「今は電気も水道も通っていない空き家ですよ。よしといたほうがいい」

「いや、どうしてもそうしなければならない理由があるのです。キャンプ道具も持参しているので問題ありません」と私は思わず強く彼に言った。

「そうですか、わかりました」と一郎さんは一夜を過ごす理由には深入りせずに了解した。きっと、変わり者の家主だと思われたに違いなかった。「でも、これから嵐になるので外は出歩かないほうがいいですよ」

「嵐になりますか…」と私は呟いた。この旅は少なくとも天に祝福はされていないようだった。これから私がこの「世界」を滅ぼしかねないので当然といえば当然であった。むしろ、私の行動はこの「世界」を怒らせるのに十分なものであるに違いなかった。

「さあ、そろそろ行きますか」と一郎さんは言った。我々はまだ残り約半分の行程を歩かねばならなかった。

 我々はこれまでよりも更に険しい道のりを歩まねばならなかった。標高が上がれば上がるほど、植林された杉の木はまばらになり、ブナなどの原生林の巨木が増えてきた。獣道はしばしばこれらの根に分断され、足場が次第に悪くなっていた。私は幾度となく値の上に生えた苔に足を滑らせ転びそうになった。転ばないように踏みとどまる度に私の膝は悲鳴を上げた。休憩から更に一時間程歩いた頃には、私の疲労はとうに限界を超えていた。それでも、一歩一歩足を前に出していた。もう何も考える余裕はなかった。ただそこに存在するのは私の意思と足だけのように思えていた。

 やがて、遠くに明るく光る場所が見えてきた。きっとそこがこの森の出口のはずだった。そこから発する光は私の歩みに合わせて少しずつ強まっていった。もう少し、もう少しと私は自分自身を励まして鉛のように重くなった足を一歩ずつ前に繰り出した。

 もう少し、もう少し。運命の場所はすぐそこだ。

 しばらく歩くと、我々はようやく闇の支配する森を抜けて、明るく開けた場所に出た。そこは芝生の生えた庭のようだった。私は安堵と疲労からその場にへたり込んでしまった。

「結構大変でしたね。山荘はあそこの方ですよ」と一郎さんはかすかに息を上がらせながら、森と反対側を指さした。

 私は彼が指さす方向を見てみた。山霧の中の池のほとりに建つ大きな建物らしき影が見える。私はゆっくりと身を起こし、疲れ切った足を引っ張るようにその影のほうに歩いて行った。

 影は私が近づくにつれ、その輪郭をはっきりとさせていった。そして、ついに自らの全貌を明らかにした。

 それは片側に大きな多角形上の出窓の部屋がある、木造二階建ての西洋風の切妻屋根の大きな山荘だった。私はついにこの場所に帰って来たのだった。深い感慨が私の胸を満たした。

「どうですか?結構傷んでいるでしょう」と後から来た一郎さんが言った。

「たしかに」と私は答えた。しかし、私にとってもはや不動産としての価値は重要ではなかった。ここで私が本来の私に回帰すること、ただそれだけが重要であった。

 私は一郎さんにここまで連れて来てくれたことのお礼を言い、私を残して一人で山を降りてもらうようお願いをした。彼はここで一夜を過ごすことを思いとどまるよう、再度私への説得を試みたが、私が頑なに断ったので、最後には折れて、ここに残ることを了承してくれた。しかし、一人での下山は危険なため、彼が翌朝の九時にここに迎えに来てくれることになった。無論、翌朝もこの「世界」が健在ならば、という前提付きだが、それについては彼に理解させるのは無理だったので、あえて説明しなかった。彼は私を心配そうに振り返りながら山を降りて行った。

 一人になった私は改めて濡れそぼったその山荘と向き合った。昭和初期に外国人建築家が設計したその山荘は、壁や屋根のいたるところが朽ちかけていたが、私の記憶にある山荘に間違いなかった。それはまるで、数十年の風雪に耐え、崩れつつあるその身で私の帰還を待っていたかのようだった。

 雨足が強まる中、私は意を決して山荘の中に入ることにした。

 山荘の入り口は屋根付きのオープンテラスとなっていて、そのテラスの左側面に重厚な玄関扉を構えていた。私は腐りかけた木の階段を踏みしめてテラスに登り玄関の前に立った。扉の鍵穴に平尾弁護士から受け取った鍵を入れて力を込めて回すと、重い感覚とともに静かにロックが外れた。

