Track.12 The Great Pretender

「覚えていてくださったんですか」と澁澤深月は不思議そうな表情を覗かせた。「仮に覚えていたのだとしても――ただの挨拶なのだと思っていました。律儀な方ですね」

「後輩のお店だし、約束は守りたかったし。まあちょっと事情はあるんだけど」

 想定通り、店内に私たち以外の客の姿はなかった。ここならば発見される恐れはほぼないだろう。外からでは好きに出入りできる店舗だとは判別できないのだから。

「ともかくお好きなお席へどうぞ」

 私は目の前にあったカウンター席の椅子を引き、「珈琲――は駄目なんだっけ。このあいだと同じのを」

「かき氷ですか」

「飲み物だよ。サイダー、壜のやつで。メニューはある?」

「あるはずですが、いまだ見つかっていません。よって一杯につき百円とします。そちらの方は?」

 アルセさんは私の隣に着席し、短く宙を眺めてから、「ファジーネーブル」

「すみませんが、それはどういう類の飲み物ですか」と深月が尋ねる。

「ピーチのリキュールをオレンジジュースで割ったやつ」

「つまりはお酒ですか」

「お酒だね。ある?」

「残念ながら。オレンジジュースだけならお出しできますが」

「それでいいよ。冗談だから」

「承知しました。あ」

 カウンターの奥に引っ込みかけていた深月が、不意にこちらを振り返った。なにかあったのかと思えば、アルセさんを見つめながら、

「どこかでお会いしませんでしたか」

 私が笑い交じりに、「越してきたばっかりの人だから、ないと思うよ。それともアルセさん、ここに寄りました?」

「ううん、初めて」

「だったら人違いだよ。ねえ澁澤さん、この店、しばらくいても大丈夫だよね?」

「お好きなだけいていただいて結構です。経験上、確実に誰も来ませんので」

 そう明言されると安心した。彼女が私たちに背を向けて作業に入ると、アルセさんがそっと肩を寄せてきて、

「あの子、友達? ここでバイトしてるの?」

「中学の後輩です。バイトというか、むしろボランティアのほうが近いような。そもそも中学生って確かバイトは禁止だったような――」

「どちらでもありません」アルセさんにはグラスを、私には壜を差し出しながら、深月が割り入ってきた。「立場でいえばそれらより、経営者に近いです」

「はい?」

 首を傾げた私に、彼女は淡々と解説して、

「この店の主は父なのです。建物の名義は祖父のままかもしれませんが、どちらにせよ私の身内です。ですから自分の家に友人を招き、ジュースやかき氷を振る舞っている、という感じですね」

 どういった文脈だったかは定かでないが、「娘です」と発言していたような記憶は朧げにあった。しかし経営者一族の、だとは思ってもいなかった。

「喫茶店のマスターの娘さんってこと?」

「事実ですが、それはひとつの側面に過ぎません。祖父が注力しているのは、県内を中心に展開しているステーキのチェーン店です。三男坊だった父は、経営にはまったく興味を示さず、かといって他の職に就くでもなくぶらぶらしていたので、果てしなく期待の薄かった、祖父自身も所有していることをほぼ忘れかけていたこの店に送り込まれたのです」

「はあ、それで?」

「暇を持て余した父は探偵への転身を試みましたが、これは早々に頓挫しました。当たり前です。しかしその経験から、彼は推理小説を書くことを思い付きました。遊び半分のつもりだったそうですが、見事に新人賞を獲得し、作家としてのキャリアを歩み出すに至りました。今では基本的に仕事場に缶詰なので、この店に出てくることはほぼありません。だったら閉めてしまえばいいのにと思わなくもないですが、やはり愛着を捨てきれないようです。自分は喫茶店を隠れ蓑とした探偵事務所を持っているという事実にやたらこだわって、別に実務上の店長を雇ってまでここを保持しています。が、この通りまったく客が来ないので、その店長も最低限の維持管理の仕事以外ではほとんど姿を見せないという有様で、休み中はやむなく私が様子を見に来ているのです」

