Track.16 Truth Is Pain
「今日はこのぐらいにしようか。朝比奈先生にひと声かけてくるね」
杏子がドラムセットの前を離れ、教室を出ていく。もう一曲か二曲を合わせる時間こそ残されていたが、どちらともそういう気分ではなくなっていた。こういう場合は、無理に引き延ばさないほうがいい。
先にギターを片付けておこうと思い、シールドを引き抜く。アンプを音楽準備室まで運び、ドラムセットを解体し……といった一連の作業は、なかなかに重労働なのだ。
客観的に言って、今日のハチコマは精彩を欠いていた。前回がきわめて好調だったぶんの反動が、一気に押し寄せてきたのかもしれない。私も杏子もなんとなく演奏に集中できず、つまらない失敗ばかりを繰り返していた。
ギターをバッグに仕舞いながら、そういう日だってある、と自分に言い聞かせる。大事なのは継続することだ。
戻ってきた杏子と協力して、教室を元通りにした。夏休み明けも同じように使わせてもらえるのかは、今のところ未定である。できるだけ配慮はするが、部活動やクラブ活動での使用希望があればそちらを優先せざるを得ない、と朝比奈先生には言われていた。
「やっぱり、深月がいたほうがいいね」
帰り際、廊下で杏子を振り返って発した。演奏のあいだじゅう、感じていたことだった。
彼女はありありと悄気た風情で、
「もちろん、いたほうがいいには決まってる。でもこれまでずっと、ふたりで演ってきたわけじゃん。深月がいなくても、その積み重ねが消えるわけじゃない。ふたりでもどうにかなる、どうにかしてやるって思ったのに、今日はぜんぜん駄目だったのが悔しい」
一度目のセッションのあと、私たちは深月に、ハチコマへの加入を依頼していた。正式メンバーになるのは遠慮するが、ときどき練習に参加するだけならば構わないというのが、彼女の回答だった。このあたりの事情は、先日アルセさんにも話した通りだ。
今回も声だけはかけてあった。しかしお祖父さんと会う予定があるとのことで、断られてしまっていた。
「また誘ってくださいって言ってたんだし、次は来てくれるよ」
「かもしれない。だけど、深月抜きじゃバンドにならないから助けてくださいって頼むのはやだ。ハチコマは凄い、かっこいい、ハチコマと演りたいって思わせたい。そうじゃなかったら、深月の気持ちは離れちゃうかもしれないよ」
確かにその通りだった。もとより筋はいいのだし、彼女には財力も人脈もあるのだ。深月自身がバンドを立ち上げようとすれば、メンバーはいくらでも集まるだろう。
杏子が自転車で帰っていくのを見送った。自前の楽器を抱えてこねばならない私は、母に車で送迎してもらっている。
校門を出て立ち止まり、自分はどうなりたいのかと考えた。フローレンス・イヴの凄まじいパフォーマンスに触れて以来、ますますこうして自問することが増えている。アルセさんは間違いなく、彼らの音楽を継承した。では私は?
あの日、順番待ちの列でふと耳に入った会話が甦る。ラトル。ルコ。なにかが引っ掛かった。そうだ。峯島藍里さんもアルセさんをルコと呼んでいた――。
「ねえ、ちょっといい?」
傍らから唐突に声をかけられた。母に練習が終わった旨のメッセージを送ろうとした手を止め、スマートフォンから視線を上げる。
モノトーンのファッションがよく似合った、長身の女性がこちらを見つめていた。鮮やかな金髪。なによりその特徴的な眼光。
「峯島藍里さん?」
「なんだ。私のこと知ってるんじゃん。だったら手っ取り早いわ。これから、ちょっと付き合ってくれない? 時間は取らせないから」
「私――ですか? 今から?」
彼女は当然だと言わんばかりに、「自分だって分かってるでしょ。こないだもルコと一緒にいたよね」
私は怖々と頷き、「それ自体は事実です。でも私からお話しできることなんて、なにもありません」
「そっちがなくても私があるんだよ。どっかで座る? ギター背負って突っ立ってるの、大変じゃない?」
「どこかって? 人に聞かれない場所ですか」
「いや、逆。人目があるとこ。こっちから話しかけといてあれだけど、私が不審者の可能性もゼロじゃないわけでしょ。近所にフードコートあるよね。あそこでいいか」
私が断るとは微塵も思っていないらしく、くるりと向きを変えて歩み出してしまう。やむなく彼女に追従した。その精緻な横顔をそっと伺いつつ、
「あの、今更なんですけど――」
「本物の峯島藍里か? 確かに本物だよ。最近はちょっと名前が売れたけど、騙るほどの価値はまだ私にはない。今の時点でスターなのは、美墨径だけだよ」
