Track.17 Close to Home
夏休みも残り少なくなってきたとある日、兄が北海道へと帰った。到着したらすぐ、免許取得のための合宿に入るとのことで、彼はいくらか憂鬱そうだった。教官にいびられたらどうしよう、永遠に卒業できないかもしれない、などと嘆いていた。
「俺は手足をリズミカルに動かすのが苦手なんだ」
「さすがに嘘が過ぎるでしょ」
「いや、本当だよ。本当はギターだって苦手だ。ただ飽きるほど練習してるだけで」
雛守の駅まででいい、という兄の要求を母はまるきり無視して、車で空港まで送っていった。大荷物を抱えて何度も乗り換えするんじゃ大変でしょう、車なら助手席でただ寝てればいいんだから、などと言い含め、前日のうちに計画を変更させたのである。おかげで早起きする羽目になった、と兄は笑っていた。
同じ日の午後、また雨が降った。お兄ちゃんって雨男なのかな、と母に言うと、北海道はきっと晴れだよ、と彼女は答えた。天気予報を見てみると確かにその通りで、兄が濡れずに帰れそうだと知った私は安堵した。そうこうしているうちに、無事に飛行機が着陸したとのメッセージが送られてきた。
いつもより少し遅い時間にロンの散歩に出て、アルセさんと初めて出会った公園に行った。雨上がりの夕方の匂いが懐かしくて、私はしばらくのあいだ、小さな時計台の前で意味もなく佇んでいた。この夏休みにはいろいろなことがあった。しかしまだもう少しだけ、私の夏は続く――。
「家も少しだけ片付いたし、よければ遊びにおいで。友達を連れてきてもいいから」
電話越しにではあるけれど、ずいぶんと久しぶりに、私は祖母の声を聞いた。祖父が亡くなって以来だったと思う。彼女はいま独りで、杠葉市に住んでいる。
「お祖母ちゃんち、大変じゃないの? もう落ち着いたの?」
「舞子がずいぶん手伝いに来てくれたから、ようやくね。ずっとばたばたしてたのが一段落したもんだから、ちょっと淋しくなって。ああ来夏に会いたいな、会いたいなって気持ちになってきたの」
舞子というのは母のことだ。「夏休み中に顔を見せに行くよ。お兄ちゃんも行ければよかったね」
「穣にも会いたいけど、それは少し辛抱。お正月にはまた帰ってくるでしょうから。なんにもなくて退屈だろうけど、待ってるからね」
通話を切ってすぐ、いつ祖母の家を訪ねるかを母に相談した。日程は来夏が好きに決めていい、日帰りでもいいし何日か泊まってきてもいい、と彼女は言った。
「お祖母ちゃん、友達を連れておいでって」
「まあ、それ口癖だからねえ。私にもいつも言ってたよ。家が賑やかなほうが好きなんだって」
出掛ける前日、深月から電話があった。ちょうど美墨くんが主演するドラマを母と一緒に観ている最中のことだったので、私は立ち上がってリビングを出た。
「新しいかき氷シロップの宣伝?」
笑い交じりに尋ねると、彼女は少し膨れたような口調になって、
「そういうことにしておきます。ハチコマの練習、ぜんぜん出られなくてすみません」
「気にしなくていいよ。来られるときに来てくれれば」
彼女の予定を先に確かめてから練習日を決めるという方法もあるはずなのだが、私も杏子もそうするつもりはなかった。なんとなく厭だったのである、無理やりに圧力をかけてしまうようで。
「ベーシスト探しはまだ続けているんですか」
「ううん、今のところは」
「正式な加入者が見つかったんですか」
「違うよ。深月の気が変わるのを待ってる。当分は席を開けておくつもり」
彼女はしばらく沈黙したあと、「今の私のような中途半端な態度、褒められたものではありませんよね。正直、苛立っていらっしゃるのでは」
「別に。それぞれに事情があるのは承知してるし。そうだ。私、明日から杠葉のお祖母ちゃんちに行くんだよ」
「杠葉ですか」と深月は話題に反応した。「駅前にホテルがありますよね」
私は首を傾げ、「あるけど、それが?」
「祖父のホテルです。よろしければ利用してください。澁澤深月の連れだとフロントで言っていただければ大丈夫なようにしておきます」
