Track.14 With a Little Luck
しゃんしゃん、ばらばら――。
ドラムキットの向こうに座った杏子が細かくシンバルを鳴らしながら、目で合図を寄越す。こちらも目だけで頷いて応じると、彼女はスティックどうしを打ち合わせてカウントを出した。私はくるりと体の向きを変え、愛用のテレキャスター・シンラインを掻き鳴らしながら、マイクに唇を近づける。
舞台はライヴハウスでも屋外ステージでもなく、私たちの通う市立雛守中学校のとある教室である。マイクもアンプもドラムキットも学校の備品だ。
ふたりで合わせてみようという話は、しばらく前からしていた。音楽スタジオを借りられれば理想的だったが、主に財政的な事情で早々にそれは頓挫した。一回や二回ならともかく、日常的な練習に使うには負担が大きすぎる。メンバーが五人くらいいればよかったのに、と杏子は嘆いていた。
学校の空き教室を使わせてもらうというアイディアは、兄からの入れ知恵だ。在学時は自分たちもそうしていたという。
「部活とも学校のイベントとも関係ない、単なる趣味の活動だよ。借りられるもんなの?」
「生徒が自主的に文化活動をしたいって言ってるんだぞ。立派なことだろうが。それを無下に断るような奴には教師の資格がない」
「かもしれないけど。誰に相談すればいい?」
「俺たちのときは朝比奈って音楽教師に頼んで使わせてもらってたな。吹奏楽部や合唱部の連中との兼ね合いもあるだろうけど、キーボードなんかも借りられた覚えがある」
そういった次第で私たちは夏休みの学校に出向き、朝比奈先生を掴まえて事情を話した。彼は兄のことをよく記憶していた。
「軽音同好会を作るから顧問になってくれって、いつか穣くんに頼まれたな。そのときはけっきょく人数が集まらなくて立ち消えになったけど、彼は今でもギターを続けているんだね」
先生は教室や備品の利用をあっさりと認めてくれた。音楽準備室に眠っていたアンプはなにやら骨董品じみて見えたが、ギターを繋ぐと音自体は問題なく出た。杏子も手際よくドラムキットを組み立てた。ハチコマ久々の合奏の準備が整った――。
「やっぱりアンサンブルが弱々しくなっちゃうね」一曲を通して演奏したあと、私は杏子を振り返った。「さっきは特に、歌に気を取られてギターがぺらぺらだった」
「そうかな。悪くなかったと思うけど。ミスもなかったし、丁寧に弾いてたじゃん」
「なんかこう――杏子のドラムに比べると、小ぢんまりしてた気がする。それじゃバンドとして格好よくないよ」
「後ろから見てるぶんには格好いいよ。さすがハチコマの主役って感じ」
「ふたりしかいないんだから、どっちが主役もないような」
いやいや、と杏子はかぶりを振り、「普通に考えて、前に立って歌ってるほうが主役でしょ。フロントマン、この場合はフロントウーマンか。とにかくバンドの顔」
私がなにを言おうとも、そうには決まっていた。ドラム主導、ベース主導のバンドだって世の中にはたくさんあるが、一般的にもっとも目立ちやすいのはヴォーカリストだ。
「私ももうちょっと、堂々とパフォーマンスできたらいいんだけど」
うーん、と彼女は一考して、
「私が控えめに叩くってのも、解決になんないか。ギターの音、もっとでかくすれば。声はよく通ってたから、多少上げても大丈夫な気がする」
私はギターのネックを握って位置を微調整してから、「音の大きさじゃなくて、演奏で迫力を出したいんだよ。とりあえずもう一回、頭からやってみてもいい?」
「もちろん」スティックを握りなおし、どだだん、と音を発する。「じゃあ行くよ。ワン、ツー」
アルセさんに指導してもらった甲斐あって、私の演奏はかなり上達していた。自室でヘッドフォン越しに聴いているぶんにはなかなか悪くない、ときおり自分でも嬉しくなるような音色を奏でられるまでになっている。今日の練習でも当然それなりの成果をあげられるつもりで、意気揚々としていたのである。
しかし実際に合奏してみれば、浮上してくるのは問題点ばかりだった。技術的な反省点もむろんあるのだが、より重大だったのはメンタルの部分だ。マイクを前にした途端に緊張し、指が固くなる。暗記したフレーズをかろうじて再現するような、情感や熱を欠いた演奏になる。焦って冷汗まみれになり、自宅での伸び伸びした自分からいっそう遠ざかる。
「微妙だあ」ギターをスタンドに置き、呻き声をあげる。「ソロがなあ――ぜんぜん思った通りに弾けない」
「弾けてたってば。私には背中が神々しく見えたもん。身内だからお世辞言ってるわけじゃないよ。来夏は私よりずっと巧い」
