Track.9 Drive
ベージュと白が入り乱れたような淡い色彩の仔猫が、ちょこちょこと足許を走り抜けていく。よく観察してみたいと思ったものの、背負った荷物の重みで腰を屈めるのも一苦労だった。ようやく視線を下げたときには、仔猫はとうに姿を消していた。
足腰に力を込めて立ち上がり、ツバメ館の呼び鈴を鳴らした。出迎えてくれたアルセさんが私を一瞥して、
「お、今日はマイ楽器持参なんだ」
「新しく手に入れたので、アルセさんにも見せたいなと思って」
「それはおめでとう。じっくり見せてもらうよ。階段、気を付けてね」
ツバメ館の一階、かつて猫カフェだったスペースは、いまだがらんと開けたままだ。壁際に積んである段ボールの数が多少減ったように見える以外、あまり変化は見られない。
今後どうするのかと尋ねてみると、アルセさんは顎を摘まんで、
「個人レッスンは上の部屋、ある程度の人数ならここって使い分けようかなって考えてるんだ。ゆくゆくはピアノを置いて、生徒さんに貸し出す用の楽器なんかも用意して――とかね。まずは小さい規模で初めて、少しずつ教室を大きくして行けたらいいな」
私は頷き、「素敵だと思います。アルセさん、ピアノも弾けるんですか」
「少しね。いちおう楽譜も読めるよ、音楽講師志望だからね」
感心した。「音大出身なんですか?」
「ううん、文学部卒。学生時代はオスカー・ワイルドとか読んでたよ。とりあえずいつもの部屋へどうぞ。ギター、早く見たい」
二階へ上がり、私は厳粛な動作でギグバッグを開いた。中身を見たアルセさんが、うわあ、と少女のような声を上げる。
「シンラインじゃん。いいね、凄く。この孔の開いたギターってさ、やっぱりクラシカルで格好いいよね」
取り出して抱えてみせる。彼女が顔を傾けたり立ち位置を変えたりしながら、こちらをさまざまな角度で観察しはじめたので、私はつい気恥ずかしくなり、
「あの、よければ持って、触ってみてください」
「それは来夏の演奏をひととおり聴いてから。私はどうするかな。じゃあ――今日はこれにしてみるか」
やや悩んだ末に自身のギタースタンドから選び出したのは、鮮烈なオレンジ色をしたグレッチである。ボディがかなり大振りで、アコースティックギターに迫るほどだ。
「ブライアン・セッツァーみたいですね」
と感想を洩らした。彼女は顔を上下させて、
「ストレイ・キャッツのね。グレッチといえば真っ先に名前が挙がるミュージシャンのひとりだね」
言いながら、ピックと指先を併用した奏法で、軽快なロカビリー風のサウンドをさらりと奏でてみせる。うすうす察してはいたが、本当になんでも弾けるらしい。当人は否定するだろうけれど。
「関係あるような、ないような話ですけど、庭で仔猫を見ました」
「白っぽい子? 私もたまに見かける。このへんに住んでる野良なんだと思うけど、まだ小さいし心配してるんだ」
この日は前回の復習に加え、表現力を向上させる訓練を行った。力の込め方や抜き方、アクセントの入れ方、ヴィブラートのかけ方、そしてやはりリズムとグルーヴ。
表現力とはなにか、とさんざんに考えさせられた。出したい音を的確にイメージし、出力する力? 胸の内に滾る想いを、音色に変換する力? いずれも間違いではないだろう。しかしそれだけでは、アルセさんの演奏に宿る情感を説明しえない気もする。
私の感覚でいえば、彼女のギターからは物語が感じられるのだ。
はっと意識を引きつける冒頭部があり、展開があり、クライマックスへと至って、切なく余韻を残して終わっていく。全篇を通して情景が浮かんでくる。情熱的なソロであっても、控えめなコードストロークであっても、すべてはアルセさん自身の言葉であり、歌なのだ。
翻って私はまだ、自分の言葉をギターで伝えるには至っていない。分かってほしい、届いてほしい、とがむしゃらに声を張り上げているばかりだ。
レッスンの結びに、新しいギターをアルセさんに弾いてもらった。私などと比べるのは失礼きわまりないのだが、やはり根底から演奏技術が違う。自分の楽器からこんな音が出るのかと感嘆しながら、茫然と聴き入っているのみだった。
「凄くいい楽器。これ、買った状態のまま?」アルセさんが問う。
「チューニングを合わせただけで、他はそのままです」
彼女は私のギターを小さく爪弾きながら、「これでもぜんぜん大丈夫だけど、弾き手によって好みってあるからね。弦高を低くすれば押さえやすくなるから、シビアな演奏には向くかもしれない。逆に高くしたときの音が好きって人もいる」
「アルセさんはどっち派ですか」
「若干高め。私のギターと比べてもらえれば、感覚的に分かると思う」
彼女のメインギターであるテレキャスターを借り、確認してみた。なるほどその通りである。
「私のよりミュートがしやすいような」