「いえ、疑ったわけじゃないです。ただどうして、アルセさんのことをルコって呼ぶのかなって」
少し驚いたらしく、峯島さんは私に視線を寄越した。「ああ、そこは知らないんだ。じゃあ、あいつは自分の過去をぜんぜん話してないんだね」
「聞いたことないです。なんというか、普通の人ではないんだろうとは、薄々と感じてましたけど」
「まあ、いろんな意味で平々凡々な人間ではないね。今度はこっちから質問なんだけど、あなた名前は?」
いまだ名乗ってさえいなかったことに、初めて気が付いた。「すみませんでした。蜂巣来夏です。苗字は蜂の巣で、名前は夏が来ると書きます」
「蜂の巣――じゃあビーハイヴか。ルコとはどういう?」
隣人だと答えそうになって、慌てて唇を引き結んだ。私の口から、安易にアルセさんの所在を知らせてしまうわけにはいかない。
「こういう言い方をしていいのか分かりませんが、友人です。だから私は、アルセさんの迷惑になるようなことはいっさいお話しできません」
峯島さんは私に言い聞かせるように、
「だから、別にいいって。居場所を教えろとか、会わせろとか言うつもりはないよ。あいつが私に会いたくないってのは理解する。だけど私は私で事情があるの。ただそれを聞いて、ルコの友人として判断してもらいたいわけ。できる?」
「そういうことなら」と私は慎重に応じた。「話はお聞きします。でもその結果としてなにをするとも、しないとも、私にはお約束できません」
ふふ、と彼女は小さく笑った。「抜け目ないね。ルコが気に入るのも分かる。大丈夫、その条件でいい。私は一方的に喋って消えるよ。こう見えて、わりと忙しいしね」
平坦な灯りに照らされたフードコートで、峯島さんと向かい合って腰を下ろす。飽きるほど訪れた場所とはいえ、今回ばかりは怖ろしいほどに緊張した。ここまで硬くなったのはおそらく、英語検定の面接試験以来だったと思う。
「まずはそっちの質問に答えておこうか。ルコってのはもともと、私が付けた綽名。本名の馨に子を足して、前半を省略したの。餓鬼の頃からずっと、私たちのあいだではそれで通ってる」
なるほどと思う。「馨子からルコ、だったんですね」
「そう。私たちって幼稚園からの付き合いでね、家も近所。出身は北海道の田舎だよ。ルコの家ではでかい犬を飼ってた。スピカって言ったかな。シベリアンハスキー」
「その話は聞きました。出身地じゃなくて、犬の話」
峯島さんは手許のコーラを一口含んで、「あいつ、犬の話ばっかりするでしょう。昔から犬が大好きなんだよね。いつか猫も飼いたいって言ってたから、動物全般が好きなのか。まあ、それはいいや。とにかく私たちは幼馴染で、同時に楽器を始めた。厳密に言うと私のほうが少しだけ早かったのか。誕生日にベースを買ってもらったって自慢したら、ルコも親に強請ってギターを手に入れた。藍里と一緒に演れるように、私は違う楽器にした、とか言って」
「それで――ずっとふたりで音楽を?」
彼女は頷き、「あっという間にのめり込んでね。小学校高学年の頃には、ふたりでオリジナルの曲を作りはじめてた。コピーもさんざん演ったけど、自分たちの曲で勝負したいって気持ちのほうが強かったね。それで高校一年のときに、いまのバンドを結成した」
私は息を吸い上げてから、「ラトル?」
「その名前はルコが付けた。赤ちゃんが持ってる玩具で、がらがらってあるでしょう、あれのこと。ガラガラヘビはラトルスネーク。動詞だと打ち震わせるって意味になる」
打ち震わせる、と反復しながら、フローレンス・イヴのイヴのライヴで感じた凄まじい衝撃を思い返していた。そう、あれはまさしく振動だった。彼らのように、客席を打ち震わせる音を奏でたいという、アルセさんなりの決意表明だったのだろう。
「初めは合作をやってたけど、曲についてはそのうち単独で仕上げることのほうが多くなった。メインコンポーザーは私って流れが、いつの間にかできあがった。ラトルの曲の七割ぐらいは私が書いたやつだよ」
「当時から才能がおありだったんですね」
は、と峯島さんは笑い飛ばして、「才能っていうのかな。朝起きてから寝るまで、場合によっては夢のなかでも音楽のことを考えて、作って、練習して、演奏してって生活を続けてれば、誰でも少しくらいは上達するよ。才能があったのは私よりルコのほう。私じゃどうやっても習得できない武器を、あいつは生まれながらにして持ってた」
やはりアルセさんは生来の天才だった。分かっていた、などと言うつもりはない。ただ私は、自分の幸運に感謝していた。有瀬馨という人物との出会いに。彼女の優しさに。
「アルセさんの才能っていうのは」