杏子がドラムセットの前を離れ、教卓の置かれている段差に腰を下ろした。リュックサックから飲み物を取り出して一口含んでから、
「私はテクニックはまだまだ。でもドラムを叩いてる自分が好きだし、気持ちいいし、どんなもんだって気分になる。もっと派手に、かっこよく、みんなを湧かせる演奏がしたいと思ってる。来夏の後ろで叩けるの、ほんとに自慢なんだよ。だからフロントウーマンの来夏には自信をもって演ってほしい」
本心からそう言ってくれているのが分かった。私は彼女の横に座って、
「ごめんって言っちゃうと、また自信なさげに思われるね。私って緊張しいだし、本番に弱いし、場を盛り上げるのもあんまり得意じゃない。どうにか克服しようと思ってるけど、自主練じゃ限界があるのかもしれない。もうちょっと場慣れが必要だね」
「慣れれば大丈夫だよ。だって私の最高のフロントウーマンだから」
仮に私よりも優れたヴォーカリスト、ギタリストから誘われたとしても、杏子ならば平然と断ってくれるのだろうと思った。自分独りだけが新天地で羽ばたく? それでは意味がない、と一蹴するだろう。ハチコマの一員であることが重要で、蜂巣来夏以外の人間と組む気はないのだ、と。
「私も」と杏子を見返して言った。「最高のドラマーと組めて最高だって思ってる」
彼女は頬を緩め、「相性ばっちりってことだ。張り切ってもう一回、行ってみる?」
再び通して演奏してみる。やり取りを経てやや緊張はほぐれたが、むろんそれで即座に解決するわけでもない。しかし冷静に音を聴けたぶん、なにが足りないのかが朧げに掴めてきた。
私の演奏はよくも悪くも丁寧で、自分の手許ばかりを見つめてしまう癖がある。落ち着いていれば多少は凝ったギターが弾けるのだが、聴き手を熱狂させるには至らない。華がない、と自分で言ってしまうと悲しいのだが、それがもっとも近い表現になろう。
いっぽうの杏子はパフォーマー精神に満ちており、暴れれば暴れるほど魅力が増すタイプだ。自分を主張すればするほど、輝きが増していく。一歩下がって私の歌やギターに寄り添おうとすると、その個性が薄れてしまうのである。
両者が対等にぶつかり合って火花を散らすような、拮抗することによってぎりぎり破綻を免れるような緊張感は、現段階のハチコマには演出しえない。自分の色を出そうとすれば相手がそっちのけになり、相手に合わせようとすれば個人の魅力を発揮できない、いかにも中途半端なふたり組、というのが今の私たちの公正な評価になるだろう。
ここまで考察して、私は「三人目」の存在に意識を向けざるを得なくなった。私たちに必要なのは、冷静なバンドマスターだ。ちょうど中間の立ち位置から両方に目を配り、音を繋ぎ合わせ、全体を包み込んでくれるような人材がいれば――。
ポケットに収めたスマートフォンが鳴りはじめた。ちょっとごめん、と杏子に断りを入れ、席を立って画面を確認する。母か兄だろうと想定していたが、どちらでもなかった。
「澁澤です、シークレット・ガーデンの」と深月の声が言う。「蜂巣さん、いまお暇ですか」
「ごめん、バンドの練習中」
応じながら、自分の声が普段よりかなり大きくなっていることに気付く。ついさっきまで大音量で演奏していたのだ。
「ハチコマですか。駒場杏子さんも一緒に?」
「うん、ふたり。教室借りて合わせてるの。なにか用だった?」
「ええと、あのですね――」淡々と滑らかな口振りが特徴的な彼女にしては珍しく、短く口籠った。そののち、「お店で新しいかき氷シロップを仕入れたので云々という営業トークをしようと思ったのですが、気が変わりました。私も見学に行って構いませんか」
「ここに? ハチコマを?」
「はい。まさしくハチコマを見たいのです。できる限りお邪魔にならないようにします。場に存在しているだけで迷惑だというのは重々承知の上ですので、できる限り」
声に力が入っていた。私はいったん通話口を遠ざけ、杏子を振り返って、
「一年の澁澤深月からなんだけど――」
「ああ」と頷きが返ってきた。「知ってる。喋ったことあるよ。なんだって?」
「見学したいんだって」
へえ、と杏子は目を瞬かせた。「私はいいよ。人目があったほうがさ、ちょうど場慣れができていいじゃん。来夏もあの子と知り合いだったんだ。初めて知ったよ」
場所を伝えて通話を終えた。十五分ほどして、教室のドアががたがたと揺れた。
「――どうしたの、それ」
