Track.8 Beautiful Day
「じゃあ、お母さんたち映画観てくるから。ふたりでじっくり検討しててね」
本人いわく適切な休養と夏野菜カレーの摂取により、杏子は無事に風邪から回復した。繰り延べになっていた〈アクトさざなみ〉でのショッピングが、このたび現実のものとなった。
そしてなぜか、双方の母親が同行している。子供たちの邪魔になる真似は絶対にしないから、と言い含められ、私と杏子は多少の違和感を覚えつつも承諾した。親との買い物になんとなくの気恥ずかしさはあるが、断固として厭というほどでもない。目的地までドライバーを務めてくれるというし、食事代も出してもらえる。ふたりだってときには遠出もしたいのだろう、などと話し合った結果だった。
母親たちが浮き浮きとした足取りで消えてしまったあと、杏子がこちらを振り返って、
「なに観るんだろ。来夏聞いてる?」
「うちのお母さんが観たがるとしたら、美墨くんが主演してるドラマの劇場版かなにかだと思う。雛守って映画館ないじゃん。劇場の大画面で拝みたいっていつも騒いでる」
杏子は笑い、「なるほどね。『エンジェルユース』か。うちの親も毎週観てるよ。だから来たがったのかな」
私たちはエスカレーターを上がり、建物のワンフロアを丸ごと占める楽器店に入っていった。その規模たるや、私たちの想定をはるかに凌駕していた。視界が開けた瞬間、ふたり同時に声を上げてしまったほどだ。
最初に目に飛び込んできたのは、壁全体を埋め尽くすほどに吊り下げられたギターの大群だった。県内最大の専門店なのだから当然には違いないのだが、それでもよくこれだけ集めたものだと感心してしまうほど、どちらを向いても楽器だらけである。この光景に私はすっかり昂奮し、
「嘘みたい。一日じゃ回り切れないんじゃない?」
「ほんとだね。一生ぶんのギターがある。ここなら新しい相棒に出会えそうだね」
驚いたのは、レスポールならばレスポールだけ、ストラトキャスターならばストラトキャスターだけが、微妙な色合いの違いでグラデーションを描くように陳列されていたことだ。たとえば同じサンバーストのギターでも、赤みの強いもの、黄色に近いもの、うっすらと緑色を帯びて見えるものなど、それぞれ差がある。塗装の具合や木目の現れ方も当然に異なっており、仮に外観だけで選ぶにしてもかなりの難題となりそうだった。
「来夏はテレが欲しいんだよね。あっちにいっぱい」
私と同等以上に昂奮気味の杏子に連れられ、別の一角へと移動した。無数のテレキャスターと対面した私はしばし言葉を失い、ただ呆けたように壁の前で立ち尽くすこととなった。
きわめて厳格な注意力を発揮しながら、一本ずつ楽器を眺めていく。貯金をすべて使い果たしても構わないと覚悟していた。ここで決められなければ、ギターを買う機会はしばらく訪れないだろう。
熟考の末、私は二本の候補を選び出した。いずれもオリジナルのフェンダー・テレキャスターではなく、そのコピーモデルである。
片方はメタリックなタンジェリンカラーが目を引いた個体。エントリークラスよりひとつ上のモデルとのことで、見栄えも作りも充分に満足できそうな感じがあった。
もう片方はよりアルセさんのテレキャスターに似た、フィエスタレッドと呼ばれる色のもの。こちらは質実剛健な国産品で、楽器としての仕様は申し分ないが、予算の上限ぎりぎりの値段である。
「試奏させてもらって、しっくり来たほうにすれば」腕組みしているばかりの私に、杏子が真っ当なアドヴァイスをする。
「そうなんだけどね。うーん」
「見た目でなにか悩んでるの?」
私はふたつの楽器のあいだで視線を行き来させながら、「憧れのギタリストが持ってるやつに似てるのは二本目なの。でもけっこうな値段だし、いつかもっと本物に近いのが欲しくなっちゃうかもしれないなって思って。一本目のやつはちょっと雰囲気が違うけど、これはこれで綺麗だから、今はこっちでもいいかなあ、とか」
「なるほど難しいね」と杏子は同調してくれた。「だったらいったん気分を変えて、私の買い物に付き合ってくれない? 私もどうせ優柔不断だから、行ったり来たりしながら気長に考えようよ」
そういった次第で、私たちは電子ドラムのコーナーへと移った。楽器を前に悩むのみだった私とは対照的に、杏子は店員と積極的に言葉を交わし、いくつかのモデルを試奏していた。久方ぶりに見た彼女の演奏は変わらず堂々として、緊張の色をまるで感じさせなかった。
