Track.10 Rock This Town

 母のこの夏何度目かの〈修羅場〉が終わり、蜂巣家が落ち着きを取り戻しつつあったある日、大荷物を抱えた杏子が訪ねてきた。単に遊びに来たというわけではなく、明確な目的をもっての来訪である。

「――二学期の中間は絶対に順位上げる。学年で二十位以内に入る」

 私の部屋に入るなり、バッグからテキスト類を次々と取り出してテーブルの片隅に山を拵える。よほどのこと気合が入っている。

 新しいギターと電子ドラムを手に入れた私たちは、家族への感謝の念が劇的に高まっていた。ここはひとつ休暇明けの試験で好成績を叩き出して報いたい、ということで意見が一致し、中学生らしく勉強会を開く運びとなったのである。

 発端は杏子だった。計画的な作業の甲斐あって、宿題は完了の見通しが立っている。夏休みの残り期間を自学自習に充てれば、成績の向上は間違いない。より効率的に学習を進めるために、ふたりが手を取り合うべきである――と彼女は主張した。

 じじつ得意分野はまるきり違っているので、私としてもこの提案は非常にありがたかった。杏子は図や数字に強く、パズル的な思考力に優れるタイプ。数学や理科はゲーム感覚で取り組めるが、暗記物は大嫌いだという。いっぽうの私は根っからの文系で、社会や英語を得点源とする人種だった。

 話は逸れるが、すべての科目において万能だったのが兄である。中学時代、学年のトップ三から外れたことはおそらくなかったはずだ。

「学年二十位――学年二十位――うん、不可能ではない気がしてきた。一年のとき二十三位になったことあるし。学校の定期試験なんか人生に対して大きな意味を持たない、とか言うのはやめる。来夏は漣女志望なんでしょ?」

 県立漣女子高校の略称だ。県内では兄の母校である漣高校に次いで偏差値が高い。

「うん、まあ、行けたらいいなとは」

「だったら私も漣女目指す。いまの成績じゃ厳しいって言われるに決まってるけど、まだ時間はあるもん。絶対巻き返す」

「杏子は理系科目強いから、かなりアドバンテージだと思う。お兄ちゃんが残してった受験虎の巻もあるし、一緒に頑張ろう」

 手を握り合う。雛守中学から漣女子高への合格者は毎年数名しかおらず、零の場合も珍しくはない。しかし私たちは、やると決めたことはやるのだ。

 まずは英語から始めることにした。それぞれに文法や長文の問題を解き、解説を参照しながら採点を行う。分からない部分は教え合う。英語に関しては杏子が私に尋ねてくる場合がほとんどだが、午後には立場が逆転することになるだろう。

「――ツバメはエジプトに行く予定だったんだ」テキストを見つめながら杏子が呟く。「南の島かと思ってた」

 手許を覗き込んでみれば、教材はオスカー・ワイルドの『幸福の王子』である。葦に恋をした変わり者のツバメが群れから置いてきぼりを食ったくだりは記憶していたが、本来の目的地がエジプトだったとは私も知らなかった。

「こうして読んでみるとツバメはけっこう世話焼きなんだね。言われた通り宝石は届けてきました、ではさようなら、で何度も街を去って行こうとしてるのに、そのたびに王子に引き留められて居残ってる」

 私は少し笑い、「ツバメ自身も執着心が強いっていうか、物事を投げ出せない性格なんじゃない? ぜんぜん返事をくれない葦を相手に求愛して、夏を過ごしちゃったわけでしょ」

「いや、葦は返事をしてるよ。少なくともツバメはそのつもりでいる。風に揺られてだろうけど、頷きましたって書いてある。それでも最終的には、ツバメから葦をふるんだよ。風といちゃいちゃしてるからって」

 テキストを借りてざっと読んでみた。確かにその通りである。風が吹くたびに優美なお辞儀をする葦に対して、ツバメは浮気を疑ったらしい。一緒に来てほしいと頼むも首を横に振られ、彼のほうから葦に愛想を尽かして去る、という筋書きだった。