 もはやどう応答すべきか見当も付かなかった。もしこれもすべて嘘なのだとしたら、たいした才能である。作家になるべきは彼女だ。

「ところで、お父さんの小説っていうのは」

 深月はタイトルを言った。どの本屋でも平積みされているような有名作だった。

「えっと、澁澤さんって、いわゆる――」

「お嬢さまかどうか? そう定義づけられるのはあまり好きではありませんが、世間一般でいえばそれに当てはまるのかもしれません。私の家には車が七台あり、トイレも七つあります。しかし自分の手柄のように語る気はありません。経営に秀でた祖父と、運と文才に恵まれた父がいるというだけです。そして可能であれば、私のことは深月と呼んでください」

 私はぽかんとしたまま、「分かった。深月」

「はい。ご注文ですか」

 ただ呼んだだけだと答えるのもなんとなく面白くなかったので、「かき氷、苺味で」

「深月さん」とアルセさんも片手を上げた。「音楽、かけられる?」

「設備はあります」

「リクエストできる?」

「多少は。ちなみに私のお気に入りはクイーンです」

「だったら、とりあえずクイーンで。曲は任せる」

 ややあって、〈ザ・グレート・プリテンダー〉が流れてきた。これはクイーン名義ではなく、フレディ・マーキュリーがソロで発表した曲である。さらに付け加えるならカヴァー曲だ。

 なにかありましたらまた、と残して、深月が私たちの前を離れていった。私はようやく壜の蓋を捩じ切って、

「これ、オリジナルは誰でしたっけ」

「プラターズ。〈オンリー・ユー〉の」

 真っ先に頭に浮かんだメロディを口ずさんだ。ゆったりとした、歌いだしの部分だ。「ユー」が甘く柔らかいファルセットになる。

 その曲で正解なのか半信半疑だったが、アルセさんは笑顔で頷いて、

「それそれ」

「合ってましたか。映画で使われたんでしたっけ? それともなにかのCM?」

「どっちもあったような。『アメリカン・グラフィティ』に出てきたな」

 知らない作品だったので詳細を訊ねた。カリフォルニアの小さな田舎町を舞台とした青春映画で、五十年代から六十年代の音楽が数多く登場するのだという。

「ところで――」話が一段落したタイミングを見計らい、切り出した。「――さっきの人は、いったい」

 ああ、とアルセさんはテーブルに視線を落とした。「あいつの顔、じっくり見た?」

「いえ、ちらっとだけです」

「そっか。関係はまあ、簡単に言うと幼馴染だね」

 私は慎重に、「難しく言うと?」

「難しく言うと――難しいね。正直なとこ、いろんな事情がある」

 あえて沈黙を維持したまま、次の言葉を待った。アルセさんは息を吐いて、

「嫌い合ってるわけじゃないけど、今はあんまり顔を合わせたくない」

「なるほど」

 この反応を不思議に思ったのだろう、横顔を覗き込まれた。

「今ので納得する?」

「しませんけど、仕方ないと思ってます」

「仕方ない?」

「ええ。私だって、人に話したくないことは山ほどありますし。相手を信頼してるとかしてないとか、自分の中で考えが纏まってるとか纏まってないとかの問題でもなくて、とにかく胸に留めておきたいことってあるじゃないですか。そういう感じなのかなって、勝手に思ったんです」

 言いながら、まったくの見当違いだったらどうしようかと内心で冷や冷やしていた。この種の独りよがりな先回りを、私はよくやらかす。母や兄ならば、またか、といった調子で見逃してくれるだろう。しかしアルセさんもそうとは限らない。

「かき氷、お待たせしました」

 唐突に深月が現れたかと思うと、でんと真正面から器を突き出してきた。重要な話題を遮られたように感じた私は、半ば反射的に、

「ありがとう。でもなんていうか、タイミングってあるじゃん?」

 彼女は表情を変えることなく、「理解しますが、かき氷にもタイミングはあります。ぼやぼやしていると苺ジュースになってしまいますので」

 気が抜けてつい笑ってしまった。確かにそうだ。

「ついでに音楽も。また私の選曲でよろしいですか」

 問われたアルセさんは顎を摘まんで考えながら、「そうだな、〈トゥー・マッチ・ラヴ・ウィル・キル・ユー〉の、フレディが歌ってるヴァージョンで」

「『メイド・イン・ヘヴン』収録のものですね。承知しました。では」

 さて、とアルセさんがこちらを見やる。「なんだっけ。そう。納得はしないけど訊かないでいてくれるって話か」

 蟀谷を押さえながら頷いた。かき氷を巨大なスプーンで口に運んだばかりだったのだ。

「ありがとね。その気持ちに甘える。大人のくせにって思われるかもしれないけど」

「いいえ、そんな」

 安堵していた。まるきり的外れではなかったようだ。

「気遣ってもらって悪いね」

「むかし母に言われたんです。たとえ家族であっても一から十まで打ち明ける必要はないし、自分の胸に仕舞っておいたからって信用してないことにはならないって。相手になにを話してなにを話さないかは、自分の倫理観とか良心に従って決めなさいって」

