Track.11 While My Guitar Gently Weeps
ツバメ館一階の空間が、猫カフェだった頃の記憶を取り戻した。
引っ越し以来、ずっと積み上がったままだった段ボール箱が綺麗に消え失せ、入れ替わりに立派なキャットタワーが屹立している。高さは私の身長ほどもあり、ちょっとしたアスレチック並みに複雑な構造だ。部屋の隅には囲いが設けられ、中には丸っこくて可愛らしいペットハウスやベッドが配置されている。
「これだけ揃えても、まだぜんぜんスペースが余って見えるのが凄いですね」あちこちに視線を巡らせながら感想を洩らす。「さすが元猫カフェ」
「ほんとだよね。いろいろ設置してみて気付いたんだけど、家自体が猫を飼うのに最適な構造になってるんだよ。うっかり飛び出さないようにドアに仕切りも付けたし、セツにとっても私にとっても、なかなかいい感じになったんじゃないかな」
僅か数日でこれだけの環境を整えてしまうアルセさんに、私は改めて感嘆していた。思えば音楽の部屋もそうだったわけで、拘りはじめると止まらないタイプの人なのかもしれない。
「このスペースは大人数のレッスンにも使いたいから、そのあいだだけ、セツには別の部屋にいてもらうことになるのかな。いっそ壁で区切っちゃって、セツの小さい王国を作ってもいいかもしれない。どっちにしろ、もう少し先の話だけどね」
すっかり有瀬家のお姫さまの地位を獲得したセツは、窓際に置かれた台の上から外を眺めていた。彼女の視点だと、見えているのは我が家の塀か、でなければ庭の一部だろう。
「ほら、セツ。名付け親の来夏が来てくれたよ。挨拶しよう」
飼い主に呼びかけられ、セツはひょいと台を飛び降りて私たちの眼前までやってきた。寝転んで白いお腹を見せながら、前足だけでダンスするかのような動作を見せる。
「ご機嫌だ」アルセさんが屈み込み、その腹部を撫でた。「小さいうちから人に触られるのに慣れさせておいたほうがいいって、獣医さんに言われた。野良だった子は特に、人にちょっと触られただけで怒る場合が多いんだって。セツはそうでもないけどね」
「ちなみにですけど、どうやって保護したんですか?」
「姿が見えたときにすかさず玄関を開けて、おいでって呼んだら自分から入ってきた。実際はたぶん、置いておいたおやつに惹かれたんだと思うけど。食べさせて、満足したところを捕まえてケージに入れて、そのまま動物病院に直行」
幸いにして、健康状態は良好だったという。いちおう病院の名前を訊いてみたところ、ロンのかかりつけ医と同じだった。もっとも、雛守市内に動物病院は数えるほどしかないのだが。
「あそこの病院ではロンもよくしてもらってます。でも本人はいまだに厭みたいで、行き先が病院だって気付くと露骨に表情が変わります」
アルセさんは笑い、「スピカもそうだったな。ドライヴは大好きでさ、車には喜んで乗るの。だけど病院が近づいてくると、うわあ騙されたって顔になる。本当にめちゃくちゃ厭なんだなってのがよく分かったよ」
「ロンを初めて連れてったときは大変でした。なかなか中に入りたがらないし、やっと入ったら入ったで物凄く怯えてて。車でも病院の待合でも、ずっと抱っこしてたんです。ロン、私の膝の上でがちがちに固まってました。太腿に足跡が付くんじゃないかって思ったくらい」
セツが私たちから離れていき、キャットタワーの根元にあるトンネルに潜り込んだ。寛いでいる。お気に入りの場所のようだ。
「アルセさんの猫ってことは、やっぱり音楽好きなんですか」
「ときどき聴かせてるよ。でもだいたい、よく分かんないって顔してる。寝ちゃうこともたまにあって、そうなると成功かな。試してみようか」
アルセさんがいったん姿を消し、アコースティックギターを抱えて戻ってきた。ギブソンのハミングバードだ。スツールに腰掛け、指先できらきらと弦を弾いて、
「セツ、聴こえてる?」
トンネルの薄闇のなかで、もぞもぞと白い体が動く。そうして遊んでいるようにも、うとうとと眠りかけているようにも見えた。
「聴いてますかね」
「どうだろう。気紛れだからね」
繊細なアルペジオが奏でられる。そのままなんらかのメロディを演奏するのかと思いきや、彼女は私をちらりと見上げて、
「歌ってくれる?」
突然の要請に慌てたが、考えてみれば私は、自分はギターヴォーカルであると宣言したばかりだった。ここで歌えなければ人前でも歌えまい。
「曲はどうしましょう」
「なんか来夏の好きなやつでいいよ。適当に合わせる」
私は少し考え、「じゃあビートルズの――〈ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス〉で」