ドラムの知識がほとんどない私は、杏子の表情ばかりをただ観察していた。ひととおり叩き終えて戻ってきた彼女に、もっとも楽しそうに見えたのは何番目だった、と伝える。
「やっぱりか。私もそれがいいと思ってた」と笑顔が返ってきた。「よし、これだなって感じで叩いてたから、顔に出たのかもしれないね」
優柔不断を自称していたわりに決断が早い。よほど気に入ったのだろう。
思いがけず短時間でドラム選びが終わってしまったので、私たちはフロアを移って喫茶店に入った。少し運動して咽が渇いたし、来夏も糖分を取れば頭が冴えるかも、と杏子が提案したのである。
のんびりとカフェオレを飲んでいると、杏子のスマートフォンに連絡が入った。映画の鑑賞を終えた母親たちが合流したいのだという。
「どうする? 迎えに行ったほうがいいかな」
「とりあえずここに来てもらおうよ。来夏もそれ、まだ飲み終わってないでしょ」
その旨の返信をして少しすると、母たちが店に姿を現した。映画はやはり劇場版の『エンジェルユース』だったらしい。杏子のお母さんはまだしも普段通りだが、私の母はなにやら感極まった顔をしている。
「決まった?」向かいの席に腰を下ろしながら、杏子のお母さんがにこやかに尋ねる。
「私は決まった。来夏はまだ」
母は私を見やり、「それで、うちのお嬢さまはなにに悩んでるの?」
杏子にしたものと同じ説明を、やや丁寧に繰り返した。楽器の知識は基本的に皆無の人である。母は分かったような分かっていないような顔で、
「どっちも貯金の範囲内なのね?」
「片方はほんとに予算ぎりぎりだけどね」
蜂巣さん、と杏子のお母さんが母に呼びかける。ふたりはなにか申し合わせるように目で頷きあって、
「ここで娘たちに、お母さんたちから贈り物があります」
宣言と同時に鞄からなにやら取り出して、正面にいる私たちに差し出してきた。杏子は薄い桃色の、私は水色の封筒を、それぞれに受け取る。
やや困惑しながら中身を確かめた。同じ水色の便箋に、濃い青の文字。こういう細かい部分にまで美墨くんのイメージカラーを採用するあたり、いかにも母らしい。
ほら、読んで、と促されるままに読みはじめた。文章を追っていくうちに、咽と鼻の奥が熱を帯びてくるのが分かる。それは人生で初めて送られた、母から娘に向けた手紙だった。
母子家庭で苦労をかけていること、それでもまっすぐに育って安心していること、兄妹が良好な関係を維持しているのが嬉しくて堪らないこと、ロンが蜂巣家の一員となった日に開いた歓迎会のこと、北海道へ旅立つ兄をふたりで見送った朝のこと、私の将来のこと――。
書き出したら止めどころが分からなくなりました、ごめんね、というフレーズを挟んだのち、私たちが音楽好きでいるのを微笑ましく思っていることと、これまでの感謝を込めて楽器に出資する用意があることを短く記して、手紙は終わっていた。末尾には「自慢の娘、来夏へ」とあった。
読み終えた便箋を丁寧に畳んで封筒に仕舞った。どうにか堪えるつもりでいたが、隣から杏子が洟を啜り上げる音が聞こえてきたので、我慢しなくても大丈夫だろうと思って私も少しだけ泣いた。ほんの少しである。誰がなんと言おうと少しだ。
温かい涙を拭って顔を上げると、杏子のお母さんが微笑を浮かべながら、
「そういうことだから、ね」
飲み物を空にして気分を落ち着けてから、私たちは店を後にした。四人で電子ドラムの売り場へと向かう。
杏子が先ほど選んだモデルを示すと、彼女のお母さんは店員を呼んで、
「これのグレードが上のものはありますか」
それならばぴったりのものが、といった調子で、より生ドラムに近く、表現の幅も広い上位機種を紹介された。僅かに緊張した面持ちでそれを叩いたのちにこちらを振り返った杏子に向け、お母さんが柔らかく、
「どう? やっぱりそっちのほうがいい?」
「――うん」
「だったらそれにしよう。お父さんにも了解貰ってるから」
会計が済んでからも、杏子はずっと呆けたような顔つきでいた。それはそうだろう。よかったね、などと声をかけるのが私には精いっぱいだった。
「じゃあ次はうちのお嬢さまだね。どれで迷ってるの?」
私は三人をテレキャスターばかりが並んだ一角へと導いた。これかあれ、と二本を指差す。母は腕組みしてそれらを眺めてから、傍に控えていたギター売り場の女性店員に向け、
「これと似た色で、フェンダー? とにかくコピーじゃない、オリジナルのものを見せてください」
お母さんお母さん、と私は慌ててその肩を叩き、「ひとことでフェンダーって言っても、いろんなラインがあるんだよ。日本製もあればメキシコ製もあるし、アメリカ製もあるの」
