Track.19 Go Your Own Way

「――お越しいただきましたのは、モーニング・グローリーの美墨径さんです。美墨さんは翌々月、十月ですか? ソロでのセカンドシングルのリリースも予定されてるとのことで、まさに乗りに乗ってる方でございますけれども、本日は美墨さん、よろしくお願いいたします」

 司会者に促され、美墨くんが画面に向けて頭を下げてから席に着く。観客からの歓声が収まったのち、あれこれやり取りが始まった。宣伝を兼ねたトーク番組、といった趣向だ。

「美墨くん、ちょっと髪型変わってない?」

「『エンジェルユース』の撮影が終わったからじゃないですか。お母さんはこっちも好きだって騒いでます。まあ基本的に美墨くんのことは全肯定するんですけど」

 母が選んだというやたら大きなテレビを、アルセさんと隣り合って眺めている。画質も音質も驚くほどよく、こだわりが察せられた。もっとも母の場合、実家でも気分よく美墨くんの歌や演技を堪能したい、というのが大きな動機だったのだろうが。

「全肯定は凄いな。来夏やお兄さんのことは?」

 私は少し考え、「七割五分くらい肯定、でしょうか」

「まあ親だからねえ。うちはどうだろう? 下手したら三割くらいかも。音楽の道に進みたいって話したときも当然のように大反対でさ。何年で芽が出なかったら諦めますって約束して出てきたんだよ」

 アルセさんが居残ってくれたのは、祖母が引き留めたおかげである。セツを連れて辞去しようとした彼女に、せっかくだからゆっくりしていってください、と呼びかけた。私もむろん、それに同意した。ではお言葉に甘えます、とアルセさんは応じてくれた。

 新しい隣人で、私のギターの師匠なのだ、と祖母には紹介した。素敵なお友達ができてよかったね、と彼女は私に言った。アルセさんは微笑しながら、

「私のほうこそ、来夏さんと親しくなれたことをとても嬉しく思っています。ギターにも本当に熱心で――こういう言い方が許されるなら、私の誇らしい愛弟子です」

 そう認められたことが嬉しくてたまらず、私は視線を下げて独りでにやついた。これからどのような人生を辿ろうとも、この称号さえあれば胸を張っていられると思った。蜂巣来夏は未来永劫、有瀬馨の愛弟子なのだ。

「――僕のソロという名義にはなっていますけれど、実質的にバンドなんですよね。メンバーの力があまりにも大きいというか。皆さん歴戦の猛者ですからね、一緒にやれるのが本当に光栄で。バックは凄いのに美墨はたいしたことねえなって言われないよう、精いっぱい歌いたいと思ってます」

 ソロ活動について問われた美墨くんが、柔和な笑みを浮かべながら回答する。トーク中の彼はいい意味で朴訥としているというか、スターぶったところはまったくない。母が「本当に謙虚」と評するのも、なるほどもっともだという気がする。

「バンド名義でやろうって、僕は最初に提案したんですけど。でも全員のスケジュールが常に合うわけじゃないし、そこは仕方なかったのかな。特にベースの峯島さんはご自身のバンド、ラトルっていうとっても格好いいバンドで、僕も大好きなんですけど、そちらの活動もあるってことで、なかなか難しくて。でも彼女は本当にいい曲を書いてくれまして、前回も今回も、これ俺が貰っちゃっていいのって思わず訊きましたからね」

 新しいお茶菓子を用意してくると宣言して、祖母がいったん居間を離れた。くわあ、とアルセさんの膝の上でセツが欠伸をする。

「ラトル、認識されてたのか」

 などという呟きが聞こえたので、私は少し呆れて、

「それは普通、されているのでは。リップサービスではないと思います。母いわく、美墨くんは誠実で嘘を吐かない人だそうですから」

「嘘を吐かない――か。美墨くんくらいの存在になると、下手に隠し事もできないんだろうね」

「有名であろうとなかろうと、隠し事はよくないです」

「ごもっとも。でも来夏、いつだったか言ってたじゃない? 相手を信頼してるとかしてないとか、自分の中で考えが纏まってるとか纏まってないとかは関係なしに、とにかく胸に留めておきたいことが、誰にだってあるって。そうやって自分を防衛できないのって、なかなか大変じゃない?」

「確かにそんなことも言いましたね。でも母いわく、美墨くんはファンを悲しませるようなことは絶対にしないそうです」

「徳が高いな。私も見習おう」

「そうしてください。アルセさんももうじき――」

 あちら側の人に戻るんですから、と言おうとしたとき、お菓子の詰まった器を携えた祖母が部屋に入ってきた。昔から私の好物であるお煎餅や、兄が送ったらしい北海道産のチョコレートなどが山盛りになっている。

 会話を中断し、私たちはしばらくお菓子に意識を集中した。告げたいこと、語りたいことは、お互いにきっと、いくつも抱えていた。すべてが重要な気も、なにも言わなければ言わないでそのまま仕舞っておけるような気もしていた。しかしいま仕舞い込んでしまえば、打ち明ける機会はもう二度と訪れないのかもしれなかった。夏はまもなく終わるのだ。

「お祖母ちゃん、アルセさん」と私は口を開いた。「ちょっと聞いてほしいことがあって」

 ふたりの視線がこちらを向いた。途端に緊張したが、やっぱりなんでもない、とは言えなかった。

「お祖父ちゃんが倒れた日のこと」

 祖母が頷いた。私は続けて、

「あのとき、私は杏子と一緒に新入生歓迎会のステージに立ってた。物凄く緊張して、他のことはなにも考えられなくて、演奏はぼろぼろだったけど楽しかったのを覚えてる。終わった瞬間に力が抜けちゃって、切ってたスマホの電源を入れるのを忘れてた」