「お祖母ちゃんちに泊まるんだってば」
けっきょく深月がなにを話したかったのか判然としないまま、やり取りは終わった。リビングではドラマがまだ続いており、母はティッシュを鼻に当てて号泣していた。この短時間によほど劇的な展開があったらしい。
やがて異変を察知したらしいロンが、寝床を出て近づいてきた。彼なりに慰めているつもりなのだろう、お気に入りのボールや玩具を咥えてきては母の足許に転がす。なんだか不憫になってきて私が相手をしていると、またしてもスマートフォンが震えた。
待ちきれなくなった祖母か、それとも深月か、でなければ杏子かと考えつつ画面を確かめる。その誰でもなかった。表示された名前は――有瀬馨。
〈いったん雛守を離れる。少しのあいだ会えなくなる〉
事情を問う返信をするでも、電話を架けるでもなく、私はまったく無意識のうちにより直截な行動を起こしていた。まっしぐらに玄関へと向かい、サンダルを突っ掛けたのである。
「来夏? どうしたの?」
母の咽声が後方から聞こえたが、あとにして、とだけ叫んでドアを開けた。オレンジ色のプジョーはまだ定位置に停まっている。息を弾ませながらツバメ館の呼び鈴を鳴らした。
「来――」
普段とあまり変わらない、ラフなTシャツ姿のアルセさんを前にした途端、さまざまな感情が一息に込み上げてきて堪えきれなくなった。私は洟を啜り上げながら、
「馬鹿」
いきなりそんな言葉を浴びせたにもかかわらず、アルセさんは頷いて、「そうだね」
私が涙を拭うまで、彼女は黙って待っていてくれた。まお、まお、と奥からときおりセツの声がする。動物というのは鋭敏なものだ。誰かが泣いていると、今こそ自分の出番だとばかりに寄り添おうとしてくれる。
「峯島さんが原因ですか」一階の広間でスツールに腰掛けて向かい合うなり、私は尋ねた。「峯島さんと顔を合わせないように、雛守を出て行くんですか」
「出て行くわけじゃない」
「じゃあ一時的な雲隠れ?」
アルセさんは短く宙を眺めてから、「そんなとこ。あいつのことも、もう知ってるんだ」
「ええ」
彼女は吐息し、「いくらあいつが執念深いって言ったって、時間も労力も有限だからね。遠からず平和になるよ。そしたらぜんぶ元通り」
それで済むわけはない。このとき私は初めて、アルセさんに対して怒りを覚えていた。
「以前、納得はできないけど理由は訊かないと約束しましたよね。すみません、撤回させてください。峯島さんと会ったんです。彼女の話は本当なんですか」
僅かな沈黙のあと、アルセさんはゆっくりと口を開いて、
「藍里は嘘を吐いてない。私は勝手にラトルを抜けて、東京から逃げ出した。そしてここへ来たの」
「どうして」問い返す私の唇は震えた。「ずっと一緒にやってきたバンドの人たちを――どうして」
アルセさんは少しだけ俯いた。自身の喉元に手を触れて、
「まともに歌えなくなったんだよ。原因は不明。どうすれば治るのかはまったく分からない。日常生活にはなにひとつ支障はないのに、ステージに立つと苦しくて仕方なくなる。出せるはずの声が出にくい。歌えるはずの曲が歌いにくい。どうにか周りにばれないように祈りながら、無理やりに咽を抉じ開けて歌いつづけてたけど、いよいよ限界になった。これ以上誤魔化すのは不可能だって」
「病気なら、どうしてそう正直に打ち明けなかったんですか」
「藍里なら待つって言うに決まってるからだよ。あれだけの曲が書けて、あれだけのベースが弾けて、あれだけ音楽に情熱がある人間を、私のために縛り付けておきたくない。美墨径から声がかかったとき、本当によかったと思った。あいつの力が認められた。新しい舞台が用意された。ますます私が居座る意味がなくなった。そう思って安心したし、心から嬉しかった。これで私は私の、相応の人生に戻れる。これでよかったんだって」
なお、とまた囲いの内側にいるセツが鳴いた。私はやっとのことで、
「――よくないですよ。なにも」
「私の感情で、私の人生だよ」
「確かにそうです。でもアルセさんを思って必要とする人たちが、周りにはいます。峯島さん、ラトルは自分のすべてだって言ってました。アルセさんは違うんですか」
