Track.15 The Sound
「――それで三人組?」プジョーのハンドルを握ったまま、アルセさんが尋ねる。「新たなスリーピースの誕生ってわけだ。クリーム、ラッシュ、ニルヴァーナ、モーターヘッド、ポリス、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス、そしてハチコマ」
「いえ、その、私たちは――」
「志だけはでかく持ってればいいんだよ。誰に文句を言われる筋合いもない」
「そうじゃないんです。ハチコマはまだふたりのままなんです」
赤信号で停車すると同時に、アルセさんの視線がこちらを向いた。「なんで? 完全にメンバーになる流れの話だったじゃん」
「私も杏子もそう思いました。でも深月に断られてしまって。ハチコマはふたりのバンドだから、自分は踏み入りたくない、と」
「踏み入りたくない、か。なるほどね」アルセさんはしばし考え込んだのち、「そういう気持ち、分からなくはないな。自分が上手くやれるかどうかとはまったく別に、そこにいていいのかどうかって意識は確かに湧くかもしれない。でも来夏も駒場さんも、三人組の新生ハチコマに手応えは感じたわけでしょう。澁澤さんにいてほしいって、意見が一致したわけでしょう」
私は頷いて、「単にベースが見つからなかったからふたりで演ってるだけで、構成に強くこだわってるわけではないですから。でも深月の立場からすると、立ち入り難く感じるのかもしれません。彼女、一年生だし」
「ああ、それ意外と大きいのかも。中学生のときって、ひとつ学年が違うともう別世界の人間って感じがしたもん。体育のジャージとか校章の色とかも学年ごとに別でさ、廊下で見かけると、うわ、三年生だ、みたいな」
「ええ。私も三年生のバンドに誘われたら、だいぶ躊躇すると思います。こういう考え方って、いかにも子供っぽいというか、大人になればどうでもよくなるんでしょうけど」
そうだよ、と笑ってもらえるかと思いきや、アルセさんは唇の端を幽かに婉曲させたのみだった。「ひとつやふたつの年齢差についてはまあ、誤差としか思わなくなるね。でも子供の頃に出会った奴と、長く一緒に演ることだってあるでしょう」
確かにそうだと思った。愛器テレキャスター・シンラインを手に入れた日の、杏子の言葉を思い出す。私たちはずっと、ハチコマのドラマーとギタリストで、相棒で、親友どうしなのだ。
「大人になっても変わりませんか。つまりその、今の自分とはぜんぜん違う存在に変わったりはしないものなんでしょうか」
「私の場合はね」とアルセさんは答えた。「自分でもびっくりするくらい、なにも変わってない。動物が好きで、ギターが好きで、音楽が演りたくて、他にはなにもない。世の中に適応して変形してく力は、私にはなかったみたい。意地を張るのを止められればって思うことも、正直あるよ。でも無理して違うなにかになろうとしたって、結局は続かない。いつかは自分の人生に戻ってくるしかないんだよ」
オレンジのプジョーは高速道路をまっすぐに進んでいる。私は窓に視線をやり、緩やかに流れ去っていく景色や、近くを走行する車の後ろ姿を見つめた。
目的地は東京である。旅の発起人はアルセさんだった。
話は峯島藍里さんからの逃亡劇のすぐ後まで遡る。アルセさんから、次回のレッスンは休みにさせてほしいとの連絡が入った。開始以来、初めてのことだった。
私はすぐさま、もちろん構いません、すべての都合を合わせます、と返事をした。理由を問うことはしなかった。
峯島さんとアルセさんは幼馴染で、両者にはそれなりに複雑な事情がある。ひとりはいまもっとも話題のアイドル美墨径の片腕で、もうひとりは田舎で子供向けの音楽講師を志望している。世間一般の基準でいえば、成功者は峯島さんだろう。アルセさんを、夢に破れて田舎に引っ込んだミュージシャン崩れと見做す心ない人さえいるかもしれない。
しかしそれは断じて違うと、私は知っている。夢を叶えるためにこの街に来たと、考えに考え抜いた末に選んだ道なのだと、彼女自身が語ってくれたのだから。
しばらくのあいだアルセさんとは顔を合わせず、またやり取りもしなかった。ロンの散歩に出るときなどに、こっそりとツバメ館の様子を伺ってはみたのだが、二階の部屋に籠り切りになっているらしく、気配はまったく察知できなかった。
変化が訪れたのは先週のことだ。直接、電話が架かってきた。
「レッスンのこと、ごめんね。急に勝手なこと言って。それでさ――休んだぶんの埋め合わせの方法を考えたんだ」
「補講ですか」
とつい尋ねてしまってから、少し後悔した。べつだん気にしなくていいと伝えるべきだった。もとより一方的に世話になっている身である。
「それも悪くないけど、今回は違う。フローレンス・イヴって知ってる?」
