Track.18 Every Little Thing She Does Is Magic

〈札幌の箱で観たって奴が、うちのサークルにもけっこういたよ。生粋のライヴバンドだったって。そんな人がツバメ館の住人だったなんてなあ。俺も会っておけばよかった〉

〈ごめん。ちゃんと教えればよかったね〉

〈まあ仕方ない。なんとなく気持ちは分かるよ。俺だってクラプトンが隣人でギターを教わってますなんてことがあったら、まず秘密にしておくだろうし〉

 独特の鼻が詰まったようなアナウンスが、杠葉駅への到着を告げる。私はメッセージアプリを閉じ、リュックサックを掴み上げて席を立った。

 改札を出てエスカレーターを下りる。人口や規模で比較すれば、杠葉は雛守よりもずいぶんと都会だ。ただし祖母はその外れの外れ、ほぼ県境にあたる場所に住んでいる。家の周りには山と畑以外、本当になにもない。

 ロータリーから、ワゴン車に自治体のマスコットキャラクターのイラストを施しただけ、といった感じの市民バスに乗り込む。駅前を少し離れると、あっという間に風景が様変わりした。緑が多い、といえば聞こえはいいが、要するに田舎である。雛守とあまり変わらない。

 兄に追加のメッセージを送ろうかとも思ったが、気分が悪くなりそうなのでひとまず止めにした。車酔いというのは、三半規管から得る情報と視覚情報の齟齬により、脳が混乱して起こる症状なのだそうだ。いつかのアルセさんの指摘は正しかった。胃袋の形状の問題ではなかったのだ。

 代わりにイヤフォンを嵌め、音楽を聴いた。ラトルの楽曲を再生する勇気は、まだ出なかった。いちど聴いてしまえば、バンドの実在を自ら証明してしまうような気がしていたのだ。抽象画のようなジャケットも、曲目のリストも、音のデータも、すべてが手許にあるというのに、私の中のアルセさんはいまだ、動物好きでギターが巧いだけの隣人だった。ロックバンドのフロントマン――フロントウーマンとしての像を、うまく上書きできずにいた。

 祖母はバス停まで迎えに来てくれていた。深い皺の彫り込まれた顔いっぱいに笑みを湛えて、会いたかったよ、よく来てくれたね、と連呼する。漠然と想像していたより、彼女はずいぶんと歳を重ねて見えた。祖父がいなくなってからずっと、淋しい思いをしつづけていたのだろう。

「お兄ちゃんがお祖母ちゃんによろしくって」

「うん、分かってるよ。北海道で元気にやってるみたいで、それがいちばんだよ。向こうはもう涼しくなってくる頃だね。冬はやっぱり寒いんだろうね」

「札幌は防寒対策が万全の街だから、意外と寒くないって話だよ。道民の必要経費として、新しいダウンジャケットを買うとは言ってたけど」

「じゃあ、少し助けてやりたいね。新生活一年目は、なにかとお金もかかるだろうし」

 やり取りを交わしながら、私たちは隣り合って歩いた。遠くにぽつりぽつりと民家の屋根が、そのさらに向こうには薄青い山の稜線が見える。のんびりと進むふたりの横を、ときおり車が行き過ぎていく。

「お祖母ちゃん、最近どうしてた?」

「つい最近だけど、習字を再開したよ。筆も新しいのを買ってね」祖母は少しだけ視線を上げ、中空を見やりながら、「あんまりぼんやりしすぎるのも良くないから。初めのうちは人の名前なんかを書いてたんだけど、このごろはもう少し長い、気に入った言葉や文章なんかを書いてる。この話を舞子にしたら、アイドルの――」

「美墨径」

「そう。その子がいつもいいことを言うから、書いて壁に貼っておくといいなんて言われてね。ちょっと気にするようになったんだよ。このあいだテレビで〈風の名前〉って歌をうたってた。あれはいい歌だと思ったよ。お父さんに聴かせたら、気に入ったかもしれない」