「声だよ」と峯島さんは答えた。「歌唱の技術とも違う。生まれ持ったその声。あいつが初めて私の前で歌ったときのことを、今でもはっきり思い出せる。震えた。怖いぐらいだったよ。とんでもない場面に立ち会ってるって確信できた。同時に思ったんだ、これで私たちは勝てるって」
「――声?」
「そう。声ばっかりは天性の才能なんだよ。努力じゃどうにもならない」
「いえ、ちょっと待ってください」私はすっかり困惑して、彼女を見返した。「アルセさんはギタリストですよね。歌ったことなんて、一度も――」
「ないって? あるよ、いくらでもある。あなたに聴かせたことはない、でしょ。事実として、ルコはラトルのギターヴォーカルだった。アルバムも作ったし、ライヴにも出た」
「そんな――」
アルセさんが過去を隠していたこと自体は、この際どうでもよかった。秘密のひとつやふたつ、誰にだってあるだろう。私にもある。
ただ悲しかったのは、私がギターヴォーカルなのだと告げたとき、自分もそうだと教えてくれなかったことだ。彼女が私と同じ立ち位置なのだと知れたなら、彼女もギターを弾きながら歌ったのだと思えたなら、それだけで私は、凛々たる勇気を胸に抱くことができたのに。
「続きを話すよ。あんまり時間をかけたくない」動揺しきっている私には構わず、峯島さんは口を開いた。「私たちはライヴを重ねて、札幌ではちょっと名前が知られるようになってた。まだまだ未熟だったけど、いちばん勢いがあった時期かもしれない。そうこうするうちに、デモ音源を聴いたっていう音楽事務所の人に声をかけられたんだ。一度、東京に出てこないかって」
「活動拠点を移したんですか」
「そういうことになるね。私たちが契約した事務所、ビーハイヴって名前なんだよ。つまり蜂の巣。もちろん偶然だろうけど、ちょっと驚いたよね」
だから私が名乗ったとき、ふたりとも不思議な反応を見せたのだと合点がいった。
「事務所に所属して、デビュー?」
「うん。いきなり大ヒットとは行かなかったけど、評判は上々だった。ラトルは幸運なバンドだって、これからもっと大きくなれるって、全員が同じ夢を見てるんだって思った。今度はあのフェスに出たいねとか、あそこで単独公演したいねとか、みんなで話し合ってさ。でも実現しなかった」
峯島さんの声が僅かに暗くなった。私は黙ったまま、次の言葉を待った。
「いきなりルコが抜けるって言い出したんだよ。仲違いしたわけでも、やりたい音楽が違ってたわけでもない。どれだけみんなが引き留めても、話し合いを重ねても、ルコの考えは変わらなかった。とにかく辞めるの一点張りで、とうとう独りで東京から逃げた」
「どうして?」とつい口調を乱して訊いた。「そんなの信じられないです」
「こっちだって信じられないよ。峯島藍里が美墨径に引き抜かれてラトルは活動を休止した、とかネットで言われてるけど、違うんだよ。確かに楽曲は提供したし、サポートで弾いたこともある。でも私のメインはあくまでラトルだって伝えたうえで、スケジュールの合うときだけ参加するって話が纏まってたの。ラトルが動けないのはルコがいないから。ルコさえ戻ってくれば、私はいつでもラトルをやる。ルコが望むなら、美墨径のバンドを辞めたっていい。ラトルが私のすべてなんだから」
鬼気迫るその口調に、私はただ圧倒されていた。彼女が嘘を吐いているとは思えない。しかし――。
「私の知ってるアルセさんは、そんな不誠実な人じゃないです」
「私だってそう思いたい。付き合いは私のほうが圧倒的に長いんだから。こっちがなにかとんでもない間違いをしでかした可能性もなくはない。だけど仮にそうだとしたって、理由すら告げずに消えていいことにはならないでしょ」
「その通りです」
「分かってくれてありがとう。じゃあ、私はこれで」
手許のコーラを飲み下し、空になったカップをトレイに乗せる。そのまま腰を浮かせて返却口へ向かおうとするので、私は慌てて、
「待ってください。これで終わりですか?」
「終わりだよ。勝手に喋るだけ喋るから、あとはそっちで判断してって言ったよね? 私からはなにも要求しない。ルコの友達として知りたいこともあるだろうと思って話しただけなんだから」
理解はできたが、納得するのは難しかった。「でも――」
「でも、じゃない。約束でしょ」
「そうですけど」
峯島さんは吐息し、それからテーブルの隅にあったナプキンを一枚取り上げた。ボールペンでなにかを書きつけて、こちらに突き出してくる。
「もし私に用があればそこへ。その気がなければ破って捨てて。じゃあね」
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