こんな感じでいい? ああ、うん。了解了解……といった調子の短いやり取りののち、アルセさんは静かにイントロを爪弾きはじめた。視線がこちらを向く。私は胸の前に手を当て、息を吸っては吐き、そして唇を開いた。
囁くように、それでいて伸びやかに歌い出そうとしたのだが、緊張で力が入りすぎてしまった。もとより私の声は硬いのだ。どうにか音程が崩れないよう意識しつつ、立て直しを図る。すみません、もう一回、とは言い出せなかった。流れに身を任せてやり切るしかない。
腹を括ったおかげか、少しずつ音に気を配れるようになってきた。私が独りで弾き語りをすると、ギターはざっくりと大味になりすぎてしまいがちなのだが、アルセさんの伴奏はむろんそうではなかった。細かな光の粒に囲まれているような、夢の庭園を歩き回っているような、この上なく特別な気分に私を浸らせてくれていた。歓喜、昂揚、官能、畏怖……いくつもの感情が胸中を飛び交っては消えていく。
最初のヴァースのあいだになんとか落ち着きを取り戻し、それからは自分なりに楽しんで歌えた……と思う。よくは覚えていない。誰かとともに音楽を奏でる魔法に、私はすっかりかけられていたからだ。
ひとつだけ残念だったのは、曲のあいだじゅうアルセさんが声を発することが一度もなかったという事実である。ジョージ・ハリスンの追悼コンサートで、エリック・クラプトンとポール・マッカートニーの声が重なったあの瞬間を再現できたならと夢想していたが、それは起こらなかった。やはりヴォーカルを担うことはないらしい。
翻って、ギタリストとしての彼女は凄まじかった。その力量を改めて実感させられたのは、曲の終盤に配されたソロにおいてだ。物悲しい静けさをいっさい損なわぬまま、高音から低音までを自在に駆け抜けていく。踊るように激しく動き回る指。次々と生み出される、胸苦しいほど切ない旋律。
私の期待に応えてだろう、原曲よりもずいぶんと長いソロを聴かせてくれた。最後の音が消失した瞬間、私は手を打ち鳴らして、
「凄いです。私の拙い歌にこんな――」
「拙くないって。伴奏してて気持ちよかったから、つい調子に乗っちゃっただけ。しっかり歌えてたし、声もよかった。一緒に演れて光栄でした」
恐縮したが、同時に嬉しくて堪らなくもあった。「ありがとうございます」
「弾きながらでも余裕を持って歌えるように練習すれば、立派にギタボとしてやっていけるはず。ベースがいないぶん、アンサンブルが薄くならないようにするのがちょっと大変だろうけど、でも大丈夫。ちゃんとやれるよ」
「やりたいです。やります」
さて、とギターを置いたアルセさんが視線を動かして、「うちのお姫さまはどうしたかな」
そういえばそうだった。セツに音楽を聴かせて反応を伺うという当初の目的が、意識からすっかり抜け落ちていた。
「まだトンネルの中?」
途端、凄まじい速さで白い塊が飛び出してきて、その勢いのままに部屋を縦断した。床に転がっていた玩具を掻っ攫い、台の上へと運んでいく。
「失敗だったかな?」とアルセさんが笑う。「それともテンションが上がっちゃったか?」
「喜んでるんだと思います、たぶん」
セツはその後、しばらく玩具を弄りまわしていたが、単純に疲れたのか、あるいは音楽が遅れて効きはじめたのか、やがて自分の寝床に戻って体を丸くした。何度か瞬きを繰り返し、とろとろと目を細める。
「時間も時間だし、私たちはなんか食べてこようか」囲いの出入口をロックしながら、アルセさんが私を誘った。「この感じだと、しばらく昼寝タイムだから」
連れ立ってツバメ館を出て、駅前へと足を向けた。選択肢はいつものフードコートか、ハンバーガーのチェーン店か、ファミリーレストランか、といったところだ。
「どうするね」
「アルセさんは普段、どうされてるんですか?」
「面倒じゃなければ、簡単なものを作って食べてる。見栄えがいまひとつの、味も自分の感覚に最適化されてるようなやつ」
彼女のことだからこれも謙遜かもしれないと思ったが、そうとは口に出さず、
「どうでもいい話ですけど、簡単にもレベルがありますよね。お兄ちゃんはカップ麺以上のものは全部難しいって言います。実家にいた頃は、難しい難しいって連呼しながら作ってました」
「お兄さんも料理当番だったんだ」
「そこは平等にローテーションしてました。小さい頃から母に教わってたので、ふたりとも多少はできるんです。アイロンとかも、面倒くさがりつつ自分でやってましたね。生命活動の維持と生活の維持には劇的な差があるよな、とか言って」