杏子と私の声が揃った。登場した深月は、黒いナイロンツイルのギグバックを背負っていたのである。
「体が小さいので荷物が異常に大きく見えてしまうだけです。不格好ですが、お気になさらずに」
言いながらバッグを丁寧に下ろし、隅に立て掛ける。私たちがステージ代わりに使っている教卓の真正面の席について、
「どうぞ、続けてください」
「いや、あの――」私は適切な言葉を探した。「気になるんだけど。見られてることがじゃなくて、あれの中身」
「私物です。ご覧になりますか」
「ぜひ」
深月がバッグを運んできてファスナーを動かした。杏子と並んで覗き込む。
ヘフナーのヴァイオリンベースが現れた。名前通りヴァイオリンを彷彿とさせる独特の形状と、美しい木目。著名な使用者はむろん、ポール・マッカートニーである。
「かっこいいじゃん。前から持ってたの?」
杏子が前のめり気味に尋ねる。深月はかぶりを振って、
「つい最近です。先日、祖父の誕生会に出席したのですが、その場で彼が、『深月の誕生日ももうすぐだね。なにか欲しいものがあるかな。お祖父ちゃんに教えてごらん』というニュアンスの発言をしたのです。途端に他の出席者全員の視線が私に集中したので、とても緊張しました」
「どこでやったの? その誕生会」と杏子。
「名前は忘れましたが、祖父の贔屓にしている料亭で、魚料理が美味しかったです。祖父の質問に私は『なにもいりません、お世話になっている会社の皆さんにお返しをしてあげてください』と答えたのですが、納得してもらえなかったようです。繰り返し尋ねてくるので、『ポール・マッカートニーのベースが欲しい』と言いました」
「それで買ってもらえたんだ。さすが太っ腹だね」
「いえ、その前にひと悶着ありまして。なんと祖父は私が、ポール・マッカートニーが実際に所有、使用した楽器を欲しがっているものと勘違いしたのです。海外のコレクターに接触したり、オークションで競り落とそうとしたりと、恐ろしい行動を起こしました。それで私は慌てて、『お祖父ちゃんと一緒に楽器屋さんに行きたい、私の選んだ楽器をプレゼントしてほしい』と要求を変更したのです」
確かに恐ろしいとしか言いようがない。まるで理解の追いつかない世界である。
「想像つかないんだけど、いくらするの? ポール・マッカートニーのベースって」
肩を寄せてきた杏子に、小声で問われた。まったく見当が付かなかったのだが、ふと兄に聞かされた話を思い出して、
「私も分かんないけど、ただギターの例だと、エリック・クラプトンのいちばん有名なブラッキーっていうストラトキャスターが一億円越えだったとか」
「一億――」杏子が絶句する。
「このベースはもちろん、一般的に流通しているモデルです。激安だったとはとても言えませんが、常識の範囲内の品です。話はこんなところでよろしいでしょうか。ではどうぞ、練習をお続けください。私はここで見ています」
「いや、ちょっと待って。弾けるんじゃないの?」
指摘すると、深月は曖昧に顔を上下させて、「レッスンは受けています。でもおふたりのお邪魔はしないと約束しました」
「邪魔なんてことないよ。せっかくベースがいるなら――ね?」
杏子も深く頷いて、「形にできるか分かんないけど、セッションしてみたい。準備室にまだアンプが余ってたよね? 運んでくる。来夏、深月のこと掴まえといて」
勇んで教室を出て行く。深月は大きな目をぱちくりとさせたのみで、逃げ出そうとはしなかった。ややあって観念したように、バッグからベースを取り出した――。
三人での演奏が始まった。初めのうちは遠慮がちだった深月も、少しずつハチコマの演奏に溶け込み、やがては自分の役割を見つけ出して担うようになってくれた。夢想した通り、いやそれ以上だ。
ときに杏子の叩き出すリズムにぴったりと重なり、力強い音の層を作り出す。ときに柔らかな音色で私のギターに寄り添う。ときに歌うようなメロディを奏でながら、私にも杏子にも手の届かない領域を泳ぎ回る。
弾きながら、叩きながら、私も杏子も自然と笑みを零していた。深月は外観上、普段とさして変わらない涼しげな表情を保っていたけれど、楽しんでくれているのはベースの音色から分かった。笑っているように、はしゃいでいるように、それは聴こえていた。
自分たちがなにか、特別な存在になった気がした。中学生特有の思い込みと笑われることだろうが――あの瞬間、ハチコマは世界で最高のバンドだった。
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