彼女は小さく顔を動かし、それから穏やかな声音で、
「私の目的は、音楽と一緒に生きてその喜びや苦しみを味わいつくすこと。バンドであっても、教室であっても、重さは同じなんだよ。夢を叶えるためにここへ来たってのは、絶対に嘘じゃない。来夏と出会って、私なりに楽しんで、考えて、精いっぱい教えて、どんどん上達していくのを間近に見て――これからもずっと、そうやって生きていきたいの。駄目なのかな」
私は瞼を閉じて涙を外に追いやり、怒涛のように過ぎ去っていった夏の日々を思い返した。オレンジ色の車を見つけたこと。ロンを捕まえてもらったこと。ギターのレッスンのこと。私たちの奏でたすべての音楽のこと。
「峯島さんにも、同じことが言えますか」
「言えるよ。言えると思う」
自分の言葉を噛みしめるような口調だった。彼女は腰を浮かせ、広間を歩き回りながら、
「理由も知らせずに逃げ出して諦めてもらおうなんて、確かにどうしようもなかったね。あいつに電話する。私の気持ちを、きちんと話すよ。スマホ、どこ行ったかな」
「私が架けますよ。話してください、気持ちが変わらないうちに」
言いながら、峯島さんがナプキンに書きつけてくれた番号を入力した。繰り返し見つめすぎたおかげで、とうに暗記してしまっていた。
内心、繋がらなかったらどうしようかと思っていた。しかし僅か数秒で、峯島さんは電話に出てきた。「はい」
「蜂巣です。アルセさんが話すと言ってます」
「そう」と彼女は応じ、「だったらそこへ行く」
「直接話したいってことですか。どこか適当なところで――」
「いや、そこへ行くよ。場所分かってるから。このへんであんな目立つ車乗ってる奴、ルコしかいないでしょ」
二十分ほどして、峯島さんは本当にツバメ館に姿を現した。居場所を知っていたなら、とうに押しかけてきても不思議ではなかった。すなわち彼女は信じていたのだ、この日が訪れることを。
「話す気になったって? どんだけ待たせるんだよ、馬鹿」
席を外したほうがいいかと尋ねると、ふたりともかぶりを振った。アルセさんはぜひ立ち会ってほしいと言いながら、峯島さんは別にいても構わないといった調子で。
アルセさんは話した。途中で一度も口を挟むことなく、峯島さんはその告白を聞きつづけた。私はただ黙って、アルセさんが語り終えるのを待っていた。
「――事情は分かった。でも言わせてもらう。ふざけんな」
「無断で逃げたのは謝る。藍里が怒るのは当然だと思ってる」
峯島さんは途端に声を荒げ、
「そんなことはどうだっていいんだよ。ラトルを辞める? 冗談じゃない。私をあれだけの声で、あれだけの歌でぶちのめしておいて、ちょっと調子が悪いから消えさせてくれだなんて、そんなもん通るわけないだろ」
「ちょっとじゃない。ヴォーカリストとしては致命的だよ。ここで引っ掛かって、足を止めて、自分の音楽人生を棒に振る気なの? 私のことじゃなくて、藍里自身のことを考えてよ」
考えてるに決まってるだろ、と峯島さんは怒鳴った。
「私の人生には、私の音楽には、ラトルが、有瀬馨が絶対に必要なんだ。そう簡単に失くしてたまるか。ただぼんやり待つなんて誰が言った? 私は足を止めない。どんな方法を使ったって、ラトルを守り通す。お前がどこにいたって聴こえるように、馬鹿みたいな音量で音楽を鳴らしつづけてやる。ルコ、こっち見ろ」
顔を上げたアルセさんを、峯島さんは鋭い、そして明確な意思の光を湛えた瞳で睨みつけて、
「だから死ぬ気で治すって言え。一緒に戦ってほしいって言え。他の言葉は聞きたくない」
アルセさんは短く私を見て、それからすぐに正面の峯島さんに視線を戻した。向かい合ったふたつの横顔。ふたりの濡れた頬。
「少しだけ、時間が欲しい」とアルセさんは言った。「夏が終わるまで。この夏が終わったら、ちゃんと今の私を終わりにするから。そうして、私をまた始めるから」
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