ポスト・ハードコアと呼ばれるジャンルのバンドだという。まったく聴いたことがないと正直に答えると、アルセさんはその略歴を語ってくれた。
結成は一九九三年。パンク、オルタナティヴ・ロック、インディー・ロックなどを独自のセンスで消化したデビューアルバムが絶賛され、鮮烈なデビューを飾る。この作品は現在でも非常に評価が高く、九〇年代を代表する名盤とされている。続くセカンドアルバムでは繊細なメロディや実験的な音楽表現を追求し、新境地を開拓。こちらも好評を得たが、アルバムが発表された時点でバンドはすでに機能停止状態だったという。
活動期間は三年ときわめて短かったが、影響力は絶大であり、解散後もフォロワーが後を絶たなかった。アルセさん自身も中学生の頃にたまたま彼らの作品に触れ、「人生を狂わされるほどの」衝撃を受けたそうだ。
「中二だったから、今の来夏と同じだね。時期もちょうど今頃でさ、夏休みの真っ最中。自転車で汗だくになって帰ってきて、再生して、一発でぶっ飛ばされた。その瞬間、私もやろうって思ったんだよ」
すなわち有瀬馨というミュージシャンを形成したとさえいえるバンドだ。次第に熱を帯びるアルセさんの声を聞きながら、私も昂揚していた。
「凄い。そんな人たちが――」
「うん。もっと凄いのはここからで、十八年ぶりに奇蹟の再結成。しかも来日する」
埋め合わせとして、一緒にそのライヴに行かないか、と言うのである。私はぽかんとし、しばらく返事ができなかった。
「ええと、チケットとかは」
「とっくに押さえた。来夏に体験させたい。してもらわないと気が済まないって言ったほうがいいな。反射的に二枚取っちゃったんだから」
異存はなかった。私は兄に依頼し、フローレンス・イヴのオリジナルアルバム二枚を探してもらった。ボーナストラックとしてデモ音源を収録した復刻版が、程なくして届いた。それを繰り返し聴くうちに時間は過ぎ、あっという間に当日が訪れた――。
「大丈夫? 酔ったりしてない?」
少しのあいだ黙っていたからだろう、そうアルセさんに問われた。私は小さくかぶりを振って、
「平気です。小さい頃はよく酔ってたんですけど、最近は酔わなくなりました」
「私もけっこう酔うタイプで、こんなんじゃ一生免許なんか取れないと思うくらいだったんだけど、いつの間にか治ったな。なんでなんだろうね」
「子供は胃袋が小さくてまっすぐだけど、大人になると長く複雑になるから中身が出てきにくいって、小学校のときに先生が言ってました」
「それ本当? というか胃袋の問題なの? 三半規管とかじゃないの?」
「分かりませんが、当時は感心して信じてました。遠足のバスでは普通に酔ったんですけど」
出発を早めて車で出掛けよう、と昨日のうちにアルセさんに提案されていた。私は諸手を挙げて賛成した。
雛守から東京へ電車で出るためには、それなりに面倒な乗り換えが必要である。座れる確証もなく、歩行距離も短くはない。けっこうな体力の消耗が予想される。まして私は東京になど一度も行ったことがない人間であり、アルセさんが引率してくれるとはいえ目的地まで無事に辿り着ける自信がまったくなかった。
なにより、車ならばアルセさんと落ち着いて話せる。結局のところ、もっとも大きな理由はそこだったのだ。
会場は代官山にあるライヴハウスだった。そうはいっても代官山が東京のどのあたりに位置しているのかさえ、私はよく知らないのだが。
車を駐車場に置き、街を歩く。雛守よりはむろん圧倒的に都会なのだが、私の想像した東京のイメージとはだいぶ違っていた。高層ビルや商業施設が、視界を埋め尽くすほどに乱立しているものと思っていたのだ。翻ってこの場所は、ずいぶんと集合住宅が多い。民家や小さな路地も散見される。人の生活空間という感じだ。
「ここ、もう東京なんですか」
「とっくに東京だよ。もう少し北に行くと渋谷駅。さらに行くと原宿。あれか、もっと東京的なものが山ほどあると思ってた?」
「正直に言うと、はい。アパートがいっぱいあるんだなってくらいで」
「人口が多いんだから当然といえば当然だけどね。そういうのが見たければ、また後で案内してあげるよ。今日のところはフローレンス・イヴに全エネルギーを集中して」
これといった特徴の見出せない建物の、地下へと向かう薄暗い階段の近くに、バンドTシャツを纏った男性たちが集まっていた。ここが今日の会場だと知らされ、驚愕したまま列に加わる。もっと大きなホールのような場所を想像していたのだ。
アルセさんがスタッフにチケットを提示し、別にドリンク代を支払う。無造作にポスターやステッカーの貼られた狭い通路を行き過ぎると、多少広まった空間に出た。壁際にあるバーカウンターで、ふたり揃ってペットボトルの水を受け取る。
「電車で来ればお酒も飲めたんじゃ」
私が言うと、アルセさんはきっぱりと首を横に振って、
「どっちにしても飲まなかったよ。今回ばっかりは意識を鮮明な状態に保ちたい」
