Track.20 We Share The Same Skies
セツをいったん祖母に預けて、私とアルセさんだけで外に出た。黄緑色と金色が入り乱れたように見える畑に挟まれた道を、隣り合って進んでいく。晴れているわりに気温の高くない日で、ゆっくりと歩き回っているぶんにはそう汗をかかずに済みそうだった。つい先日までは、屋外へ踏み出した瞬間に肌を焼かれるような苦痛が生じていたというのに。
「夏休みの宿題は片付いた?」
不意に問われたので、私は思わず、「急にお母さんみたいな」
「いやさ、こうやって空気を吸いに出てみたら、なんとなく秋めいてきたなと思って。私は大量にやり残しをするタイプだったから、来夏はどうなのかなって」
「ほとんど終わりました。いまは自分たちの勉強に充ててます。杏子と一緒に漣女に行くって決めましたから」
「優秀だ」アルセさんは顔を上下させ、「高校でもハチコマを続けるんだね」
「高校に行っても、大学に行っても、たとえ距離が遠くなったとしても、ハチコマは続けます。中学生の言う絶対なんて信用ならないと思うかもしれませんけど、絶対に」
彼女は再び頷き、それから風の匂いをかぐように顔を反らせて、
「同じ約束を、私も藍里としたよ。やっぱり中学生だったな。今の来夏よりずっと下手糞で、未熟で、ただ体温だけが高かった。一直線に突き進めるもんだって確信してた」
「少しだけ回り道になりましたね」
「うん。でもそれも人生だからね。〈猫神社〉、もうすぐ?」
「もうちょっとで鎮守の森が見えてきます」
「なんの森?」
「鎮守。聖域を囲む森のことをそう呼ぶんです」
〈猫神社〉というのはセツが見つかった神社のことだ。帰る前に見ておきたい、とアルセさんが言うので、私が案内役を買って出たのである。
田のあいだを突き抜ける小路へと至った。石造りの小さな鳥居をくぐり抜け、境内へと向かう。正式な名前を記した石碑でも立っていないかと探してみたが、どうにも見当たらなかった。
「ここ?」アルセさんが周囲を見渡しながら発する。「そのときは猫の集会場になってたの?」
「ええ。十何匹いたんですけど――今はいないですね」
私たちの気配を察して逃げてしまったのか、あるいは時間帯の問題なのか、〈猫神社〉の境内はもぬけの殻だった。痕跡ひとつ残っていない。
「どのへん?」
「ええと、もう少し社の近くだったような。お参りしようと思って、ふと横を向いたらって感じでした」
記憶を頼りに、だいたいの位置を示す。セツは野良猫たちの会合に参加しようとしていたろうか。それともただ遠巻きに見物していただけだったろうか。
「セツに似た感じの猫がいるなと思って眺めてたら、ちらっとオレンジの首輪が見えたんです。びっくりして名前を呼んだら、こっちに近づいてきて。いつもみたいに寝っ転がって、お腹を見せてきました。それでやっぱりセツなんだって」
アルセさんは腕組みして、「ほんとに不思議だよね。セツってあの部屋が好きでさ、余所にはほとんど行きたがらないのに。うちからここまで来てみて、とてもセツに歩ける距離じゃないって思ったんだよ。そもそもどうやって脱走したのかも謎だし、いっそ瞬間移動したとでも考えたほうが、まだ納得できる」
「魔法が使えるようになったのかも」
「猫又になるには十三年くらい早くない? 獣医にかかったとき、まだ生後三、四か月ですねって言われたよ」
社の裏手にも回ってみたが、やはり野良猫たちの姿はまったく見られなかった。乾いた階段に腰を下ろして耳を澄ませても、鳴き声ひとつ聞こえない。
「人生の七不思議のひとつだな」とアルセさんは結論した。「ともかくセツは無事に帰ってきた。正体が猫又だろうがなんだろうが、私の家族には間違いない」
神社を離れる。鎮守の森の外へまろび出ると、いつの間にか空は様相を変えていた。淡い青から紫へ、そしてオレンジ色へと至る緩やかなグラデーションを成している。そのすべての色味を含んだ雲が、うっすらと筋を引くように浮かんでいる。
黒い鳥たちの影が、羽ばたきを繰り返しながら横切っていく。寄り集まっては離れ、旋回し、あたかも群れ全体がひとつの巨大な生き物であるかのように見える。夏の終わりを鋭敏に感じ取って、南方へ飛び去ろうとしているのだと思った。暖かな南の島か、それともエジプトか――どこであれ私などでは想像もつかない、遥かに遠い場所へ。
「アルセさんも行くんですよね」
空を見上げたまま、私は言った。いちど音楽を聴いてしまえばラトルの実在を認めることになると思い詰めていた数時間前の私は、いったいなんだったのだろうと思った。最初から結末は決まっていたではないか。だってアルセさんは、あのツバメ館の住人なのだ。
「専門医のいる大病院を、マネージャーが探してくれた。まずはそこに行くことになる。日常生活に支障はないんだし、咽が物理的に故障してるわけでもないんだから、回復の可能性は充分にあるだろうって」
「入院するんですか?」
「改めて検査してみないことには、なんとも。でもこれまでみたいに、自由気ままとは行かなくなるだろうね。話し合わなきゃいけないこと、決めるべきことも山ほどあるから」
「お見舞いとか――」
と言い出しかけて、途中で唇を引き結んだ。これで彼女はもう、ツバメ館のアルセさんではなくなるのだ。ラトルのルコにとって、蜂巣来夏は何者でもない。一ファンの女子中学生の立場では、差し出がましい真似ができるはずもない。
私は強くかぶりを振って、
「――治してくださいね、絶対」