「それもあるね。私の場合、メタルっぽい速弾きとかはほとんどしないし、あるていど高くしてても大丈夫なんだ。どのくらいが弾きやすいのか、なにを優先するのか、自分なりの基準を持っておくといいよ」
ミュートすなわち不要な音を鳴らさないことは、ギターの演奏においてきわめて重要なテクニックだ。いくら歯切れよく聴かせようとしても、余計なノイズが混じってしまっては艶消しである。
「試しに、アルセさんみたいなセッティングにしてみたいです」
「分かった」彼女は手近な抽斗から用具を取り出して、「じゃあ少し、私の感じに寄せてみよう。見ててもらったほうがいいかな。そんなに難しくないから」
平たい台の上にギターを置き、細いレンチを使って調整を施していく。さすがに手馴れたものである。あっという間に作業を完了させ、チューニングを合わせなおしてから、
「これで弾いてみて。微妙にだけど、違いが体感できるくらいに弄った」
戻ってきた自分の楽器で、同じフレーズを反復する。確かに違う。
「――こっちのほうがいいです」
アルセさんは笑顔を覗かせた。「じゃあそれを参考に、次回から自分でやってみて。いい塩梅の高さが見つかったらメモっておく。専用の定規が楽器屋で売ってるから、ひとつ持っておくと便利だよ」
昼時、アルセさんがドライヴに連れ出してくれた。オレンジのボディが眩しい彼女の愛車に乗せてもらうのは、このときが初めてだった。
「ご飯、なにがいい?」
「ふだん外で食べるならフードコートのラーメンとか、図書館の近くにあるファミレスが多いです。一食五百円以内で済みますし」
「食事代はお母さんに貰ってるの?」
「はい。最近また仕事が忙しくなったみたいで、昼夜逆転生活に入りました。そうなると一緒にはなかなか食べられないので、お金だけ貰って独りで適当に食べてます。いまの時間はたぶん、疲れ切って寝てるんじゃないかな」
「お母さん、デザイナーさんなんだっけ」
「デザイン関係、としか教えてもらってません。なんのデザインなのかも、私にはよく」
なるほどね、と言いながらアルセさんがハンドルを回す。「じゃあ今日は、いつもの店でいつもの定食を食べたってことにしていいよ。私が奢るから、食事代はこっそりお小遣いにしちゃえ」
「でも、それは――」
「シンライン買ったばっかりで、正直すっからかんでしょう? いいって。私も子供の頃はよく、食事抜いたり一駅ぶん歩いたりしてお金浮かせて、自分の財布に入れてたから。確かに褒められた行いではないよね。でも絶対にやってはいけないほどの悪事でもない。どうする? なに食べたい?」
すぐには答えが浮かばず、唸りながら考え込んでいると、
「じゃあ少し遠くまで行ってみて、お腹空いてきた頃に目に付いたところに入ろうか。それまでは目的地なしで、だらだらドライヴ。どう?」
申し分なかった。結局のところ、アルセさんとのんびり話ができればなんでもよかったのである。
車がやや速度を上げ、市街地を脱した。漣市方面へと向かっていく。先日〈アクトさざなみ〉へ行ったときと同様のルートだ。
「お母さんともドライヴする?」
「ときどき。でも車に乗ってるときは無限に音楽をかけるか、ラジオを聴いてます」
「美墨くん?」
私は頷き、「ずっと美墨くんです。ソロのセカンドシングルがいつ出るかって、最近は口を開けばそればっかりですね」
眼前の信号が赤に変わった。アルセさんはブレーキを踏みながら、
「遠からず出ると思うよ。たぶんだけど、バックバンドも続投する」
熟練のセッションミュージシャン風に見えたギタリストとドラマー、そして金髪の女性ベーシストの姿が甦ってきた。名前はそう――峯島藍里だ。母が絶賛した美墨くんのソロデビュー曲、〈風の名前〉を手掛けた人物でもある。
「だったら母は大騒ぎすると思います。帰ったら教えちゃっていいですか」
「別にいいけど、断定まではできないよ。あくまで推測」
分かってます、と答えてはおいたが、まだ発表には至っていないというだけで、ほぼ決定事項なのだろうという気がしていた。アルセさんはやはり、なんらかの形で音楽業界への繋がりがあるのだ。
「アルセさんは美墨くんみたいな、いわゆるアイドルってどう思いますか」
「アイドルとしてどうかは分からないけど、ヴォーカリストとしての美墨くんは、正直かなりのポテンシャルがあると思ってる。仮にアイドルじゃなくて、ごく普通の歌手としてデビューしたとしても、かなりいいところまで行けた人じゃないかな」
あまり好印象は持っていないと予想していたので、この返答は意外だった。「巧いですか」
「間違いなく巧い。いまでもスターだけど、あくまで五人組のひとりって位置付けじゃない? もし本格的に路線を変更して、自分の歌を前面に打ち出していったとしたら、物凄い音楽になるんじゃないかって気がしてる。〈風の名前〉を聴いて、改めてそう思った」
真剣な口調だった。母を喜ばせるためのサーヴィスではなさそうである。もとよりアルセさんは誠実な人なのだ。音楽に関してはなおさらのこと。
