Track.21 Voices
「真正面じゃんね。ほんとにここで観られるの?」
昂奮気味に問いかけられ、私は再び手許のチケットを確かめた。「合ってる」
「まじか。こんな間近でライヴって初めてだよ。今からどきどきしてきた。それにしても来夏にバンドマンの師匠がいたなんてさ、びっくりしたよね」
ラトル活動再開のニュースが飛び込んできたのは、十月のある土曜日のことだった。中間試験が終了した直後のことで、私たちは打ち上げと銘打っていつものフードコートで豪遊していた。勉強会の成果もあって、私はなかなかの、杏子はかなりの手応えを感じており、ふたりとも意気揚々としていたのである。
何気なくスマートフォンの画面に視線を落として、危うくその場で叫び出しそうになった。向かいに座っていた杏子に端末を突き出しながら、
「ラトルが、ラトルがライヴをやるって」
最高の医療チームとボイストレーナーの助けにより、ルコは声を取り戻した、とその記事にはあった。温かい声援に感謝している、一刻も早く元気な姿をお見せしたい、会場で会えるのを心待ちにしている、といったバンドのメッセージを、私は何度となく読み返した――。
発売開始と同時にチケットを確保しようと意気込んでいたのだが、それより先にアルセさんから手紙が送られてきた。すべて彼女の手書きで、治療が無事に済んだことや、ラトルの一員として再スタートを切ること、そしてライヴ会場での再会を願っていることなどが記してあった。
チケットが二枚同封されていたので、真っ先に杏子を誘った。この段になってやっと、アルセさんと過ごした夏の日々のことを、私は彼女に話したのである。
会場は中規模のホールで、二階席まで満員だった。こんなにも大勢の人たちがラトルの帰還を待ち侘びていたのだと思うと改めて嬉しく、そして少しだけ切なかった。
「ん?」
視界の隅に、場内には珍しい小さな人影が映りこんだかと思うと、私たちのいくつか左の席に向かっていった。思わず目で追ってしまう。知っている人物のような気がしてならなかったのだ。
お手洗いにでも立つふりをして確かめようかと逡巡していると、不意にその影が引き返してきて、
「お久しぶりです」
私たちの正面に立ち、やたら丁重に頭を下げる。私は目を瞬かせ、
「深月」
「蜂巣さん、夏休み中にルコさんをシークレット・ガーデンに連れてこられたでしょう。雰囲気がまったく異なっていたこと、私が担任の顔と名前さえ一致しないレベルで人の認識が苦手なことから、まったく気が付きませんでした。どこかでお会いしませんでしたか、などと失礼なことを。画面越しに――だったんですね」
「ごめん。正直なこと言うと、あのときはなにも知らなかったんだよ。確かにアルセさんって、オフだと自然体で、いかにもミュージシャンって感じではないよね」
いくつもの形態を使い分けてるんだよ、という彼女の言葉を思い返す。家でのんびりする姿、近所へ挨拶をしに行く姿、そして――舞台でスポットライトを浴びる姿。なんのことはない。あのときアルセさんは、それとなく私に自分の正体を告白していたのだ。
「ねえ、深月は誰目当てなの?」と杏子が尋ねる。「やっぱベースの藍里?」
「はい。祖父にお願いをして、彼女がいちばんよく見える席を取ってもらいました。ファン歴はまだまだ浅いですが、私は藍里のベースに痺れたのです」
口調は相変わらず淡々としているが、彼女なりに昂揚しているのが伝わってきた。深月は私たちを交互に見て、
「もしよろしければ終演後、感想会も兼ねて、そのあたりで一緒に食事でもしませんか」
「いいね。来夏もいいでしょ?」
もちろん、と応じると、深月は嬉しげに頷いて、
「では、また後で。目いっぱい楽しみましょう」
彼女が自席に戻ってしまってから、食事というのは果たしてどこでするのかと少し気になりはじめた。深月の言う「そのあたり」が、どこにでもあるファミリーレストランを指しているわけではないかもしれないと思い至ったのだ。彼女のことだから、近くにある祖父お気に入りの料亭、などという話になりかねない――。
照明が落とされ、客席が暗がりに包まれた。拍手と歓声が起こる。
しゃららら――とドラマーが音色を確かめるようにシンバルを鳴らしたのち、深く力強いリズムを叩き出しはじめる。そこに硬質な、それでいて歌うように滑らかな低音を絡めたのは、ベーシストの峯島さんだ。抱えているのは愛用の黒いサンダーバード。やや俯きがちになって、右手の指先を巧みに躍らせている。
キーボーディストによる哀愁漂うメロディが加わり、ふわりと音像が広がった。同時に、ステージがぱっと明るくなる。ステージの中央で軽やかなコード進行を刻むアルセさんの姿が、華々しく照らし出された。マイクへと顔が近づく。
忘れられはしないだろう 遠ざかるほど疼きが増してく
鍵をかけて仕舞い込んだ 思い出の箱 うるさく揺れてる
だからもう一度歌おう 歪な嘴抉じ開けて
完全な新曲だった。シンプルで疾走感に満ちたロックンロールが、そこに生じていた。
復活を見届けるべく集ったファンに、ヒット曲でも、通好みな隠れた名曲でもなく、誰も知らない真新しい音楽を提示することを、彼女たちは選んだのだ。
それはラトルというバンドの、全身全霊の宣言に他ならなかった。私たちは音楽を鳴らしつづける。未知の場所へ向けて飛びつづける。