「藍里と約束したからね、死ぬ気で治すって。全力で立ち向かうよ。そうやって生まれなおして、また私になる」
「歌えるようになったら?」
アルセさんは微笑して、「ただぼんやり待ってたりしないって、藍里が言ってたでしょ? 書き溜めた曲がたくさんあるらしいんだよ。それこそ新しいアルバムを作れるくらいに。他にも過去の曲を今の私の声質に合うようにアレンジしなおすとか、やれることは無限にあるって。参っちゃうよね。一瞬だって立ち止まろうとしない奴なんだよ」
本当に、と私は頷いた。さすがは峯島さんだ。
「治療して、レコーディングして、いずれはツアーにも出るんですよね」
「オーストラリアの南の海からスタートして、ずっと北上してカムチャッカ半島、それも飛び越えて超えて北極海まで行く。カナダとアメリカも渡ってのワールドツアーに出掛けるよ。月と星を目印にして、いつまでも飛びつづける」
「眠るときは海の上で?」
「きっとそうだね。立ち寄れる場所があれば立ち寄るのかもしれないけど」
「親切な船の上とか?」
「どこかの街の金ぴかの王子の足許とかね。まだ分からないけど、成り行き任せで」
それがどこであってもきっと、長居はしないのだろう。なぜなら彼女は、生来の旅人だから。愛用のギターを背負い、自分と同じ気紛れな猫を引き連れて、どこまでも行くのだ。
「アルセさんが住んでるあの家、ツバメ館っていうんです。お兄ちゃんが昔、名前を付けたの。そんな名前にしなければよかったのにって、ちょっと恨んでます」
鼻声になって告げた私の肩を、アルセさんのほっそりとした、しかししなやかで力強い手が掴んだ。優しく前後に揺らしながら、
「ツバメ館か。いい名前だよ。一発で気に入っちゃった。私には思い付けない」
少しだけ私は笑い、それから息を吸い上げた。呼吸が整わない。無理やりしゃっくりを止めようとしているみたいだ。「バンドにはラトルって名前を付けたのに?」
「あれはね、適当に辞書を開いたらその頁にあった単語なんだよ。学生時代から使ってた、ぼろぼろの辞書。褪せた頁の上で、一語だけ輝いて見えた。マーカーが引いてあったわけじゃないよ。とにかくこの名前にしようって、一瞬で決めたの」
「直感派なんですね」
「うん、わりとね。でもその判断は間違いじゃなかったって、今でも思う。特別なバンドの、特別な名前」
私は指先で眦を拭ってから、両の掌で顔を擦った。ざわめくような鳥たちの声が、頭上から降りそそいでくる。私たちはほぼ同時に、視線を上げた。
夕焼け空を舞い踊る無数の影を見つめながら、この夏は彼らにとってどんなものだっただろうと想像した。素敵な出会いはあった? お気に入りの景色は見つけられた? 新しい歌は学べた? 旅立ちを――名残惜しく思ってる?
「私は知ってました、あなたが特別な人だって」
「特別か」アルセさんは私の肩を掴む手に少し力を込めて、「またひとつ夢が叶った。子供の頃の、何者かになりたくて仕方なかった私に聞かせてやりたい」
「ラトルのルコじゃないですか。なにを今更」
彼女は私の目を見据えながら、「ロックスターになるのと同じくらい、ううん、それ以上に意味があることなんだよ。来夏の中に、私がいるってことは」
「いますよ。だってもう、消えようがないから」
ギターを無造作に掻き鳴らそうとするとき、軽快にカッティングしようとするとき、気合を入れてソロを弾こうとするとき、音楽を発するすべての瞬間に、私は有瀬馨という人を思い出すだろう。ツバメ館でのレッスンのこと、窓際のサボテンの花のこと、オレンジのプジョーでのドライヴのこと、セツの白いお腹のこと、私たちが交わした言葉のなにもかもを、そこに込めようとするだろう。
アルセさんと過ごした十四歳の夏のことを、私は永劫、歌い、奏でつづけるだろう。
「ラトルは七つの大陸を制覇して、いずれ宇宙にも行く。地球のロック代表として、宇宙人にも聴かれる。野心はでかければでかいほどいいからね。そうやって何万キロも旅して、見たこと、聴いたこと、触れたもの、知り得たすべてを、いつか必ず来夏に伝えるよ。どれだけ長い旅だったとしても、私は迷わない」
「そのときは――またレッスンの続きができますね」
アルセさんは強く頷いて、「世界じゅうから山ほどお土産を抱えてくるよ」
去りゆく鳥たちの鳴き声が、またしても私たちを取り囲んだ。太陽の欠片がほんの僅かに居残るばかりになった空、青々として遠い山、間近の木々の枝――あるゆる場所が、別れを告げる鳥たちで満ちたかのように錯覚したほどだった。私はかしらを巡らせ、最後の最後にアルセさんの顔を視界に収めて、やっとのことで、
「黙って待つなんてしません。私だって世界最大の音量で、音楽を演りますから」
彼女が歩み寄ってきたかと思うと、一瞬だけ私を掻き抱いた。それからすぐに陽光の中へと遠ざかって、
「お互い、音楽と一緒に生きよう」
それ以降、祖母の家へと戻るまで、私たちのあいだに会話はなかった。ただ二歩ぶんくらいの距離を維持して隣り合い、光に目を細め、風を浴びながら、歩きつづけたのみだったように思う。
扉を開けると同時に駆け寄ってきたセツを、アルセさんは優しく抱き上げて、「じゃあ、そろそろ行こうか」
プジョーの放つオレンジ色の輝きが完全に視界から失せた瞬間をもって、私の夏は幕を閉じたと思っている。祖母に肩を抱かれたままで散々に泣いて、泣いて、泣きやんだのち、私はようやっと、アルセさんのいない季節へと歩み出したのである。
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