二時近くになって、私たちは国道沿いのステーキ店に立ち寄った。全国どこにでもある店と思い込んでいたのだが、アルセさんは初めて見たという。あとで調べてみると、創業は漣市で、県内を中心に展開しているとあった。
肉料理が運ばれてくる前に、私は雑談のような素振りで、
「友達とバンドをやるんです」
向かいの席でスープを飲んでいたアルセさんが、途端に身を乗り出してきた。「まじか。最近結成したの?」
「結成自体は少し前なんですけど、近頃はこれといって活動をしてなかったんです。だから再始動ってことになるんでしょうか」
「いいじゃない。担当はギター? どんなバンドなの」
「二人組なんですけど、バンドを自称してます。友達がドラム兼コーラスで、私がギターヴォーカル。曲はふたりとも作れないので、いまのところコピーバンドです」
「バンドだって言ったらバンドだよ。そっか、ギタボか。だったら新しいシンラインはぴったりだね。軽いし。バンド名はなんていうの?」
「ハチコマです。ドラマーの友達が駒場なので、シンプルに組み合わせてハチコマ。六コマの授業が終わったあと、七コマ目とか八コマ目の時間に練習してたって意味もいちおうあります。正直これは後で考えたんですけど」
アルセさんは深く頷いた。「記憶に残るし、響きもいいね。ベースはいないんだ」
「ただ見つからなかっただけで、アンサンブル上の意図があるわけじゃないです。ふたりだと意思疎通がしやすくていいなとは思ってますけど。それでライヴを、秋の文化祭でやろうって話をしてるんです」
「最高じゃん。私もなるべく力になりたい。なるべく、だけどね」
「すみません、やっぱりお忙しいですよね。普段だって――」
彼女は片手をひらひらと揺らして、「そういうことじゃないよ。いまやってるレッスンは、あくまで趣味。遊びに来てくれた友達と、音楽で楽しい時間を過ごしてるだけ。だからって手を抜いてるわけじゃないのは分かってくれるでしょ?」
「それはもちろんです」
「よしよし。でね、なるべく、の意味合いなんだけど――」言葉を探すように、短い間が空いた。「――ギターは教えられる。ヴォーカリストが歌いながらギターを弾くスキルは伸ばせると思う。でも歌それ自体は教えてあげられない」
音楽のことならばなんでも高い次元でこなしてしまえる人と認識していたから、この返答は少し意外に思えた。彼女の本分はやはりギター、ということらしい。
「分かりました。歌はどうにか頑張ります。ギターは引き続きよろしくお願いします」
「うん。それで、ライヴは初めて?」
「一回だけ、春の新入生歓迎祭でミニライヴを。でもそのときは――あまりうまくいきませんでした」
次第に声が小さくなっていった私に、アルセさんは穏やかな調子で、
「初めては誰でもそんなもん、とか言うのは簡単だよね。実際、私も初めて人前に立ったときはめちゃくちゃ緊張したし、自分で思ってたより圧倒的に下手糞で駄目駄目だった。初めてだから仕方ないって分かってはいたけど、だからって悔しくなくなるわけじゃない。初舞台にしては上々だったよ、とか言ってもらえて、それはそれで嬉しかったけど、でも足りなかったのは自分がいちばんよく分かってた。当時の私って完全に独学だったから、具体的になにが拙かったのか、次はどうすればいいのかって、自分で模索するしかなかったのね。気持ちばっかり焦ったし、不安になった。もうやめたほうがいいんじゃないかとも思った。来夏にもそういう気持ち、あるんじゃない?」
「――あります」
なんでもお見通しなのだと私は思った。彼女もかつては、今の私のような未熟な音楽少女だったという当たり前の事実が、なんだか途方もなく不思議に感じられた。アルセさんがいかにして現在のアルセさんになったか、私はその過程をほとんどなにも知らない。
「不安でも、来夏は立ち向かおうとしてる。私は音楽の楽しさと苦しさの両方を知ってるつもりだから、それがどんなに勇気あることか分かる。そして私には先達として、来夏に伝えられる技術がある。一緒に進もうって言ったよね。君がやろうとしてるのは、途轍もない大冒険なんだよ」
帰り道、アルセさんはカーステレオで音楽をかけた。ずっしりとしたリズムに細やかなアルペジオと悲しげなヴォーカルが乗った物静かな曲かと思いきや、中盤以降に劇的な展開を見せる。駆け出すようにしてテンポが速まり、ギターが重なって轟音を発しはじめる。ヴォーカリストが胸苦しい叫び声をあげる。それはどこまでも感傷的で生々しく、私は助手席で音の波を浴びながら鳥肌を立てた。
「歌うのは難しいよ」と独り言のようにアルセさんは言った。「歌うのは、言葉を、自分の声を発するのは、すごく難しい。自分自身でありつづけることが、なによりもね」
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