「葦はただ葦でいただけで、ツバメの感情はかなり一方的。金ぴかの王子は真面目で誠実っぽいけど、じっさいツバメをかなり振り回してるよね」

 この杏子の所感にも一理あるような気がして、私には反論しえなかった。学生時代にオスカー・ワイルドを研究していたというアルセさんに意見を仰ぎたいところだ。

 昼食を挟み、数学の学習へと移った。はっきり言ってしまうと私はこれが大の苦手で、憎しみに近い感情を抱いてさえいる。他の科目で感動的な高得点をマークしても、数学一科目のせいで台無しになってしまう事態が頻発しており、どうにか克服しようと苦心してはいるのだが、なかなか上手くいかない。杏子のようにゲーム的に面白がれる感性も有しておらず、ただただネガティヴな感情が募るばかりだ。

「前半のベーシックな問題は基礎的な例題を覚えちゃえばどうにかなるけど、後半の大問って、閃かないとどうしようもなくない?」

「閃きというか、応用するんだって。小問で誘導してもらえることもあるし。来夏だったら、解き方のストックをたくさん用意できるわけだし、ロジカルな展開だって苦手じゃないでしょ? あとは組み合わせ方だけだよ」

「苦手な科目があっても、けっきょく五科目の合計点で決まるわけだから、最低限足を引っ張らないラインを安定して超えられればいいんだって、お兄ちゃんは言ってた。私はその戦術で行く」

 うんうん唸りながら午後の時間を過ごし、少しお菓子を摘まんで休息を取り、またテキストに戻る。中学生の勉強会など名ばかりで、あっという間に集中力が霧散して遊びに移行してしまうものと見做されがちだが、この日の私たちに限って言えばそうしたことにはならなかった。朝から夕方まで、きわめて真剣に机に向かいつづけていたのである。

 少し嘘を吐いた。かなりの真剣さで、くらいにしておくべきだったかもしれない。合間に短い雑談は交わしたし、休憩時間中に至っては完全にだらけ切り、ふざけ合っていた。たとえばこんな調子だ。

「――君を好きになってもいいかな?」

 立ち上がった杏子が私の傍らにやってきて、芝居がかった調子で言うので、

「なに、どうしたの」

「ツバメの科白。ツバメは葦の周りをぐるぐる飛びながら、翼で水に触れて銀色の波を起こしました。それがツバメなりの求愛だったんだって」

「なかなかロマンチストだね」

 杏子が広げたお菓子の中からスティック状のチョコレートを手に取った。私の顔の前に突き出してくる。

「ヒューマンビーイングの私はお菓子をプレゼントして求愛する。どうだい、君を好きになってもいいかい?」

 口を開け、贈り物を受け取る。片手で口許を覆って、「食べ物で求愛って、ツバメに比べるとかなり原初的じゃない?」

「いいじゃん、別に。それでどうなの、お返事のほどは」

 私は風に揺られる葦を真似て、かぶりを振っているとも頷いているともつかない微妙な動作を披露した。この反応に彼女は笑い転げて、

「君は僕を弄んだんだな!」

 勉強会がお開きになって杏子が帰宅すると、途端に疲労感が押し寄せてきた。なんだかんだ、やるべきことはきちんとこなしたのである。毎回この調子で進められたなら、なるほど成績は上向きそうだ。あとは私たちの意思力次第といったところだろう。

 夜、ヘッドフォンを嵌めてギターの練習をした。〈ロック・ウィズ・ユー〉の軽快なリズムを意識しながら、短いフレーズをひたすら反復する。急ぎ足になりすぎても、もたついてもいけない。不要な音を鳴らしてもいけない。間延びせず、歯切れよく。正確に、それでいてしなやかに。

 途中で一度、じっくりと歌詞に目を通した。「君とロックしたい」が文字通り音楽を奏でたいという意味なのか、あるいは踊りたい、盛り上がりたいの意なのか、それとも――などと意識を巡らせて、かぶりを振る。いずれにしても、情熱的なラヴソングには違いない。

 続けてストレイ・キャッツの〈ロック・ディス・タウン〉のソロに挑んでみる。原曲よりもやや遅めのテンポに設定したメトロノームに合わせ、いくつかのパートに分割しながら弾いていく。

 ロカビリーとブルースを掛け合わせたようなこの曲の勘所は、やはりグルーヴだ。私はあまり詳しくないのだが、ビッグバンド的というか、スウィングジャズを思わせる雰囲気もある。聴いていると体がひとりでに踊り出しそうになって、とても楽しい。その楽しさを自らの指で再現するには、まだまだ鍛練が必要なのだが。