 祖母の家の近くにある小さな神社のことを、不意に私は思い出した。幼かった頃、その境内でお団子かなにかを食べた記憶があった。兄もいたような気がする。少しだけ寄ってみたいと告げると、祖母はべつだん構わないと答えた。

 神社はひっそりとした木立ちのなかにあった。その一帯だけやたら背の高い木々が密集しているのが不思議で、どうしてこんな風になっているんだろうねと祖母に尋ねると、こうして聖域を囲む森林を鎮守の森というのだと教えられた。なるほど神様が降りてくる場所、ということらしい。

 やや厳粛な気持ちになって境内に入っていくと、そこで待ち構えていたのは野良猫の群れだった。信仰心がどうこうというわけではなく、単に居心地がいいのだろう。私たちにはお構いなしに、のんびりと寝そべったり、ひょこひょこと歩き回ったりしている。

 そのなかの一匹に、ふと視線を吸い寄せられた。白とベージュが入り乱れたような色味に、ころころと丸っこい体躯。私は頬を緩めて、

「あの猫、お隣で飼われてる子にそっくり」

 どれどれ、と祖母は顔を前方に突き出して、「あんまり見かけた覚えのない猫だね。新入りなのかもしれないね」

「新入りとかあるの?」

 祖母は頷き、「このへんの野良猫ってのは仲間意識が強いらしくて、よく井戸端会議をしてるんだよ。いつも同じようなのが集まってるんだけど――ほんとにあの猫だけはぜんぜん見覚えがないね」

 くだんの猫が立ち上がり、身を翻して歩きはじめた。その一瞬、首元に明るいオレンジ色が見えた気がし、「セツ?」

 なお、と聞き覚えのある鳴き声を発しながら、こちらへと歩み寄ってきた。屈み込んだ私の目の前に寝転がり、平然とお腹を見せる。野良猫にしては人に慣れている。なによりその仕種が――。

 そっと手を伸ばし、首元を探った。やはりオレンジの首輪をしている。タグには名前と電話番号が刻印されていた。有瀬セツ。

「なんでここにいるの?」私はすっかり困惑し、素っ頓狂な声をあげた。「どういうこと? アルセさんが連れてきたの?」

 むろんそんなはずはなく、セツがなんらかの理由でツバメ館を抜け出し、独力でここまでやってきたと考えるほうが自然に決まっていた。夜のあいだに脱走して、一晩でここまで? 

 ともかくも祖母に掴まえておいてくれるよう頼み、アルセさんに連絡を入れることにした。長々と呼び出し音が続く。いったん切って架けなおそうかと思いかけたとき、

「来夏? ああごめん、いま緊急事態で――」

 電話に出てきた彼女は完全に取り乱していた。私は声のテンポを落とし、

「セツはいま、私たちと一緒にいます。だから安心してください」

「え? なんで? 本当にセツなの? どうなってるの?」

「私にもよく分かりません。杠葉のお祖母ちゃんちに来ています。近所の神社にたまたま立ち寄ったら、野良猫の集団のなかに混じってたんです」

 はああ、とアルセさんは大きく息をついて、「今朝から姿が見えなくて、必死で探し回ってたんだよ。いま杠葉なの? 本当に?」

「写真を送るので確かめてください。首輪に名前が書いてあったんで、間違いはないはずですけど」

「本当にありがとう。すぐ迎えに行くよ」

 祖母を振り返り、やはり隣家の猫だった、これから飼い主が来ると報告した。彼女はこの珍事を少し面白がって、

「ただ逃げたわけじゃなくて、なにか目的があったのかもしれないね。動物は、私らには思いもよらないほど賢いから」

 久方ぶりに訪れた祖母の家は、以前よりだいぶがらんとして見えた。祖父が亡くなったのを機に、物をいくらか処分したのかもしれない。セツを抱いたまま居間に上がる。舞子が買い替えを手伝ってくれたんだよ、と言いながら、祖母が壁際のテレビを示した。古めかしい室内で、確かにそれだけが真新しい。