「あんたが好きなギタリストはどこの人?」
「日本の人だけど、使ってるのはたぶん――フェンダーUSAだと思う」
母は店員に向き直って、「じゃあそれをお願いします」
依頼を受けた女性は一瞬の思案ののち、申し訳なさそうに頭を下げた。「現行品ですと、お嬢さまが希望されるカラーとまったく同じものは生憎――。強いて申し上げるならキャンディアップルレッドですが、わりあいはっきりとした赤です」
こちらですね、と提示された楽器を母は一瞥して、
「確かにだいぶ違うね。どう?」
「どう、どうって――」フェンダーUSAなどまるで想定していなかったので、どうもこうも応答のしようがなかった。私は唇をぱくぱくとさせながら、「いや、でも、やっぱりUSAじゃなくても――」
「ねえ、これは?」私たちのやり取りを見物していた杏子が、ふと別の一本を指す。「ちょっとデザインは違うけど格好いいんじゃない?」
それは同じテレキャスターでもシンライン――すなわちヴァイオリンを思わせる優美なサウンドホールが開けられたモデルだった。内部に空洞が存在するぶん軽量であり、音色もやや柔らかさを帯びる。それでいてある程度までは歪みを得られるので、ロックやポップスの演奏にも決して不向きではない。
色味は琥珀を思わせる、ややオレンジに近い明るいブラウンといったところ。どこかで見た色だと思っていたら、アルセさんがレッスンで使用していたポール・リード・スミスが脳裡に浮かんできた。少しだけ、しかし確かに似ている。
「どう、来夏。どう? 私のセレクト、かなり良くない?」
自然な木目の浮かび方といい、パールホワイトのピックガードといい、それはとても美しいギターだった。アルセさんの楽器と同じではないが、彼女のイメージに通じるものが、しっかりと備わっているように見える。
「それを弾かせてください」
と私は店員の女性に申し出た。ごく自然にそう言えた。この楽器に触れてみたいという思いが湧き上がって、全身を満たしていたのだ。
手渡されたテレキャスター・シンラインは、想像したよりも遥かに軽かった。抱えたときのバランスも上々。これならばステージでの演奏にも打ってつけだろう。
アルセさんのレッスンを思い出しながら、いくつかのフレーズを繰り返して弾いた。コードを鳴らしたとき身に伝う振動、音色、ネックの握り心地、ピッキングの感覚――といった諸々を確かめたかったのだとは思うが、実際のところ私は、試奏のあいだじゅう夢うつつでいたのみだった。なにしろ米国製のフェンダーだ。いずれ、という漠然とした憧れ自体は、抱いてはいた。しかしそれは遠い未来の予定であって、いまこの瞬間に起こりうる出来事では断じてないはずだったのだ。
「いい音じゃない」試奏が一段落したのを見計らって、母が褒める。「いい楽器はやっぱりいい音がするもんだね。来夏、それが気に入った?」
「気に入ったっていうか――ちょっと信じられない。私がほんとにフェンダー?」
「あんたが今、うんって言いさえすれば。どうするの? それに決める?」
「でも貯金が――」
「手紙、読んだでしょ? ここまで来て怖気づくんじゃないの。それが欲しいならそれ、なにか違うと思うなら違う。自分の気持ちに正直に」
私は息を吸い上げた。母を、杏子とそのお母さんを、そして目の前の楽器を順番に見て、心を決めた。
「これにする」
帰りの車内、私と杏子は軽い熱病に浮かされたような心地になって、後部座席に座り込んでいた。昂奮を伝え合おうにもうまく言葉が出てこず、ただ気配や目の瞬きや、ひとりでに浮かんでしまう笑みによって意思を疎通していたように思う。そんな私たちに母たちは話しかけてこようとはせず、カーステレオでモーニング・グローリーや美墨くんのソロデビュー曲を流しては、あれがいい、これがいい、とお喋りしているばかりだった。
「ハチコマ、やろうね」雛守の市街地に入り、もうじき駒場家に到着するという段になって、私はそう杏子に言った。「少しずつの活動にはなっちゃうと思うけど、でももう一回頑張りたい。今後とも――よろしくお願いします」
「こちらこそ」と杏子は笑って答えた。「私たちのペースを見つけて、少しずつ進んでいけばいいよ。焦らなくたって、私たちには時間がいっぱいあるんだから。だって私たち、ずっとずっと、ずーっと、ハチコマのドラマーとギタリストで、相棒で、親友なんだから」
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