Bonus Track Keep on Keepin' On

「めちゃくちゃ緊張してきた」

 言葉とは裏腹な笑顔で、杏子が私たちに言う。本番にきわめて強い彼女の緊張具合が「めちゃくちゃ」ならば、私の現状などどう表現していいのか想像もつかない。果てしなく緊張している? 死ぬほど緊張している?

 両腕で自分の体を掻き抱き、深呼吸を繰り返しながらただ頷いた。気張って用意した揃いの衣装は、それなりに見栄えこそするものの防寒着としてはいささか頼りない。

 十一月最後の週末である。夏の気配は遥か彼方に遠ざかり、本格的な冬の足音が近づきつつある。

「ジャージ羽織っとけば。それと本番前に飴。咽に優しい蜂蜜味」

 楽器と衣装を準備するのに精いっぱいだった私とは違い、杏子は用意周到だ。ありがたくジャージを受け取って袖を通し、差し出された袋に手を差し込んで、

「ありがとう。後でガムでも」

「いいって。私も舐めとこ。コーラスのとき声が枯れたら大変だ」

 杏子は飴玉を口に含んで転がしつつ、窓際に佇んでいる小さな背中に向けて、

「いる?」

「私はヴォーカルもコーラスもしませんが、いただいてよろしいんですか」

「いいに決まってるじゃん。ていうか、なにしてたの」

「屋台の看板や幟を眺めながら、学園祭の気分を高めていました」

「演奏の気分を高めてほしいな。三人での初舞台なんだから」

「それはもう十二分に高まっています。雲を突き抜けて空へ至りそうなほど」

 楽屋として宛がわれた空き教室の壁際では、二本の弦楽器が隣り合って出番を待ち侘びている。テレキャスター・シンライン、そしてヘフナーのヴァイオリンベース。

 澁澤深月が私と杏子のいるテーブルへと歩み寄ってきて、飴の袋にその小さな手を伸ばす。「恐るべき緊張具合です。でもおふたりと一緒なら、どうにかやり抜ける気がします」

 ラトルの復活ライヴのあと、私たち三人は貸し切りとなっていた近場のレストランで話し合いをした。その場での深月の第一声を、私は今でもはっきりと脳裡に再現できる。

「私は腹を括ったのです」

 本当はずっとハチコマに入りたいと思っていた、と彼女は告白した。しかし自分からは言い出せず、誘われた際にも怖気づいてしまっていた、と。

「私は弱虫でした。でもラトルの演奏に触発されて、心のどこかが脱皮したようです。私は変態を遂げました。今の澁澤深月は夢追い虫です。ですから、どうかおふたりにお願いします。私をハチコマに加えてください」

 遂にして正式にベーシストを迎えて三人組となった私たちは、学園祭のステージ発表に参加を申請した。すでにいっぱいだと言われたらどうしようかと危惧したが、申し込みはきわめてスムーズに受理された。体育館のステージ、午後三時から。

 三人での練習は、主に深月の家で行われた。トイレが七つあるという邸宅には、プライベートスタジオまで併設されていたのである。朝比奈先生の予言通り、二学期開始以降は教室の確保が難しくなっていたので、これには本当に助かった。

 人気ミステリ作家であるお父さんにも、一度だけ会わせてもらった。近所の本屋で購入したシリーズの第一巻を持参すると、彼は涙ながらに喜んでサインをしてくれた。もっとも自分の本が読まれたことよりも、娘である深月が友人を連れてきたことに感慨を覚えていたらしく、これからも仲良くしてやってほしいと、繰り返し頼まれた。

 喫茶店シークレット・ガーデンは、いまだに継続中である。相変わらずまったくと言っていいほど客が訪れないので、もっぱら三人での打ち合わせや勉強会に使用している。看板犬であるフレンチブルドッグのシェリルは、今ではすっかりロンと親しくなった。隣り合って昼寝をする二匹の顔を眺めていると、こちらまで幸福な気分になってくる――。

 私はスマートフォンを取り出し、送られてきた応援のコメントを順番に読み返した。いまさら騒いだところでどうにもならない。少しでも気持ちを落ち着けて、本番に臨むほかないのだ。

〈径も本番前は緊張すると言っていたので、緊張するのは仕方ない。力を出し切ってください。来夏ならきっと大丈夫〉

 というのが母から。どんなときでも美墨くんに言及せずにはいられないのが彼女らしい。

〈楽しめ!〉

 異様に短いこちらは兄から。偉大なブルースマンの名言を引用するなどの小細工をしてくると予想していたが、思いがけず直球のメッセージだった。

〈お父さんと一緒に見守っています〉

 これは祖母。送信者の名前が自動的に表示されるという点に思い至らなかったのか、末尾には丁寧に「ばあちゃんより」と添えてある。

「なんかこう、円陣を組むとかそれっぽいことしない?」

 と杏子が提案する。気が付けば、私たちの出番はもう間もなくだ。そろそろ移動の頃合いである。

「三人ではトライアングル・フォーメーションにしかならないかと思いますが」

「細かいことを言わないの。なんでもいいよ。来夏もほら」

「あ、うん」

 と応じて端末を仕舞い込もうとしたとき、唐突にそれが震えはじめた。思わずどきりとし、ふたりの顔を交互に見やる。まさかまた、なにか悪い知らせ?

「出てみれば」

 杏子に促され、意を決してスマートフォンを耳に宛がう。「――はい、蜂巣です」

「有瀬だけど、ツバメ館に住んでた」

 私は息を呑み、「アルセさん」

「さっき知ったんだけど、学園祭に出るんだって? なんでそういう大事なことを言わないかな。慌てて飛んできたよ」

「だって――だって――今はラトルがお忙しいかと」

「確かに暇ではないよ。だからこそ、外せない予定は先に知っとかないと困るの」

「はい、すみません」とうに泣いていた私は、左手で目許を拭いながら、「いまどちらなんですか」

「ちょうどゲートをくぐったところだよ。今回はたまたま東京にいたからよかったけどさ、もし札幌だったら? さすがに自家用ジェットは持ってないからね。とんでもない弾丸旅行だって、藍里も怒っちゃってるし。これからチョコバナナかなにか食わせて機嫌取る時間ある?」

「ごめんなさい、もうすぐなんです。ちょうど楽器持って移動するところでした」

「じゃあ仕方ない。そのぶん演奏で楽しませてもらおうかな。場所は体育館? 入口で貰ったパンフ見てるけど――ハチコマ載ってなくない?」

 私は杏子と深月を順番に見つめ、それから声を張って、

「三人組になったので、バンド名を変えました。私たちはアプリコット・シーヴスです」

 アプリコット・シーヴス――と彼女は繰り返し、「いい名前じゃん。セツの名前を貰ったときも思ったけど、来夏って名付けの才能あるよ」

 特別なバンドの、特別な名前だね、とアルセさんは付け足した。私は勢い込んで、

「教えてもらったこと、ぜんぶ出し切ります。だから――見ててください」

 教室の扉が開き、朝比奈先生の顔が覗いた。それぞれの楽器を携えて廊下へと出る。

 舞台袖まで辿り着くと、アプリコット・シーヴスは誰からともなく、円陣もしくはトライアングル・フォーメーションを形成した。行くぞ、と声を揃える。

 ちっぽけな体育館のちっぽけな舞台の幕が、もうじき上がる。世界最大の音量でロックンロールを奏でるために、私たちは光の中へと歩み出す。

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Sweet Honey Overdrive 下村アンダーソン @simonmoulin

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