 もう少し練習を続けようか、それとも切り上げて本でも読もうかと思いはじめたころ、充電器に繋いだままのスマートフォンが震えた。アルセさんからだ。

 なにげなくメッセージアプリを開き、仰天した。ツバメ館の近くにいた、白とベージュの毛色をしたあの仔猫の写真だったからである。見慣れた床の上で寝そべっている。小さなオレンジ色の首輪も見て取れた。

〈保護した! 今日から我が家の一員〉

 二枚、三枚と続けて画像が送られてくる。つい頬が緩んだ。

 綺麗に体を洗われ、毛並みも整えられたと思しく、仔猫は縫いぐるみのようにふっくらとしていた。たった一日でずいぶんとツバメ館に馴染んだようで、のんびりと快適そうな表情である。

〈よかったです。もう名前は決めたんですか〉

〈それで相談しようと思ってた。このあいだストレイ・キャッツの話したじゃん? ブライアン・セッツァーにあやかってブライアンって名前にしようかと思ったら、雌だった〉

 ふふ、と思わず声が洩れる。〈まさにさっき、彼らの曲を練習してました。女の子でブライアンでもいいとは思いますけど〉

〈いいかな? かっこよくなりそうな名前ではあるよね〉

〈だったらむしろ、セッツァーから採ってセツは?〉

〈天才。セツと名付ける〉

 完全にその場の思い付きだったのだが、気に入ってもらえたらしい。言ってみるものである。

〈正直なところ、保護した直後は飼うつもりじゃなかったんだよ。別に飼い主を探そうと思ってた〉

〈里親を探してくれる団体、ありますよね〉

〈そうそう。動物病院に連れてって検査してもらって、野良だったんですって話したら、まさにそういう団体をご紹介しましょうかって言われた。はいお願いしますのはずだったんだけど、気が付いたら私が飼いますって答えてた〉

 私は写真を見返しながら、

〈セツもアルセさんちの猫になりたかったんだと思います。すごく幸せそうな顔してる〉

〈私もいま、超にやけながら撮ってる。こうやって連れて帰ってきてみたら、世界一可愛い猫じゃん。一瞬でも余所にやろうと思ったのが信じられない〉

〈うちにロンが来たときと同じですね。私も兄も母も、これは世界最高の犬の飼い主になってしまったってお祭り騒ぎでした〉

〈そのお祭り、いまも続いてるでしょう〉

〈もちろんです〉

 私は一階に下り、寝床で丸くなっているロンのもとへ接近していった。尾を振りながら身を寄せてくる彼を激しく撫でまわす。

「うわ、うわあ」ソファに陣取ってスマートフォンを弄っていた母が、唐突に太い叫び声をあげた。「来夏、ちょっと来夏。やばいよ、大ニュース」

 私はロンを抱き上げ、「なにが」

「径のソロ、二枚目が出るんだって」

「シングル?」

「うん。タイトルは未定だけど。とにかくこれで、またひとつ生き延びる理由ができた」

 発表の時点でこれである。泣きそうにさえなっている。「いつ?」

「けっこう近いよ。十月。楽曲提供は――峯島藍里だって。最強のタッグ継続って書いてあるから、同じ人だね」

 ドライヴの際にアルセさんがした予言が、そのまま現実となった格好だ。

 やはり業界の情報に通じているのだ、さすがはアルセさんだ、とだけ思えればよかったのだろうが、その瞬間に私の脳裡に浮かんでいたのは、また違った事柄だった。

 ハンドルを握った彼女の横顔。逆光に翳り、表情はよく見て取れなかったけれど、それはどこか物憂げで、一瞬、私は声をかけるのを躊躇ったのだ。

 歌うのは難しいよ、と彼女は言った。私は頷いた。

「難しくても私、もう一回ハチコマで歌いたいです。今は歌に集中すればギターが、ギターに気を取られれば歌が疎かになって、中途半端になっちゃうけど、きっと両立できるようにします。杏子のドラムとコーラスが、私を支えてくれるはずだから」

「そう思えるなら、誰がなんと言ったってハチコマは世界で最強のバンドだよ。なにもかも、きっと上手くいく。来夏の声を届けられるよ。ふたりでなら、きっとね」

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