この四人が揃ったなら、どこへでも行ける。
鳥肌が立っていた。私はただ一心に、光に包まれたアルセさんを見つめていた。
しばらく表舞台から遠ざかっていたはずの彼女だが、ギャップはまったく感じさせなかった。しなやかで深みのある、唯一無二の歌声。幼き日の峯島さんを震わせた、彼女が涙ながらに取り戻したがったその声が、確かにいま、ここにあった――。
衝撃が冷めやらぬうちに、二曲目に突入していく。ファーストアルバムに収められた〈月の帽子〉。シングルカットこそされていないが、ライヴの定番曲である。アルペジオを主体とした煌びやかなイントロが始まった瞬間、観客たちはみな同じリズムで体を揺らしはじめた。
柄じゃないけど窓際で頬杖を突きながら
青く深い夜の底 古い魔法紡ぎ出す
君も聞いてよ
アルセさんが弾いていたのは、私とのレッスンでも使用した琥珀色のポール・リード・スミスだ。ボディの優雅な曲線と細かい木目が特徴的なそのギターを、私も何度か触らせてもらったことがある。外観がたいへんに美しく、私には畏れ多いと感じた楽器なのだが、長身で堂々としたアルセさんにはよく似合う。むろんのこと音色も夢のようで、ときに艶やかで甘く、ときに鋭い。自在だ。改めて惚れ惚れとした。
次なる一曲は、峯島さんがリードヴォーカルを取る性急なナンバー〈螺旋〉だった。パワフルなハイトーンを武器とした彼女の歌声は、アルセさんに勝るとも劣らぬ迫力がある。峯島さんファンの深月にとっては、ここが今日のひとつのハイライトとなったことだろう。
もちろん私にとっても見どころ、聴きどころは満載で、リードギターに専心したアルセさんの弾きっぷりは極上というほかなかった。中盤に配された情熱的なソロにはつい頬が緩だし、締め括りの長いインストゥルメンタルパート――峯島さんと向き合っての凄絶なバトルには心臓を鷲掴みにされた。互いに一歩も引かずに睨み合い、火花を散らし合うさまから、一瞬たりとも目が逸らせなかった。
苛烈なライヴバンドとして知られるラトルだが、情感に満ちた優しい曲も多い。キーボードを主体とした物静かな小曲〈記憶〉からノスタルジックなバラード〈光の庭園〉へと続く流れでは、観客は静まり返って音楽に身を委ねることになった。囁くように、物語るように歌うアルセさんの声と、爪弾かれるギター。コーラスを担当した峯島さんも、先ほどとは打って変わって穏やかだ。ファルセットを多用し、アルセさんとのハーモニーを響かせる。ベースの音色もまた、楽曲全体を包み込むように柔らかい。
これはぜひ母に報告せねばと思わされたサプライズが、後半にあった。ラトルのライヴ恒例の、カバー曲のコーナーにおいてのことだ。
私と杏子は事前に、今日披露される曲がなにかを予想していた。四人のメンバーが持ち回りで決めるとのことで、候補はそれこそいくらでもある。ラトルが影響を受けた洋楽の場合が比較的多いが、同世代のバンドの曲が選ばれることもあるし、ロック以外であることも珍しくない。ちなみに私の予想はフローレンス・イヴの〈ハピネス〉、杏子はラトルの盟友とも言えるダンスロックバンド、デルタフリクションの〈スターライト〉だった。
何度となく、それこそ暗記してしまうほどに聴いたイントロが耳に飛び込んできて、私は思わずぽかんと唇を開いてしまった。美墨くんのソロデビュー曲〈風の名前〉だったのである。
作詞作曲者は峯島さんなのだから、セルフカバーと言えなくもない。しかし完全に予想外の選曲だった。まさかここで聴くことになるとは。
ラトル版〈風の名前〉は、原曲より少しアップテンポにアレンジされ、ロックンロール然とした気配を増していた。違和感はまったくない。ラトルの新曲だと言われれば、そのまま信じてしまいそうなほどである。歌いこなすアルセさんの力量と、峯島さんの計算とが見事に噛み合った結果だった。
同曲以降は、満を持してのヒット曲メドレー。ラトルの名前が広く知られるきっかけとなった〈水際まで〉、セカンドアルバム収録の人気曲〈どこまでも〉、〈虹色〉、デビュー曲の〈オーロラ〉と続き、客席の盛り上がりは最高潮に達する。
セットリストの最後を飾ったのは、代表曲〈クロニクル〉だった。アルセさんはここで、ギターをテレキャスターに替えた。あの褪色した赤――濃密なオレンジ色。
私の前で初めて弾いてくれたギター。私が憧れた、有瀬馨の色。
溢れそうな夢と 空っぽの掌
ありふれた秘密に囲まれて
読み慣れた絵本の 色褪せた頁に
新しい真実を探した
壊れながら走る
泣きながら笑う
愚かしい日々ぜんぶ書き残したい
どうか君の未来に 僕が届きますように
どうか君の中に 僕がいますように
光がバンドを包み、明滅し、そして真っ白に変じる。ギターの残響と、乱れ打つドラムの振動と、観客の拍手や叫び声とが混然となり、最後の最後の大渦を巻き起こす。スクリーンに「RATTLE」とバンド名が大写しになり、カラフルな紙吹雪が私たちの頭上に降りそそぐ。
私の真正面――しかしもう手の届くべくもない場所で、アルセさんが微笑む。歌っていたときとはまるで違う、私のよく知った、懐かしくて仕方がない声で、
「ありがとう。また会おうね」
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