 子供の頃の母が描いたのであろう絵が、あちこちに飾られている。将来デザイナーになる人の作品なだけあって、なかなかに技巧的である。いわゆる「子供らしい」絵ではまったくない。周りが青空と太陽を描くならば自分は雨の日の水溜りを、そこに浮かんだ枯葉を、といった思考で、当時から生きていたらしい。

「きっとお父さんに似たんだろうね、私は美術はからきしだったから」私の視線が絵に向いていることに気付いてだろう、祖母が目を細めて言う。「舞子が学校を休んだ日には、よく景色の綺麗なところに連れて行ってやったっけね。なにを描くんだろうと思って見てると、足許の石ころをひっくり返してたり――そういう子だったよ」

「お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、それで怒らなかったの? お母さんのこと」

 祖母は笑って、「そういう子なんだと思って、私もお父さんも受け入れてた。もちろんすぐさま受け入れられたわけではなくて、いろいろ苦労はあったんだけどね。今日は絶対に行きたくないけど、でも最低限卒業だけはできるようにする、だから一日休ませてほしいって、舞子はよく言った。自分は絵描きになるって早くから決めてたみたいで、毎日毎日絵ばっかり描いてたね」

「絵に生きるって、お母さんは昔から思ってたんだ。絵と一緒に生きる、じゃなくて」

「そうするしかないって自分で気付いちゃったんだと思うよ。もう少し器用な子なら、他にいくらでも選択肢があったかもしれない。でも来夏も知っての通り、舞子は物凄く不器用で意地っ張りだからね。大勢が進む道を、大勢が進むからってだけで無理やり進ませたところで、いい結果になるとは思えなかった。今では正解だったと思ってるよ。ちゃんと美術の学校を出て、今ではそれなりにやってるわけだからね」

 祖母と話しているうちに、セツがうつらうつらとしはじめた。私の膝の上で体を丸くし、暢気に眠り込んでしまう。雛守から杠葉までを踏破した猫にはまったく見えなかった。

 車の走行音が近づいてきた。おや、と祖母が窓の外を仰ぎ見る。私も首だけを捻って、プジョーの放つオレンジ色の輝きを視界のうちに収めた。

「もう来た」

 どれ、じゃあお出迎えしてあげよう、と言って祖母が立ち上がった。ゆっくりと庭先へと出て行く。車を停める位置を手で合図しているようだ。

 ややあってアルセさんが飛び込んできた。私の腕の中にいるセツを見とめるなり、「ああ、よかった。セツ、本当にもう――」

 泣いている。いっぽうのセツはとくべつ悪びれた様子もなく、すまし顔をしているばかりである。これは代わりに叱ってやらねばならないと思い、

「セツ、アルセさんはこんなに心配してたんだよ。勝手にいなくなっちゃ――」

 途中で言葉が途切れた。この状況はあたかも、私とアルセさんとの出会いを再現したかのようだと気付いたのだ。あのときはロンをアルセさんが。今度はセツを私が。

「このために?」

 と私はセツを見下ろして訊いた。むろん答えは返ってこない。ただいつものように、なお、と鳴いたのみだった。アーモンド状の大きな目。深い思惑があるようにも、なにも考えていないようにも思えた。

「そういえばアルセさん、セツの脱走経路って分かりました?」

 彼女は鼻をハンカチで覆ったまま、「まったく謎。いつも通り自分の寝床で寝たのを確認して、ちゃんとケージをロックして、もちろん家のドアにも鍵をかけた。ぜんぶそのままだったよ。完全に魔法。イリュージョン」

「魔法」と私は繰り返した。思わず、「セツは魔法使い?」

 扉が開く音がした。穏やかな笑みを湛えたまま、祖母が居間へと戻ってきた。

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