アルセさんは小さく笑い、「確かにそうだよね。独り暮らしだと、最低限の生命活動の維持ができればいいわけだしさ。丁寧に暮らすのは、心に余裕がないと難しい」
「忙しいと生活って荒れますよね。締切前のお母さんがよくそうなります。私たちは〈修羅場〉って呼んでるんですけど」
「忙しさもそうだし、心の持ちようも関係してくるよね。音楽なんて必需品には程遠いし、余裕の代表格みたいな存在に思われそうだけど、実際には心身を削ることも多々あったりする。どんなにぼろぼろになっても、ただ続けなきゃの一心でいたりする。傍目には――ちょっと馬鹿みたいに見えるかもしれないけどね」
「そういう――」と問い掛けようとして、私は途中で唇を引き結んだ。代わり、「うどん、食べませんか」
「うどん?」
「たまたま目に入ったので。前に食べたことがあるんですけど、けっこう美味しいです」
完全に出任せだった。近所にあるわりに、入った覚えのまるでない店である。これまで存在さえ認識していなかったかもしれない。
幸いにして、アルセさんは気に留めた様子もなく、
「ふうん。じゃあそうしようか。あれだよね?」
車道の向かい側に見える看板を指差しながら、こちらを振り返る。黙って頷いた。
安易な好奇心で踏み込むべきではないことはある。先ほどの口振りからしても、その腕前からしても、アルセさん自身が音楽に身骨を砕いてきたのは明らかだ。彼女のほうから吐露してくれたならまだしも、私からあれこれ尋ねるのは避けたほうが無難だという気がしていた。
横断歩道の手前で、並んで立ち止まる。私が押し釦に手を伸べかけたとき、
「――ルコ」
最初、その言葉がこちらに向けられたものだとはまったく思っていなかった。私たちの近くにいる誰かしらに呼びかけたものと認識していた。
鮮やかな金髪の女性が、大股に歩み寄ってきていた。眼光が異様なほど鋭い。「ルコ!」
「やっば」
というアルセさんの呟きから、私はようやく異変を察した。咄嗟の判断が付かず、おろおろと両者を見やる。歩行者用の信号が青に変わった。
「後で」
アルセさんが短く発したかと思うと、身を翻して駆け出した。あっという間に加速し、小さな路地へと飛び込んで姿を消す。早業である。いつどこで合流するとも、昼食のうどんをどうするとも知らされないまま、私のみが取り残された格好だった。
負けず劣らずの速度で、金髪の女性が私のもとに駆け寄ってきた。低い声音で、「あいつは?」
「さあ――」
とアルセさんが消えていった方角に視線をやりながら応じる。空惚けようとしたわけではなく、単純に行方が分からなかったのである。
「畜生」
女性が息を吐き、路地へと入り込んでいく。私はただぽかんと、その背中を見送るほかなかった。ふたりとも明らかに私より足が速い。そしてなにより、なぜ追う追われるの活劇が展開されているのか、理解がまるで追いついていない。
「どうしよう」と独り言つ。「どうなってんの」
アルセさんと連絡を取りたかったが、どこかで身を潜めてやり過ごそうとしている可能性に思い至り、電話を架けるのはやめにした。ここで待っていても仕方がないので、独自に彼女を追うことに決める。
二、三本離れた路地を選び、静かに進んでいく。逃走中の人間が、ただまっすぐに自宅に戻るとは考えにくい。身の安全を確信できるまでは、この付近に留まるのではないかと予想していた。
土地勘という意味では、アルセさんも追手たる謎の女性も、私には及ばない。遮蔽物が多い場所、いざというときの逃走経路を確保しやすい場所は、この時点でいくつか頭に浮かんでいた。先にアルセさんを見つけ、地の利を生かした逃走術を伝授することにしよう。
数分の探索ののち、壁に張りついて息を殺しているアルセさんを発見できた。そっと近づき、小声で呼びかける。
「アルセさん」
「ああ――来夏か」心底ほっとした風情で吐息を洩らす。「見つかったかと思った」
「事情はよく分かりませんが、この場を切り抜けたい?」
「ぜひとも。あいつを撒きたい」
私は頷いて、「じゃあついてきてください。安全な場所で、しばらく身を隠しましょう」
「当てがある?」
「知らない人ではまず入ってこられない場所があります。今日は金曜ですよね」
アルセさんは腕時計に視線を落として、「金曜」
この逃亡劇がいま、ここで起きたのが幸運だった。ふたりで周囲を警戒しつつ、いくつかの角を慎重に折れて目的地を目指す。
「ここです」
古びた建物の前で立ち止まった。板チョコレートに似たドアの横で、クリーム色のフレンチブルドックが幸福そうに鼾をかいていた。
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