私たちはステージの真正面に陣取った。本当に文字通りの意味での「真正面」であり、手を伸ばせば事前に準備してあった楽器に触れそうなほどの距離だった。眼前に設けられた柵に身を凭せ掛けるようにして、開演の合図を待つ。
場内に流れつづけていたBGMが消え、照明が落とされたままのステージに五つの人影が生じた。ギターのチューニングを合わせたり、足許に並べたエフェクターの様子を確かめたりしているので、音響担当のスタッフなのだと思って眺めていると、その同じ影がゆっくりと舞台上を移動して、定位置に着いた。
五人の姿がぱっと照らし出されると同時に、波動が押し寄せてきた。イントロが奏でられはじめた、などという生易しい表現はとてもできない。体を貫き、打ち震わせる力がメロディを宿している――そんな感覚だった。空間が電撃を帯び、波打ち、捻じれる。これは確かに「体験」である。どれほど大音量で音源を再生しようとも、絶対にこうはならない。
周囲の観客たちは嬉しげに拳を突き上げ、飛び跳ねている。そのさまが光の明滅に呑み込まれて、あたかもスローモーション映像のようだった。自分もそれに倣ったほうがいいのか、あるいは静かに鑑賞するべきなのか、などと考えてもみたのだが、すぐさまそうした余裕は失せてしまった。轟音に次ぐ轟音。大海に浮かぶ木の葉になった気分だった。
呟くようなヴォーカルと、細かなアルペジオを主体とした曲が始まって、私はようやくこのライヴからなにを持ち帰るべきかを見出した。混乱と狂騒の記憶? それもいい。しかし忘れてはならない――蜂巣来夏はギターヴォーカルだ。
私は少し体の向きを変え、それ以降は奏者の手許を中心に眺めた。弦が弾け飛んでしまいそうなほど激しいストローク。力強い腕の動き。低い位置に構えられたレスポールの輝き。リズムが速まる。リードギタリストが顔を上げ、ゆっくりとマイクに近づいていく。コーラスが重なる。
もっとも昂揚したのは、髭もじゃのヴォーカリストがローディから赤いES335を受け取って、じゃりん、と掻き鳴らしたその瞬間だったかもしれない。やっぱり弾けるんだ、弾きながら歌えるんだと、私は胸中で叫び声をあげていた。前のめりになって凝視した。
当然といえば当然だが、弾ける、に留まるものではなかった。なぜこの人はこれほどまでに自由なんだろう、楽しそうなんだろう、音楽と一体化できるのだろうと、ただただ不思議だった。かつて同じ夢を見た五人が十八年もの時を経て再集結し、異国の、小さなライヴハウスの、私たちの目の前のステージで演奏を繰り広げていることが、まさしく奇蹟のように思えてならなかった。
もはや何度目ともつかないクライマックスが過ぎ去って、ついに音楽が消失した。金属的な残響のさなかで、弦楽器を担当していた三人がそれぞれのギターやベースを誇らしげに頭上に掲げる。ドラマーとキーボーディストもステージの前面へと歩み出てきた。
五人が笑いながら肩を組み、深々と頭を下げる。拍手が、指笛が、割れんばかりの歓声が、フローレンス・イヴを包み込んだ――。
ふわふわと雲の上を歩くような足取りで、私たちは場外へとまろび出た。私はアルセさんを振り仰いだ。彼女は頬を濡らしていた。
「よかったですね」と私は言った。「本当によかったです」
「最高の気分だよ。復活に立ち会えるなんて思ってなかったからさ、もう、どう言葉にしていいか分からない」
物販に立ち寄った。アルセさんはきわめて真剣な眼差しでグッズを物色し、Tシャツなどは色違いで複数枚購入していた。私ももっとも気に入った一枚だけを買った。次のハチコマの練習日にでも、杏子に見せてやろうと思った。
車へ戻る前にお手洗いを済ませておきたくなり、私はいったんアルセさんと別れた。狭苦しい廊下にはいくらか列ができていた。並びながらスマートフォンを弄っていると、私のすぐ前にいた女性ふたり連れの会話が聞こえてきた。
「――さっき見かけた人、めっちゃ似てたんだって」
「まじ? 独りだった? 誰かと一緒?」
「なんか小さい子と一緒にいたな。妹とか? いるのかな。家族構成とかは公開してないから分かんないけど」
どきりとした。この会場内で子供といったら、おそらくは私だ。他にはまったく見かけなかった。このふたり、私がすぐ背後にいることには気付いていないらしい。
「意外と本物だったりして。影響受けたってなんかのインタビューで言ってたじゃん。来てても不思議じゃないかも」
「だったらなあ。もう一回探してみるかなあ。まじでルコだったらどうしよ」
「あんた、めちゃくちゃ聴いてたもんね。再結成しないのかな」
「藍里が戻んないとどうしようもないんだろうけど。もう一回観たいなあ、ラトルのライヴ」
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