 語りながら、咽や鼻の奥が強く締め付けられる感覚をおぼえていた。下手糞には違いなかったけれど、ハチコマは初舞台を楽しんだ。自分たちのいっさいを吐き出したような心地で、私と杏子はしばらく茫然としていた。音楽の余韻以外はすべて、意識から消し飛んでいた――。

「私に連絡が付かないからって職員室に電話が入って、慌てて駆けつけたけど間に合わなかった。北海道にいたお兄ちゃんの代わりに、私が見送ってあげなきゃいけなかったのに、私はできなかった」

「来夏、それはね」

 と祖母が宥めようとするのを、私は遮って、

「私のせいじゃないって、お祖父ちゃんは怒ったりしないって、お母さんにも言われた。頭では分かってるんだよ。でも私、それからライヴに出るのが怖くなっちゃった。音楽を演りたい気持ちはあるけど、またステージに戻れるのか分からない」

 新しい楽器を手に入れたあの日、杏子は言ってくれた――自分たちのペースを見つけて、少しずつ進んでいけばいいのだ、と。焦らなくても、私たちには時間がいっぱいあるのだから、と。その優しさに甘えたい気持ちはある。しかしいつまでも待たせておきたくはないのだ。私は前を向きたい。

「杏子と一緒にハチコマを続けたいのに、ライヴのことを考えると不安になる。アルセさんにレッスンしてもらって、バンドで合わせる練習もして、これできっと大丈夫って思いたいのに、やっぱり怖い。お祖父ちゃんに――申し訳ないの」

「来夏」と再び祖母が発した。「お父さんだったらなんて言うか、なんとなく私には想像が付く。長いこと一緒にいたから。でも私がそれを代わりに伝えても、たぶん来夏の気持ちは収まらないって分かってる。だからね、あんたに見せたいものがあるの」

 彼女がふわりと腰を浮かせたので、私はその予想外の事態に驚いて、

「いま?」

「いまだよ。どっちにしろ見せようと思ってたからちょうどいい。有瀬さんも、よろしかったらご覧になってください。セッちゃんも抱っこして、一緒に」

「私も見て構わないんですか」アルセさんが慎重な口調で問い返す。

「どうぞどうぞ。来夏の音楽のお師匠さんに見てもらえたら、お父さんもきっと喜びますから」

 三人で居間を出た。祖父が将棋を指したり、椅子に腰掛けて読書したりするのに使っていた、小ぢんまりとしたスペースを行き過ぎる。祖母が扉を開けると、空気に独特な匂いが混じった。

「うわあ」と私とアルセさんは同時に声をあげた。互いの顔を見合わせる。

 部屋の壁一面を占拠していたのは、油絵のキャンバスだった。美術部の部室かと錯覚しそうなほどの数である。大きさはまちまちだが、いずれの作品も同一人物の手によるものに違いなかった。すべて、祖父の絵だ。

 彼が絵を描いていること自体は知っていた。しかしこれほど多作だったとは。気が向いたときにのんびり絵筆を握る程度なのだと思っていた。

「もっと上手な人はたくさんいるでしょうけどね。でもお父さんは、亡くなる直前まで新しい絵を描いてた。最後までこつこつ頑張ったんだよ。それが本当に偉かったって、私は思うの。舞子が来たときも、これは処分できないねって、ぜんぶ残しておこうねって、話し合ったんだよ」

 山や森の景色を描いた風景画が大半だが、そのなかに一枚だけ、毛色の異なる作品があった。主役はオレンジ色で、他と比べると明るく、華々しい。

 なにかを予期しながら絵の正面に立った。息を詰めた。

 描かれているのは、ハニーバーストのレスポールを誇らしげに抱えた私なのだった。左手でネックを支え、右手は勢いよく楽器を掻き鳴らしている。正面のスタンドマイクに唇を寄せ、今しも歌い出そうとする瞬間――ロックンロールのもっとも輝かしい一瞬が、そこには切り取られていた。

「これを、お祖父ちゃんが?」

「ライヴが決まったって、お兄ちゃんの楽器を借りて出るんだって、ギターの写真を携帯で送ってくれたことがあったでしょう。お父さんは小さい写真を毎日のように眺めて、この絵を描いたの。本当にいい顔をしてると思わない? 次の展覧会にはこれを出すんだって言ってね。これが、お父さんの最後の作品」

 私はキャンバスに近づいた。絵の中の私は、これが自分とは信じられないほど凛々しく、そして楽しげだった。祖父の目に私がこう映っていたというより、彼なりの祈りを込めてこの姿に描いてくれたのだという気がした――。

 視界が潤んだ。私は祖母を振り返って、

「私、こんなに格好良くなかったよ。コードも間違えたし、ギターに気を取られてうまく歌えなかった」

 彼女は目を細め、「もしそう思うなら、これからもっと格好良くなれるってことだよ。間違えたり悔しい思いをしたりしながら、それでも前に進んでいければ、きっとね。いまの来夏には立派なお師匠さんもいるんだから、きっと大丈夫だよ」

 ねえ有瀬さん、と祖母が呼びかける。「来夏は私たちの宝です。至らないところもあるでしょうけど、どうかこの子を導いてやってください。お願いします」

 アルセさんが息を吐き出した。彼女は祖母を、続いて絵の私を、最後に現実の私を見て、宣言した。

「来夏さんの師として、友人として、そして音楽家として、私に伝えられるすべてを伝えると約束します。来夏さんが誇らしく思ってくれるような姿を、私のいちばん格好いい姿を見せます。必ず」

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