Track.13 Look at Little Sister
はるばる数百キロを旅して、兄が北海道から帰ってきた。雨上がりの夕方のことだった。
玄関で待ち構えていたロンに熱烈な歓迎を受けたのち、彼は部屋着姿になってリビングに入ってきた。「よう。久しぶりだな」
「おかえり」とソファに座ったまま応じる。「元気?」
「電車と飛行機と迎えの車とを乗り継いで来たから、さすがに疲れたよ。少しのんびりさせてもらう」
髪型が変わったせいか、どことなく垢抜けた雰囲気になっていた以外、兄はあまり変わってはいないようだった。しかし彼の目には、私は以前とだいぶ違って見えたという。
「三日会わざれば刮目して見よってやつだな。十九歳にとっての数か月も大きいけど、十四歳、十五歳にとってはもっと大きい」
私は兄を見返し、「そうかなあ」
「夏休みってほら、一皮剥ける奴は剥けるだろ。休み明けに偏差値が爆上がりして、志望校を変えたりする場合も多々あるわけで」
「偏差値の話? 残念なことに、あんまり上がってないけど」
「今の時点でも合格圏内だろ? 安定している、とも言う。俺の偏差値は中学三年間ほぼ不動だった」
「あなたが優秀であらせられたからでは。それより私、どこが変わったの?」
兄は腕組みし、「強いて言えばオーラ?」
要するに「なんとなくそう思っただけ」にすぎなかったようだ。いい加減なものである。
「そういえば杏子、漣女志望にするって」
「ああ――理系科目が強い子だろ? だったら大丈夫じゃないか。まだ二年の夏なんだし、どうとでもなるよ」
「こないだ一緒に勉強会したよ。ところで、お兄ちゃんはいつまで雛守にいるの?」
うーん、と彼は首を傾け、「あくまで顔見せに帰ってきただけだから、長くはいない。バイト、バンド練、免許の合宿、もちろん勉強もあるし、なかなか多忙なんだよ」
夜には久々に、三人で食卓を囲んだ。夕食は母が奮発して取ったお寿司だった。ロンにも特上のビーフジャーキーが与えられた。
いずれこんな研究室に進みたいと思っている、軽音サークルではこんな活動をしている、学部にはこんな友達がいる、札幌の街はこうである、新しい生活を楽しんでいる――といった話を、兄は日本酒を舐めながら語ってくれた。アルコールにはあまり強くないらしく、いつしか顔が赤くなっていた。
その旨を私が指摘すると、兄は笑って、
「顔には出るんだけど、実際はそこまで酔ってないんだよ。弱いもんだと思われて心配してもらえるから、かえって得かもしれない。いまいち飲みたくないときは、僕は無理なんですって面で座ってればいいだけだし」
母も缶ビールを飲んでいたが、こちらの顔色にはほとんど変化が見られなかった。変わったのは態度だ。不思議なほど口数が減って、こくこくと頷きながら話に耳を傾けるばかりになっていた。
「今日はどうしたの」と兄が母を振り返る。「いつになく無口じゃん」
「無口」
と私も同調する。普段は比較的よく喋る人なのだ――話題の大半は美墨くんだけれど。
「別に、そんなわけじゃ」と母は笑いながらかぶりを振って否定したが、不意に顔をくしゃくしゃにして、「穣がちゃんと帰ってきて、来夏もロンもいて、家にみんなが揃ったんだって思ったら、もうそれだけで駄目になっちゃった。ねえ、ふたりとも、いつの間にかこんなに――」
言葉が不明瞭になった。もごもごとなにか続けたかと思うと、急にテーブルに突っ伏してしまう。
「飲み過ぎだよな」
と兄が同意を求めてきたが、その目が少し潤んでいるのを私は見逃さなかった。酒に弱いからすぐ充血するんだとでも、本人は言い訳することだろうが。
食事のあと、新しいギターを自慢すべく、兄を部屋に呼びつけた。写真だけは入手直後に送ってあったが、現物を見せるのはむろん初めてである。
「美しい」
スタンドに立て掛けられたテレキャスター・シンラインを前に、彼はそう感嘆の吐息を洩らした。近づいたり遠ざかったり、顔の向きを変えたりしつつ、美術品であるかのように鑑賞する。
「いや、しかしよく手に入れたもんだよ。バイト代が貯まったら次はストラトと思ってたけど、ちょっと気持ちが揺らいできたな」
私は愛用のギターを掴み上げ、抱えて、椅子に腰掛けた。「どう? どう?」
「ギターは変わらず美しい。スタンドはさっきのほうがシンプルでよかったな」
「張り倒すぞ」
指先のみを使い、短いアルペジオを披露する。内部の半分ほどが空洞になっているという楽器の構造上、アンプに繋がずに爪弾いても芳醇な音が出るのだ。
ほろ酔い加減でいたはずの兄が、途端に表情を変えた。「もう少し弾いてみ」
「スタンドなので弾けません。これにて終了です」