 私はリュックサックから懐中電灯を取り出し、解錠された扉を開けて建物の中に入った。玄関は側面から出入りするようになっており、入って右側に屋内の空間が広がっていた。床に目を向けると埃に覆われていたので、私は上がりかまちを靴のまま上がった。玄関口の上がったところから正面に階段が伸びていて二階へと続いており、右手は大広間に続く赤絨毯の廊下となっていた。

 私は右手の廊下を進み、大広間に入ってみた。大広間には天井から床に広がる大きな出窓があり、そこからの採光により、漆黒の室内がほの明るくなっていた。かつて部屋中を彩っていた家具類や装飾品はもはや残されておらず、出窓のそばに肘置きのないダイニングチェアが一個取り残されているだけであった。

 私は出窓のそばに進み、埃を手で振り払ってダイニングチェアに腰かけた。私は外の木々を見ながら遠い夏の日のことを思った。私は子供の頃の一夏を父母とともにこの館で過ごしたのだが、父母との折り合いが悪かった私はこの館の中でも孤独であった。そして、この出窓の前に立つのは私にとっての一つの慰みになっていた。私はこの窓により切り取られた、夏山や煌めく雲が織りなすポストカードのような風景を見るのが好きだった。また、時折聞こえる野鳥たちの戯れるようなさえずりを聞くのも好きだった。この場所は私にとって最も大切なところの一つであった。

この窓際に佇んでいると、この「世界」に自分がただ一人取り残されているような気がした。私はこれからこの「世界」のあらゆるものとの縁を絶とうとしているのだった。もし、私が新たな世界に導かれようとしているのであれば、ここでの風景は見納めとなるのだろうと思った。

しばしの感傷の後、私は廊下を玄関側に戻り、廊下と同じく赤い絨毯が敷かれた階段を二階に登った。階段の中二階には窓があり、照明がなくとも足元が見えるように程よく採光されていた。階段を登り切ると窓の向こうに大きなバルコニーが広がり、左手には廊下が続いていた。廊下にはいくつかの部屋の入り口が面していた。それぞれの部屋のドアは閉じられており、ここからはその中を伺い知ることは出来なかった。

私の遠い記憶が確かならば、麻里子の部屋はこの廊下の一番奥の大きな寝室だった。私はそのまま廊下を奥に進み、寝室のドアを開けた。

私の記憶は正しかった。そこは麻里子と過ごしたあの部屋に間違いなかった。ただし、ここも下の大広間と同じように見捨てられた廃墟の一室となっていた。部屋を飾っていた瀟洒な家具類や臙脂色のカーテンはなく、麻里子との情事で私のあらわな姿態を映した大きな姿見もなかった。ただ、埃だらけの大きなベッドだけは運び出されずに部屋の中央に残されていた。

私は中央のベッドに腰かけた。そして、荷物から麻里子のテディ―ベアを取り出して、本来ならば枕がある場所のすぐそばに置いた。

 あとは彼女が再び現れるのを待つだけであった。私の手元にあるテディ―ベアにであったとき以来、私には必ず彼女と再び会えるという確信があった。私と彼女はもともとひとつであり、私が強く望めばそれはできるはずであった。

「麻里子、やっと帰って来たよ」と私は小さな声で呟いた。私は戻るべき場所に戻ったという安堵感に包まれていた。そして、ここに来るまでの疲労が私の上にどっとのしかかってきたようだった。

 私はしばらくここで眠ることにした。私は一旦立ち上がり、ずぶ濡れになったマウンテンパーカーとトレッキングパンツを脱いだ。体中が濡れていたので、ひどい寒気がした。私は濡れた下着を着替えて、ベッドの上で寝袋に包まった。

 寝袋から顔を出して薄暗い天井を見上げると、ベッドの上を飾っていたはずの純白の天蓋はなく、大小様々な茶色の染みが見えた。傷んだ天井のいたるところで雨漏りがしているようだった。いつの間にか雨風が強くなり、風雨が屋根や窓を叩きつける音だけが部屋中に響いていた。

 すでに嵐の夜は近づきつつあった。間断なく響く雨風の音を聞きながら、私は静かに眠りに堕ちた。

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