「そういう態度、子供としてはありがたいね」

「お兄ちゃんもよく言います。あれこれ穿鑿してこないから楽だって。多少の悪事は確かに働いてるけど、親に泣かれるような真似は断じてしてない、と本人は主張してます」

 アルセさんは左手で頬杖を突いて、「立派だ」

「でも私は泣かされたことがあります。今でも若干恨んでるんですけど、私が当てたはずのシールを強奪して、自分のアルバムに貼っちゃったんです」

「ああ――なんかレアな、きらきらしたやつを?」

「そう。カードだったら取り返す余地がありますけど、シールは貼られちゃったら打つ手がないじゃないですか。アルバムごと寄越せとはさすがに言えないし。あと泣きはしませんでしたけど、ふたりに一冊だけ買ってもらえる本を常に先に読まれるのも腹が立ちました。俺のほうが読むのが速い、とか言って。まあ事実なんですけど、たまには譲ってくれてもよかった」

 あっはは、と明るい笑い声が返ってきた。

「私は一人っ子だけど、兄貴がいる子って友達にけっこういてさ。それはもう凄絶。騙したり騙されたり、怒鳴ったり喚いたりで、頼むから家がぶっ壊れる前にやめてくれって、親に懇願されたとかって。多少は誇張して、面白おかしく話したんだろうけどね」

 私はサイダーに口を付けてから、「私の周りにも、お兄ちゃん持ちはたくさんいます。あんなのいなくていいとか、お姉ちゃんがよかったとか、網走監獄に収監されて二度と帰ってくるなとかよく聞きますけど、私はそこまでは思いません。少しお灸を据えられるくらいで勘弁してやろうかなって」

 話題が逸れつつあると気付いたが、べつだん構わなかった。今はこうして、明日には忘れてしまうような笑い話だけをしていればいい。せっかくアルセさんが隣にいるのだから。

 深月はときおり姿を見せては、注文を取ったり飲み物のお代わりを運んだりする合間に、およそ現実とは思えない愉快なエピソードを披露してくれた。私たちは笑ったり驚いたりしながら、彼女の物語に熱心に耳を傾けた――。

 そうして二時間ほどを深月のお父さんの店(シークレット・ガーデンというらしい)で過ごしてから、私たちは帰路に就いた。念には念を入れ、普段は使わない、目立たない道ばかりを選んで歩いたが、少なくも私には追手の気配は感じ取れなかった。

 ツバメ館に到着したとき、セツはまだ眠ったままだった。愛らしいその寝顔を目の当たりにして、私は急に力が抜けた。アルセさんも同様だったらしい。そういえば昼食を食べ損ねたと思い出したが、うどんのために改めて外出する気は起こらなかった。時間も中途半端だったので、夕食まで我慢することに決める。

 自宅に戻ると、母がリビングでテレビを観ていた。相も変わらず美墨くんである。ひとつ付き合おうと思い、隣に腰を下ろす。

 場面が切り替わった。〈風の名前〉のプロモーションヴィデオが流れはじめる。基本的には主役である美墨くんのアップだが、ときおり他のメンバーが画面に映りこむ。

 サビに突入する直前、女性ベーシストが顔を上げた。その眼光に射抜かれた途端、私は雷に打たれたかのような衝撃に見舞われた。

「あの人――」

「なに、誰?」

 母が暢気に尋ねてきたが、まともに対応する余裕は失せていた。なぜ今の今まで気付かなかったのか、自分でも不思議なほどだった。

 アルセさんを追いかけてきた人物。金髪で痩身、そして独特の鋭い目をしたあの女性は、美墨径の現サポートベーシスト、峯島藍里に違いなかった。

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