「せっかくなんだから音を聴かせろよ」
「どうしようかな。聴かせてくださいと言え」
兄は小さく笑って、「けち臭い奴だな」
「うるさいな。聴くのか、聴かないのか、どっちなの」
「分かったよ。聴かせてください」
しばらくは生音の状態で、呟くようなメロディを奏でつづけた。この柔らかく温かいトーンを、私はとても気に入っていた。
「気持ちいい音だ」と兄が感想を述べる。「いつも傍らに置いといて、ふとしたときに手に取って爪弾きたくなる楽器って感じがする。気分よくいつまでも弾いていられるような」
「そうそう。軽くて扱いやすいし、もちろん歪ませてもいいし」
「体の延長として扱える道具ってのが、いちばんいい道具なんだよ。なあ、俺にもちょっと触らせて」
私はわざとらしく楽器を抱き寄せてみせ、「どうしようかなあ」
「不肖わたくしめにも、演奏の機会をお与えくださると幸甚なのですが、なにとぞ前向きにご検討いただけませんでしょうか?」
「仕方ない男だな。弾かせてあげよう」
兄は嬉々として楽器を受け取り、ストラップに身をくぐらせた。ざ、ざ、とコードを掻き鳴らしたのち、口許に笑みを浮かべ、
「こりゃいい」
やがて本格的な演奏に移ったのだが、その選曲に私は驚かされた。インストゥルメンタルにアレンジした、モーニング・グローリーの〈ムーンシャイン〉だったのだ。てっきり六十年代か七十年代のブルースやハードロック、あるいはそれ風の音が飛び出してくるものと思っていたから、つい目を瞬かせてしまった。
「――モニグロ、お母さんが好きだっていうから練習したんだよ」
最後まで弾ききった兄が、ギターを私に返しながら言う。その言葉通り、付け焼刃な感じはまったくなかった。実に完成度の高いパフォーマンスだった。
「帰る前に聴かせてあげたほうがいいと思う。喜ぶよ」
「よかった。でも自分の楽器を持ってきてない」
「そのときはシンラインの使用を許可します。お母さん、こんな孝行な息子に育って感動したって泣くんじゃないかな」
「どうだかな。にしてもお前、ちょっとのあいだに上達したよな。びっくりした」
急にそう褒められたので、私は即応できず、
「したかな?」
「かなり巧くなった。派手にテクニカルな演奏ができるようになったわけじゃないんだろうが、基礎力っていうのかな、土台の部分が底上げされた感じがする。よっぽど真面目に練習しないと、この短期間でそうはならない」
私は照れて鼻の横を掻いた。私自身の努力、そしてアルセさんの指導の適切さが立証された形だ。
「新しい楽器を買った直後って気合が入るけど、大事なのは持久力だからな。このままのペースで続ければ、俺には及ばないかもしれないけど、そうだな、雛守市を代表するギタリストにはなるんじゃないか」
ふふ、と笑って往なしてから、私はかぶりを振った。「雛守代表にはなれないよ。さすがになれない」
そろそろ風呂に入る、と言い置いて兄は階下に降りていった。普段の入浴はやたら短いのだが、今日くらいはゆっくりと手足を伸ばすかもしれない。北海道に越したばかりの頃は、アパートの浴槽が小さく感じると繰り返し不満を洩らしていたのだ。
後を追うにしろ、あえてまったく別の方角を目指すにしろ、常に自分より少し先を行く人間の存在というのはそうそう無視できるものではない。それなりの敬意と多少の反発心が綯い交ぜになった感情を、私は兄に対して抱きつづけてきたような気がする。指導者、と見做すのも少し違う。より近いのはおそらく、指標、基準といった表現だ。
母と話し込んででもいるのか、それとももう寝てしまったのかと思いかけた頃になって、缶ビールを携えた兄が戻ってきた。クッションを引き寄せて座り込む。飲みなおすつもりらしい。
「古い絵本を何気なく読みはじめたら懐かしくて、つい何冊も読んでた」と彼は遅くなった理由を語った。「こういう本にこういう場面が確実にあったはずだと思って探したんだけど、なぜか見つからないんだよな。表紙も挿絵もほぼ完璧に脳裡に浮かんでて、これでなかったら自分の記憶のすべてが信用できなくなるってほどなのに、やっぱりない」
「どんな場面? 意外と私が覚えてるかも」
「『にじいろのおじか』で、兄妹が蛇の魔物に立ち向かうために、滝の水で斧を清める場面」
私は首を傾げた。タイトルからして初めて聞いた。
「そもそもそれ、うちにある本?」
「そう訊かれると自信がなくなってきた。小児科の待合で読んだのかもしれない。この種の記憶はまあまあ正確なほうだと思ってたんだけどな」
悔しそうに言いながら、プルタブを起こしてビールを呷る。
「教授が言ってたんだけどさ。自分の代わりは山ほどいるだろうが、自分が覚えておいて語り伝えなかったら世界から消えてしまうことってのは意外とあるのかもしれない」
すぐには真意が掴めず、「物凄く話者の少ない言語が、とかそういう話?」
「学術的な意味合いもあるだろうし、もっと日常的な意味合いもあるんじゃないか。たとえば『にじいろのおじか』はとっくに絶版で、うろ覚えの状態で検索してもそれらしい本には辿り着けない。いま話題にする人間は稀だろうな。俺の心には十数年も残りつづけてる本なのに」
私は腕組みし、「なんとなくは分かるかも。なんの先生が言ってたの」
「歴史学。俺たちが今のこの世界のことをどれだけ必死に記録しようとしても、取りこぼしは絶対に出てくるわけだよ。こぼされた側は、いつか掘り返してもらえるのを信じて埋もれてるほかない。でも人間、金にならなかったり面倒くさかったりすることは積極的にやろうとしないわけでさ」
「緊急の役には立たない、とかね」
「うん。だけど、もたもたしてるうちに本当に行方が分からなくなって、完全に消えちゃう可能性は常にある。それは人類全体にとって大きな損失に他ならない。ですから取りこぼされた者たちの声なき声に耳を傾け、対話し、君たち若者に継承していくことが、僕らの務めなのだと思っています。引退間近って感じの、爺ちゃん先生の講義だよ」
継承、という語が胸に残った。同時にアルセさんの顔が浮かぶ。彼女のレッスンは――継承?
「誰かになにかを教えるのって、そういうことなのかな」
「俺はそうじゃないかと思ったけど」
「聞けば納得はするし、貴重な考え方だと思うけど、その境地まで行くのってかなり大変そうだよね。その先生は、何十年も大学で教えつづけた結果として辿り着いたわけでしょ。若い頃は、単純に勉強が楽しい、同じ分野を語り合える仲間がいて嬉しい、みたいな気持ちが強かったんじゃないの」
この私の意見を兄は否定せず、「かもしれん」
「お兄ちゃんだって、私にギターとか勉強とか教えてくれるとき、自分が去っていくことなんて意識してないでしょ。違う?」
彼は短く唸って、「北海道行きが決まった直後は、微妙にそういう気分になったけどな。この家でやり残したことはないのか、このまま行っちゃって大丈夫なのかって。だけど実際、お前ともお母さんともやり取りはしょっちゅうしてるし、たまにはこうやって帰ってもくる。ただ距離が遠くなっただけで、別の宇宙に行ったわけじゃない」
頷いた。「だからつまり――自分が去ることなんかまったく考えてない人だって、誰かにものを教える場合はあるでしょ?」
「まあ、それはね」兄はまたビールに口を付けて、「なんの話だったか分かんなくなってきたよ。昔からよく思うんだけど、お前と喋ってると雑談って感じがしないな。その点、お母さん相手だと楽だよ。とりあえずモニグロ、で行けるから」
また別の顔が脳裡に生じた。私はすかさず、
「じゃあモニグロ、というか美墨くんの話する?」
「お前とならスティーヴィー・レイ・ヴォーンかロリー・ギャラガーの話がしたい」
「今は駄目。というか、語れるほど聴き込んでない」
「ジミヘンとかギルモアでもいい」
「駄目、今は美墨くん。お兄ちゃんに訊きたいことがあったの」
「なんでそんなにこだわるかな。美墨くんのことならお母さんに訊けば。俺より百億倍詳しい」
「美墨くん自身っていうより、なんていうのかな、音楽業界のこと。まず前提として、最近彼がソロデビューしたのは知ってる?」
「もちろん」兄は頬杖を突き、「〈風の名前〉だろ。何回かだけど俺も聴いたよ。正直、けっこう好きだな。〈ムーンシャイン〉の代わりにこっちを練習してきてもよかった」
やはり高評価している。熱心に音楽を続けてきた人間を唸らせるだけの力が、あの曲にはあるのだ。
「作詞作曲は峯島藍里って人なんだけど。バックでベースを弾いてる人。お兄ちゃん、どういう人か知らない?」
「峯島――」
と兄が反復する。私はつとめて平静を装ったまま、返事を待ち受けた。
「いや、知らないな。スタジオミュージシャンか、じゃなきゃ若手のバンドから引っ張ってきたんじゃないか? なんにせよ美墨径のバックなんだから、大抜擢だよ」
「そういうことって、あるの? 他のバンドから、ベーシストだけ――」
彼は空にしてしまったらしい缶を名残惜しげに揺らした。「引き抜き? いくらでもあるだろ。一緒にやってきた仲間のもとに留まるか、自分だけで大舞台に羽ばたくか、どっちが幸せなのかはともかくとして」
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